平姓秩父氏の系譜

(問い)平姓秩父氏と丹党の関係についての概略説明で、疑問に思っていた事を解く事が出来ました。
  ところで、平姓秩父氏の祖である将恒が十世紀後半の人物であるとすると、畠山重忠や稲毛重成までの世代が少なくなるような気がするのですが、如何でしょうか。
* 「平姓秩父氏と丹党の関係」に関連しますので、併せてご覧下さい。
 

 (樹童からのお答え)

1 平姓秩父氏の祖将恒が一般に流布する系図よりも一世代繰り上げられ十世紀後半に活動した人物であるとすると、将恒からその子孫となる畠山重忠や稲毛重成までの世代の数が繰上げ分だけ少なくなるのは、ご指摘の通りです。これに対する結論的なものを端的に記すと、次のようなものです。
将恒から畠山重忠までの系譜は、両者の間に「−武基−武綱−重綱−重弘−重能−」という五世代が入ると一般に伝えられていますが、秩父氏関係の多くの系譜・所伝を比較検討すると、武綱と重綱との関係は、重綱が武綱の養嗣であったとするのが妥当なようです。すなわち、実系でみると、薩摩の渋谷氏の系図一伝に見えるように、秩父十郎武綱の長兄高麗荒太郎武家の子の家綱の子が重綱という関係であったとみられます。このように考えると、ご指摘の問題点は解消するものと思われます。
 
2 秩父平氏の主な流れについて、その実系の検討をあげておきます。
坂東平氏の諸氏については、その起源段階で系譜仮冒があり、平安後期の系図においても幾つかの混乱が見られます。そして、いわゆる秩父平氏は、その有力諸氏が鎌倉前期までに北条氏により滅ぼされるか勢力削減をされてしまい、後世に残ったものはあまり多くないという事情もあって、系図所伝も原型を留めなくなったことにつながります。
それでも、何らかの手がかりがないでもありません。薩摩の地に展開した渋谷一族がかなり興味深い系図を伝えておりますし、世代比較の手法で検討もできるからです。
秩父平氏が河内源氏に属するようになったのは、源頼信による平忠常討伐が契機のようであり、その後、頼義による奥州前九年の役、義家による後三年の役には参陣者がかなりあったと見え(伝え)、さらに義朝配下の保元・平治の乱、鎌倉殿頼朝のときの源平合戦、建保の和田合戦、承久の変などに参加者が見られます。従って、これら大事件により、各氏の世代を押さえて比較してみると、ある程度は系図の補正ができるのではないかと考えられます。
こうした観点から、秩父平氏の主な系統について、実系の探究を試論的に行ったのが次ぎに記載のものです。
 
 (1) 秩父氏嫡統ともいうべき秩父・畠山・川越の諸氏

将恒は秩父郡中村郷(大宮郷ともいい、現秩父市街地あたり)の地に育って中村太郎・秩父太郎と名乗り、秩父別当、武蔵押領使・同権大掾(あるいは権守)までなったと伝えますが、将恒の子としては、まず秩父別当太郎武基があげられます。武基は長元四年(1031)、平忠常の叛乱に際して源頼信に従い戦功があったと「渋谷五家系図」に伝えますから、ほぼ十一世紀前葉の人とみられます。将恒の子に相応しい年代といえます。武基は謀反の聞こえにより佐渡に配流になったとも伝えますが、その時期*や事情は不明です。
次ぎに、武基の子としては、高麗荒大夫武家と秩父十郎武綱があげられます。武家は高麗郡高麗郷に住んで高麗荒太郎とも号しましたが、この長男とみられる武家は何らかの事情で、家を継がなかったとされます。この辺の事情は不明ですが、あるいは武基の前掲「謀反事件」が関係したのかもしれません。武家の子に家綱がおり、その子に重綱があげられます。
こうした系図は、渋谷氏関係の系図に見えるとのことですが、管見に入ったのは、鹿児島県の系図研究家川崎大十氏が採録して雑誌『千台』(通巻第十八号、平成二年三月刊、川内郷土史研究会)に掲載した研究論説「関東の渋谷氏」に所載の系図だけです。そこでは、「武家−家綱−重綱」として、重綱に「一説武綱子」と記されます。その解釈としては、重綱は大叔父の秩父十郎武綱の養嗣となって秩父嫡統となったものとみられます。世代的、年代的に考えて、この渋谷氏の所伝が妥当だと思われるところです。

武基の跡を継いだ秩父十郎武綱は、秩父冠者・下野権守などと見え、源頼義の郎等となって奥州前九年合戦に参陣し、嘉祥元年(1106)八月に享年七十五歳で死没したと伝えます(従って、生年は1024年)。一方、一般に武綱の子とされる下野権守重綱については、康治二年(1143)に七十七歳で没したといいますから、治暦三年(1067)の生まれとなり、あるいは承暦元年(1077)の生まれとも伝えて、後三年の役(1083〜87)への参陣が無理と考えられます。武綱と重綱との間に実質一世代が入って自然なわけです。重綱は武蔵留守居所総検校・武蔵惣追捕使となって、秩父氏の地歩を固めたわけで、大きく支族分岐を見せます。
 
重綱の子には、太郎重弘(重広)、次郎重隆、高山三郎重遠、江戸四郎重継、小宮五郎、塩原六郎重治などの子があったと伝えます。太郎重弘の子、畠山庄司重能の子が畠山庄司次郎重忠・長野三郎重清兄弟、重能の弟小山田別当有重の子が稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝兄弟となります。このほか、千葉介常胤の妻となった女性が重能の姉妹にあげられます。重能は先祖の将恒以来代々居住していた秩父郡の吉田郷を出て、男衾郡畠山庄(現大里郡川本町畠山の一帯)に移り畠山庄司と名乗ったものです。畠山重能・小山田有重の兄弟は、頼朝挙兵のときには平家に従って在京しており、そのため子の畠山重忠は僅か十七歳で坂東における中核として活動しました。
重綱の家督は、長男の重弘に早世など何らかの事情があった模様で、秩父次郎大夫重隆が家督を継いでいます。重隆は、武蔵在庁職の給地として河越庄を得て河越氏の祖となり、その居館を現川越市街地の西方で入間川流域の上戸に置いたといわれます。上戸の日枝神社はもと山王宮と呼ばれ、河越一族が奉斎しました。
重隆は、久寿二年(1155)に八月に比企郡大蔵村(現比企郡嵐山町大蔵)の館で、女婿の帯刀先生源義賢(木曽次郎義仲の父)とともに義賢甥の悪源太義平に討たれます。重隆の跡は葛貫別当能隆が継ぎますが、能隆は世代的及び苗字を考えると、重隆の実子ではなく、一族(弟か従兄弟か)だったとみられます*2。秩父本宗は、能隆の次は重隆の実子とみられる河越太郎重頼が継いで、源平争乱期にはその子小太郎重房とともに活躍しました。

*1 武基には康治(ママ二年に謀反の聞えがあって、佐渡に流されたとされる(「開基金子家系譜」など)。この康治二年(1143年に当たる)は年代的に明らかに間違いであり、康平とも建治でも時代が合わず、おそらく多少文字が似通った他の年号の誤りではないかと考えられるが、具体的には不明である。

*2 「葛貫」とは入間郡毛呂山町葛貫で、河越氏の居館であった上戸から西方約十三キロの地である。葛貫氏はその後の鎌倉期にも存続、資料に見えており、重隆の子として系図にあげられる太郎能隆の他に山田二郎隆綱・師岡三郎重仲についても、重頼の諸弟として疑問がある。『保元物語』には義朝方の兵として既に「河越、師岡、秩父別当」が見える。
こうした事情からいって、重隆の子としては河越太郎重頼があって、能隆はおそらく重隆の末弟ないし従兄弟で一時期、暫定的に秩父別当職を預かり継いで、同職を重隆の子の重頼に伝えたのではなかろうか。飛田政一氏編の『関東諸家系図(2)』には、能隆の子に葛貫三郎盛重がおり、その養子に弥二郎盛直(斎藤別当実盛の孫)がいたことを記す。葛貫三郎盛重は『東鑑』に見えて、建暦三年(1213)五月の和田の乱の際に、朝夷名三郎義秀により討たれている。
   

 (2) 渋谷氏・秩父氏

渋谷氏の初祖は小机六郎(河崎冠者)基家とされ、基家は武蔵国の荏原郡や橘樹郡の河崎庄(現川崎市)・小机郷(横浜市港北区)などを領して河崎冠者・秩父二郎・小机六郎などと号したと伝えます。基家は、義家に属して(子の平三大夫重家とともに)、後三年の役に参陣したといいます。従って、武家・武綱兄弟の子の世代に属したとしてよいと思われますが、一般の系図には、「武綱の子で、重綱の弟」とされており、武基の子という系図も見受けられます。しかし、重綱が武綱の養子であれば、武綱に実子がなかったことも考えられ、基家の父は別に求めたほうがよいのではないかと考えられます。
その場合、名前等からいって、基家は武家の子とするのが一応、妥当ではないかとみられます。基家の後は、その子の河崎平三大夫重家、その子の渋谷庄司(三郎)重国・中山二郎重実兄弟となり、重国はその諸子や女婿となった佐々木秀義・三郎経高親子とともに、源平争乱期に活躍します。なお、河崎平三大夫重家が後三年の役に従軍したという所伝が正しければ、「重家−重親−重国」という系譜も伝えられるので、このほうが実系ではないか(このときは、基家は武基の子とする可能性も出てくる)、ともみられます。
渋谷庄司重国は初め石橋山合戦では頼朝に敵対しましたが、のち服属してその子次郎高重・五郎(右馬允)重助らとともに平家追討に活躍しました。重国の娘は、近江の所領を失って関東に来た佐々木源三秀義の妻となって五郎義清を生み、その妹は秀義の子の三郎経高の妻となっています。建暦三年(1213)の和田合戦の際には、重国の子の渋谷次郎高重・渋谷仙座次郎親子や、中山二郎重実の子の中山四郎重政・同太郎行重親子らは、和田義盛に味方して討死するなど、この一族も大きな影響を蒙ったのですが、重国の子の太郎光重の子孫は、薩摩に下向して大いに栄え、祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城などの諸氏を輩出しました。
 
秩父平氏の本宗は鎌倉初期には、「秩父」を名乗らなくなりますが、この時期にまだ秩父を名乗る一族が見えます。それが、越後揚北に展開した秩父一族であり、高麗荒大夫武家の子孫とされます。すなわち、家綱の兄弟には白河平三忠兼・秩父平新大夫重長がおり、重長の子孫となるわけです。
「桓武平氏諸流系図」に拠りますと、重長の子の惟長は鳥羽院北面に祗候して常葉平内と名乗りましたが、「常葉」の地は、おそらく先祖の経明が居住した『将門記』に見える「常羽御廐」に因むものではなかろうかと推されます。常葉(常盤)の地名は、坂東では相模国鎌倉郡や常陸国茨城郡などにもありますが、これらの地は秩父氏との関連が考えられないからです。惟長の孫、修理進季長は父玄蕃允光長と同じく後白河院北面に祗候しましたが、『東鑑』(文治五年正月、建久三年十月条)には姓氏・苗字を記さずに、修理進季長と見えています。
その子孫(上掲「桓武平氏諸流系図」では子とするが、年代的にみて孫の可能性もあるかもしれない)の秩父進次郎行長は、建長七年(1255)に越後阿加北、瀬波郡小泉庄本庄地頭職を賜って武州秩父郡より下向し、この地で大いに栄えて小泉・本庄・色部・牛屋・宿田などの諸氏の祖となりました。この一族は南北朝期にかなりの活動が見られ、後裔は越後上杉氏さらに米沢藩の重臣等として活動が見えています。

 
(3) 葛西氏・豊島氏

将恒の子としては、秩父別当太郎武基・葛西次郎武常・小山田大夫常任があげられます。一般に武基の弟とされる武常(武恒)は、荒川下流域の下総国葛西・武蔵国豊島に居住し、葛西氏あるいは豊島氏を号して葛西・豊島などの諸氏の祖となりました。
その弟・常任(恒任)あるいは武常・常任の兄弟は、源頼義に属して奥州前九年合戦(1051〜62)に参加し討死したと伝えます。そうすると、年代的に考えて、将恒の次男次郎恒将(武将)の子に小次郎武恒兄弟が位置するのかもしれません。渋谷氏の系図のなかには、武常と常任との間に「武将」という者をあげるものもあり、この武将については、武常の別名か武常兄弟の父(=恒将か)にあたる可能性があって、世代比較をしてみると、おそらく後者であろうかと私は推しています。
武恒の子の豊島太郎近義は、堀川院の御宇に源義家が東夷征伐のとき(後三年合戦の終わった寛治元年〔1087〕のときか)、その館に義家が宿ったと伝え、その弟の豊島{杖恒家(豊島次郎経家)は八幡殿あるいは頼義郎等の七騎の一ともいわれます。後三年合戦の最中であった応徳三年(1086)正月二十三日付の「前陸奥守源頼俊申文」(『平安遺文』4652)には、源頼俊が陸奥守在任中(1067〜71)に綸旨により武蔵国住人平常家を召し進めたことが記されています。
経家の孫である豊島権守清光とその諸子は、頼朝に属して源平争乱期に活躍しました。清光の子には、豊島右馬允朝経・葛西三郎兵衛尉清重等があげられますが、豊島朝経は、元暦元年(1184)頃に紀伊国守護と見える豊島太郎有経の後身とみられ、建仁三年(1203)八月に土佐国守護となり、その二カ月後には比叡山の僧兵を弟葛西四郎重元とともに攻めて、兄弟ともに戦死しました。葛西清重は奥州征討に抜群の功績があったことで、初代の奥州総奉行となり、その子孫は奥州で胆沢・磐井郡を中心に繁衍します。豊島・葛西の一族には、宮城(足立区南部)・板橋・滝野川・志村といった東京都北部の地名を名乗る諸氏があげられます。
 
以上、秩父平氏の主な流れについて実系を検討してみましたが、簡潔に書こうと努めたため、結論先取りのように受け取られる部分や説明が足りない部分もあろうと思われます。また、通婚関係を通じた世代比較なども行いましたが、ここでは具体的に記述しておりません。
いずれにせよ、なにぶん決定的な史料が乏しいため、不十分のそしりを免れないところではあります。今後、新たな知見が得られたときは、再考の余地が多分にあることをお断りして、ここはひとまず終えておきたいと思います。

  (04.2.16 掲上)
 
   葛貫能隆の系譜試案

  <大阪在住の方からの返信(1)>
 07.10.26受け
 その後の私なりの見解ですが、葛貫能隆の本来の系譜は武蔵国造系の足立遠元に連なる一族ではないかと考えています。
 と言いますのは、以前に『野与党・村山党と千葉一族の関係』で述べられた様に、知々夫国造と武蔵国造の両系統は婚姻・養子関係を頻繁に結び、中世期には一体化したと考えられるからです。
 秩父氏も例外では無く、祖・将恒が武蔵武芝の娘を娶り、更には武芝の孫・恒時を養子に迎えています。更には、豊嶋経家の娘が足立遠元の母となり、その遠元の娘が畠山重忠に嫁いで、小次郎重秀を設ける等、秩父氏と足立氏が密接な関係であった事が伺わせます。足立氏が、しばしば秩父一族として記されるのも、その為かもしれません。
以上の事から、葛貫能隆の出自は足立氏に連なると考えていますが。 
 
  (樹童の感触・試案)
 秩父一族と葛貫能隆との関係について、その後もとくに史料も目に入らず、考えがあまり進まないのですが、いま一試案として次のような考えもあるかな、と思っており、読者のご検討・ご批判をまつものです。
 
1 葛貫氏の本貫地が河越氏の本拠から西方約13キロの入間郡毛呂山町葛貫(つづらぬき)の地とみれば、秩父氏嫡統からのすぐの分岐とは考えにくい。
 
2 葛貫の南方近隣が高麗の地で、ここには高句麗系の高麗氏が古代から居住したが、秩父一族から出て高麗に居住し、高麗平大夫を名乗った武家がいる。秩父十郎武綱の兄で、武綱の養嗣となった下野権守重綱の祖父と伝え、越後の本荘・色部一族の祖でもある者であるが、その子孫が高麗から少し北方に進出して葛貫氏となったものではないか。
 
3 葛貫能隆の弟に山田二郎隆綱、師岡三郎重仲をあげる系図もあり、師岡は高麗の南方約10キロほどの青梅市師岡町(あるいは、その東南方約5キロの西多摩郡瑞穂町大字長岡下師岡)に起った苗字ではないかとみられる。久良郡師岡郷もいわれ、師岡氏がこの地にも関係ないし居住したことがあろうが、その系図も諸説あって、師岡庄司俊貞(師岡兵衛尉重経の母方の祖父という)の名前などから、多摩郡師岡に起るとみるほうが妥当か。
 師岡三郎重仲の子という師岡兵衛尉重経には、河越重頼の弟という伝もあるので、この辺にも秩父一族との縁由がうかがわれる。重経は、『東鑑』には師岡兵衛尉重経として寿永・文治の頃に見える。その子孫は常陸国信太郡に移ったものもあるが、『中興系図』には「諸岡・藤姓、モン鶴丸」と見え、ここでも秩父一族が桓武平氏という系譜が疑問なことが分かる。称良文流秩父支流の畠山・板橋が鶴丸紋を用いたことが『日本紋章学』に見える。
 
4 以上の諸事情からみて、秩父(河越)重隆の没後は秩父庶流の葛貫能隆が秩父(河越)家督を一時預かり、重隆の嫡子河越太郎重頼の成長をまって家督を返したという経緯があったのではないかと考えられる。重隆と葛貫能隆との具体的な関係は不明だが、お互い同世代の秩父一族という事情に加えて、どちらかの妻を通じる義兄弟くらいの関係にあったものか。
 
    (07.12.22 掲上)


  <大阪在住の方からの返信(2)> 08.3.9受け
 葛貫能隆の系譜試案について、どうも有り難うございます。
 
  葛貫氏が高麗平大夫武家の子孫である可能性があるかもしれないとの事ですが、確かに能隆の弟に山田次郎隆綱なる人物がいて、「綱」の字を共有している事からして、その可能性は大いに有ると思います(その場合は、下野権守重綱の兄弟の子か)。
重隆と能隆が、どちらかの妻を通じる義兄弟と言う意見には賛成です。

 なお、河越重頼の弟に小林重弘を挙げる系譜も有りますが、小林氏は『那智本・小林氏系譜』等で、重隆の弟である三郎重遠を祖とする高山氏の一族とされてますので、重弘も高山氏出身だと考えられます。
  又、陸奥の大族である浄法寺氏は畠山重忠の後胤を称していますが、上記の『那智本・小林氏系譜』には高山氏の出と記されてますので、実際は高山氏だと思われます(『吾妻鑑』にも、高山一族が奥州征伐に従軍したとの記事が有る)。

   (08.5.12 掲上)

  この浄法寺氏に関連して、浄法寺氏の系譜 という記事も書きましたので、ご覧下さい。
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