魏の曹操墓の発見とその後  

                              宝賀 寿男

※本稿は、『季刊/古代史の海』第59号(2010/3)に「曹操墓の発見」という標題で掲載されたものであり、その後の経過も若干付記して補訂している。


 はじめに

 2009年の歳末も近い12月27日、考古学上の大きなニュースが世界に流れた。『三国志』の梟雄、魏の曹操の墓が河南省で発見されたというのである。河南省文物局が国家文物管理局とともに北京で記者発表したものであり、新華社・人民日報、光明日報、ロイター通信など欧米のマスコミや、日本関係では共同・時事の両通信社、朝日・読売・毎日・産経などの新聞社が一斉に同日から翌28日にかけて、これを報じた。
 中国の国家文物関係当局は曹操の墓だと認定される旨の発表をしたが、その後には真偽をめぐって関係各界で白熱した議論もあり、その行方が注目された。日本における報道では本件の詳細や全体像が知られないきらいがあるが、現地中国の動きがインターネット上でかなり詳しく報じられるので、こうした場などで情報収集し、関係する動きや研究などの紹介を主としつつ、曹操墓の検討及び今回の発見の示唆するもの等について考えてみたい(現時点までの管見に入った調査・報道を示した)。併せて、その後の経緯も記した。
 なお、日本の報道だと「曹操の墓」とか「曹操の陵墓」とされることが多く、中国では「曹操墓」「曹操高陵「曹魏高陵」「西陵」という表現であるが(ちなみに英文では「cao cao tomb)、ここでは引用記事以外は「曹操墓」として記すことにする。

 
 一 曹操墓発見の意義

 曹操は後漢(東漢)の末期に活動した人で、西暦155年に生まれ、220年に享年66歳で死没しており、実質的な魏王朝の創始者(謚号は魏の武皇帝)であった。上記発表のあった安陽県西高穴村の東漢大墓(「安陽東漢大墓」ともいう)のうちの二号墓が曹操墓だとしたら、その歴史的意義は大きい。これに関して、著名な漢・魏の考古研究者の劉慶柱は、その意義を三点あげている(本稿での中国人の人名は全て敬称略で記載した)。
 すなわち、
@文献を実証した曹操の高陵の位置、及び曹操の諡号、彼の唱導した薄葬制度などの関連する文献記事は、信頼できる史実に基づくと確認されること。
A曹操の高陵の発見により、多くの歴史情報を新たに獲得することができ、それに伴い、必ずや曹操と漢・魏の歴史研究の新しい頁が開かれることになるとみられること。
B発掘の成果に基づき、漢・魏の考古学では正確な年代の標準尺度が確立され、関連する領域の研究でも必ずや現状水準を突破する新知識が獲得されるとみられること。
 これら三点は文物局関係者の統一的な見解のようであるが、それに加え、曹操は中国史上で著名な政治家・軍事家・文学者であるので、その墓葬や関連する遺跡・遺物の保護・展示は、社会的に広範な関心を集めている。また、@に関連して、永年の謎であった曹操墓の確認によって曹操の真実の姿が分かり、曹操に関する懐疑・曲解や俗説も解消するのではないかという見方もある。Aに関連しては、曹操墓の周囲には陪葬墓が存在する可能性もあるともいわれている。
 
 わが国との絡みで言えば、邪馬台国の女王卑弥呼に比べ、曹操は28年早く死んだものの、すこし前の時代に生きた人であり、曹操死期の約20年後に倭国は魏朝に朝貢し、両国間で使者の往来があったのだから、魏朝の墓制は卑弥呼の墓(「卑弥呼冢」とも記す)を考えるときに一つの参考になるものと思われる。すなわち、当時、日本列島にやってきた魏の使者は、都の洛陽(あるいは朝鮮の帯方郡)から来たとすれば、曹操死後まもなく始まる魏朝や朝鮮半島での墓制を聞いたり見知っていて、そのうえで、倭国の卑弥呼の墓について『魏志倭人伝』(以下、『倭人伝』とも書く)の記事のもととなる記録を残したと考えるのが穏当だとみられる。
 すでに、私は「卑弥呼の冢」という論考(本誌第25・26号、2001年9月・12月刊に掲載)を発表して、卑弥呼の墓については、国際的に東洋史の観点から『魏志倭人伝』に見える「径百余歩」などの記事を考えることが必要だという前提で、当時の魏朝で徹底して実施された薄葬令や朝鮮半島の中国人高官や韓地の王族の墳墓例だけからみても、卑弥呼の墓がいわゆる箸墓古墳(全長が約280Mの前方後円墳)にあたるほどの巨大な墳墓では決してなかった(直径が30Mほどの円墳ではなかったか)、と結論して、これを提示した。
 ところが、最近の纏向遺跡発掘の進展とともに、関係文献に見える記事から離れて、関西系の考古学者を中心に、箸墓古墳が卑弥呼の墓で決定的だとの論調がますます強くなってきている。しかし、この二つの墳墓がたんに巨大だ(『倭人伝』の記事の解釈として、卑弥呼の墓が巨大であるはずだとの理解)ということだけでは、箸墓を卑弥呼の墓だとする決め手にはなるはずがないし、「径百余歩」という記事にすら合わないことは明らかである。
 
 今回、曹操墓発見として発表された墓については、真の曹操墓であることを疑う見解も見られるが、この辺は以下で検討するとして、これが正しいからといって、実は『三国志』に記された魏の薄葬令の基礎と史実が現実に裏付けされたにすぎないから、日本列島との関連では、あまり大騒ぎするほどの話ではない。とはいえ、わが国の考古学者には、記紀にかぎらず、肝腎の『三国志』の記事ですら無視するという、文献無視の姿勢が強すぎるから、冷静に真の曹操の墓かどうかを検討し、それを卑弥呼の墓と考え併せながら、当時の東アジアの帝王級の墓について検討を加えてみようというのも本稿の趣旨である。

 
 二 曹操墓についての報道とその反応など

 この関係の多くの報道を筆者が整理してみると、その概要は次のようなものである(これに先立ち、2009年12月10日付けで「成都商報」で報じられた事情もある)。
@河南省北端部の安陽市安陽県の安豊郷西高穴村(河の南岸)の南部で、曹操の墓・高陵が発見された。
A西高穴村の「東漢大墓」のうち主墓の二号墓がそれであり、同墓から三体の遺骨がみつかり、そのうち中央の墓室にあった男性の遺骨(頭蓋骨、肢骨など)について、鑑定の結果、六〇歳前後のものとみられ、六六歳で死没した曹操本人に符合するとされた。
 残り二体は女性の骨であって、一人は四〇歳代で五〇歳未満(一に五〇歳前後)、もう一人は二〇歳代前半ほどとみられている。これら女性の骨は、中央墓室の両脇にある副室に一体分ずつあったが、骨密度が比較的高く生前は栄養状態が良好だったとみられることから、身分が比較的高い女性(ともに妻妾ではなく、身近に仕えた女性護衛兵か侍女かという推測もある)が殉死したかと推定されている。
B大型の室墓で、墓の総面積は約740平方メートルであり、漢代の王侯らの陵墓と規模が似ている。土式でレンガ造りの大きな墓室が中央部の前後に二つあり、主墓室の頂部はアーチ型である。その東西の両脇に副室が各一つ(副室合計で四つの墓室、大墓全体で六室)があって、墓室の最深部は地表から15Mあり、典型的な深埋墓葬である。地上から斜めに掘られた墓道は、39.5Mの長さで、幅は9.8Mである。
 墓の平面図は台形で、東辺の長さが22M、西辺の長さが19.5M、東西の長さが18Mとされる(そうすると、台形状の墓の直接の面積は約374平米ということになり、これに近い方形でみれば各一辺が20M未満となることに留意される)。
C副葬品は、約250点あり、銅帯鈎、鉄甲、鉄剣、玉珠、水晶珠、瑪瑙珠、石亀、石璧、石枕、刻名石牌、陶俑や金・銀・銅の器や陶器などがあったが、なかでも、「魏武王常所用虎大戟(魏の武王が愛用した戈)」「魏武王常所用慰項石(魏の武王が愛用した石の枕)」などと銘文が刻まれた石牌・石枕が目に着く。墓誌は見つかっていないし、壁画もない。
 
 曹操墓には墓荒らし対策として72もの「疑冢」(偽りの墓)があると伝えられてきており、『聊斎志異』の中には「曹操冢」という話まである。史料によると、曹操陵には初め陵殿があったが、後継の文帝曹丕が薄葬を徹底して推進し、曹操陵にある殿屋を破壊するよう命じた事情があり、これもまた曹操の墓が不明になった一因である。『三国志』によると、于禁が呉の捕虜から戻って曹操高陵に参ったときに、その殿屋で于禁降伏図が描かれているのを見たとあるから、当初の高陵には殿屋があったことが分かる。
 いままでこの墓の所在地については、曹操が拠点とした城(河北省邯鄲市の臨県三台村一帯)の西方地域(河北省の磁県地域か)、河南省の許昌城外、河北省の河の水底、銅雀台等の三台(城にあった御殿)の下などにあるといわれてきた。なかでも、の地域は、大部分が現在の河北省南部の邯鄲市臨県にあたり、河がその地付近を流れ(時代により川筋の変遷がある)、河南省北部の安陽市安陽県にも一部かかっていたとみられることから、城のあった河北省臨県付近ではないかとみられてきたものの、正確な場所は「千古の謎」の一つとされてきた。
 1998年に西高穴村の村民・徐玉超が、村の西北に位置するレンガ製造工場内の土地の地下二メートル地点から曹操の墓の位置を示す墓誌(潜の墓志)を掘り出して以降、地元の考古学者らは周辺で調査を続け、2008年12月からは西高穴村の南部にある東漢大二号墓の本格調査を開始した。墓にはこれまで何度も盗掘された跡があり、主な副葬品が盗まれた可能性もある。
 
 考古調査にあたった河南省文物局は、「安陽東漢大墓」を曹操の陵墓と認定した理由として、簡潔にいうと、次の六点(六大証拠)を挙げる。 
  @墓の規模が巨大で、魏王となった曹操の身分にふさわしい、
  A出土した副葬品は、いずれも後漢と魏の特徴があり、曹操の時代と一致する、
  B墓が見つかった場所や状況は、「三国志」などの歴史文献とほぼ一致する、
  C副葬品の特徴は、曹操の「遺令」(遺言)とほぼ一致する、
  D出土品から曹操を示す「魏武王」と銘文が刻まれた石牌等が複数見つかった、
  E男性の遺骨は六〇歳前後であって、曹操の死亡時の年齢と一致する、

 さらに、年が明けて本年一月中旬には、中国社会科学院の考古研究所でも、王巍所長以下が現地視察を行ったうえで、九大証拠をあげて曹操墓の認定を行った。同時に、「曹魏高陵」が、学術的価値から同研究所が選ぶ「2009年の中国六大考古新発見」のなかに入ったことを明らかにした。これで、曹操墓の国家的な認定がなされたとしてよい。
 
 上記の2009年末の発表を受けて、一部の専門家などから、その信憑性を疑問視する声がかなり多く上がった。曹操墓を証明する最大の根拠とされたのが、「魏武王」の銘文が刻まれた石碑・石枕であるが、これらは当該墓の考古学的な発掘により見つかったものではなく、警察が2006年以降に逮捕した盗掘者から押収したものだ(盗掘者が偽造した可能性もある)という事実が指摘された。しかし、盗掘者からの回収は一件のみである。
 内容やプロセスを疑問視する文化学者や考古学者からは、より説得力のある決定的な証拠(例えば、姓名のつけた印璽や墓誌、墓碑などで、とくに印璽)が揃わない限りは、即断は避けるべきであって、今回の認定は性急で時期尚早だという意見が出ている。袁済喜は、「墳墓は歴史上、何度も盗掘の被害にあっており、残されている証拠物は少ない。類似の墓で発見されている金縷玉衣などの決定的証拠もなかった」との趣旨をいう。具体的には、山東省東阿県の魚山で曹操の五男の陳思王曹植(西暦192生〜232没)の墓が1951年に発掘調査され、墓主が曹植だと示すレンガが出たときと比べ、墓主を証明する材料が乏しいとも指摘する。高蒙河・復旦大教授は、墓から出土した遺骨と曹操の子孫とのDNA鑑定など、科学的方法による検証をするよう提案している(以上は、歴史学者の陶短房、北京の人民大学国学院の袁済喜副学院長、古美術鑑定家の馬未都など諸氏の見解による)。
 
 これら言動に対して、西高穴の東漢大墓考古隊(曹操墓発掘調査チーム)の総責任者・潘偉斌河南省文物局文物考古研究所の副調査研究員は、疑問提起者たちが考古学の専門家ではなく、批判するレベルにはないこと、現地や出土品を見ていないことなどを理由に猛反発の姿勢を示した。
 河南省の文物局副局長でスポークスマンの孫英民は、これまで十分、慎重に対応してきたことを次のように説明している。文物局では、曹操の陵墓問題は非常に重大なことと考えており、2009年10月に曹操の陵墓という可能性が分かってからは、その確認と発表についてはきわめて慎重に作業を進めてきた。具体的には、国家の文化財主管部門では相前後して歴史学、考古学、古文字学、人骨鑑定専門家の学者を組織して、数十回の現場の鑑定と研究討論を行って結論を得た経緯があり、現在把握する上記六大証拠により、墓の被葬者が曹操だと十分に確認できるとする(「人民日報」2009年12月30日付)。
 多くの研究者の心血が曹操墓の確認作業に凝集した、という老文物研究者・常倹伝(元河南省文物保護委員会副主任)の言も紹介された(「大河網」2009年12月31日付)。
 
 なお、曹操の祖父・曹騰や父・曹嵩、長女・曹憲(後漢の献帝の妃)ら一族四十人弱ほどの墳墓は、安徽省亳州(もとの豫州沛国)に「曹操宗族墓」(「曹家弧塚」とも呼ばれる)という歴史テーマパークとして整備されている事情もあり、「商業的な利益と結びついているおそれも大きい」(その経済効果は、安陽に関して年に四・二億元〔約五七億円弱〕の見込みだという試算もある)との示唆・懸念もある。ちょうど映画「レッドクリフ(赤壁)」の上映直後のことでもあり、タイミングが良すぎるという疑いも出された。最近でも、「周老虎事件」という「華南トラ」のビデオ映像捏造事件があったところでもある。

 第1図 曹操一族の関係系図 
   

 
 三 曹操墓についての検討

 (1)上記のような諸事情で、現地の中国ではその後もかなり白熱した論議も続けられているが、当の国家文物局等が墓を曹操のものと断定した六点の理由・証拠がもう少し具体的に詳しく見えるので、これらを検討してみよう。
 北京での記者発表に際しては、中国社会科学院学部委員・社科院考古研究所学術委員会主任(元所長)の劉慶柱、国家文物鑑定委員会委員・河南省文物考古研究所元所長の本性、考古学者の梁満倉、人骨鑑定専門家の王明輝等が立ち会った。そこで発表された内容は、報道に即してあげれば、記事に精粗ムラがあるが、概ね以下のようなものである。
 
 @墓の規模が巨大
 墓の全長が約六十Mもあり(註:全占有面積とされる約七四〇平米との関係は不明)、レンガ造りの墓室の形態や構造がすでに知られている漢の魏王級の墓葬に類似し、魏王となった曹操の身分にふさわしい。当該墓には封土がなく、文献に曹操の寿陵の要件として記載される「因高為基、不封不樹」(高い土地を基礎として築き、封土を盛らず、樹木を植えず)という状況と相符合する。
 別途、最近の2007年に、河南省の洛陽偃師後漢帝陵・洛陽山墓群で出た同一時期の後漢帝陵と比較して、後漢末期の大墓であり、王侯級だと認められること、レンガの規格は非常に大きくて厚く、三層積みだとの説明もなされる。曹操の終令・遺令が厳格に執行されたことが、後継の曹丕の「為武帝哀策文」とその弟・曹植の「誄文」により分かる。これらの文で曹操葬儀の細部も伝えられ、長い墓道をもつ深い地下室に葬られたことも知られるが、当該墓の深埋墓葬にも合致する。
 A出土した副葬品に後漢・魏の特徴
 当該墓から出土した器物や画像石等の遺物に後漢・魏の特徴があり、曹操の時代と一致する(註:この辺の説明は簡単だが、これを補う上記考古隊の潘隊長の言を後記する)。
 
 B墓が見つかった場所が諸文献と一致
 墓の位置は、文献の記載、とくに魯潜墓誌等の資料記載と完全に一致する。『三国志』の「魏書・武帝紀」等の文献の記載によると、曹操は建安二十五年(西暦二二〇年)正月に病気により洛陽で逝去したが、二月に霊柩は城に運ばれ高陵に葬られた。高陵は西門豹の祠の西の丘にあると見える。調査資料の明示するところでは、当時の西門豹祠は現在の河大橋から南に一キロ行った場所にあり、安陽県安豊郷豊楽鎮に属した。この東漢大墓はちょうど西門豹祠の西に位置する。
 1998年に西高穴村の西部で出土した後趙の建武十一年 (西暦345年)大僕卿馬都尉魯潜の墓誌にも、魏武帝陵の具体的な位置が明確にこの地にあると記される。これら「三国志」などの歴史文献の記事と一致する地にあるのが当該墓である。
西門豹とは、戦国時代・紀元前五世紀の魏の政治家で、『史記』滑稽列伝に見える。孔子の孫弟子とされ、魏の文侯に仕えての県令に起用されて、の田畑への灌漑を含め、河の治水事業を成功させた。このため、当地の人々は敬愛し祠廟を建てたが、これが西門豹祠の由来である。
 C副葬品の特徴は、曹操の「遺令」を実証
 文献が明確に記すところであるが、曹操は呉・蜀との戦時下にあることなどから薄葬を主張・唱導して、臨終の前に残した遺令、すなわち「平時の服装で納棺せよ」「金・玉・珍宝を副葬するな」という内容は、当該墓に実証される。当該墓葬の規模は小さからずといえども、墓の内部の装飾は簡単で壁画は見えず、明らかに朴実に徹しており、兵器・石枕等には皆、平時に曹操が「常用」した器具であることを証する文字がある。
 現実に金銀の器具や玉も副葬品としてあったが、精美に見える若干の玉類なども、曹操が日常で使用・携行した生活用品であれば、遺令には反しないし、報道では総じて貧相(「寒酸」と表記)な副葬品だと伝える。例えば、陶器についていえば、後漢の墓では精美な陶器を多くもつが、ここでは小さくて粗末な造りとなっている。
 
 D墓から「魏武王」と銘文が刻まれた石牌と石枕が出土
 最も確実で直接的な証拠は、「魏武王」という銘文が刻まれた石牌と石枕が八件あって、これが墓の主が魏武王の曹操であることを証明する。文献によると、曹操は生前に先ず「魏公」に封じられ、後に「魏王」に進爵したので死後の諡号を「武王」としたものであり、その子・曹丕が帝后を追尊して「武皇帝」といったことで、歴史では「魏の武帝」と称される。出土した石牌・石枕には「魏武王」という銘が刻まれており、これがまさに曹操が葬むられた当時の称号であって、表記は葬送時の実態にふさわしい。
 別途、石枕(慰項石)は曹操生前の頭痛病・頸椎病に関係があるかとの説明や、極めて高貴な者がもつ石圭は、これまで出土したなかで最大だとの説明もある。
 
 E墓室の男性の遺骨が曹操の死亡時の年齢と一致
 墓室で見つかった男性の遺骨は、専門家の鑑定によると、年齢が六〇歳前後であって、曹操の死亡時の年齢六六歳と合致しており、まさに曹操の遺骨にあたる。       
 
 以上の諸事情から、国家文物局の文物保護及び考古司司長の関強は記者会見の席上で、西高穴墓の発掘事業はさらに展開するが、現時点の根拠からしても、西高穴大墓が曹操高陵であることを認定できると表明した。同席した劉慶柱も、かつての考古現場での経験で、出土した銘文を刻んだ石牌や墓葬形態・規模からみて、曹操墓として十分認定できると説明している(今後、DNA鑑定や炭素14法などの科学調査も、困難が多大だが進める意向も表示。なお、子息の曹植の骨は既に行方不明であり、今回発見の骨も鑑定のためには不十分な模様)。河南省文物考古研究所所長の孫新民も、文献記載、墓地の位置、墓葬形態、出土器物、人骨鑑定等多くの点を総合的に検討した結論だとしている。
 
 (2) 曹操墓発掘調査チームの総責任者・潘偉斌へのインタビュー記事など
 記者の質問に答えて、@北京での記者発表は国家文物局の要請に従ったこと、A出土した画像石の画は精細で、彫刻は精美であり、内容が豊富で、「神獣」や「七女復仇」等の図案があり、刻まれた文字には、「咸陽令」「紀梁」「侍郎」などの文字があるなど(〔註〕ほかに「主簿車」「宋王車」「文王十子」「飲酒人」「胡粉」の文字も見える)、漢画像石のなかでも多くは得難い精品であること、B圭形の石牌や璧は帝王陵墓の決定的な証拠であって、「魏武王」の文字が見えること、墓が東漢後期のもので文献とも符合することから、曹操の墓という結論を出したこと、C発掘にかかる専門家は、社会科学院の考古研究所・歴史研究所、北京大学等の大学及び国家文物局等から来ていること、D発掘はまだ完全には終わっていないこと(〔註〕他の記事によると、基本的な発掘は終わりだが、近くにある主墓ではない一号墓の調査もまだ進んでいない)、E今後は、陵園建築、墓地配置の調査や保護展示計画なども行うこと、などを明らかにしている。
 盗掘が調査の発端にあったことは、潘隊長もこれを認める。その言に拠ると、2008年に墓盗人が掘り出した画像石の一つには、東漢の時期によく見える「八女投江図」が描かれており、これは一般平民や官僚の墓葬とは異なること、もう一つの石牌には「魏武王常所用挌虎大刀」の文字が刻まれてあったことをあげている(調査チームの尚金山など、他の記事にも、「魏武王」の名が記載される物件のうちの一件が盗掘されて回収したと見える)。盗掘は2006年から始まり、これまで五度で38人の賊を警察が逮捕していること、彼らは周囲の村の農民や外地から来た者もいたが、曹操墓だとは知らないでいたとのことである(以上は、2008年12月28日付の四川新聞網、成都商報記者の牛亜皓の記事)。
 なお、これに先立ち2009年3月に、潘偉斌は中国中央電視台(CCTV)の番組「冥宮深深」の「曹操墓の探索」にも出て、曹操墓が河南岸地域にある可能性の説明をしているので、この内容も本稿に取り込んでいる。
 関連して、孫新民も、「魏武王」記載の七件は科学調査により発掘したものであり、現代技術をしても偽造が不可能だと述べている。文字の書体は、東漢末期に流行った隷書字体(俗称「八分体」)だとされ、表示される「魏」の文字も、魏朝当時に使われた「委」と「鬼」との間に「山」が入る古い字体であるとの指摘もなされる。
 
 (3) 以上の説明に対しての疑問
 先に触れた点もあるが、@「魏武王」について盗掘等との関連、A殉死や卞〔ベン〕夫人(後に太皇太后、曹丕・曹植等の母)との合葬などが疑問としてあげられる。
 曹操墓認定の決定的な証拠は、「魏武王」と書かれた石碑とされるが、これまで何度も盗掘されたという墓にこれほど貴重な文物が残されるものだろうかという疑問が出される。この盗掘に対しては、発掘チームなどから既に説明がなされている。
 次ぎに、「武王」は漢の献帝による諡であって、ふつう墳墓に埋める物には書かれないものだとして、最有力な証拠が却って疑惑だという指摘もある。しかし、死亡から埋葬までに時間があれば作成はできるし、現実に正月に洛陽で死んで二月に城に運ばれ、その下旬に葬儀がなされた事情があり、石圭は璧(王侯は玉圭をもつ)に代替して葬礼用に製造された、出土石圭の大きさは曹操の身分と薄葬思想に合致するとの説明がなされる。
 さらに、曹操の墓誌がないとの指摘もあるが、墓誌が作られる時代はもっと後代のことであって、曹操の当時では墓誌が無いほうが自然だという反論もなされる。
 また、曹操死去の際には多くの宮女を殉死させたといわれ、女性の骨が二体分しか見つからなかったことに疑問も出される。これについては、殉死の話が妥当かどうかという問題点と、当該墓周辺に陪葬墓が見つかれば、事情が分かってくる可能性もあろう。
 こうして見ると、曹操墓認定に対しての疑問や反論は、割合弱そうである。北京大学考古学担当の斉東方教授も、今回の認定結論は基本的に合理的だとし、関係の遺物は専門家を欺くようなものではないとみている(「中国新聞網」2009年12月31日付)。河南大学の王立群教授も、自ら発掘現場を見て、証拠から考えると今回の曹操墓の認定には問題がないとみている(「解放日報」2010年1月7日付)。
 
 (4) 中国社会科学院の考古研究所の2010年1月の見解など
 王巍所長のコメントでは、墓の被葬者が誰かについては、墓の形制、規模、規格・年代などが主な判断基準で、特に文字資料など墓からの出土文物は、貴重な資料となる。従来、こうした基準・方法で、河北省満城県にある前漢期の中山靖王墓や広州市にある前漢期の南越王墓を認定してきたが、西高穴村の「曹魏高陵」も同様に適用できる、とされた。
 同研究所の専門家チームが現地視察のうえで、一月十四日に北京で「二〇〇九年度公共考古フォーラム」を開き、視察結果を公表した。潘偉斌によると、曹操墓認定の九大証拠は以下の通りである(先の六大証拠を補充・整理したもので、目新しいのは@くらいか)。
@墓葬が多墓室磚室大墓であり、主墓室の四角攅尖頂(四角の底辺から伸びる頂上が尖った形)という構造は、洛陽で発見された曹魏朝・正始八年の大墓の墓頂と同じ形状。
A同時期の墓葬との比較では、規模が宏大で、王侯級の墓葬であり、曹操の身分にふさわしい(六大証拠の@と同じ)。
B墓葬の地表の状況は曹操が定めた「終制」の要求に合致。すなわち、三キロ離れた固岸北朝墓地よりも十M高い地であり(「因高為基」)、発掘された墓室の上面には封土も立碑の痕跡もなく(「不封不樹」)、ともに合致(同、@)。
C文献記載の高陵の位置に合致(同、B)。
D称号が合致(同、D)。
E「魏武王」などの名牌が合計七個出土し、身分認定の直接の証拠(同、D)。
F出土物と曹操の「遺令」にある「薄葬」に合致(同、C)。
G墓から発見の男性遺骨の年齡が六十歳ほどで、曹操逝去時の年齢と合致。(同、E
H付近からの出土文物が傍証となる(同、Aに近いか)。
 
 その後、2018年3月には、河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されている(紅星新聞など)。

  (続く) 

  (2023.6.13 掲上)

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