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はじめに 岐阜県北部の旧飛騨国の古代については、山間部の僻地であるため、ほとんど史料には登場しない。わずかに飛騨国造(斐陀国造)の始祖について、『旧事本紀』「国造本紀」斐陀国造条によると、成務朝に「瀛津世襲命(この次に、「裔」か「子」かの文字が欠字)大八椅命」が斐陀国造に任じられたと見える。瀛津世襲命は記紀に尾張連の祖と見え、その妹・世襲足姫が孝昭天皇の后となって孝安天皇を生んだと伝える大和朝廷初期の有力者である。これに対応して、『旧事本紀』「天孫本紀」掲載の尾張氏系譜のなか、始祖天火明命の第十世孫に大八椅命(彦与曽命の子とされる)をあげて斐陀国造の始祖と記される。この系譜では、大八椅命は瀛津世襲命の子でも直系子孫でもないが、傍系の子孫であっても同じ尾張氏一族ということで、系譜がほぼ符合するといえそうである。 飛騨国造については、ほかに史料がないということで、この尾張連一族の出という系譜は研究者(崇神より前の系譜を否定する者を除く)からもほぼ信認されているようであり(『飛騨』一九九七年刊)、私自身も、従兄弟ないし兄弟とみられる北九州の豊国国造の祖・大原足尼との関係で、位置づけに検討の余地なしとしないとは思いながらも、とくに不審だとまでは思っていなかった。 ところが、別途の研究から、上古の美濃を開拓したのが古代鴨族で、山城北部から近江南部・伊勢北部を経て美濃西部に入ったことが分かり、これが全国の「木地師」とも深い関係をもつことが分かってきた。こうした観点も含め、飛騨開拓の歴史を少し丁寧に見直したところ、飛騨国造の系譜も、本来(原型)としての実態は美濃(三野前)国造の同族とみるのが妥当ではないかと考えるようになった。本稿は、こうした検討過程の試論である。
史料に見える飛騨国造一族としてみられる者に、まず飛騨国造高市麻呂がいる。奈良時代、天平勝宝元年(七四九)六月に飛騨国大野郡大領で当国国分寺に知識物を献じたことで外従五位下を授けられ、神護景雲二年(七六八)には造西大寺判官になったと『続日本紀』に見える。次ぎに、天平勝宝二年(七五〇)三月から翌三年二月にかけて、飛騨国造石勝は、奈良時代の中央下級官人として治部大録従六位下の地位にあったことが知られる(『大日本古文書』)。飛騨国造祖門は延暦二年(七八三)十二月に従七位下で飛騨国造に任じられ、その後の大同三年(八〇八)には外従五位下の主計助、主税助として『日本後紀』に見える。また、無尸であるが、飛騨道足が『正倉院文書』天平勝宝七年の「班田司歴名」の算師・史生のなかに見え、斐陀益君も使として『大日本古文書』(天平勝宝四年十二月)に見えるから、当時は飛騨・斐陀と表記されていたことが分かる。 その後の平安期でも、肥田宿祢姓で史料に見える官人が飛騨国造一族の後裔だとみられ、肥田宿祢維延があげられる(『類聚符宣抄』では康保五年に史生、天禄四年に中務少録、永祚二年に右少史と見える)。『朝野群載』巻十六に「左少史肥田宿祢」と見えるのも同人とみられ、『本朝世紀』『小右記』などにも見えている。
それらのうち、最古級で前期古墳とされるのが三日町大塚古墳(前方部がバチ形に開く二段築成の前方後円墳で、推定全長が九〇M級)であり、その形態・規模からも国造初祖の墳墓という可能性もあろう。この古墳の存在からみて、四世紀後半の成務朝に飛騨国造がおかれたという「国造本紀」の記事は傍証されよう。国府町名張にある一之宮神社の傍らにある古墳からは、「長宜子孫」の銘をもつ大型の鉄製キ鳳鏡が出て同社が所蔵するが、キ鳳鏡は、中国の後漢から魏晋代・西晋にかけて製作された鏡で、わが国では、弥生時代後期から古墳時代前期を中心に合計二五の遺跡・古墳で出土していて、すべてが舶載鏡とされるから、これも古川盆地開拓の時期を示唆する。鉄製のキ鳳鏡は、わが国唯一の出土例とされており、美濃国不破郡の南宮神社付近にあって美濃最古級とみられている象鼻山古墳からもキ鳳鏡の出土が知られる。 続いて、五世紀前半ないしは中葉の築造とされるのが、広瀬の亀塚古墳である。亀塚は竪穴式石室をもつ古墳で、鉄製の刀・剣が十数本のほか、甲冑や鉾、鉄鏃などを出土したが、明治中期に取り壊されて現存しない(大規模な円墳で直径約六〇Mないし八〇Mとも、帆立貝式古墳で墳長約七〇Mともいうが、後者の墳形で約八〇M超の可能性があるか)。これに続いて飛騨最大級の石室をもつ広瀬の鴻峠口古墳があり、墳長約七三Mの前方後円墳で、横穴式石室をもつ後期の古墳とみられている。この国府町広瀬地区一帯には、引き続いて飛騨国府も置かれたようで、それが中世までつながった。 すでに縄文中期頃から、高山市の垣内遺跡、同市丹生川町の岩垣内遺跡・西田遺跡(両遺跡からの土偶出土は著名)、飛騨市古川町の中野山越遺跡などの遺跡があらわれるから、集落があった飛騨の主要居住地域が分かる。この地に入ってきたのが国造の先祖であろう。
一宮の奉仕者は中世まで一宮氏であり、これが飛騨国造の嫡裔とみられる。戦国末期に一宮刑部大輔国綱(苗字は山下ともいい、入道三沢。民部少輔長綱の子)は大野郡山下城主で、南飛騨の戦国大名三木氏に与して三木自綱の妹婿となり、神職を家臣の森氏に譲って、自らも三木と名乗ったが、天正十三年(一五八五)に金森長近が飛騨に侵攻すると、これに二度も抗して遂に滅ぼされた。一宮神主については、十五世紀中葉頃の室町幕府の政所執事代であった蜷川親元による『親元日記』に、文明十三年飛州一宮神主政憲、上棟記録に大永元年神主藤原民部少輔政治、享禄二歳一宮……神主藤原民部大夫政慶と見えており、この頃は藤原姓を称していた。 江戸後期になって、安永二年(一七七三)の農民一揆に関与して、宮司の山下和泉(国綱の子孫)と森伊勢は処罰され、社家二家は断絶した。これが、当社の古来の所伝が失われたことにつながるか。明治五年(一八七二)には、太政官布告をもって世襲神主・社家(毛利、藤枝、藤江)が廃されたが、尾張などの例からして、毛利は森と同族とみられる。余談であるが、その後の明治初期には、島崎藤村の父で平田門下の国学者であった島崎正樹が三年間、水無神社の宮司をつとめていて、小説「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルとされる。 国府町には、鴻の宮と呼ばれる広瀬神社(祭神は現在は天照大神になっているが、社記によれば天火明命)もあり、飛騨国府を中心とする要衝の地を領して山崎城や高堂城などを築き室町・戦国期に一定の勢力を保った土豪・広瀬氏がいた。広瀬氏は藤原利仁流と称したが、これも実態はおそらく飛騨国造の末流ではないかとみられる。 飛騨国造の氏寺は、広瀬の八キロほど下流に位置する古川町太江の寿楽寺廃寺とみられており(八賀晋氏)、.遺跡からは奈良時代後半のものと思われる「高家寺」と墨書きされた土器や単弁八弁蓮華文軒丸瓦などが出土した。
古代の飛騨が最初に見えるのは、『日本書紀』の「両面宿儺」の伝承である(『古事記』には見えない)。この宿儺なる者は、仁徳朝のとき飛騨国に現れた二つの顔と四手四足の身体をもつ怪物(鬼神)であり、動きが敏捷で怪力をもち、皇命に背いて民衆を苦しめたので、仁徳六五年に朝廷が征討軍を差し向け、和珥臣祖の難波根子武振熊命により退治されたと記される。 ところが、現地の飛騨・美濃では、文化英雄として信仰の対象となっていて、事情がたいへん異なる。宮川の支流・荒城川が流れる高山市丹生川町(旧大野郡丹生川村)の千光寺(円空彫の宿儺像もある)や善久寺は、両面宿儺を開基としており、両面宿儺は飛騨国に仏教を伝えたとされているほか、飛騨や美濃国武儀郡などの多くの古寺(武儀郡下之保の日竜峯寺、同郡肥田瀬の暁堂寺など)でも両面宿儺が信仰の対象とされ、「両面僧都」などと尊称されている。 飛騨国蜂賀(八賀とも書き、丹生川地区にあった地名)の岩窟より宿儺が出現したとも伝えられ、それが丹生川町日面の両面窟ともされる。丹生川流域の千光寺は、一宮水無神社の別当寺であった。日竜峯寺の縁起では、宿儺は身に鎧を着て、四手には鉾・錫杖・斧・八角檜杖をもった救国の英雄だとされる。至高の神は双面神との見方もあり、中国の武神蚩尤〔シユウ〕に通じるという見方もある。 仁徳朝といえば、西暦五世紀前葉の時期であり、この時期に仏教が日本列島に到来したことは考え難く、また退治したとされる武振熊命も仁徳朝よりも時期が少し早い成務・応神朝に活動した武将であるから、話が全体として整合性がないことが分る。とはいえ、宿儺の記事は飛騨という地域の初見であり、現地に伝わる英雄伝承を考えれば、たんなる怪異伝承と切り捨てるのは問題が大きい。その示唆するものを、合理的に検討する必要があるということである。両面宿儺は双子(二人)の兄弟支配者を一体として表現した可能性も考えられるし、「宿儺」は宿祢(足尼)という敬称を意味するようにも思われる。 この宿儺を検討するために、飛騨の諸事情を総合的に見ていこう。
その六年後の神護景雲二年(七六八)には、飛騨国造高市麻呂が造西大寺大判官に任命されたが、在地の声望を活かして造営に参加する匠丁の統制を図るものとみられている(野村忠夫、早川万年両氏の趣旨)。奈良時代に行われた造営工事には、多くの飛騨匠(飛騨工)が大いに貢献しており、神亀から天平にかけての平城宮跡出土の造営関係木簡には勾葦椅、勾五百足の名が見られる。こうした事情もあって、天平宝字年間に編まれたとみられる『万葉集』にも、飛騨匠をうたった和歌が二首ある。匠丁の労働はかなり苛酷だったか、飛騨工の工事現場からの逃亡者もかなり多かったようで、これらを捜捕させる命令も出された。 さらにその後、山城国に平安京が完成するが、その造営にも飛騨工が従事し豊楽院を建てたとされ、これは飛騨匠・桧前杉光の建造という説がある。桧前杉光は、平安中期の学者藤原明衡による往来物『新猿楽記』に見える工匠であるが、目は墨壺、首は手斧、足は鉄槌のようだと形容される不思議な身体をもつとされる。特定の職業に関する典型的なイメージで姿が表現されたものであるが、両面宿儺のイメージもこうしたものに通じる。『今昔物語集』(巻二四−五)の中の一話「絵師百済河成と飛騨匠、技を競う」に登場した名工にも当てられる者であるが、桧前部も御名代の一つ(欽明天皇の名代)であり、「杉光」という名前からは架空とみられるが、桧前某という者がいて、それが実在の匠であった場合には、やはり飛騨国造一族の出(ないしその部民)であった可能性がある。 水無神社の神体山でその奥宮(山頂手前に所在)のある位山について、室町中期の飛騨国司で権中納言であった姉小路基綱(一四四二生〜一五〇四年没)は自ら選んだ「飛騨八所和歌集」の裏書に、位山の主が「両面四手」であり、しかもそれが「神武天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと記している。位山(標高一五二九M)は古代からの霊山で櫟の原生林があり、本州中部の分水嶺であって、そこを水源とする流れは、南へは無数河川、次ぎに飛騨川本流から木曾川へと合流して太平洋に注ぎ、北への流れは宮川から神通川となって日本海へと注いでいる。ここでも、位山は南北二つの顔を持っている。位山の巨石群は古代からの信仰・祭祀の対象を示すものとみられる。
谷口研語氏は、「飛騨の大和朝廷への服属過程がデフォルメされた説話で、怪人の姿は畿内とは異質の山国飛騨の文化を象徴するものであろう。飛騨または飛騨人の文献上の初見であり、後世、飛騨地方では、この怪人にまつわる様々な伝説が生み出された」と記すが(『朝日日本歴史人物事典』)、前半部分は疑問である。時期的に考えて、飛騨が大和朝廷の勢力圏に一度組み入れられた後に、この地域になんらかの反乱があって、そのときの服属過程を表すとみたほうがよいと考えられる。 岐阜県立博物館館長であった広田照夫氏は、その共著『飛騨の鬼神 両面宿儺の正体』で、仁徳天皇の後背支援勢力である葛城・和珥の連合軍に敗死したとされる、謎の両面宿儺の正体は応神天皇の長子・額田大中彦か、という説を提示する。これも説が飛躍しすぎて疑問であり、飛騨という限定地の伝承を中央の政争の比喩話として捉えるべきではなかろう。額田大中彦が飛騨に居たという証拠もない。
(1) 比多国造 豊後国日高郡日田郷にあった国造であり、成務朝に葛城国造同祖の止波足尼が国造に定められたと「国造本紀」に見える。葛城国造は鴨県主と同族で、少彦名神を祖神とする天孫族の流れであった。 (2) 肥田 伊豆国田方郡に肥田の地があり、この地に起こった肥田氏は『東鑑』にも見えるが、伊豆国造一族の出であった。伊豆国造は服部連と同族で、少彦名神を祖神とする。 (3) 肥田・肥田瀬 美濃国では土岐郡に肥田村、大野郡にも肥田(旧谷汲村南部)があり、武儀郡肥田瀬庄、賀茂郡飛騨瀬庄の地名もあり、土岐一族に肥田・肥田瀬の苗字がある。総じて肥田と書くことが多いが、「長享常徳院江州動座着到」には四番衆として「土岐飛騨中務少輔直盛」など、土岐飛騨氏として表現される。 土岐郡の開発者たる礪杵氏は、三野本巣国造の同族であったとみられる。三野本巣国造の祖・神骨命(神大根命)は彦坐王の子に位置づけられるが、これは系譜仮冒であって、実際には山城鴨族の一派であったとみられる。 (4) 巨勢斐太臣(巨勢田臣) 巨勢雄柄宿祢の子孫であるが、この氏は武内宿祢後裔ではなく、北九州に起こった天孫族の宇佐国造・筑紫国造一族の流れだとみられる。大和国高市郡の飛騨邑に関係するか。 (5) 飛駄 奥州伊具郡の高蔵寺の棟札に「治承元年丁酉五月、云々、大工飛駄右衛門尉行正、小工飛駄左近三郎正□」と見える(『姓氏家系大辞典』)。 (6) 比田 相模国大住郡日田郷から起こった三浦氏の一族。三浦氏が桓武平氏良文流というのは系譜仮冒で、実際には相模国造支族の流れとみられるが、相模国造は天孫族系の物部同族で、出雲国造支流に出た。
(1) 高田神社 荒城郡にあげられる式内社で、飛騨市古川町に論社が二つあり、太江字神垣内の高田神社は高魂神を祭神とし、貴船町の貴船神社は高命を祀る。どちらに比定するとしても、ともに水神を祀るとしてよさそうである。鴨族の本拠・山城国愛宕郡にも有名な貴船神社(名神大社)があり、水神の高命ないし罔象女神を祀るとされ、大和の丹生川上神社と並んで丹貴二社と呼ばれた事情がある。 太江のほうでは、近世には白山権現と称され、白山比刀i罔象女神と同神)・鴨別雷神・天津彦根命(少彦名神の父神)を配祀することにも留意され、こちらが妥当か。当社を中心に二一基の古墳が環状に配されており、近くで白鳳期の古瓦が出土し釜谷古窯跡もある事情もある。なお、美濃国土岐郡には高田の地があり、従五位下高田明神(美濃国神明帳。現白山神社に比定)があって、土岐一族の高田氏が起こっている。 (2)
荒城神社 荒城郡の式内社で、高山市国府町宮地に鎮座。江戸期に河伯大明神と呼ばれ、天之水分神・国之水分神(『特選神名牒』。一説に大荒木之命・国之水分命・弥都波能売神)を祭神としており、水神信仰に関わる社であった。周辺には縄文中期の遺跡が多いので、上古来の水神祭祀を窺わせる。「大荒木之命」は飛騨国造の祖神・祖先ではないかと考えられるが、伊豆国田方郡式内の荒木神社が天津彦根命を祀ることに留意される。 (3) 阿多由太神社 荒城郡の式内社で、高山市国府町木曽垣内に鎮座。大歳御祖神を祀り、家津御子神・早玉之男神・熊野久須美命の熊野神を配祀する。 (4) 栗原神社 荒城郡の式内社で、吉城郡上宝村(現高山市上宝町)宮原に鎮座して、五十猛神を主神とし、大山祇大神・宇迦之御魂神・菊理姫命(白山比刀E豊受大神・宇迦之御魂神と同神)を祀る。五十猛神と菊理姫命とは夫妻神で、わが国天孫族の祖神である。なお、同名の栗原神社がもう一社、古川町上町にもある。 以上、荒城郡所在の式内社五座のうち、最北の神岡町に鎮座の大津神社とそれに近い栗原神社を除くと、残り三社は中央部の古川町・国府町辺りにあって、後ろの四社では水神祭祀か天孫族祖神を祀ることに特徴がある。
(5) 槻本神社 丹生川村(現高山市)山口字月本にあって、大山祇神・櫛御氣野神(熊野神)・建御名方刀美神(諏訪神)夫妻を祀る。主神は大山祇神とも保食神ともいうが、もと月本明神といった由来から考えて、月神に通じる豊受大神や罔象女神すなわち保食神とするのが妥当か。「槻」はケヤキの木であるが、これに着目すれば樹木神の五十猛神に通じるし、この神を祀る伊太祁曽神社・乗鞍神社が丹生川流域に多く分布するという事情もある。 なお、大山祇神は栗原神社にも関係するが、どの地でもよく混用される大山咋命(鴨族の祖神)からの転訛ではなかろうか。上記貴船神社では大山咋神を配祀している事情にもある。 (6) 荏名神社 高山市江名子町にあって高皇産霊神を祀るとされる。もと荒神宮とも子安大明神とも称されたというから、前者なら五十猛神、後者なら女神で美濃国不破郡赤坂の子安神に通じそうである。同じ江名子町内の荒神社も論社となっている。
飛騨には氏子をもつ神社が四五〇ほどあって、そのうち四分の一強が白山社と最も多い。式内社でも国史見在でもないが、有力社とみられるなかに、鴨族関係の松尾神社・日枝神社(高山市城山にあって大山咋神を祭祀)があり、江名子には賀茂神社、国府町上広瀬に加茂神社がある。五十猛神を祀る神社も旧丹生川村に十五社の多くを数え、伊太祁曽宮(高山市丹生川町旗鉾)が中心とされる。さらに森八幡神社・一位森八幡神社などもある。 また、地名でも高山盆地・古川盆地を貫流する宮川の別名が加茂川とされる。その由来は、建武の中興に功績のあった飛騨国司姉小路家綱が、平安京にならって野中に賀茂神を祀り小島城を築き、その山々を東山、北の峰を北野嵯峨山、城下の細江川を賀茂川と名づけられたともいわれるが、上記の神社や闘鶏楽などに見られる鳥類がらみの祭事もあって、古代からの鴨族のいわれがあったのではなかろうか。 |
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