両面宿儺と飛騨国造

 (両面宿儺と飛騨国造の続) 


 

 木工猪名部の系譜

 奈良の東大寺建立は、聖武天皇の天平十七年(七四五)から開始されたが、その際、木工寮長上・大工(棟梁)として猪名部〔いなべ〕百世が、少工(副棟梁)のち大工として益田縄手が現場の指揮を執って、完成された。この世界最大の木工建築物は、当時の技術の粋を集めたものであった。百世はその功で外従五位下に叙せられたが、「大仏殿碑文」には大工・従五位下とあり、また従四位下で伊勢守兼東大寺領掌使に任ぜられたともいわれる。

 猪名部氏が古代に建築技術に優れ、雄略朝十三年には木工として見える葦那部〔いなべ〕真根が高楼を作るなど木工技術集団として『日本書紀』に登場する。猪名部は世界最古の木造建築物である法隆寺や石山寺、興福寺、飛鳥寺などの建立にも関与したとされる。天平六年には木工の猪部多婆理(「猪名部」の欠落ないし簡便表記か)も見える。猪名部には新羅から渡来の外来系もあったが(『書紀』応神三一年条)、「天孫本紀」には物部連の祖神・饒速日命が率いた者のなかに「為奈部等の祖天都赤星」も見えるから、神別のイナベもあった。

 猪名部は北伊勢の員弁郡に居住したが、郡名の「員弁」は猪名部が転じての表記である。奈良時代の神護景雲三年五月には、員弁郡人の猪名部文麻呂が見えて、白鳩を献じたことで爵二級を進められている(後記の財麿の同族か)。員弁郡には式内社の猪名部神社があり、その論社が現三重県員弁郡東員町北大社、及びいなべ市藤原町長尾に鎮座する。その主祭神を伊香我色男命とするのは、この者が猪名部氏の祖とされるからである(後述)。

 員弁郡領家は猪名部造氏であった。その家から出た善縄は、員弁郡少領猪名部造財麿の孫で、周防大目従八位下豊雄の子であるが、都で立身して文学博士となって『続日本後記』二十巻を著わし、遂には参議式部大輔従三位まで昇進して、春澄朝臣の姓氏を賜った。春澄善縄の妻は橘朝臣島田麻呂の娘であり、その娘の高子(洽子)は清和天皇から醍醐天皇までの五代の天皇に仕えて掌待さらに典侍従三位にまで昇っている。この春澄朝臣高子が官稲千五百束を賜って氏神の猪名部神社に奉納したことが『三代実録』貞観十五年(八七三)条に記される。

  春澄善縄の男子としては従五位上鋳銭長官兼周防守の具瞻、及び縫殿頭従五位下の魚水の二名が知られる。その後裔は不明となるが、鎌倉初期に活動して『東鑑』に見える員部大領家綱、員弁進士三郎行綱(家綱の子という)は善縄の族裔となろう。行綱にやや遅れて見える猪名部重員は、天福元年(一二三三)の多度神社神主と『大日本史料』に記される。また、具瞻・魚水兄弟の同時代に活動した者として猪名部造有吉がおり、木工大允として元慶八年(八八四)に外従五位下に叙位されている。

  猪名部を管掌する猪名部造が物部連一族とされるのは、雄略十八年に伊勢の朝日郎〔あさけのいらつこ〕が反乱を起こした事件に因む。すなわち、その当時、伊勢の猪名部は物部菟代宿祢が管掌していたが、この反乱を収拾できなかったため、かわって物部目連がこれを退治したので、菟代宿祢が持つ猪名部を目連に賜わったとされる(『日本書紀』)。『姓氏録』左京神別によれば、猪名部造は物部と同祖の伊香我色男命から出たとされる。とはいえ、伊香我色男命から猪名部造豊雄までに至る系譜・歴代は不明であり、そこに系譜仮冒が起こりうる。明治期の鈴木真年は、物部五十琴宿祢の子の石持連の子に菟代宿祢を置いて、これが猪名部造・春澄朝臣の祖と記すが(『史略名称訓義』)、菟代宿祢の具体的な子孫は記さず、「天孫本紀」でも猪名部造の系譜は明確には記されない。

 こうした事情から見れば、猪名部造が物部連一族の出であったことは、多分に疑う要素がある。少なくともその配下の猪名部については、物部とは別族であった可能性が出てくる。というのは、鴨族の美濃への移動経路が近江国永源寺小椋谷(旧愛知郡小椋村蛭谷)の木地師本拠地を経て、八風街道を通じ山越えで伊勢に入るというコースをたどったとみられ、伊勢に入った地が員弁郡であるからである。しかも、東員町北大社の猪名部神社の近隣には「鳥取」という地があり、この地に式内社鳥取神社の論社もある。員弁郡には鴨族に特徴的な間郷もあって、この地の戸主として猪名部美久が「正倉院文書」(天平十六年)に見える。

 鳥取神社の論社は、いなべ市大安町門前にもある。同郡の式内社を見ても、鳥取山田神社(員弁郡東員町山田)、鴨神社(いなべ市大安町丹生川上)、賀毛神社(いなべ市北勢町垣内)があって、鴨族・鳥取部の祭祀する有力古社がきわめて多い。飛騨の丹生川村は両面宿儺に縁の深い土地であったが、伊勢の員弁郡丹生川上に鴨神社が鎮座するのも興味深い。

 これらの諸事情からみると、伊勢の木工集団・猪名部と飛騨の木工集団たる飛騨匠とは同根同族であって、ともに鴨族の流れを汲んだ可能性が大きいし、猪名部の管掌氏族たる猪名部造も、実際の系譜は猪名部と同様であったとみるほうが自然である。

 
 越前の木工・木地師

 話を少し戻して、東大寺や石山寺の建立のときに活躍した益田縄手は、後に連姓を賜り、従五位上まで昇叙された。縄手の出自は、『続日本紀』に越前国足羽郡の人と見えるが、飛騨南部に益田郡益田郷があり(益田郡は貞観十二年〔八七〇〕に大野郡より分置)、この地ないし近江国浅井郡益田郷から先祖が越前に遷住した飛騨国造一族関係者の出だと推定しても、あまり無理はなさそうである。『万葉集』に見える歌の詞「飛騨人の打つ墨縄」に通じそうな名前である。足羽郡には足羽郷戸主として猪名部張人も居た(天平神護二年十月越前国司解)。さらに、次ぎにあげる木地師の分布事情もある。

 加賀国江沼郡を流れる大聖寺川の遥か上流付近で、越前・加賀の国境に近く加賀側に位置する地には、真砂村(現加賀山中温泉真砂町)という木地師たちの村があった。古九谷の窯場で知られる九谷村(現加賀山中温泉九谷町)よりさらに奥地であるが、近くに水無山という地名が見えることも興味深い。越前永平寺の北方近隣にあり、永平寺から九頭竜川を下れば足羽郡となる。永平寺あたりは大野郡であったが、越前において木地師が活動した主な地域として、大野郡や丹生郡山地などが木地師の「氏子狩帳」に拠りあげられている(『福井県史 通史編2』)。

 木地師の由緒や支配などを記したいわゆる木地屋文書には、大野郡の小沢村に居住していた小椋幸男家、同郡川合村の平野治右衛門家などの各家文書がある。また、足羽郡木田の長慶寺は、今立郡池田、南条郡今庄、加賀山中などの木地師集団を門徒に持ったという事情もある。池田や今庄へは美濃の徳山谷からつながる。池田の稲荷にある式内社の須波阿須岐神社は倉稲魂神などを祀るが、『美濃国神名帳』に土岐郡にあげられる旧日吉村の正一位酒波大神に通じるものか。「酒波」とは、大嘗祭に黒酒・白酒を醸す長(造酒児)の助手として奉仕する女をいう(『神道大辞典』)から、この神は豊受大神・白山比唐ノつながるし、酒造神たる松尾神(少彦名神)にもつながる。

 戦国時代の天文十一年(一五四二)に越前の朝倉義景の軍勢が徳山谷・根尾谷を経路として美濃に侵入してきて、斎藤道三の兵と杉原(揖斐郡揖斐川町北部)の辺りで戦ったともいわれるから、美濃の根尾谷から越前に至る経路もあって、古代から木地師がこれを利用して美濃から直接、越前に入った要素もある。美濃と越前との交通路は、@『美濃諸旧記』に見える根尾谷を遡って温見峠越え、A揖斐川を遡って徳山谷経由、という道が古代から通じており、旧徳山村と福井県南越前町東端部の瀬戸との峠道で、美濃の木地師が切り開いたとされる木地師街道もある。瀬戸の付近にも、また温見峠の東南にも、木地師に特徴的な小倉谷という地名が見える。

 

 一応のまとめ−武儀国造と水主神

  飛騨国造の系譜を検討してみたら、周辺隣国への予想もしなかった地域的拡がりがいくつかの分野で見えてきたが、上古ないし古代において、木地師集団の活動が飛騨地域に大きな影響を与えたこと、これが山間僻地の一国造の系譜検討に止まるものではないことを如実に感じた次第である。

 飛騨には鴨族など天孫族の神々を祀る古社が多いことも分かった。その一方、海神族の神々や尾張連の奉斎した神々を祀る古社は殆どない状況であった。そうしてみると、飛騨国造の初祖とされる大八椅命が、男系では海神族尾張氏の出ということはまずありえない。三野国造に実質的につながる八坂入彦の生母が尾張大海媛だと崇神紀に見えても、地域的には飛騨と尾張との結びつきはいかにも唐突だとみられる(早川万年氏「美濃と飛騨の国造」に同旨。ただし、尾張連同族から守部連が出ているようで、「オキツヨソ」は飛騨国造の母系の祖先に位置した可能性は残る。「守部」は美濃・尾張に多く分布し、加賀の白山社祠官にも守部が見える)。「八坂入彦」も、本来は王族でなかった可能性がある。

 鴨族との関連からいっても地域近隣からいっても、飛騨国造は、美濃の本巣国造との系譜関係を考えるのが自然である。飛騨木地師の本拠・丹生川村の地名も、美濃木地師の本拠であった本巣郡根尾谷が「二王谷」とも書くから、もとの語が丹生であって(旧徳山村には水銀鉱山や門丹生・入谷・戸入という地名もあった。「ネウ・根尾」は鉄ともいう)、通じ合う。これは井塚政義氏の『和鉄の文化』でも指摘されており、岐阜県の薄墨の桜のある根尾谷にも木曽谷の馬籠にも、木地師に特徴的な小椋姓が見える。

 そうした同族関係が考えられるにもかかわらず、尾張氏が飛騨国造と結びつけられた事情も考えてみる。その場合、大八椅命が「彦与曽命」の子とされることが基礎にあって、彦与曽命の名前の類似から父祖としての尾張氏祖の瀛津世襲命が飛騨国造の系譜のなかに導かれたのではなかろうか。飛騨一宮神主を引き継いだ森氏も、おそらく飛騨国造の同族であって、本巣国造や武儀国造と同族の守君の後裔だとみられる。もともとが関の「守」で、「毛利、毛里、母里、母理」とも表記されても、木地師との縁由の深さから表記が総じて「森」と書かれるようになったものであろう。

 こう考えれば、世代対応のなかで彦与曽命の父としては、三野本巣国造の初祖・神大根命が考えられる。実際には神大根の孫くらいに推定される押黒弟彦王(牟宜都君・守君の祖)が「彦与曽命(=八坂入彦か兄弟)」の近親(従って、子くらいか)に位置づけられる。この辺の親族関係は当面の推定でしかないが、本巣国造・武儀国造・飛騨国造は近い同族であって、武儀国造の領域に連なって飛騨国造が位置したのも自然である。『延喜式』の官道では、美濃国内の加茂駅・武義駅を経て飛騨に入り、下留駅(下呂)などを経て飛騨国府に至る路程となっている。森氏が飛騨に在ったのも自然であって、国府町宮地の東隣には丹生川町森部の地名が見える。

 
 美濃に目を転じれば、武儀郡水成村(現関市富之保あたり)には、南宮神社(富之保字水成。三野前国造が奉斎した南宮大社の分祀か)と東に小山を隔てて水無神社(富之保字岩臼)も鎮座する。飛騨一宮水無神社より宝亀五年(七七五)に遷座されたという所伝があるが、相互に縁がある地域とみられる。

 飛騨一宮たる水無神社の祭神も、飛騨国造の系譜が少彦名神の流れを汲む三野本巣国造と同系であれば、実体はおそらく白山比唐スる水神・罔象女神(わが国天孫族の祖神・五十猛神の妻神)とするのが妥当ではあるまいか。関市の水無神社は「高照光姫命」を祭神とするが、これが後に天照大神にも転訛した豊受大神・罔象女神である。まさに水主の女神であるが、「水主」が尾張連同祖という系譜を伝える水主直につながるものでもない。飛騨に多い白山神祭祀の源流が水無神社にあったとみられる。

 本巣国造の同族には武儀国造や賀茂県主があったが、武儀国造一族の牟義都首が宮中で行われる若水汲みの「主水の祭事」に主役を務めたことが『延喜式』主水司式に見えており、山城の鴨県主一族は、主水司に水部として奉仕したことがその系図(『賀茂神官鴨氏系図』など)から知られる。奈良時代の大宝二年(七〇二)の加毛郡(はに)()里(『和名抄』の賀茂郡埴生郷)の戸籍には、水取部を氏の名とする者が数人見える。なお、水無神の隠された実体が両面宿儺ではないかという尾関章氏の指摘があるが(『濃飛古代史の謎』)、この者も飛騨国造一族の祖先神として併せて秘かに祀られた可能性がある。

 こうした飛騨国造の系譜を取り上げて見ても、「国造本紀」の記事は、一つ一つ個別具体的に十分に検証していく必要があることも、これで分かってくる。八賀晋・和田萃両氏は、「尾張氏の一族が飛騨に進出し国造に任命された可能性が高い」という見解をもっているが(『飛騨』所収の藤本健三氏「飛騨の古墳時代」)、これは「国造本紀」など『旧事本紀』の記事に拠りすぎである。結論的には、そうとは言えないし、文献資料の表面的な検討で済ませてはいけない。端的な文献がなくとも、祭祀・地名・伝承や考古学的知見など多くの視点から、古代史の総合的具体的に検討はなしうるのである。

 
 多少蛇足かもしれないが、もう少し敷衍して検討地域を広げて考えていけば、美濃の東隣に位置する信濃国伊那郡の木曽谷には最も由緒ある神社として水無神社と御獄神社があり、前者は飛騨から勧請されたと伝え、木曽福島町伊谷にあって高照姫を祀る。木曽は古くは美濃国恵那郡に属した地で、白山神社(木曽郡大桑村殿)も、美濃一宮と同じ南宮神社も、各々が木曽谷にも伊那谷にもある。そうすると、木曽につながる伊那郡の伊那も、猪名部か稲(豊受大神・白山神が稲荷神)に由来したことが推される。木曽にも、木地師の里が岐阜県境に近い吾妻(長野県木曽郡南木曽町南部)にあって小椋という苗字も見られる。ここは妻籠宿の付近であり、木曽川の渓谷となる。ヒノキ・サワラなどの美林で古来知られており、木曽の地名も「木祖」にあったという所伝を故なしとしない。

 さらに検討の視点を全国的に拡げれば、上古における美濃地域の政治的重要性など思いがけないことも多々出てくるが、ここではその導入としての検討を紹介する次第である。

                                      (二〇〇九年八月に一応、整理)

  (2010.5.18 掲上)

                                                前へ



   <本稿についての反応と執筆関係者の感触>
 
 本稿を読んだ或る研究者から、「執筆者は尾関章『両面の鬼神−飛騨の宿儺伝承の謎−』(勉誠出版、2009年6月)が出ているのを知っていますか?」という感想が、掲載誌『古代史の海』の編集部に寄せられたそうです。この旨、編集者から執筆者に対して、連絡がありました。
 
 それに対しての、編集者へのお答えが、次のものです(09.12.24付け)。
(1)ご連絡ありがとうございます。
 
(2)拙稿執筆に際しては、国会図書館・都立中央図書館などで、主だった飛騨関係の文献にあたりましたが、尾関章氏の著作については『濃飛古代史の謎』(1988年刊)は読んで参考にさせていただき、拙稿中にも、「水無神の隠された実体が両面宿儺ではないかという尾関章氏の指摘があるが(『濃飛古代史の謎』)、この者も飛騨国造一族の祖先神として併せて秘かに祀られた可能性がある。」という表現をしております。
 いま調べてみましたら、たしかに尾関氏には『両面の鬼神―飛騨の宿儺伝承の謎―』(勉誠出版、2009年6月)という著作があることが分かりましたが、基本的には前著で示されたイメージを踏襲しているのではないかと思われますし、もしそうであれば、その説に対しては半ば賛成、半ば反対というのが私の立場になります。その根拠は、拙稿中に記したところです。
 
(3)「或る研究者」の方のご質問・ご感想の趣旨が分かりませんが、私の論旨には次の事情もあって、ほとんど影響がないと思われます。とはいえ、そのうちに、尾関氏の新著のほうも見ておきたいと思われるところです。
 もともと拙稿は「飛騨国造の系譜」という原題をもちましたが、すこし地味な題名なので、比較的分かり易い両面宿儺を題名に入れたもので、この者が主体というほどの重きをおいていないことは拙稿を読まれれば、お分かりになるはずです。なぜ論考を書いたかの動機が、鴨族の流れを汲む木地師・飛騨匠の動きの解明にありました。
 
(4)私見に反対ないし補訂の立場であれば、お寄せいただければ、さらに考えてみたいと思っております。
 
 これに対して、『古代史の海』第59号(2010年3月)では、p99の編集後記の部分で、「ある文献史学者」からのアドバイスとして、同じ表現が紹介され、「何が言いたいかというと、『古代史の海』は研究者にも読まれているということを言いたいのです。」と記載されています。
 
 この編集者の表現に対して、実のところ、真意が分かりかねる点もありますが、奇妙に感じる諸点があり、以下に書き連ねます。

(1) それは、「尾関章氏の『両面の鬼神』が出ているのを執筆者は知っているのでしょうか」というのが、そもそも「アドバイス」といえるのか、ということです。そのまま、受け取ると非難か難詰です。研究者が見ていることもあるのだから、万全のチェックをして投稿しなさい、指摘の書を読んでいないのだから、その論考に致命的な欠陥があると言いたさそうな口振りです。普通に読むと、上記表現は、そのように受け取られかねないものでしょう。
 
(2) しかし、こうした内容が真意であったとすると、きわめておかしな話です。
 なぜなら、わが国には学究に限らず多くの研究者がおり、これまで刊行本や雑誌等で多くの論考が発表されてきています。そのなかには力作・傑作から愚作・駄作まで数多くあり、全てを読まなければ論点の学問的検討ができないわけでも、論考を発表してはならないわけでもありません。また、読んだからといって、役に立たないものも、実のところ、沢山あります。だから、本件の指摘については、本論考の検討過程や結論に重大な影響を及ぼすものであれば、再検討の余地もあるよということになります。指摘の書がこういう意味のある書なら、たしかに「アドバイス」でしょうが、そうでなければ、まるで意味のない指摘に止まるだけです。そうした効果的な意義がなければ、その書を読んでも読まなくても、変わりがありませんし、読んだ書・論考をいちいち論考のなかに全てを列挙・掲示するなど、無駄な話です。
 
(3) 次ぎに、実際問題として、次のような諸事情があります。(以下の諸点は、である体で記します
@ 大図書館で執筆にあたり、関連書に当たったが、その時点では指摘の書が刊行まもなくでもあって、図書館での所蔵・展示がなく、目に入らなかったので、執筆時までには読んでいない。
A 尾関章氏の両面宿儺についての最初に出された著書は、参考になった点が種々あったので、取り上げて拙論のなかに入れたし、その範囲内あるいは最初の書の基礎に立つ展開であれば、指摘された著作を読まなくとも、本稿の所論にほとんど影響はないと思われる。
B その後、現実に尾関章氏の新著書を読んだが、拙論で取り上げた問題について影響のある新見解が見られない。むしろ、拙論とは関係ない部分の検討であるので、そのようなものであれば読む必要がないし、仮にすでに読んでいたにしても取り上げない内容であって、拙論に影響もなかったものだった。
C 両面宿儺について史料に見える記事はほんの僅かだから、これと関連する資料があれば、それらの辺をしっかり押さえていれば、文献学的歴史研究としては、十分成り立つ。あとは、その後の研究者の見解・解釈か、伝承・習俗・民話的なものにすぎず、それら(とくに後世の伝承の類は)がいくら多くあったとしても、文献学的歴史研究には必ずしも有効なものとは言えない。実のところ、両面宿儺を取り上げた研究・論考は、これまで出されたものもきわめて多いが(尾関章の両著作にあげられるものを見れば、どれだけ多いかが端的に分かる)、それらが歴史的考察に結びつくかどうかは別問題ということである。
D 編集者がご自身で尾関章氏の新著書を読んで、その結果、新著書の記事が拙論考で導いた結論に対して大きな影響があり、その差異がこうした重大性があると思われるのなら、その差異を具体的に指摘していただければ、再考する(ここまでしないで、ただの受け売りだけで記事を書くのなら、編集者としての姿勢が疑われるところでもあろう)。また、匿名の「ある文献史学者」が、尾関章氏の新著書から具体的に拙論の問題点を指摘してもらえれば、同様に再考する趣旨でもある。実際には、そのような影響があるとは思えないから、「読んではいない」とだけ指摘するのは、まるでおかしな指摘である。
 
 総じて言えば、どのような文献史学者かは知りませんが、文献資料や論考・著作の位置づけを誤っていると感じるところです。類似するテーマであっても、所論に関係ない、あるいは執筆者がその論考展開にあたって殆ど価値を認めない(「当該論考・書の価値を認めない」ということではないことに御留意)というような、他の研究者の論考や著作を参考文献としていくら列挙しても、まるで無意味だということが上記の指摘者は分かっていないのではないか、ということです。本来拘るべきなのは、関係文献への言及・列挙ではなく、論考内容の是非であることを銘記しておきたいものです。
 また、ここで問題とした同誌の編集後記には、いわゆる学究らしき「匿名の研究者」が多く出没しており、それら来信の引用あるいは編集者が紹介をしていますが、匿名という条件での紹介・発表ということが来信のなかにあったとしたら、それは真っ当な研究者らしからぬ卑怯な振る舞いであるとも感じます。“象牙の塔の研究者(?)”にあっては、自分の名前が学会誌以外の所に掲載されることを嫌がる従来からの象牙の塔の風習があって、その風習からまだ脱出できないでいることの現れに過ぎず、こうした姿勢に対しては、会誌の編集者としては、むしろ大いに嘆くべきではないだろうか、という見方も聞かれます。

  要は、相手が誰であれ、どのような場であれ、内容が真摯で合理的論理的なものであれば、責任をもって、きちんと議論をしましょう、ということが肝要だと感じられるところです。職業的専門家だけが歴史学を支えているわけでもないはずであり、この辺は、本論考に限らず、一般的な問題でもありますので、敢えて内幕的なやり取りを紹介して、皆様のご判断を仰ぐものでもあります。

  (2010.5.21掲上)

   前へ      ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ