(魏の曹操墓の発見とその後)の続き 四 とくに曹操墓の所在地について
所管する文物局が六大証拠、社科院が九大証拠としてあげた項目は、かなり説得力があると考えられる。問題は、やはり当該墓の位置する場所であり、これに関し更に検討をしてみよう。今回の発表後でも、曹操一族の本貫たる亳州所在の未発掘の観音山墓ではないかという説や当該墓は親族という夏侯惇の墓ではないかという説なども言われている。 従来から、曹操墓は、曹操が軍事などの重要な拠点とした黄河流域の城周辺にあって、しかも河の北岸ではないかと多くみられてきた。それは、曹操には多くの敵がいたので、墓地を当時の首都の許昌や洛陽の付近には選ばなかったという事情が考えられている。父祖の眠る故郷の毫州は中原から離れすぎ、かつ、孫権の呉国に近いという事情もあり、これら安全保護の面から、自分の封地である城の付近とした可能性が大きいということである。河北岸となる河北省邯鄲市磁県の丘陵地が、曹操の遺言・命令にふさわしく、宮殿の銅雀台から望まれる高地で痩せた地だとの見方からでもある。
※第2図 曹操墓関係地図 曹操墓研究を長年続けてきた邯鄲市歴史学会会長の劉心長は、河北省磁県の時村営郷の中南部、講武城鎮の西部に位置する約五キロ平米の範囲内にあると想定してきた。曹操は生前、城の西方の岡の上に葬るように手配し、遺言の中で、汝ら臣民が銅雀台に登って西を見れば、西陵(曹操墓)の墓域が望めるといったが、この想定地は銅雀台から西の方向では最良の場所にあり、地勢が高い痩せた台地で、河の水にも流されることなく、曹操の要求した墓地の条件にも適う。
城の西方近隣地域を河により北区と南区に分ければ、安陽県西高穴村のある南区よりは北区の磁県のほうが可能性が大きいと劉心長は考えており、唐代詩人の王勃が、「西北に高台をのぞみ、清風をのぞんで涙を流す」と詠ったが、講武城鎮は城のまさに西北であって、安陽県の西高穴村のほうは西南であると指摘する。そのうえで、曹操墓は孤立した墓ではなく群墓であるとみて、西高穴村の当該墓が曹操墓と確認できなければ、これは陪葬墓であって、曹操の挙兵時から従軍し、最も信頼した大将軍夏侯惇(曹操と同年に死去。八虎騎の一で、曹操の従兄弟にあたるともいう)の墓の可能性があるのではないかとみている(2009年12月31日付「中国新聞網」等の記事)。このほか、磁県索井村に曹操墓があるのではないかという見解も見られる。
中国政法大学先秦両漢文化研究家の黄震雲も、西高穴の当該墓は夏侯惇の墓という可能性を言う(同日付の「四川新聞網」)。石牌に記された文字について、「魏武王常所用挌虎大戟」等以外には、石牌には「黄豆二升」「刀尺」等々があったが、これは倉庫内の説明の牌であって、墓葬所用のものではなく、外部から運ばれたものではないかとも指摘する。これに対しては、石牌は多量で六〇枚近くもあり、後墓の南脇室から集中的に出て、それが倉庫であったという説明がなされる。
このほか、もうひとりの「魏武王」、すなわち五胡十六国時代の魏(冉魏)の建国者、冉閔(西暦352年処刑)の墓ではないかとみる説もあるが、中国東北部の龍城で戦に敗れ、鮮卑により殺害された事情等から無理があろう。
ところで、西高穴村の東漢大墓のなかで曹操墓とされたメインの二号墓の横に、20Mほど離れて一号墓がある。その発掘はまだ十分ではないが、一号墓のほうが夏侯惇の墓という可能性もあろう。夏侯惇は曹操の従兄弟といわれ、その死後の僅か数月で死去し、遺骸は後の明帝曹叡の時代に城付近の曹操と同じ廟園に祀られたとされるからである。夏侯惇は殉死したわけではないが、曹操の死後ほどなく、後を追うように死没しており、殉死に近いものがあったとみられ、陪葬墓的に位置づけられよう。
曹操はその「終令」で「廣為兆域、使足相容」と指示している。墓域を広くして、配下の功績ある者が自己の陵墓の周囲に埋葬できるようにとの配慮からであるから、曹操の信頼厚く、かつ次の文帝曹丕が大将軍に任じた夏侯惇は、陪葬の第一の候補者としてよい。孔徳銘(安陽市文物考古研究所所長)の言では、現場付近で多くの後漢末期の墓葬が発見されたとのことであるが、その詳細は不明である。高陵に合葬された(『三国志』魏書后妃伝)という曹操の正妻・卞夫人(曹丕の母。卞王后、武宣皇后ともいう)の墓という可能性も一号墓にあるとされる。その場合、「二十歳代女性は曹昂(曹操の長男)を出産し、若くして亡くなった母親(劉夫人)」かという見方もある。
曹操墓の位置について、その大概は曹操の遺令(薄葬、城の西の丘という場所)にあるが、具体的な指示要点は、@「魯潜墓誌」とA西門豹の祠、にあるとされる。
魯潜墓誌の墓主である魯潜は、後趙の建武十一年(西暦345年。曹操の死から125年後)に75歳で死んで、その墓誌は魯潜墓と魏武帝陵との相対位置を詳細に示している。墓誌によると、魏武帝陵の方位と距離が示されており、「高决橋」を基点として、ここから東西に走る畦道を西に1420歩行き、そこから南に170歩下ったところに魏武帝陵の西北角があり、その地点から西へ43歩行き、そこから北へ250歩進むと、魯潜墓の明堂がある、と記される。
これが曹操墓の位置について最も具体的に示す記事であり、この墓誌が出土した位置や墓誌記載の魏武帝陵の位置から考えると、陵墓は安豊郷漁洋村の東側の地と西高穴村の西側の地との間にあると解される。「高决橋」とは音が通じる「高穴橋」(高穴村の西北にある)とのことであり、この記事によると、曹操の墓地が西高穴村附近にあったとみられる。漁洋村での地下墓室なら、浸水に弱く、洪水時に流されやすいという事情も考慮される。
(上記墓誌の地理記載を大掴みに把握するために、後趙の時代の尺度を「一歩=1.225M」とし、端数を丸めて記すと、「基点の高穴橋 → 西へ1740M → 南へ210Mで曹操墓の西北角 → そこから西へ50M → 北へ310Mで魯潜墓の明堂」となる。魯潜墓誌の出土点は西高穴集落の西北0.5キロとされるが、直線距離でいうと、魯潜墓の明堂から南南東へ約310M行くと曹操墓の西北角となる、と解される)
もう一つは、『三国志』魏書の武帝紀にある記事で、曹操が自分の寿命が尽きようと予感した建安二三年(西暦318年)に、古代の葬制は必ず痩せた地にあったとし、西門豹の祠の西の丘陵の上に自らの寿陵をおくこととして、「土地の高さを基にして、封土を盛るな、(目印となる)樹木を植えるな」という令を出したというものである。
西門豹の祠は、安陽県安豊郷の豊楽鎮村の道路に望んだ高台の地(河大橋の南一キロ)にあり、祠堂はすでにないが、古碑が残る。清朝の道光年間の書にも西門豹祠と曹操墓との具体的な関係が記される。河北省臨県の文物保管所が近年集めた文物のなかに後趙の建武六年(西暦340年)の勒柱石刻(彫刻石)があり、その面には西門豹祠の再建情况・面積、西門豹画像が刻まれる。この石刻文の内容と『水経注』の記載とは完全に一致する。西門豹祠は曹操墓の最重要な指標であり、この石刻が一九八五年に安陽市安豊郷の上記地から出土したとされるから、曹操墓も安豊郷一帯か付近にあったと考えられる。
唐代の地理名著である李吉甫著『元和郡県図志』でも、曹操の西陵は城から西へ三十里(15キロ)、西門豹祠から約十五里(約7.5キロ)に位置するという。唐代の県が曹魏の故城の西五〇歩の地にあるとして、西門豹祠の意義を提示する。河の南で、県から三〇里の地が安陽県の西北部である。このほか、今日の清凉山(古代には天城山という)の位置などからも、安陽県の西北部が唐代には県に属したことが分かる。
さらには、三国時代から唐代の期間は曹操墓が明確に認識されていたとして、唐の太宗の貞観十九年(西暦六四五年)に高句麗征討軍が城曹操墓の傍らを通過して「祭魏太祖文」を作ったほどだと復旦大学の呉金華教授は言い、「七二偽冢」は唐朝までは生じていなかった伝説にすぎないと指摘する(2010年1月11日付「解放日報」)。
これらの諸事情から、曹操墓の具体的位置は、安陽県安豊郷及びそれと河北省との境界的な河一帯にあると推定される。史料によると、文帝曹丕は水路により父の祭祀に赴いたとあるが、墓地が河の沿岸部に近いことも分かる。
今回、曹操墓として発表された東漢大墓は、西高穴村の西南部で集落から百メートル超の位置にあり、魯潜墓誌の出土地点からは東南方向に一キロ弱ほど行った地である(そうすると、魯潜墓誌が移動した可能性もあるが、出土近くの高台には建物の存在の痕跡がある)。城遺址からの距離は西南に約15キロであり、河の河床からは十数メートルの高さの丘にあって、洪水に流されることはなく、灌漑できないから元は痩せ地だったが、いまは平坦にされて農地が点在する。墓の西側にはレンガを焼く土を取り出した大坑もあり、墓から西方に向かえば、太行山脈までの見通しがよい。2006年春に直径80センチの盗掘用とみられる穴が開いたことで、墓の存在が明らかになったということである。
なお、曹氏王族では、曹操の孫で最後の魏帝(第五代元帝)となった曹奐の墓が河北省臨県城から西南28キロ(の三台からは南に約五キロ)の習文郷趙彭城村にあるとされる(「臨県志」)。ここは曹操墓の東方近隣に位置するが、想定地を考古発掘をしたところ、違っていたので、曹奐の墓は不明なままである。最近の中国のテレビ放送では、この曹奐の墓と息子の曹丕の妻・甄皇后の墓が西高穴高陵から六キロ範囲にあるという。 ここまで見てきた諸事情や専門家の判断から総合的にみるかぎり、中国の国家文物局及び社科院による曹操墓の認定は妥当性が高いと判断される。当該墓や一号墓を含め関係地域にある遺跡の考古調査がさらに進展して、この「曹操陵園区」と呼ばれる地域の全体像がもっと明らかになり、その上での総合的判断が的確になされることが期待される。王巍所長も、現在の認定が最終結論ではないことを述べ、考古学資料による験証を絶えず続けることが必要だと認識している(2010年1月15日付人民日報)。また、盗掘者らに対しては、盗物返還の呼びかけもなされていて、この成果も出ないものだろうか。
以上は、中国の新聞・通信社の記事に多くを拠ったが、日本のHP「香炉待薫記」(アドレスはhttp://xiaoq.exblog.jp/)の「魏武墓葬」関係の記事にも有益な知識・示唆を与えられた。これら関係者に多謝してしたい。拙考初稿後には、河南省文物考古研究所編著で『曹操墓の真相』(渡邉義浩監訳・解説。2011年9月15日刊)が出ており、参考になるので併せてご参照されたい。
なお、その後の曹操関係の研究では、「新京報」などによると、上海の復旦大学の研究グループが、「三国志」の英雄、曹操の子孫の遺伝子染色体を特定し、安徽省や江蘇省などに住む九家族が本物の曹操の子孫として認定されたと発表した(2013年11月13日 読売新聞)。
それによると、曹操と前漢の高祖に仕えた丞相・曹参や、夏侯一族とはともに血縁はないとされる。曹操の血縁上の繋がりがあるとも言う夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところでは、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められず、今後の研究の進展次第では曹氏と夏侯氏の血縁関係の定説が覆される可能性が出てきた。その場合、曹操の父は曹氏家族内部の養子だということになる。裴(裴松之の子)の『史記集解』には、曹嵩は曹騰の兄の子、または従兄弟の子で、妻が夏侯氏(夏侯惇の叔母で曹操の母?)とする異説もあるという。
五 曹操墓の認定の場合の卑弥呼冢との関係
曹操墓が国家的なレベルで具体的に認定されたことであるが、これが基本的に正しいという仮定を基礎にして、関連して、「卑弥呼の墓」について考えてみる。 曹操墓が自ら唱導した薄葬令に基づいて築かれ、封土をもたない、墓域も約740平米という規模であって、これが「冢」という表現で認識されることに留意される。『魏志倭人伝』にあっても、卑弥呼の墓が同じ「冢」という文字で出てくるということは、封土があってもあまり高いものではなかったことが窺われる。卑弥呼の墓域自体も、曹操墓に準じる大きさであれば、30M四方程度が一応のメドということになろう。
薄葬令は、その子の魏初代の文帝曹丕のときにさらに徹底されて最終制度とされ、薄葬に関する詔が出て、子孫・重臣に厳命された。副葬品ですら細かい規定がなされ、三通の詔書が関係処に保管された。西暦326年に没した文帝の墓は首陽陵と呼ばれ、河南省洛陽市・偃師市にまたがる首陽山の東に山を利用して築かれたとされる(「魏書」文帝紀)。
その弟の曹植の山東省魚山の墓は、魏の明帝・太和七年(西暦233年)三月に造られた。墓室全体で4.35M四方ほどで、墓道2.2Mをもつ小さなものの、封土はある。副葬品は合計で132個の文物が掘りだされたが、ほとんどが陶器で、それ以外には石圭などがいくつかあった程度の質素なものである。曹植の境遇が悲惨であったことの反映でもあろうが、魏朝の薄葬令の意味が知られる。曹氏原籍であった安徽省の亳州から離れて、封地であった東阿王の領域に築かれたことは、曹操と同じである。
魏第二代の明帝曹叡は景初三年(西暦239年)に没したが、その陵墓は高平陵とされる。河南省洛陽市南部の汝陽県大安茄店村東南の霸陵山下にあって、高さが15Mで土を突き固めた塚といわれるが(『洛陽県志』)、これはどうも不正確なようでもあり、洛陽市南部の伊川県呂店郷の万安山(古称は大石山)にあるのがそうだとも、河南省洛陽東南の偃師市寇店鎮にあるともいい、確定していない。
この辺までが西暦248年に死没した卑弥呼の冢を考える材料になるかもしれないが、魏朝関係の陵墓はいずれも薄葬令に基づき、規模が小さいことがよく分かる。曹操墓に見える「殉葬」(?)も卑弥呼冢に関して記されるから、この点も無視してよいわけではない。
それでは、朝鮮半島の墳墓ではどうだったのだろうか。また、倭国にどう影響したのかという点については、拙稿「卑弥呼の冢」を踏まえつつ、以下に整理しておく。
曹操墓に見られる室墓は、中国の漢代に広く普及した形式で、墓室に通路が設けられている。この形式は、楽浪郡では後漢代に出現し、漢人のほか土着民の一部にも採用された(柳沢一男氏の「古墳の変質」、『古代を考える 古墳』所収)。
三世紀後葉の帯方郡太守張撫夷の墓は、方台形の土墳で基底部の一辺が約30M、高さが約5.4Mとされる。楽浪郡のほうでは、大同江南岸の郡治址とみられる楽浪土城(平壌市楽浪区域土城里)の周辺近隣には、数千基にのぼる古墳がある。その多くが中国式の墳墓で、そのうち竪穴系の木槨墓は木槨のうえに封土が被さる方形墳であって、大きいものは一辺が30Mを超えるが、一般的には20〜15Mのものが多い。その代表的な石巌里九号墓は、同穴夫婦合葬墓で木槨をもち、出土品などから郡太守級(ないし王級)の人物とみられている。その墳丘は一辺30M、高さが5M余と大きく、「居摂三年」(西暦八年)銘の漆器や長宜子孫内行花文鏡・玉爾・純金製帯鉤などの金製装飾品・馬具など多くの副葬品が出土して、一世紀代の築造とみられている(以上は、斎藤忠著『日本古墳の研究』、早乙女雅博著『朝鮮半島の考古学』2000年、等の記述に拠る)。
以上の諸事情をふまえてか、森浩一氏も、「卑弥呼の使者たちが洛陽に来たのは、まさしく曹操や文帝の薄葬主義のまっただなかであった。だから支配者の墓に壮大な高塚古墳を営むという方針を魏から新知識として学んでくる可能性は少なく」、卑弥呼の墓について、「高さを記していないのは記事の偶然性ではなく、かなり忠実に魏の影響をうけた、あるいはうけたはずとおもわれていたと私は推測している」と記している(「卑弥呼の冢」、『ゼミナール日本古代史』1979年に所収)。
ただ、倭地の墓に対する影響があったとしたら、中国よりも倭地に近い朝鮮半島の墳墓の影響のほうがむしろ大きかったのではなかろうか。小田富士雄氏もほぼ同旨で、弥生中期の大型墳丘墓は、「さらに新しい漢代王陵や、楽浪郡周辺の墳丘墓に関する知識・築成技術が導入されたことによる、といった考察のほうに妥当性が浮上してくるであろう」と記述する(『倭国を掘る』1993年)。
こうした卑弥呼を巡る国際的な情勢や『魏志倭人伝』記事をふまえてその冢を考える場合、規模的には最大でも直径30Mほどの円形的な墓と推するのが、自然である。これは、後の巨大古墳と比べると、かなり規模が小さいが、これでもほぼ同時代の帯方・楽浪郡の太守の墓と比べて同等程度という大きさであった。
わが国の特徴的な前方後円墳について、方形部を無視して円丘部のみを取り上げて、「径百余歩」と『魏志倭人伝』で表現したと考えるのは、文理的に言って疑問が大きい。箸墓古墳の後円部の直径が156Mだとして、これを卑弥呼の墓に比定する説は、形状だけでも無理が極めて大きいということである。
寺沢薫氏は、「箸墓のように前方部が巨大に発達した定型化した前方後円墳を、はたして「径」と表現するだろうか」と疑問視し、「「径」と形容される墓は、前方部が未発達で一見円墳に見える纏向型の可能性があると考える」と記す(『日本の歴史第02巻 王権誕生』2000年)。この見解の後半は疑問が大きく、纏向型前方後円墳なら「径」と表現するのかというと、これが国際的に見て特異な型を考えると、やはり疑問であろう。
卑弥呼を巡る国内情勢も狗奴国との戦いが続いており、この辺は曹操葬送時の事情と類似するが、国際的な情勢を併せ考えてその冢をみる場合、「大いに冢を作る」といっても、古墳時代的な「大きな墳墓」ではなかった。すなわち、墓を含む兆域がかなり広かったとしても、最大限のメドとしては、墳丘の高さは数メートルほど(最高で5Mほどか)、規模的には径30Mほどの円形(ないし楕円形)の墳丘墓であって、宮都近くの丘陵部に、盛り土をあまり持たずに築かれた、と推するのが比較的自然である。
ついでに若干敷衍しておくと、30Mほどが「径百余歩」ということであれば、この場合は一歩は30センチほどとなる。一方、魏朝の度量衡制では「一里=434M強」とされる、三百歩が一里という換算だから、「一歩=1.45M弱」となり、百歩だと145M弱となる。これに対して、『魏志倭人伝』に見える路程距離については、幅があるものの、実地にあてはめると、魏里の五分の一にあたる「一里=87M弱」ほどの尺度で記載されていて、いわゆる「短里」であったとみられている。この「短里」は魏朝当時の朝鮮半島で使用されていた模様であり、卑弥呼の冢についての記事も、かりに同じ尺度で記されていたとしたら、「百歩」は29Mほどと計算される(「百余歩」だと約30Mか)。こうしてみると、卑弥呼冢の規模も朝鮮半島の「短里」で記載され、これで一貫することになる。
そうすると、『魏志倭人伝』の他の個所の記事はともかく、卑弥呼冢についての記事は、帯方郡在住の官人の目と尺度で観察されたことになり、帯方郡あたりの古墳との比較対照で魏朝へ報告されたものとみるのが自然であろう。
(当初稿は2010年1月末段階で記され、これに追補)
(2023.6.13 掲上)
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