古樹紀之房間

    呉座勇一氏の書評『ヤマト王権の古代学』を
  読んで、文献学・考古学の限界を考える


                                 宝賀 寿男



 橿原考古学研究所企画学芸部長の肩書きをもつ坂靖氏の著『ヤマト王権の古代学 「おおやまと」の王から倭国の王へが、昨年2020年の2月に刊行された。その書評を、中世史研究家の呉座勇一氏国際日本文化研究センター助教)が書かれて、朝日新聞同年4月11日付の書評として掲載された。

 本稿は、その書評を読んでいろいろ考えることもあり、その辺を踏まえて、文献学・考古学の限界や初期大和王権の動向を考えるものである。当該書評からからかなり遅れた日付ながら、呉座書評の内容には看過できない問題点を感じること、これまでの呉座氏の著作などからその影響力を考えると適切な反論も必要だと思うので、ここに掲載するものである。
 また、併せて坂靖氏の著作についても、適宜、コメントをしてみる。

 
 

 当該書評を見て、これがかの著名な呉座勇一氏がご自身で書かれたものか、と当初、疑いもしたが、現在の考古学者の主流とか大多数とかが邪馬台国畿内説であることを考えると、考古学者の誰かが代筆したこともあまり考え難いようであり、従って呉座氏ご自身のお考えと受けとめて、本稿を進めたい(また、呉座氏が坂氏の所見をそのまま引用しているような箇所もあり、そこは、両者に対する見解・批判等になっているものもあって、このため、文章が読みにくくなっていることもあることを、予めお断りさせていただく)。

 呉座氏は、「中世専門」の歴史研究者である。だからといって、一般論として、その分野の研究者の歴史の知識・認識が古代史など他の時代や考古学に及ばないとは言うつもりはないが、彼自身について言えば、ご自身の盛名を汚さないためにも、十分慎重に研究者としての言動をすべきではないか、と私(以下では、「拙考」とも表示する)にはまず思われる。それくらい、当該書評の内容が酷いということでもある。
 そう思って、インターネット上を探ると、すでにアメーバ・ブログで「古代文化研究所」と名乗られる方(以下は、「古文研さん」と表示する)が、その記事で、痛烈に当該書評を批判されている。
 拙考でも、古文研さんの考えと概ね変わらない面もあるが、その主張・重視される「日向」が、古代〜幕末期までの日向国(広義の「日向」であって、大隅・薩摩まで含む)と同じであれば、所在地論などを含め究極的な結論はかなり異なることになるし、その他のことも含め全てが同様であるとはとても書き難い。例えば、拙考にあっては、畿内の上古大和王権の経由地・故地を、記紀神話の「日向」の地と受けとめるものの、その具体的な比定地は「筑前海岸部の福岡市西部から日向峠を経て糸島市東半くらいの地域」とみているからである(ここでも、後述する上古史のWhereの問題がある)。そして、総合的に物事を考えていきたいと思うからでもある。
 
 さて、本題に戻って、当該書評は短いものながら、きわめて大きな問題認識をいろいろ含んでいる。その辺の問題点を、ほぼ順不同でまず列挙すると、次のとおり。
○冒頭の前提、すなわち、@記紀が、「8世紀に律令国家によって編纂されたものなので、史料的価値には限界がある。」、A「よって考古学の出番となる。」という記事の内容は、適切な表現か?

○「記紀に見える「この古墳は〇〇天皇の陵墓」といった記述はしばしば考古学の成果と矛盾し、強引なこじつけが多く含まれていることが判明している。」という記事は、坂靖氏の考えであって、それをそのまま引用していて、呉座氏の考えにもしているように読みとれるが、この考えは適切か?
○これに関連して、具体的に、垂仁天皇(11代天皇)や景行天皇(12代天皇)を取り上げて、「この時代に『天皇』も『宮』も存在しないことは明白である」とまで断言する坂靖氏の考えは適切か?

○初期ヤマト王権の「直接支配領域」が、卓越した規模の前方後円墳が集中する奈良盆地東南部の「おおやまと」地域に限定されていたと説くという坂靖氏の考えは適切か?
○「いずれにせよ、今後の議論は、文献解釈ではなく考古学で決着がつくだろう。」という呉座氏の見方は妥当か?

○書評の結論としての記事「ここ30年で弥生時代・古墳時代の考古学研究は大きく進展した。その成果を無視した「新説」(註:後ろに出る「珍説」と同義で呉座氏は使用)は学問的に無価値である。」という記事は、適切な表現か?
○書評の結論的な願望である「本書が広く読まれることで、珍説が一掃されることを望む。」という表現は、適切な表現なのか?

 このように問題的な個別記事を書き出すと、呉座書評の記事の殆ど全てに問題があることになる(それらは、坂氏の考えにも通じるものがある)。以下に、順を追ってなるべく具体的に拙考を書いていきたい。

 
 

 まず、冒頭の前提の問題である。

 @記紀が、「8世紀に律令国家によって編纂されたものなので、史料的価値には限界がある。」という記事について:
 (拙考)呉座氏は、記紀が8世紀前半の律令国家によって一挙に作成されたとみていると考えるのだろうか?
 もし、そうではなく、何度か書かれ改編されてその当時まで残った幾つかの史料を基礎に書かれているとみるのなら、編纂者が「8世紀の律令国家」関係者だけの問題ではないはずである。編纂者が仮に造作あるいは改編したとしても、要は、個別文書史料の問題性ということであって、誰が書いたか編纂したかにかかわらず、記紀を含め、どの史料にあっても、その「史料的価値には限界がある」ことに変わりが無い。中世史のいわゆる「一級史料」にだって、その史料的価値には各々限界があるということでもある。
 もう一つ、認識されねばならないのは、これまで記紀の内容が的確に把握・認識されてきたかという受け取り側の問題である。いわゆる津田史学とその亜流学説における記紀研究では、あまりに内容の受け取り方が素朴すぎて、その対象が記してきた内容の原態について的確な把握・認識がなされてきたとは、とても言い難い。だから、文献史料の限界と言う前に、対象文献の内容の的確な把握にもっとつとめる必要があるのではないか(受取手の把握能力などの問題も、十分に認識したほうがよいと思われる)。そのうえで、史料の限界云々という問題になるべきものである。
 津田亜流学説にあっては、『日本書紀』が「天皇を中心とした古代律令国家の成り立ちを明らかにするもの」という認識があり、それ故に、神武から崇神あるいは応神に至る記事は、編纂時点で暦年と天皇系譜の辻褄を合わせるため無理をした(「偽造、捏造」などをしたという意味か)とみる。しかし、古代国家の成立経緯を記す目的が記紀(の編者)にあったと認めても、それが、記事が改編・捏造されたという論拠に直ちになるわけがない(ここには、記紀編者の把握能力の問題もある)。神武天皇に関する『書紀』記事の把握について、坂氏のあまりにも素朴で、当時の暦法(紀年表示の解釈や古代の韓地・倭地の暦法等)などの事情も考えない見方では、実在性の否定論にならない。呉座氏には、こうした問題意識があるのだろうか。
 上古年代に行われた当時の暦法について、わが国の研究者の多くが誤解しているだけの話である。要は、上古倭地の倍数年暦当時の「二倍年暦、四倍年暦」)を理解していない故の「長寿記事による実在性の否定」「治世期間の造作延長」の議論だし(例えば、「百歳超の長寿」なんて、四倍年暦で考えればなんのこともない)、後世の「辛酉革命論」なんか、学説として成立するはずがない。こんなところに、津田史学の悪影響が出ている。
        ※「倍数年暦」については、「倭地と韓地の原始暦」をご参照

 A「よって考古学の出番となる。」という記事について:
 (拙考)文献的にそれで分かることに限界がある場合に、どうするかの問題であるが、そこで出番があるのは考古学だけではない。言語学も地理学も、民俗学・民族学関係(習俗、祭祀など)でも、統計・数理関係や自然科学関係でも、系譜研究でも、そのほかの隣接関連科学分野が、それぞれに適時適切な役割を果たさねばならないことに変わりがない。考古学だけが役割を果たせば、それで上古の難題は解決できるなんて、呉座氏は思われるのであろうか? 言いたいのは、考古学は万能ではないということである。

 
 

 次に、いわゆる「陵墓」と天皇・宮都の問題である。

 (拙考)これまでの古代史研究の論考などのなかに、「記紀に見える「この古墳は〇〇天皇の陵墓」といった陵墓比定の研究・記述がいろいろなされてきたし、そのことは文献学と考古学との関連、具体的なつながりを考えるうえでも、適宜、必要があると思われる。
 そうした陵墓比定(推定など)の記述が、文献学研究者と考古学研究者の見方と異なるのは多々あったし、考古学者たちの間の古墳比定にあっても当然、多くの差違があった。そのなかには、「強引なこじつけ」が含まれていることもあったろう。ただ、「考古学の成果」というものについても、その殆どに考古学的な解釈・判断が伴うものである以上、これが「間違いの無い考古学の成果」だと言えるものがどのくらいあるのだろうか?
 私には、遺物に残る記事等で具体的に内容が明かなものではない限り、そのように言い切れるものがあまり多くない、と思われるが、その場合には、「考古学の成果と矛盾する」とは、殆ど言えないように思う。
 例えば、具体的に奈良盆地東南部の纏向遺跡の問題がある。この遺跡がこの地域で最古級の大王権の所在を示すという見方は、最近までの考古学の成果と言えそうであるが、それに先立つ唐古・鍵遺跡などと同遺跡との関係が明らかに確定している、とはとても言い難い。纏向遺跡の考古年代については、もっと問題がある。考古学者の大半が、同遺跡が3世紀代の遺跡だといわば信じ込んでいるようだが、この年代を裏付ける確定的なものがまだないというのが事実だと思われる。
 坂氏も本書で言うように、「日本考古学の限界のひとつに、暦年代を明確にできないことがある」ということなのである。これと同様の主旨を、関川尚功氏も近著『考古学から見た邪馬台国大和説』で述べている。

 年輪年代法や放射性炭素年代測定法による年代数値は、あくまでも試算値の一つにすぎないし、その検証(験証)がこれまでまったくなされていない。奈文研などの関係者は、その基礎データの公表すらしていないし、かりにそれがなされても、纏向遺跡や箸墓古墳が3世紀代のものだという年代の裏付けにはならない。纏向遺跡の多くの出土物でも、何を年代測定の試材とするかにより、結論が異なるとも言われる。
 日本列島の上古の考古年代算出にあたっては、鬼界カルデラの大爆発などの影響による当時の空中の炭素濃度などの状況から見て、実態年代の把握のためには、なんらかの補正(較正)を必要とすると言うのが、自然科学的なアプロ−チをする研究者の常識のはずであるが、こうした補正曲線が的確に出されることは、今後とも考え難いし、年代値裏付けの確証が得られるのであろうか。そうすると、仮に年代験証の試みがなされていたとしても、あくまでも仮定に立った試算値に過ぎないということである。
 そもそも、坂靖氏が日本の文献史料に対し無視ないし無知なのでは、その結果として、文献学的に正しい的確な見方をしているとはとても思われないし(本書を読んで、記事のごく素朴な把握しかしていないことは分るが)、それに基づいて展開される坂靖氏の考えがあまりに断定的である。その前提的な見方にいろいろ問題があるのだから、その考えをそのまま引用して、呉座氏ご自身の考えとしているであったら、そこにも問題が大きい。中世史研究だって、基礎となる文献について、記事の的確な把握と、その十分な吟味・検討は絶対的に必要のはずである。
 
 具体的に、第11代・12代の天皇(大王)とされる垂仁天皇や景行天皇を取り上げて、考えてみよう。「この時代に『天皇』も『宮』も存在しないことは明白である」と断言する坂靖氏の考えは適切か、という問題である。
 たしかに、これら天皇名は後からつけられた諡号であり、「天皇」という言い方も7世紀代に言われ始めたことは確かであるが、坂氏が言うのは、そういう意味ではないのだろう。大王権の存在を裏付けるような巨大古墳があって、垂仁天皇は「イクメイリヒコイサチ」、景行天皇は「オオタラシヒコオシロワケ」という呼び方が記紀に記されており、これらが何時の時代の呼び方だったか不明だとしても、そう呼ばれる彼ら大王が奈良盆地にあったことは、否定できない。
 大王権が所在した宮都も当然、彼ら大王に付随してあった。だから、記紀において「垂仁天皇や景行天皇と特定できる王者」がそもそも存在しなかったのが明白だと言い切るほうが学問的におかしい。いったい、これまで誰がそうした両天皇の実在性を否定し、その否定の仮説を的確に裏付けたと言うのだろうか(記紀などの多くの史料に見えており、その実在性を否定する津田学説が的確な否定をしていない。戦後歴史学の大家、井上光貞博士でも、崇神・垂仁はほぼ認めている)。坂氏自体も、まるでその否定の論拠を示していないのでは、信念の吐露としてしか受け取りがたい。呉座氏は、坂氏の書かれる記事に十分、理解されているのだろうか。
 戦後の古代史学界の主流(多数派)を牛耳ってきた津田博士亜流の研究者たちのなかで、上古諸天皇の実在性否定に関して、誰がそうした証明をしたのであろうか。坂靖氏が「文献資料を検討しつつ3〜5世紀のヤマト王権の実態に迫っている」と呉座氏が受けとめたとのことであるが、坂靖氏の文献歴史学の無視(ないし誤り、無知)と独断は、あまりに著しすぎる。現存の文献資料をどのように検討したら、垂仁・景行天皇の実在性否定になるのだろうか。そのうえで、坂氏は、神功皇后、倭迹迹日百襲姫・倭姫命(原態は豊鍬入姫と同人)の存在までも否定するが、その所伝にシャーマン的な要素があったり(上古代ではありうることである)、「軍神の色彩」がいくら濃くても、後世の脚色が加われば人物像が多少とも膨らみ、そうなることはあるもので、史実としての原態の否定にはならない。
 更に、「仁徳天皇の存在そのものが危うい」とまで坂氏は書くが、これらについても論拠は示されず、何の裏付けもない珍妙な見解である。倭五王についての『書紀』と中国史書(『宋書』『梁書』)との若干の齟齬は、書紀年代(暦法)把握の誤りと史料の年代突き合わせのやり方に誤りがあるだけである。この辺は、津田亜流によく見られる「素朴な記紀の把握」と、それに基づく安易な史実否定、記事否定のオンパレードであり、とても合理的・科学的な否定論とは言えない。すなわち、倭五王に関する書紀紀年の把握にあたっては、「X倍年暦」の見方でほぼ解決ができるということでもある。
   ※倭五王の比定にあたっての『書紀』と中国史書の紀年の対照表をご参照。

 たしかに、津田博士は、応神天皇より前の記紀の記事は、歴史ではなく、「物語」だと認定し、自己の仮説を展開したが、そもそも、それが大きな間違いである。「物語」だと片付けた津田博士は、それでも、垂仁天皇の前代の崇神天皇の存在までは否定しなかったようだし、「物語」という曖昧な語のなかに歴史の断片すら含まれないとまで断言したのだろうか。津田博士のエピゴーネンと自認する古代史の大家、井上光貞氏は、崇神・垂仁天皇の実在性を考えて記述される。仮に文字が当時の倭地になくとも、口承などの手段があり、応神天皇より前の歴史がまるで伝わらないと考えるほうがどうかしている。
 何よりも、津田博士や井上博士の判断の基礎にある「倭地への漢字伝来時期が応神朝」だという認識が、『魏志倭人伝』の文献記事(魏朝や韓地との通交関係記事)ばかりではなく、最近の弥生時代後期の多数(40個超という)の硯の出土や硯に残る墨書き跡などの考古諸事情で明らかな誤りだ、と分かってきている。硯関係の知見は、柳田康雄氏らの研究者の調査成果だが、こうした個別の知見が大きな影響を及ぼすことがある。そもそも、韓地や中国本土の魏・晋朝などと様々な往来を重ねた当時の倭地の人々、とくに王権関係者が漢字や歴史伝達手段を知らなかったと考えるほうがおかしい。その場合、3世紀代より後の時代だと考えられる垂仁天皇や景行天皇について、なんの記録も残らなかったとするのであろうか?

 坂氏の「闕史八代」の天皇否定論も、きわめて粗雑である。これも、綏靖天皇即位の際の兄・手研耳命殺害事件の記事から言っても、この時期は「闕史」ではないし(八代の宮都やそれらの后妃だって、史実ではないという証明がこれまでなされてない)、初期天皇の記紀所載系譜は、原態の傍系相続后妃の関係からこれが窺われる)が直系相続の形に後日、改編されたものにすぎない。そして、英雄たる天皇一人だけを見る、いわゆる「英雄史観」に立つ否定論であって、初期の諸天皇に従う大勢の臣下豪族たちの動向をまるで無視している。
 現在主流の考古学者にあっては、最初の巨大古墳たる「箸墓古墳」が3世紀代の築造とみられている。その考えの場合、崇神天皇の後代となる垂仁天皇や景行天皇にあって、巨大古墳が築かれなかったと考えるほうがおかしいということである。それを、この両天皇について、「陵墓も宮都も、存在しないことが明白である」と思い込み、そう言い切るのは、これが坂氏の当初からの信念だとしか受け取れない。どうして、学問的にそのようになるのだろうか(ひとえに文献学への無視か無知かに因るものか。津田史学の結論を丸呑みしているとも、坂氏は書かれていない)。
 ちなみに、問題の「箸墓古墳」が3世紀代の築造だとみること自体が、考古学者の大きな予断と信念にすぎず、この年代観には具体的な裏付けがないことをしっかり認識すべきである。これが、現在の考古学主流派の見方の大きな誤りなのである。箸墓古墳が最初に現れた巨大古墳だという認識ですら、割合、新しい考えであり、拙見でもそのとおりだと思われる。ところが、かつての考古学者の古墳年代観では、崇神陵と治定されている行燈山古墳について、その治定を認め、これを最古級の巨大古墳とし、かつ、崇神天皇の崩年干支を西暦318年に比定し、三角縁神獣鏡を魏鏡だとみる説という基礎でなされていた。現在では、このようなあやふやな年代推定の基礎は、すべて誤りだということでもある。それで、どうして箸墓古墳の築造年代が3世紀だと言えるのであろうか?
           ※この辺の問題に関しては、本HPの「考古学者の年代観」をご参照。
 各々の考古学者は、他人の見解を信じ込まずに、具体的な考古年代観を、科学者らしくご自身の手で検証されてはいかがか?、と私には思われる。

 
 

 前項に関連して、「初期ヤマト王権の直接支配領域」の問題もある。

 (拙考)この「直接支配」という語は、坂氏が本書であまり使っていないので、多分に呉座氏の受け取り方の問題のようでもある。
 ところで、「初期ヤマト王権」の年代についてどの時期にあてるかの問題もあるが、これが、崇神天皇より前の時期なら、その大王の版図はたしかに限定的で狭い地域にあったが、そのときの本拠が奈良盆地東南部の纏向地域あたりにあったわけではない(唐古・鍵遺跡から纏向への移行を考える見方もあるが、これは立証されたとはいえず、むしろ疑問であり、前者は物部氏関係の遺跡であって、間違いだと考える)。
 崇神〜景行天皇の時期(これも「初期」とする記事が坂氏の本にある)になって、纏向遺跡を中心とする地域に宮都など主要部がおかれたが、それでも、「直接支配領域」がそこだけに限定されていたわけではない。「直接支配領域」が坂靖氏のいわゆる「卓越した規模の前方後円墳が集中する奈良盆地東南部の「おおやまと」地域に限定されていた」と呉座氏が受け取るのは、前期古墳の各地の分布だけから見ても疑問が大きい。これが、景行の次の成務天皇や仲哀天皇の治世時期には、添上・添下郡の佐紀古墳群や河内東部のほうに宮都や陵墓が展開していくのだから、王権主要部も変わっている。
 この佐紀古墳群の佐紀陵山古墳(現・日葉酢媛陵墓に治定)について、纏向の渋谷向山古墳の築造時期とほぼ同時期であって、奈良盆地東南部と佐紀の二地域に王権が並立的だ、と坂氏はみるが、後者は疑問である。佐紀古墳群のなかで佐紀陵山の築造が早いのは認めるが、それが直ちに「王権の並立」だとみるのは行き過ぎであり、総じて佐紀古墳群の築造時期を繰り上げてみている。これは、考古学者の多数説とも異なるはずである(『全国古墳編年集成』など参照)。同古墳群が、古墳型式や出土遺物などや、さらには佐紀古墳群の東部所在の巨大古墳のなかには、河内の誉田古墳群や和泉の百舌鳥古墳群とも並立するもの(例えば、コナベ古墳・ウワナベ古墳)が見られることと相反する。ただ、坂氏が渋谷向山とほぼ並行だという佐紀陵山古墳は、纏向諸大王のうちの垂仁皇后たるサホヒメ(狭穂媛)の陵墓かとみられるので、築造時期が早かっただろうが、それが、直ちに「王権の並立」を意味するものではない。巨大古墳の被葬者がすべて男王だと受け取ること自体に問題があるということである。

 ヤマト王権の政治支配構造は、必ずしも解明されていないのだから、しかも4世紀前半の崇神天皇の時代には、いわゆる「初期(ないし初代の)大王」として、日本列島の主要部がヤマト王権の版図とされたと考えられるのだから、坂氏の見方は疑問が大きい。坂氏が、『古事記』や『常陸国風土記』を引いて、崇神天皇が「最初の天皇と認識されていた」と思うのなら、「ヤマト王権の初代王墓と評価することが可能となった」という箸墓古墳がその陵墓にあたると考えないのだろうか。坂氏も、「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめた」と記しており、この時の大王が崇神天皇であった。このときの統治・支配をどう考えるのかということである。
 ヤマト王権の全国各地に対する支配力の行使が、「直接支配」か「間接支配」かの判断もつきにくい。何をもって、「直接支配」と言い切るのだろうか。国造や県主が地方を治めていたら、大王権が彼らに及んでいても、それは「直接支配」とは言わないのだろうか。天皇家の屯倉や部民(子代・名代)が当地にあったりいたりしても、「直接支配」とは言わないのか?
 呉座氏は、「古墳時代以前の研究は難しい」と書評の書出しで自ら述べており、それが、「ヤマト王権」の時代でもあるとするのなら、坂靖氏の見方のあまりにも断言的な記事に対して、学問的に疑問を抱かれないのだろうか?

 
 

 「今後の議論は、文献解釈ではなく考古学で決着がつくだろう。」という呉座氏の見方の問題である。

 (拙考)この決着がつけられる問題が、例えば邪馬台国所在地問題だとしたら、それは明らかに間違っている。いったい、どのような問題が考古学で決着がつけられるのであろうか?
 たしかに、「ここ30年で弥生時代・古墳時代の考古学研究は大きく進展した」ことは認められる。それは、この時代に限らず、奈良時代などでも、平城宮跡などから多く出土した木簡の記事に拠り、重要な証言が得られ、明らかになってきたことが様々にある。といって、弥生時代及び古墳時代の考古学関係の発掘の進展で、なにか決着がつけられるような問題が具体的にどれだけあったのだろうか。考古遺物には記事が殆どないのだから、それだけで分かることは、発掘の大進展でもやはり少ないのである。纏向遺跡が大々的に発掘されても、それだけでは考古年代が確定しない。邪馬台国の所在地問題だって、纏向遺跡発掘当事者の間で議論があるくらいである。邪馬台国問題等が「考古学とは何の関係も無い」と言う気は、私にはまったくなく、これら関連分野も併せて、総合的な考察が必要だと思っている。とはいえ、考古学だけで全ての解明が最終的にできるはずがない。

 邪馬台国所在地問題について言えば、地域王権が北九州と畿内などに並立したという見方(津田博士でもこの立場であることに注意)が可能性も大きいのだから、この辺の解明が遺跡・遺物だけで決着がつくとはとても思われない。邪馬台国や卑弥呼に関連する諸問題は、まず文献的に十分に研究してこそ、そして隣接関連学を併せて総合的に考えることなどで、解決に近づけるもの(解決が得られるもの)である。
 そして、「箸墓古墳」が、韓地・帯方郡の太守クラスの墳墓に見られないほど大きすぎるから卑弥呼の墓としては疑問で、むしろ邪馬台国関係のものではないとみる坂氏の見方のほうが妥当だと考える(坂氏は、卑弥呼の墓の「規模はそれほどのものではなかった」と記しており、これは妥当な見方だが、卑弥呼の墓に関して殉死の風習を坂氏が疑うのは疑問が大きい)。この辺は、当時の魏王朝の薄葬令の実施の問題(曹操の墓が一つの実例)にもなり、中国本土や韓地における当時の墳墓の考古学的知見にも拠るものである。
 学問的に無価値であるとみられる説は、「作家・自称歴史研究家の「新説=珍説」」だけではない。考古学者であれ、文献学者であれ、歴史関係学界の研究者皆さんにあっても、「珍説」は数限りないほど多くある。だいたいが、自分の信念・思込みを基礎にして論証なしで書かれている坂靖氏の「本書」が広く読まれることで、有意義な説まで「一掃される」としたら、それはむしろ悲劇的なことである。呉座氏のいわゆる「珍説」かどうかを、いったい誰が認定するというのだろうか?

 拙見は、結論的には坂靖氏と同様に、邪馬台国は畿内にはなかったということで見解が一致したとしても、推論過程が疑問なものと同じ結論になったからといって、喜ぶような話しでもない。
 そこには、「天皇の実在性やその事績はすべて疑われ、氏族の淵源となる地域集団は存在しても氏族そのものは存在しない」及び「奈良盆地の地域集団すべてが、……血縁系譜を原理として出発したものではない」「六世紀以降に、血縁関係やその系譜を集団の統合と権力掌握のための原理とした氏族が成立した」という氏族関係についての坂氏の予断・思込みがあり、これは問題が大きすぎて、看過できるどころの話ではない。「氏族の淵源となる地域集団」という考え自体が大きな考え違いであり、「氏族」とは基本が血縁集団である。
共通の祖先を持つ血縁集団(広義で、「共通の祖先を持つという意識・ 信仰 による連帯感で 結束 した」場合も含むことがあるか)が核にあり、これに部民(従属民)まで含めて「氏族」を広く捉えられることもあろうが、根本・淵源に血縁原理がなければ、それは「氏族」とは言わない。
 これまで誰も定義しないような独りよがりな「氏族」概念の定義は、議論の進歩に役立たないし、日本の文献史料を無視して、「氏族」概念の議論にすらならないということである。

 彼が「最も重視されるべきは中国・朝鮮との関係と、東アジアのなかでの位置づけ」だと言うのはほぼ妥当でも、そうであれば、中国・朝鮮で氏族がいつ成立してどのように近隣・周辺に発展・展開したのか(日本列島と違うのか同じなのか、違うとしたらそれは何故なのか)、を考えない議論は、検討に値しない。天皇家を初めとして上古氏族(大和王権の支配階層の殆どを占める)の多くが大陸・韓地から渡来してきて、文字を知り利用していたのだから、どうして日本だけには、六世紀まで「氏族そのものは存在しない」と言い切れるのであろうか。こんな不存在を立証した歴史研究者は、これまで日本のどこにも存在しなかった。日本の文献史料に対する信頼性や知識をもたない坂氏が、何によって氏族研究をされたのだろうか。考古学で「血縁関係」が分かるはずがなく、氏族に関する発言をするのなら、きちんと根拠を示されたい。ともあれ、氏族に対する研究をもっとしっかりやっていただきたいと坂氏に強く願うものである。中世史でも、「氏族」が問題にならないわけではなく、呉座氏は、古代における氏族についての坂氏の見解をそのまま是認されるのであろうか。

 呉座氏の中世史学が基本的に文献学に拠っているとしたら、その文献学とはいったい何なのだろう。実のところ、古代(とくに大化前代)と中世の歴史における文献研究では、方法論がまるで違う面がある。すなわち、中世史学において、史実の重大な要素(とくに時間・場所の2大要素、言い換えればWhen・Where)が問題になることは殆どないと思われる。ところが、上古代にあっては、この2つがなかなか定まらないことが多い。そのうえに、行動主体と対象人物の具体的なもの(WhoWhomの問題)でさえ、確定しがたいことがままある。
 これらの重要要素には、考古学的に解明できることはまず殆どないのである。古代研究と中世研究とでは、こうした研究アプローチと解決の形が異なるという認識すら、呉座氏にはおそらくないのであろう。私は考古学が戦後に果たしてきた役割や歴史研究への貢献を高く評価するが、それにも学問的な限界が様々にあることをよく自覚されて、そのうえで総合的に歴史学の発展のために貢献して欲しいと願うものでもある。

 
 6(坂靖氏の著についての拙見)

 呉座氏の書評について、ここまで見てきて、標題関係の記事は終えたが、その対象となった坂靖氏の著『ヤマト王権の古代学』についての取りあえずの評価取りまとめを併せてしておく(以下の文では、これまでの記事と多少の重複があるものもあるが、理解しやすさを考えて記したので、その旨をご理解されたい)。

 本書は、いろいろな問題提起をしてくれており、まず気の付いたところで、拙見はここまでに述べてきたが、その他の点も含めて、その一応の評価をしておく。勿論、この評価には、評価者の様々な歴史見解が基礎にあるのだから、それと反対の説をとられる方にとってはプラス・マイナスが逆転することになるというものも多いと思われる。
 拙見で高評価とするのは、橿原考古学研究所という邪馬台国畿内説の本丸的な位置・機関のなかにあって、邪馬台国九州説を、最近までに分かってきた考古学的事実を踏まえて、具体的に主張したことである。なお、橿考研にはそうした立場の関川尚功氏もおられ、最近、著作を公表されており(『考古学から見た邪馬台国畿内説』、2020.09刊行)、両者には関係はなさそうにも受けとめている。その読み比べをされたら、本書への評価はまた変わってくることもあろうし、その辺をお薦めするものでもある。
@これは学界でももう多数説になってはいるが、三角縁神獣鏡のすべてが倭地で造られた製鏡であって、ヤマト王権により配付されたとみること。畿内説の根拠の一つで、考古年代繰上げ(箸墓古墳を3世紀代に繰り上げた年代観の基礎)の材料とされたこの銅鏡に関して、魏鏡説など舶来説が正しく否定されている。

A邪馬台国・卑弥呼と纏向遺跡・箸墓古墳とは無縁なことを具体的に提示したこと。
 坂氏は、「纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱」だと指摘し、庄内式土器の時代には、魏と交渉し、西日本一帯に影響力を及ぼした政治勢力の存在が、奈良盆地には見当たらない、というまったく当たり前のことが、橿考研の考古学関係者から出たことに意義がある。楽浪系土器の分布も殆どが北部九州で、少量が出雲から出土するにすぎない事情にある。纏向遺跡からの出土遺物では、「北部九州地方からの土器については明瞭ではない」との記事も見える。この辺の物証の問題は、纏向遺跡発掘の当事者たる関川尚功氏もほぼ同様に指摘する。

B歴史的な流れとして、大和王権の動向を考えていくという姿勢は妥当なものだと考える(それでも、坂氏のヤマト王権の淵源の把握は限定的ではあるが)。その場合、歴史の三大要素であるWhenとWhoについて、具体的な把握を殆どしないで、どこまで上古の歴史を描けるのだろうかという問題が常にある。
 
 反対に、評価を低く考える点では、主なものは次のとおり。
@文中では、文献研究と考古学研究とが相まって、研究するのが良いと述べつつも、本書の記事内容自体は、記紀などの日本の文献記事をまるで信頼せず、津田博士や井上博士などが様々な文献検討の結果、一応史実性を認めた応神天皇以降でも、諸天皇の存在に疑問をもって思考すること。中国・朝鮮だけの文献(具体的にはそれが何かの提示もない)を重視するというのはアンバランスであり、日本の文献に対する不当な取扱いでもあり、そこには後者への不理解・不把握が根底にある。

Aヤマト王権はいかにして成立したかが本書の課題のはずだが、記紀を信頼せず、記事を否定して、これに依拠せずでは、「神武東征」は無視されるだけであり、この王権の淵源が知られない。「3世紀後半に纏向で発祥」と坂氏はみるものだが、その発祥の原因はまるで解明されない。
当初の纏向あたりにいた王の勢力範囲は、さほど広いものではなかったのは当然であり、布留式土器の時代(崇神朝)に纏向を拠点に勢力を急拡大したということである。 

B大和王権の初期段階では、「氏族の淵源となる地域集団は存在しても氏族そのものは存在しない」などという氏族関係で立証・裏付けのない坂氏の予断が大きくあり、そのうえで歴史の流れを考えていること。王権を支える勢力について的確な把握なしに、王権の実態解明ができないと私には思われる(この氏族関係は上記でも述べたところであるが、重要なことと思うので重ねて述べておく)。
C佐紀古墳群など添上・添下郡の古墳群の成立を少し早めに見て、纏向王権との並立関係を考えたこと、などである。佐紀などの場合は、「王権の並立」ではなく、后妃や重要な近親王族・重臣などの大王家関係者の陵墓や巨大古墳もあることを考慮しない見方である。現在の陵墓所伝でも、女性や重臣が被葬者だというものがあり、これらをどうして否定するのであろうか? そして、考古学的な見解から、そうした否定ができるとは思われない。
D古墳の被葬者について、「特定の被葬者がわからない以上、それを年代決定の基準として使用することができない」という坂氏の見方は、一般論としてはそのとおりだが、いくつかの組み合わせで具体的な被葬者推定ができるのなら、より整合的な仮説的な組み合わせが求めることもできるはずであり、試行錯誤のなかで更に合理的なものを求める努力が必要である。基本的に、いくつかの主な古墳年代が定まらないと、被葬者推定ができなくなるということでもある。
 かつての考古学者の古墳年代観や比定案でも、「行燈山古墳=崇神天皇陵」とか、応神陵(現治定。誉田御廟山古墳)・仁徳陵(現治定。大山古墳)や筑紫君磐井の墳墓などが、それらの見方の基礎となっていた。
 白石太一郎氏は『古墳の被葬者を推理する』(2018年刊)で「特定古墳の被葬者が決定できれば、それが研究上果たす役割は決して小さくない」と述べ、具体的に、誉田御廟山古墳の被葬者が応神天皇である蓋然性が極めて大きいと判断し、その場合には、大仙陵古墳も仁徳天皇である可能性が極めて大きくなると記した。
 拙見でも、この関係の白石見解は妥当な判断だとみているが、坂氏は同著を読みながら、これを無視している。そしてごく僅かしかない中国史書の「倭五王」の記事からその陵墓比定を本書で行っているが、陵墓規模などについて、大王の事績や治世年代など考慮しないで、築造年代順などで比定することには無理がある。この辺は、記紀などの日本側文献を十分検討されていれば、多くの比定がなされるのではなかろうか(坂氏は、見瀬丸山古墳が欽明陵とみるとのことであるが、それ以前の天皇の陵墓で、具体的に被葬者比定ができるものを考えていないのだろうか。それ以前では、雄略天皇の陵墓を岡ミサンザイ古墳、継体天皇のそれを今城塚古墳とみる記述が本書にあるが、前者は疑問である。拙見では、岡ミサンザイ古墳は安康天皇の比定の可能性が大きいのではないかと思われるが、安康天皇は「倭世子興」ではなかった。すなわち、中国史書でもその記事内容の把握には難しい面があるということである)。

 
 7(一応の総括)

 記紀が文献的にいろいろな限界があるとしても、そこに何も書かかれていないわけでもなく、書かれている貴重なこともあり、またそれ以外にも、『風土記』や氏族伝承史料など古代関係の各種の文献史料や多様な祭祀・習俗や伝承など、広い視野で総合的に参考とすべきものが多種多様にある。中世史研究では、祭祀・習俗や言語学・地理学あるいは東アジアのそれらはまるで参考にならないのであろうが、文献が乏しい日本列島の上古史研究にあっては、隣接分野の学問にも参考とすべきものが多くあるということである。
 ちなみに、文献学的に「三国志」など現伝の中国文献だけをいくら丁寧に読んでも、邪馬台国が「日向国」(宮崎県、あるいは鹿児島県〔古文研さんの言う薩摩半島の錦江湾岸〕)とか畿内・大和にあるという結論を導けるわけもない(筆写時期の長い史料は、その後の伝来過程のなかで常に改編されるおそれがあり、肝腎の「三国志」も西域出土のものから、そのことが言われている。記紀でも、平城宮跡からの出土木簡などから見て、成立後に姓氏名や語句等の書換えが窺われる事情がある)。もちろん、文献研究は、中国・朝鮮の史料だけに拠るという姿勢が正しいわけがない。各国各地で、成立時期など様々な事情に因り、それぞれに文献記事の限界があるからである。

 日本の考古学者の大多数では、ここ数十年の間、邪馬台国は畿内だと疑われないようだが、文献的に研究をする中国の歴史研究者にあっては、各種報道に拠ると、殆どが北九州説の模様でもある(この大きな差違の原因は、日本の考古学者たちの纏向遺跡・箸墓古墳の考古年代の見方に強く影響されているのではなかろうか)。そして、やはり考古学者の多数説でもあるような、「邪馬台国がそのままヤマト王権に発展した」という見方も、まずあり得ない(邪馬台国移遷説などの東遷論議も、まるで裏付けなく主張されており、これまた同様である)。その文献的な裏付けがまず皆無だからである。
 この辺は、坂氏にあっても、「邪馬台国、卑弥呼」と初期ヤマト王権を分けて考えてみようという姿勢をとっており、これはまったく当然の話であるが、評価される。関川尚功氏の上記書なども併せて読まれれば、このあたり前の姿勢が、いまの日本の考古学界主流には欠けているように思われる(マスコミ界を味方にして、大勢で囃し立てれば物事が決着するというはずがない)。
 ことほど然様に文献や関連隣接分野、隣国関係の学問・研究を考古学界が無視してきている事情のもとにおいて、考古学者が日本上古史の解明をはかれると考えるほうが不思議な思考である。これが、文献史料の研究を主体とするはずの中世史の研究者がする言動なのかと訝られるものでもある。考古学界の研究現状や、中国などからの日本歴史学界に対する見方も、呉座氏は承知されてはいないように、拙見では思われる。坂氏が頼りにされるのが中国文献であれば、中国語を使われる中国研究者の見方まで無視するというのは、いかがなものだろうか。

 坂氏も言われるように、「科学的、実証的な積み重ねがあれば、必ず歴史の真実はみえてくる」という可能性はある。そのためにも、科学的とは言えない「予断・思込み」や信念は避けて、考古資料と同様に文献史料を丁寧に十分に検討していき、それによる「的確な記事原態の把握・探求」が必要である。「実証的」と言いながら、簡単かつ安易に論理粗雑な否定論を積み重ねるのでは、見えてくる歴史原態すら消されてしまう。
 記紀や『三国志』の記述だけに頼った古代史研究は問題が大きく、そうすべきではないのは確かである。その一方、これまでのわが国の文献史料の研究・評価が粗雑すぎるだけなのに、その研究全体の姿を認識せずに結論だけを丸呑みして、記紀等の史料を「切り捨てる」のだから、こうした姿勢では、本来見えるものまで見えなくなってくるおそれが大きいと思われる。総じて、特定の「思込み・予断」があるから、ごく粗雑な否定論で物事を片付けて、それで良いと思ってしまうのであろう。否定をするのであれば、もっと厳しく論理的な否定論を徹底させて、否定すべきか否かの論理を尽くしていただきたいと願うところである。
 仮に考古学的な把握が正しくとも、文献史料の把握が的確でなければ、そこに誤りが生じるのは必然である。考古遺物・遺跡の研究にも様々で広範で専門的な知識が必要だが、このことは、文献史料についてもまったく同様であり、このことを併せて認識すべきである。仮に、文献史料について、「素朴な把握で事足れり」と済ますようでは、研究のバランスを大きく失する。考古学研究者の方々におかれては、中国・朝鮮の文献史料も日本列島の文献史料もともに、是非、もっとよく研究してもらえたらと願うものでもある。そして、それは、日本の文献研究者にあっても、考古学関係の知識を増やして、よく研究していくことが必要になるということでもある。


 (2021.01.19に掲上。その後も適宜、追補や表現補正をしている)

 
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