平姓秩父一族と丹党

(問い)武蔵国秩父郡より発生した秩父氏族には、@丹党系秩父氏、A児玉党系秩父氏、B平姓秩父氏、の三つが知られています。
 この中ではBが最も有名で、畠山重忠、河越重頼、稲毛重成、葛西清重と言った多数の鎌倉御家人を輩出しています。これら三つの秩父氏族の関係については、Aの行重・行高兄弟がBの秩父重綱の養子となって秩父の姓を名乗った事は良く知られています。一方、@の丹党系秩父氏とBの平姓秩父氏との関係については一般に無関係だと思われています。私も最初はそうだと考えていました。
 ところが、丹党の系図を見てみますと、丹党初期の者には初期平姓秩父氏の者同様、「武」の名前が付く者が多いのです。果たしてこれは偶然なのでしょうか。両者は実は同族だったと言う事を示してるのではないのでしょうか。
 さらに、平姓秩父氏の出自について、樹童様は桓武平氏良文流と言うのは後世の偽造で実際は知々父国造の末裔であると述べておられますが、実は丹党の出自についても実は知々父国造の末裔ではないかと言われています。
 
 そうしますと、平姓秩父氏と丹党は、実は知々父国造を共通の祖先とする同じ一族だったと思われるのですが、如何でしょうか。御意見を頂けましたら幸いです。
 

 (樹童からのお答え)

1 はじめに

  相模・伊豆の平姓を称する諸氏の系譜を検討するうち、関連して坂東の平氏についても様々な疑問が浮かび上がってきました。なかでも、武蔵国西北端の秩父郡に起って武蔵・相模・下総に広く分布した桓武平氏と称する秩父氏一族の出自については、多くの疑問や問題点が出てきたわけです。この秩父氏の系譜は、一般に村岡五郎平良文の子の忠頼の子の将恒の子孫とされており、河越・畠山・小山田・稲毛・江戸・葛西・豊島・渋谷など鎌倉初期の大豪族諸氏を輩出しましたが、秩父氏の系譜については、その平氏出自を疑う見解も散見しないでもありません。
  いずれにせよ、鎌倉幕府成立に力のあった関東の雄族諸氏の系譜については、秀郷流藤原氏も含めて、様々な角度から充分な検討が必要と思われます。
 
2 平姓秩父氏の祖将恒と多治経明

  秩父一族の先祖が武蔵国秩父郡中村郷に居住した将恒(将常、政恒などとも書く)で、この者が平忠頼の子とされるのは、良文流の系譜にほぼ共通する所伝です。しかし、豊島氏や長尾氏の系図には例外もあって、上総介良兼の曾孫・致経(良兼―公雅―致頼―致経)の子が将恒だと記しており、忠通(三浦・鎌倉党などの祖)や、忠頼、忠常(千葉氏の祖)、将恒を皆、兄弟としてあげるものがあります。こうした事情は、忠頼・忠常・将恒の桓武平氏出自を疑わせる要素といえましょう。土肥氏や小山田氏の系図でも同様のものがあります。
これらの系図にあって、将恒の称号・官職についての譜註記事はかなりまちまちであり、管見に入ったものを列挙すると、中村太郎、秩父六郎、秩父三郎、大蔵太郎、二郎、秩父別当大夫、武蔵権守、武蔵権大掾、武蔵押領使などです。兄弟とされる忠常(忠恒、忠経)との関係でも、兄としたり、弟としたりしています。
将恒の年代を推定するものとして、『埼玉叢書』第三所収「西角井家系」などに見える記事があり、ここでは、将恒は平将門の乱の際に見える足立郡司武蔵宿禰武芝の娘婿となって、秩父別当武基・武恒などの子を生んだとされます。これによれば、将恒の活動した時代は十世紀の後半となり、長元四年(1031)に源頼信に降伏した平忠常よりはほぼ一世代前の人ということになりますが、その場合には、将恒を忠常の兄弟とするのは疑問となってきます。
次に、将恒の父親について考えてみます。将恒の父とされる忠頼には、恒明(経明)という別名があげられます(『埼玉叢書』第四所収の「開基金子家系譜」など)。この恒明については、「将恒・その子武恒」という通字「恒」の関係からみて、おそらく本来は忠頼と別人であって、将恒の父であった者が忠頼と合体されてしまったのではなかろうか、という疑問が出てきます。
問題の恒明(経明)という者が十世紀の前半から半ば頃にかけて関東で活動した人となると、注目される人物が一人浮上します。その人物とは、平将門の陣頭として『将門記』に見える多治経明というものです。
 
多治経明及びその関係者とみられる者について、『将門記』の記すところを見ると、関東の多治氏としては、将門の敵である叔父良兼の上兵として多治良利が見えており(承平七年〔937〕)、天慶二年(939)の太政大臣藤原忠平の家司として多治真人助真が見えます。その当時、宣化天皇の子孫であった丹比真人氏は、多治真人と表現されていたことが分かります。「タジヒ」を名乗る氏族には、皇親系の丹比真人及び神別で尾張連同族の丹比連(のち宿禰姓)があり、時代により丹比・多治比・丹治・丹と記されましたが、前者は貞観八年二月に多治真人と改姓し、以降その表記で平安中期には中下級の官人となって続いていました。
畿内に在った系統の異なる二つの丹比氏のいずれにしろ、関東地方に住みついたことは史料からみて考え難いようですので、おそらく関東原住の流れを引く氏族が武蔵国司などの縁により冒姓して多治(真人)氏を称したのではないかと考えられます。武蔵には養老三年の多治比県守以来、延暦の多治比宇美、承和の丹門成、嘉祥の丹石雄などが守として史料に見え、貞観三年(861)には武蔵権介に任じた多治今継もいました。これらは皆、真人姓の多治氏です。
武蔵七党の一つ、丹党の系譜では、その出自を多治真人今継の子孫にかけるものが多くあり、『埼玉叢書』第四に掲載の「勅使河原氏之系譜」もその例です。明治の系図研究者鈴木真年翁も、『華族諸家伝』(黒田女条)で今継の子に丹党の祖の武信を置く系譜を記述しますが、関係記事の後尾では「按ニ丹生直姓ナラム」と記しています。丹党と多治真人との関係を記す系譜については各種あり、武信の父について、@今継のほか、A貞峯または峯成、B家信、などが所伝に見えます。このうち、家信については「家作」と記すものがあり、この者は紀州天野の丹生直の系譜に登場しています。
多治真人に系をかける丹党の系譜のうちで、とくに留意されるのが宮内庁書陵部所蔵の『続華族系譜』所収の「丹治真人安保家譜」です。同家譜では、今継の子に武信を置いて、武蔵国押領使従五位下で元慶年中(877〜85)に武蔵国秩父郡の山地を開墾し、後に京師で卒したと記されます。その子の峯信には散位従五位下で丹二大夫と号し、その子に上野介従五位下の経明と丹貫首峯時の二人を掲げて、経明には天慶乱で平将門を助けるも三年二月に誅されたとし、経明の子には上野二郎邦武、その子に恩田小二郎能時を掲げて能時は忠常追討時従軍と記されています。こうした経明の系譜は他に見えませんが、年代的に無理がなく、ほぼ信頼できるものとみられます。その場合、将恒も年代的にうまく収まりそうです。
『将門記』は、多治経明について、@将門が関東諸国の国司について除目を行った際に、下総国豊田郡栗栖院(現茨城県結城郡八千代町栗山)にあった官廐常羽御廐の別当多治経明を上野守に任じたこと、A天慶三年(940)二月、将門の軍は敵地の下野に出兵し下野押領使藤原秀郷の軍勢を攻めますが、副将藤原玄茂の陣頭多治経明・坂上遂高の軍が秀郷を襲って、却って散々に敗北したことが見えます。多治経明は一人当千の名声を得ていた兵でしたが、功に逸って戦を仕掛けて秀郷の策で敗れ、このとき討死をとげた者が多く、生き延びた者は僅かだったと記されます。従って、それ以降に姿を見せない経明はこのときの合戦で討死したことが考えられます。将門が平貞盛・藤原秀郷との合戦に敗れて討死したのは、その僅か十三日後でした。
 
将恒の父の可能性もある多治経明が秩父の丹党の祖武信の子孫であれば、将恒が経明の敗死後に、原郷の秩父郡に潜んだか乃至はその地に戻ったことは自然です。天慶の乱鎮圧後に、将門の近親余類が深山幽谷に潜伏したことは多くの伝説となっており、将門も、その弟将平も、秩父郡の山中には潜伏したとも伝えます。秩父氏の祖という村岡五郎平良文について、上州緑野・平井から秩父に移ったと伝えるのも、上州にいた経明ないしはその近親が秩父へ移ったことを示唆するものです。
将恒は秩父郡中村郷(大宮郷ともいい、現秩父市街地)の地に育って中村太郎・秩父太郎(一応、太郎とみておくが、三郎とも六郎とも伝える)と名乗り、成人後には秩父別当、武蔵押領使・同権大掾(あるいは権守)までなったと伝えます。秩父別当とは秩父牧の別当のことであり、「秩父牧」は秩父郡(石田牧)から児玉郡の一部(阿久原牧)にまたがる広大な地域に所在した勅旨牧であって、『政事要略』には延喜年間から秩父御馬の貢進が見えます。この秩父牧を基盤として豪族秩父氏が武士団として次第に成長していきます。記述が長くなりましたが、丹党と称平姓秩父氏がどのように縁由があったのか、あるいはどのように分かれたかが分かると思われます。
 
3 平姓秩父氏と丹党との関係

 平姓秩父氏一族の系図を見ると、同じ秩父郡に起った丹党との類似点や近縁関係に留意されます。そのため、丹党の一族と歴史について、具体的に見ていく必要が出てきます。
 平安後期に、丹党と児玉党とが争ったとき、畠山氏が仲裁に入ったことがありましたが、秩父重綱は児玉党の児玉経行の女を妻として、その兄弟の行重・行高を猶子にし、前者は秩父平太、後者は秩父平四と名乗るという縁由もありました。
 平姓秩父氏の祖が秩父牧の別当になって同郡中村郷辺りに住んだと伝えますが、丹党の祖も同様の所伝があります。すなわち、丹党の祖・武信は陽成天皇の御代、元慶三年(879)頃に秩父郡検非違使・石田牧別当に任じられたといい、その孫の丹貫首峯時は天慶中(938〜47)に馬寮に伺候して武蔵の秩父・賀美二郡の地に住んだといわれます。
 丹貫首峯時の孫・太郎武経は秩父郡少領となり、その子の丹貫首武時は馬寮に伺候して石田牧別当になったといいます。こうした秩父牧のなかの石田牧の別当に任じて、「武」という字を共通にする名前は、秩父氏と丹党とが同族関係ないし深い縁由関係にあったことを強く示唆します。
 丹党の系図では、武信以降の七世代にわたって支族分岐を記さず、大きく発展するのは次郎大夫武平(武時の子で、武信の六世孫)の諸子である丹三冠者経房・秩父黒丹五基房などの兄弟の世代であり、兄弟の活動時期は十二世紀前葉頃とみられます。始祖以来七世代にわたって支族分岐がなかったというのはきわめて不自然であり、系図が後に架上されたか、ほかに分岐した氏があったが省略されたか、そのどちらかの可能性があるということで、ここでは後者も十分考えられるということです。
 畠山氏と丹党を混同した系譜所伝をもつ武蔵の富沢氏もあり、丹波国多紀郡大山庄(現丹南町大山一帯)の長沢氏について、その出自を「長沢、姓は藤原氏、武州秩父流」(丹波志頭註)と記されますが、丹党の祖次郎大夫武平の弟、秩父四郎大夫武峯を祖とする流れではなかったかと推されます。この場合、丹生直姓でも丹比(多治)真人はなく、藤原姓と称したことに留意されます。
 私は当初、鈴木真年翁とほぼ同様な立場を採っていましたが、再考してみると、紀伊の天野祝家(丹生直姓)の支族が、介にしろ或いは掾にしろ、九世紀前半の武蔵の国司に任じたことは、六国史など他の史料には見えないうえ、押領使や馬牧別当の官職も、天野祝という神祇の家にはふさわしくないので、丹生直姓については信じ難いように思われます。ただ、大和で丹生川上神社に奉祀した丹生祝の一族が武蔵に来た可能性は、武蔵北部の丹生神社が丹生川上神社を勧請したとの伝承もあって、この辺は無視しがたいものだとも考えられます。
 こうした事情からみると、秩父郡には中村郷の北隣に丹田郷という地があり、また水神である丹生神奉斎もあったことから、秩父郡にあった古族の裔が武蔵国司在任者の姓氏を仮冒して丹治(多治)真人姓を称したと考えるのが、比較的妥当であろうとみられます。その古族とは、知々夫国造一族か丹生祝かあたりが考えられます。武蔵国総検校となって武蔵・相模・下総などに大きく勢力を伸ばした称平姓秩父氏の一族はともかく、丹党の一族が居住した地域はほぼ北武蔵に限られ、これは古代知々夫国造の領域であったとともに、丹生神社が密に分布した地域でもあったからです。
 

4 
知々夫国造とその末裔

 知々夫国造家について知られることは、極めて乏しいものですが、その一部を以下に記しておきます。これらの事情も、平姓秩父氏が知々夫国造末流であることを示唆するものとみられます。
(1)『旧事本紀』の「国造本紀」では、知々夫国造条に「瑞籬朝御世、八意思金命十世孫知知夫彦命定賜国造、拝祠大神」と記されており、瑞籬朝とは崇神朝のことであり、東国では最も早い時期に知々夫国造が置かれたと伝えます。信濃国伊那郡の阿智祝の系図には、八意思金命からその八世孫に置かれる知々夫彦命までの歴代の名があげられており、味見命の子が知々夫彦命とされますが、知々夫彦命の子孫は全く記されません。
 
(2) 知々夫国造が奉斎した式内社秩父神社(秩父市番場町に鎮座)の祠官家は薗田氏で、秩父郡中及び上野国甘楽郡山中領の触頭でしたが、古代知々夫国造の嫡裔とみられます。丹党は同社を信仰し、中村郷の領主中村氏が宮本地頭として同社の造営を差配しました。十四世紀初頭の拝殿造営を機に、その一族大河原氏によって、刀身に秩父大菩薩と彫られた刀剣が作られましたが、正中二年(1325)銘の太刀には「願主武蔵国秩父郡大河原入道沙弥蔵蓮、同左衛門尉丹治朝臣時基」の名が見えます。
 
(3) 秩父神社が関東の妙見信仰の中心であり、平姓秩父氏と同族と称する房総の千葉一族も強い妙見信仰を持って中世に活動していました。前掲した知々夫国造の系譜は分かりにくいものですが、要は少彦名神の後で伊豆国造や服部連の同族であり、畿内では服部連の一族が能勢妙見の信仰を担ったものとみられます。
 
(4) 知々夫国造の後裔は、奈良・平安期以降、姿を殆ど消してしまいますが、これは、平安中期頃から称平姓秩父氏や丹党などがその本来の出自を変更してしまったことにも起因するものと考えられます。
    しかし、仔細に見ていくと、秩父氏の一族では知々夫国造の末裔を示唆する伝承を残しています。例えば、河越氏では「三本傘」の家紋を用いるが、傘は神降臨のシンボルであり、「河越氏がこれを用いたのは、秩父神社に祀られる祖神知々夫彦をあらわす」と小泉功氏が記述します(『地方別・日本の名族四』関東編U)。
    また、畠山重忠は秩父郡横瀬村(横瀬町横瀬)の御獄神社を厚く信仰して、宗近の太刀を奉納しました。御獄神社はもと武甲山の山頂に座して同山を神体山とし、少彦名命・日本武尊などを祭神とする神社であり、江戸期には蔵王権現社と称していました。この武甲山は秩父神社の神体山という説もあり、秩父神社の地は武甲山遥拝の聖地と推定されています。御獄神社は、秩父神社と同様、江戸期には妙見宮とも呼ばれたから、知々夫国造一族によって奉斎されたものとみられます。西多摩郡の御岳山(青梅市西南端部)にも御獄(御岳)神社があり、当山を含め多摩郡では蔵王権現の信仰が広く行われました。
 
 以上、私の長い未発表論考の一部を要点として記しましたが、平姓秩父氏と丹党の関係とその系譜についての概略がご理解いただけましたでしょうか。

  (04.2.7 掲上。18.8.26修補)
  関連して、 平姓秩父氏の系譜 をご覧下さい。
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