西美濃の武将の系譜

  樹童氏の見解は、常にたいへん参考となります。

(1) 応答板で、美濃斎藤氏・稲葉氏・杉原氏・青木氏・前田氏・仙石氏、いずれも美濃、特に大垣を中心とする西濃地方出身の武将が取り上げられています。 
  また、樹童氏が指摘しているように、大垣市北部の地域については、やはり充分検討する必要があると思います。
 
  この地域は、東山道の沿線にあたり、古代では、青墓長者や安次の安八太夫の基盤となった地域です。また、鎌倉街道では、呂久の渡しや墨俣の渡しは美濃・尾張をはじめとする東国と京との物流の拠点となった場所です。戦国期において武将が出てくる基盤がここには有ります。そして、信長、秀吉政権の全国制覇の過程でその周辺の人材が用いられる様になったことは事実ですが、単にそれだけではない様にも思えます。
  整理すると、市橋氏、青木氏、氏家氏、後藤氏、前田氏、不破氏さらに那波氏は、この地域を本貫の地としています。さらに、杉原氏では、宗祇の七賢の一人である賢盛は、市橋に定住したことは樹童氏の指摘にありました。なお、杉原氏については、現在大野町本庄、下磯、上磯に杉原名字の人の集積が見られます。また、その周辺でも、国枝氏・伊賀安藤氏は安次の北隣の神戸町田から移って行ったとされています。その他、前田氏家老の横山氏、山内一豊を信長に取りなした牧村氏などもその周辺の出身です。

  さらにその北側の池田町中心部は、鎌倉時代までの紀の池田氏の本貫であり、南北朝以降の土岐氏の西池田氏の本貫です。さらに、揖斐川を挟んで土岐氏の揖斐氏の本貫となります。また、その揖斐城下に明智光秀の叔父の山岸氏の館も有ります。土岐氏の末ばかりでなく、美濃斎藤氏も、利賢や利三の白樫城はじめ、利康は宮地村、親利は和田村に居住したことは、樹童氏が指摘していなす。また、清水城については岐阜の林氏の指摘される様に、林氏の本貫と見るべきだと思います。そして、十七城の林氏は清水の林の分家とみるべきでしょう。
 
(2) ところで、樹童氏の諸見解を拝見し、私が疑問に思った点ないし思いついたり考えついた点が有ります。
 
@ 稲葉、林の河野系譜ですが、一柳も含め相当疑問ないし考えれば少し考えれば矛盾だらけです。稲葉一鉄が、河野系譜をとることはその家紋からして妥当である。しかし、淀藩稲葉氏はそこまでする必要はない。さらに、林秀貞にいたっては混乱を招く。それは、一柳氏についても同様である。さらに、稲葉氏の稲葉は、伊賀光資末の伊賀稲葉氏であれば、伊賀守就の伊賀安藤や国枝氏と同根になるはずだ。そことは指摘されていない。伊賀稲葉光祐からいずれも分かれた事になる。そうすれば、林氏も同様に稲葉光祐からの分かれとなり、久瀬村の津汲の竹中氏もその別れとなる。これは、美濃明細記での記述からであるが、さらに林氏については美濃斎藤氏との関係から越前出身説が妥当ではないか。一柳氏についてはよく分からないが、美濃出身であることはまちがいなく。加藤光泰の重臣である一柳氏は、加藤氏の美濃時代から一緒に行動している。

A 竹中氏は、現在垂井町よりも久瀬村に竹中名字の人が多くいる事から、久瀬村の竹中が本来の竹中であろう。そこで、重元・重治の竹中は、やはり岩手氏かもしれない。
 
B 稲葉氏について一鉄の妻である月桂周芳は、三条西公条の娘である。三條西家は、古今伝授の家柄であり、実隆は宗祇の弟子にあたる。そうすると、篠脇城の東氏の和歌の門下にあたる。また、杉原賢盛も宗祇の弟子である。さらに、斎藤利国(妙純)の妻は、一条兼良の娘、細姫である。このことから、美濃の武将を単に武将のつながりだけではなく、歌人のつながりを見ておく必要がある。
  また、三条西公条の娘の一人が、中院家に嫁いでいる。公家中院家の通字は、稲葉氏と同じ、通であるが、これは偶然のことか。稲葉氏は、白雲ばかりでなく光の字をもった人物がいてもよさそうである。龍徳寺文書の大永5年(1525)12月19日の稲葉光頼の田地売券を岐阜県史では、稲葉塩塵の冒した本家であろうとしているが、同日に稲葉光朝(白雲)の通房後室に対する売券も認められる。
  さらに、岐阜県史では、林政成の稲葉氏への婿入りの件について、論述しているが、稲葉一鉄の意地の悪さの現れである。斎藤利三が、稲葉一鉄から離れたのも同様なことから起因しているかもしれない。そう考えると、林秀貞ばかりでなく安藤守就が排斥されたのも一鉄の策略か。竹中重治が1,579年に死去した翌年の出来事である。
  さかのぼって、斎藤龍興の時代でも、美濃六人衆のなかに一鉄は入っていない。義龍の母は、深芳野であるが、彼女は一鉄の兄弟である。一鉄は、縁者として別格扱いされたのだろうか。義龍・龍興に嫌われていたという見解もある。
 
C 次ぎに、尾張と美濃の関係で、杉原、前田、林、青木、それに加え池田は、美濃出身とみられている。これに、秀吉の母お仲の関氏も美濃赤坂を本拠としていた美濃鍛冶である関氏との関係が認められる。ここで、前田氏が荒子城を拠点とした事はよく知られているが、池田氏の館は荒子城のまさに西側の中川区小城である。さらに、杉原長房の烏森城は、それらの北側の中川区と中村区との境にある。また、その西側の米野城は林秀貞の与力の城と伝えられている。それらは、もはや中村の在に歩いて行ける距離である。これらの事は、偶然であろうか。著しく集積していないだろうか。
  だいたい今でも、愛知県と岐阜県との違いはあるものの、尾張と美濃の気質は似ている。それにたいし、尾張と三河は同じ愛知県なのに仲が悪いだけでなく、気質も違う。
  それと、杉原氏についていえば、関氏や浅野氏ばかりでなく、長房の娘が竹中重常に嫁ぎ、その子の重玄を養子としている。
  そして、小早川秀秋の配下に杉原重活と稲葉政成さらに松野主馬がついていることも興味を引く。思うに、幕藩体制下での、淀藩稲葉氏と臼杵稲葉氏とでは同じ美濃閥といえどもその人脈構成が違うのではないだろうか。はっきりいえば、稲葉一鉄の反対勢力が淀藩や加藤光泰の大洲藩にいる様に見える。

D 池田氏は、摂津紀の池田の末とされるが、美濃の紀の池田とする方が納得いく。恒興の妻は荒尾善次の娘だあるが、その養父荒尾空善はどこの出身であろうか。大垣の荒尾の可能性もある。

E 美濃に戻るが、仙石氏は真桑瓜で知られている真桑の庄の地頭方である下真桑の出身であろう。領家方である上真桑は守屋北方が物部氏の末裔を称しており、地頭方は安藤氏と仙石氏とが地頭職をつとめた。現在でも、西濃地方のうちではこの周辺に仙石・安藤名字の人が多く認められる。また、安藤守就の与力とみられる松野氏もその周辺の出である。現在の瑞穂市あたりにあたる。

  なかなか整理された話でありませんが、樹童氏も一度このあたりを歩いてみられたらいかがでしょうか。

* 以上の文章は、原文を尊重しつつ、明らかな誤記は訂正したうえ、次の拙考を説明しやすくするために、適宜、番号をつけたことをお断りしておきたい。
 

 (樹童からのお答え)

1 ご教示・ご意見等ありがとうございます。また、大垣周辺を歩くことは、いろいろ興味深そうです。
  西美濃の諸土豪は斎藤道三入道に属して活動し、信長や秀吉に引き立てられるなどで戦国末期に幅広く活躍し、また家康に従って立身したものが多く、その系譜は興味深いものがあります。しかし、土岐一族や斎藤一族を除くと、実際の系譜・出自が不明なものが殆どです。それは、彼らが古族の末裔であった可能性があることにも通じます。おそらく、古代の美濃(本巣)国造、額田国造、牟義都国造などやその同族の物部氏族や和珥氏族の流れを汲んだ諸氏がかなり多かったのではなかろうかと推されます。
  私の2@であげる美濃中臣一族の系図は、『古代氏族系図集成』中巻744頁では神別中臣氏族のなかにあげられていますが、中臣宮処連勝海の孫におかれる長良は、最近どうも和珥氏族系の匂いを感じています。 西濃の安八郡大井庄下司の大中臣氏も実際は和珥系で、斎藤持是院氏の重臣西尾氏(子孫は江戸前期に幕藩大名)もその末流かもしれません。

  こうした事情があるだけに、現存の史料から出自探索は困難なことがきわめて多いのですが、一つの叩き台として試案を挙げてみるのも、何らかの意味があるのかもしれません。こうした観点で、ご呈示の見解に対して、以下に拙考を示してみたいと思います。もちろん、練れたものではなく、今後いろいろ変わる可能性のあることをお断りしておきます。

2 現段階の粗い試案を示してみます。
@ 稲葉、林及び一柳の伊予河野との同族系譜ですが、林様との応答にも示したとおり、かなり疑問が大きいものです。いま結論的に試案を示してみますと、稲葉と一柳は一族で美濃中臣一族(系統としては和珥系か)、林は伊予河野一族ではなかろうか、とみられます。一柳の支族は本巣郡根尾谷の板所村(現根尾村板所)にあって、十八世紀中葉まで根尾筋の大庄屋を務めたこともあり、室町後期に伊予から遷住してきたものとは到底考えられません。
  伊賀(安藤)守就の伊賀は、秀郷流伊賀氏の後裔とされますが、この伊賀氏の系図もあまり確たるものはありません。美濃の安藤の殆どは古代美濃国造末流(仙石などとも同祖か。物部氏族と同族)ではないかとみられます。国枝氏の系譜所伝は混乱していてよく分かりませんが、その本拠地から考えると称紀姓の池田一族(古代の池田首末流の跡に紀朝臣姓の人が入るとする)の出自ではないか、あるいは古代美濃国造末流かとも推されます。

A 竹中氏は豊後の大友能直の後裔(戸次重秀の子の竹中親直の後裔)と称したのですが、これは疑問であり、同族の岩手・栗原と同様、不破郡の古代栗原勝の末流の可能性も考えられます。

B 三条西公条の娘が嫁いだとされる「中院家」については、この中院家の通字が稲葉氏と同じく「通」であるということは、公家と武家との事情からいって、まったくの偶然ではないでしょうか。

C 松野主馬の系図は、『古代氏族系図集成』下巻1564頁にあげられ、古代の松野連の末流とされます。

D 池田氏は、摂津の池田の末とされますが、池田恒興(信輝)の父・恒利が甲賀の伴姓滝川美作守貞勝の子で、摂津池田氏一族の猶子として池田を名乗った事情があったとのことです。美濃の池田一族は、鎌倉中期に池田庄を退去して鷺田郷に移住したとも伝えますが、室町期の動向は知られません。
  荒尾空善の系譜については、その子孫の荒尾男爵家が明治に呈譜したものでは、在原業平の後裔となっていますが、これは全くの偽造系図です。荒尾氏は尾張国知多郡の土豪で、和珥氏族知多臣・和邇部臣の後裔ではないかとみられます。荒尾という地名は、このほか美濃国不破郡、肥後国玉名郡にもありますが、和珥氏族か物部氏族に関係する地名のようです。

   (03.9.27 掲上)

 西美濃の武将系譜(2)−とくに池田氏など
 (ktak様より、 03.9.27受信)

  私の充分検証していない意見にたいして、ご返事いただきありがとうございました。

  ところで、
 確かに、古代氏族との関係でいえば、不破の関が大和朝廷の重要な拠点であったという事ばかりでなく、西美濃地方における物部神社の分布からいえば樹童氏の指摘するとおりです。また、岐阜県史で論述されているように、かかる地方に条理制が敷かれ、その後においても広汎に国衙領、皇室領、摂関家領が敷衍して、荘園経営がなさてていたことは、樹童氏の指摘を補充するものだと思います。

  ただ混乱が著しい戦国武将の系譜を整理する観点からいえば、鎌倉時代から南北朝を経て、応仁の乱あたりまでは、もうすこし検証の余地があると思います。その混乱をもたらしたのは、「寛政諸家系譜」等にあるわけですが、戦国武将の系譜を受ける各大名家が『群書類従』などに記載された古代氏族に符合させようとしたことからであると理解しています。そして、その混乱を系譜を研究されている方々によって整理、解明がなれてきて、おぼろげながら、その全体像が見えてきました。

 そこで、織田信長や豊臣秀吉配下で多数の武将を輩出した美濃地方、とくに西濃地方の系譜のあり方は、戦国武将を研究するうえで重要です。土岐氏や美濃斎藤氏については、岐阜県出身の横山氏や谷口氏、さらに中堅の三宅氏の研究によって、かなり明らかになっています。ただ、土岐氏が頼光流であるとしても、清和源氏であるかどうかについては、解明されていない。そして、ほぼ同じ地盤にある土岐源氏と多田源氏との関係もよく分からない。美濃斎藤氏については、景頼、親頼あたりで美濃に入り、美濃目代となったことは、問題ない。また、美濃斎藤氏がほぼ赤塚斎藤であるとして間違いないでしょう。しかし、土岐氏と同様に美濃地方に敷衍化していったと見られる美濃斎藤氏だが、土岐氏が土岐名字から浅野、相羽(饗庭)、揖斐などの各名字に分派したのに対し、美濃斎藤氏ではそれが明確でない。後藤、稲津など利仁流の斎藤氏が斎藤名字を頼って美濃に移住した形跡があるが、その過程は明らかでない。

  地元、岐阜県での研究は、軍記物ばかりでなく美濃明細記、新撰美濃志、濃陽諸氏伝記、美濃諸家系譜などの地誌の研究を単に研究するという領域から、それらを批判的に検証した文書研究の立場からその系譜を明らかにしようとしている。

 その上で、その周辺を実際めぐった者としては、飲み込めない点が多々ある。
  先に林氏が指摘されていたが、揖斐川町清水山上の釣月院で管理されている多数の五輪塔は、異様である。これら五輪塔は、近年清水古城から出土し、釣月寺に移されたといわれるが、この清水古城は稲葉一鉄が築城した平城の清水城でなく、詰めの山城の清水城でしょう。それにしても、この五輪塔群の数の多さは、京都市内の寺院は別にして、一乗谷の朝倉庭園遺跡や足羽川合流点の阿波賀の廃寺跡にある五輪塔群をはるかにしのぐものである。釣月院の周辺の池田町の龍徳寺、安国寺、禅造寺でも、よく知られた宝筐印塔や五輪塔があり、揖斐川町清水の揖斐川対岸の揖斐川町脛永の法憧寺でも数十基の五輪塔群の出土があった。しかし、それらは数において釣月院の五輪塔群とは比較にならない。逆に、その由緒が明らかになっている龍徳寺や禅造寺の宝筐印塔や五輪塔は少なすぎ、その由緒を疑ってしまう。西美濃地方の五輪塔のあり方を詳細に研究したわけではないが、かくも多数の五輪塔を使用した勢力とは一体どのような人物か、それを製作した時期がいつであったのか興味がわくところである。もともと清水城は、林氏の居城であったとされるが、それは林氏に関連するものであるとすれば、林氏はいかなる勢力であったのでしょうか。

 五輪塔に関連して、池田町の龍徳寺は、国枝氏の菩提寺であるが、その境内にある五輪塔が国枝一族の墓として池田町史跡とされている。また、龍徳寺に隣接する廃寺となった養源院は、稲葉家の菩提寺と伝えられており、境内に稲葉塩塵をはじめとする稲葉一族の墓と伝えられる五輪塔がある。そして、そこに長久手の戦いで戦死した池田恒興とその子元助の墓がある。その墓が池田氏の墓であるとすれば、その墓を造ったのは、大垣城主であった池田輝政とみられる。当時、その周辺は国枝氏の支配領域であったが、国枝氏は稲葉氏の被官となっていた。また、稲葉氏と池田氏とは境界について小競り合いをしており、天正11年(1583)11月13日に秀吉の知行目録と定書が出されており、それによれば養源院周辺は稲葉氏領である。同じ秀吉配下ではあったが、仲の悪い稲葉一鉄の下に池田輝政は墓を据えることができたのでしょうか。なぜ、池田輝政はそこに墓を据える必要があったのでしょうか。自分の身内でさえ城から追い出した非情な稲葉一鉄であれば、それらの墓を暴いたかもしれない。

  そこで考えられるのは、池田氏にとってそこが本貫の地であったからでないでしょうか。たしかに、紀池田氏の本拠であったことは間違いありませんが、1278年になくなった池田奉忠は鷺田郷に移ったことは知られています。その鷺田郷は、現在の瑞穂市呂久にあたりますが、大垣市の北東に隣接した地域です。そこは、揖斐川右岸で、稲葉一鉄が居城とした曽根城や氏家氏の本拠から2から3q東です。また、池田奉忠以降の美濃での動向ははっきりしなくなるが、池田奉任、奉能、奉孝は、在京の昭慶門院や陽徳門院の蔵人となって、南北朝以降も美濃池田氏の系譜は存続するようだ。さらに、龍徳寺文書では1448年に池田浄連右馬次郎の田地売券があり、池田町草深の池田城を築いたとされる。したがって、15世紀中頃まで、紀の池田氏の流れにある美濃の池田氏が途絶えたわけではありません。

  ところで、池田恒興の父である恒利は滝川貞勝の息子とされ、織田信長の乳母である池田恒利の妻の養徳院は池田政秀の娘とされる。そして、政秀は、摂津池田城主充正の弟の摂津伊丹城主恒正の孫とされている。したがって、摂津池田氏の流れになる。しかし、1530年ころにもはや尾張にきている池田氏を摂津池田氏と見る事は合理性に欠く。前田氏や林氏らとともに尾張に移住した美濃池田氏の流れを受ける者と見るべきでしょう。
 
 補足として、加藤清正が示した美濃加藤氏の系譜ですが、そこに現れた加藤正吉は揖斐基春の配下にあった加藤正吉のことでしょうか。そうだとすれば、15世紀中頃の人物ですが、その後彼の系譜を受ける人物が美濃では消えてしまいます。なお、加藤光泰は加藤正吉の系譜にはないようです。加藤貞泰が黒野城主になったことから、黒野地区の詰めの山城である鵜飼山城を築いたとされる加藤光長の系譜を受けることは間違いないようです。遠山氏を別にしろ、美濃の加藤氏についても研究の余地がある。

 次ぎに、土岐氏や斎藤氏は、鎌倉幕府御家人であった。また、鎌倉幕府崩壊に際して、近江番場で自害した六波羅探題の奉行衆は、多く美濃や三河の御家人であったといわれる。さらに、岐阜市史の記述によれば、室町幕府の奉公衆は、その数において三河についで二位にあるとされる。したがって、鎌倉・室町以降、在京しつつも領国美濃において給主や地頭・地頭代として活動した人物が相当いたとみるべきでしょう。そのすべてが、美濃古族でしょうか。そう短絡的なものではないようにみえる。そして、それら御家人・奉公衆と何らかの関係がある人物が、美濃の土豪、国人として、さらに戦国武将となっていったとみるべきではないでしょうか。水呑み百姓のような下々以下が、戦国武将になっていない事は、豊臣秀吉の最近の研究からして明らかである。
 
  そして、西美濃の在地の土豪、とくに土地に執着を持っていた土豪は、関が原の戦いに際し、西軍についたことから帰農した者が多かったと言われる。しかし、帰農したというものの、庄屋や名主さらに頭百姓となっていった。当地方における頭百姓と中下百姓との身分格式については厳しいものがあった。池田町でそれら頭百姓以上の者の苗字をみると国枝、竹中、野原、五十川、牧村、坪井など明らかに中世土豪の系譜をひくとみられるものである。

  蛇足として、伊藤博文は越智氏を称したが、その系図は越智稲葉系図である。素人目に見てもすぐに疑われる様な系図を利用したものである。
 
  長文になってしまいましたが、感想を含めてご返事申し上げます。
                                  (以上)


 (樹童からのお答え2)

1 引き続いて、西濃の諸土豪についてのご見解をお示しいただき、ありがとうございます。これまた感触にすぎないので申し訳ないのですが、所感を以下に記しておきます。

  不破の関が大和朝廷の重要な拠点であったことは、かって田中卓博士が「不破の関をめぐる古代氏族の動向」(『神道史研究』六−五、昭33年9月)でも取り上げられたことで、十分留意しておきたいことです。
  また、戦国武将の系譜に混乱をもたらしたのは、「寛政諸家系譜」等にあることはご指摘の通りだと思われます。私はかって東海地方出身の幕藩大名家の系譜を検討したことがありますが、その殆どが信頼できない内容となっていることに改めて驚いた記憶があります。総じて、江戸期の系図類は取扱いに注意を要します。

2 美濃出身の横山氏や谷口氏、三宅氏の研究については、承知しておりませんが、加賀前田家の重臣横山氏が武蔵横山党の出自なのかは多少とも疑問を感じたことがありました。

  土岐氏の系譜も、いろいろ当たってみましたが、その初期段階(鎌倉期)の動向が史料がなく、よく分かりません。清和源氏であるかどうかについては、未だ確証を得ません。これについて、系図研究家で疑問提起をしている人は管見に入っておりませんが、土岐氏初期段階の系譜や事績が解明されていないことには変わりがないと言って良さそうです。この辺は確実な史料を押さえて、慎重に検討をしていくべきであり、現在に伝わる系譜所伝の鵜呑みは避けたいものです。
  仮に土岐氏が清和源氏という所伝が正しい場合には、頼光流であるとしてよさそうなのですが、とにかく裏付け史料がないのです。ほぼ同じ地盤にある多田源氏流の在美濃の一族との関係もよく分からない、というのも同感です。こちらはほぼ清和源氏でよさそうですが、美濃古族の血を母系など何らかの形で承けている可能性も、十分考えられます。

  美濃斎藤氏については、本HP所載の「南北朝時代頃の美濃斎藤氏」で記述しましたが、赤塚斎藤である可能性が最も高いようです。

3 林氏については、五輪塔を含め、私はよく分からず、ご教示に感謝いたします。

美濃池田氏と摂津池田氏

  美濃の池田氏についても、不明なことが多いのですが、幕藩大名池田氏との関連で現段階の見解を記しておきます。

  十三世紀中葉頃、池田奉忠が移ったという鷺田郷は、現在の瑞穂市呂久辺りで(『角川地名大辞典 岐阜県』も巣南町としていて、ほぼ同旨)、揖斐川にかかる橋が鷺田橋といまも呼ばれているとのことです。本巣郡の巣南町と穂積町とが最近合併して「瑞穂市」となったことは、貴信により教示されました。鷺田郷は池田荘からはあまり離れていないので、故地に勢力を何らかの形で保持したことは考えうる話だと思われます。
  「15世紀中頃まで、紀の池田氏の流れにある美濃の池田氏が途絶えたわけではない」というご指摘は、実際そうなのでしょう。ただ、そうした美濃池田氏の後裔が明確には見えないものですから、不明と言わざるをえないところです。池田荘本郷に拠った国枝氏の動向が「竜徳寺文書」には文明六年(1474)ころから見えるようであり、しかもその系図が先祖不明(疑問?)となっていることから、あるいは美濃池田氏の後裔として考えてよいのかも知れません。

  織田信長の乳母で池田恒利の妻・養徳院は池田政秀の娘とされ、この「政秀は、摂津池田城主充正の弟の摂津伊丹城主恒正の孫とされている。したがって、摂津池田氏の流れになる。しかし、1530年ころにもはや尾張にきている池田氏を摂津池田氏と見る事は合理性に欠く」というご見解は、あまり説得力を感じません。
  というのは、年代的にみて、応仁文明頃の池田恒正の曾孫女の夫として恒利は問題ありませんし、「恒正−恒元−政秀(恒教)」、その養子恒利として、名乗りも不自然ではありません。恒利の子の恒興の生年が1536年とされますから、1530年代前半には尾張に来ているというご指摘は、その通りと思われますが、それが摂津池田氏とのつながりを断つものではないと考えます。恒元の従兄弟で惣領の池田貞正は、永正五年(1508)に討死していますが、その弟の正能や従兄弟の正盛は明応四年(1495)成立の『新撰菟玖波集』に句の作者として名前が見えており、これらの関係は年代的に整合しております。
  ただ、東大史料編纂所蔵の『池田系図』では、恒利を摂州人也としながら、尾州に移って江州池田氏の女(養徳院)を娶るとあって、この記述が正しければ、池田政秀は江州池田氏ということで、「政秀=恒教」ではないことになります。この辺の事情はよく分かりません。また、『諸系譜』所収の「大塚系図」(第25冊)では、恒元の子として正秀と恒利をあげており、政秀と恒利との関係には不安定な要素もあることに留意しておきたいものです。

  摂津の池田氏の起こりはあまり明確ではなく、南北朝期からその活動が知られるにすぎません。南北朝頃に活動した池田九郎教依の父・右衛門尉景正が正安元年(1288)十二月四日に卒して摂津国豊島郡釈迦院に葬られたと池田氏の系図(『諸系譜』所収の「大塚系図」)に見えておりますが、大阪府池田市の常福寺境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六癸巳」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎も知られます。また、摂津守護赤松光範の被官として池田弾正蔵人親政が見えており(貞治二年〔1362〕五月二日付け足利義詮御判御教書)、鎌倉中期頃からの存在を認めてもよさそうです。
  この池田氏は、上記大塚系図に拠りますと、美濃国池田郡司池田奉光の弟・帯刀先生望政(頼朝時代の人)の子の榎下小次郎蔵人重望、その女婿池田太郎時景(実は尾藤玄蕃允藤原信平男)、その子が上記の右衛門尉景正とされております。この系図での池田太郎時景以下は『尊卑分脈』に見えませんが、一応の妥当性があるものではないかと考えております。
  摂津と美濃の池田氏が同族であれば、摂津池田の流れを汲む恒興親子が池田町の養源院に墓をもっても不思議ではない、と考えます。稲葉一鉄の母方は国枝氏とされますから、同じ養源院に墓をもったことになると思われます。

5 加藤清正の系譜については、応答欄の「□ 加藤清正の先祖と一族」をご覧下さい。
  なお、そこでも触れていますが、通行する清正の系図で、清正の四代祖にあげる頼方の父について「正吉」とするのは、疑問が大きいものです。『諸系譜』巻30所載の加藤系図では、「小隼人正吉−新左衛門正弘−藤次郎辰正−助九郎政之」と続く系図を記載しており、年代的にみて正吉は十六世紀前葉頃の人かと推しておりますので、貴信でいわれる「揖斐基春の配下にあった加藤正吉」とは別人であろうと思われます。

6 鎌倉幕府の御家人や室町幕府の奉公衆の後裔・関係者が、「美濃の土豪、国人として、さらに戦国武将となっていったとみるべきではないでしょうか」というご見解は、ほぼその通りだと思われます。
  ただ、明らかに坂東など他の国から美濃に遷住してきた諸氏(常陸の佐竹支族、同小田支族の伊自良、下野の宇都宮一族の氏家、下総の千葉一族の東等々)も結構多いのですが、これらを除く美濃原住の諸氏については、その先が美濃古族に行き着くことが多かったのではないかと考えているものです。鎌倉期の美濃移住諸氏をよく押さえたうえで、その通婚関係などを通じて考えていくことが必要かと思われます。
  「水呑み百姓のような下々以下が、戦国武将になっていない事」は、貴説の通りだと思いますし、これは秀吉の出自についてもその通婚関係からみて言えるものと考えます。明治の元老伊藤博文の越智氏系図は『姓氏家系大辞典』451頁に見えますが、ご指摘のように、中間部分は明らかに偽造系図です。

  (03.9.30 掲上)
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