高城修三氏のいわゆる「古代史の三大難問」
高城修三氏のいわゆる「古代史の三大難問」 −「紀年論、邪馬台国論、神武東征論」に関して 宝賀 寿男 |
わが国上古史の流れとその原像について研究していくと、幾つかの主要問題を基点として具体的に時間的・地理的に追い求め、検討を深めていく必要性を感じる。 その場合、個々の歴史事件を断片的に考えるのではなく、大きな歴史の流れのなかで考え、そのうえで韓地・中国などを含む東アジアとの様々な交渉や祭祀・習俗や考古学、暦法など関連諸分野などからも見ていくことが必要だと思われる。このような研究アプローチをするとき、いわゆる「古代史学界の学究」と称される方々は、戦後主流となった津田学説とその亜流学説の影響を強く受けてか、総じて、検討の視野が狭く、記紀記事を安易に否定しすぎであり(否定の論理がまるで尽くされていないということ)、「造作論(創作論)、反映説論」で物事を考えがちという傾向を示される。
その場合には、こうした大局的な古代史の全体像を描かれる方は殆どないようである。これが、いわば津田史学・亜流の大欠陥なのかもしれない。「記紀批判」は必要なのは当然だが、そうした名目を掲げながら、実際には、不徹底で粗雑な論理でもって、簡単に否定論にはしる傾向があるのが、大きな欠陥であるということである(だから、「科学的」とか「合理的」とか言っても、きわめて説得力に欠ける傾向もある)。 要は、「神武東征」とそれに続く「闕史八代」を、歴史的な現実の事件として認めるかどうかが、その境界にあるようであり、これらをまず認めない学究※にあっては、「大きな歴史の流れ」を、そもそも把握していないのではないか、描けないのではないか、と思われる。 学究関係者では、「邪馬台国東遷論」を「神武東征」の反映だとして、国(邪馬台国ばかりでなく、伊都国、狗奴国、投馬国などの変形論の東遷説もあるが)の東遷論をとる人々もいるが、「邪馬台国東遷=神武東征」では決してない(片や国の移遷、片や少数集団の移動であって、その違いは明確)。しかも、「邪馬台国東遷」論の場合には、なんら史料に見えず、その主体行動者も不明ないし曖昧なことが多い傾向があるので、物事をできるだけ具体的に考えて行こうとする本稿では、取り上げようがない。 ちなみに東大教授・東大史料編纂所長として戦後の古代史学界を主導した坂本太郎氏は、「崇神天皇以前九代の天皇が実在でないという説は一つの憶説にすぎないこと」などを主張された、と笹山晴生氏が記している(『古代をあゆむ』2015年刊)。 坂本氏は、二世紀後葉の倭国大乱かその少し前頃に、九州にあった「邪馬台国の一部族が東に新天地を求めてうつった」と考えれば、神武天皇を「歴史上の人物と見ても、時期的に無難に解釈ができるように思われる」と記している(『国家の誕生』1975年刊)。神武に続く八代の天皇も、「確かな伝承によって記録されたもので、けっして後世の作りごとだとは思わない」と具体的な理由を添えて記述する。これらは、拙見とほぼ同じ見方であり、1970年代の著作としてはきわめて卓見だと思われるが、今はこれを踏襲する学究は見られない。 ※かつて森浩一氏は、「これだけは書いておきたかった」と帯に謳った『古代史おさらい帳』(2007年刊)を出された時に、同書のなかには、「戦後の歴史学界には、神武東遷には一切ふれないという暗黙の了解があった。」、とくに「考古学者たちは“神武東遷”の伝承を口にするだけでも科学的ではないとするおもいこみがあった。」とまで記している(p142)。これでは、古代史の解明など及びもつかないものである。 冷静で論理的な思考を古代史でも展開した故・久保田穰氏(専門が法曹で、国際法務分野の弁護士)は著書の『邪馬台国と大和朝廷』で、「神武東征」は事実だと思うが、これが邪馬台国東遷にはならない旨を二度にわたり(p100及びp140)、明確に記述している。物事を混乱した粗雑な論理で見てはならない、ということである。「反映論」という思考法では、物事を見誤ると言うことでもある。 「神武天皇」なる人物を認めたくないという気分や信念で、歴史を考えてはならないという戒めでもある。 ※これらの関係では、本HPの「邪馬台国東遷はなかった」をご参照。 そうすると、「神武東征」を史実として認めて歴史体系的なものを築いている研究者としては、現在生存し活動する学究には殆どいないようであり、管見に入る限り、みな在野の研究者、高城修三氏・長浜浩明氏・安本美典氏が代表的な論者(みな、「神武=崇神」説は採らないし、「闕史八代」説も採らない。皆がいわゆる「歴史学究」ではないのは、ある意味、偶然ではない。後述)とみられる。 標題の高城修三氏のいわゆる「古代史の三大難問」、すなわち「紀年論、邪馬台国論・神武東征論」に関して、これら研究者と拙見を主要点で対比して、ここで一覧表の形に整理してみようとするものである。なお、多くの著名な学究の諸説も当然あるようだが、それぞれが断片的であったり、ほぼ四説のどれかに収まることも考えられ、イチイチ取り上げない。この辺も、「学究」と称される人々の頑迷固陋さが感じられる。かつて神武天皇以下九代の初期諸天皇の実在性を妥当と考えた坂本太郎氏のような学究は、いまは殆どいなくなったということでもある。 ちなみに、ここで整理の対象とした研究者の関係著作の主なものは、次のようなものであるが、適宜、ネット記事も参照した。 @高城修三氏……『日出づる国の古代史』(2011年刊)、『大和は邪馬台国である』(1998年刊)。
A長浜浩明氏……『最終結論「邪馬台国」はここにある』(2020年刊)、『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(2012年刊)、『日本の誕生─皇室と日本人のルーツ』(2019年刊)。
B安本美典氏……著作多数だが、例えば『最新・邪馬台国への道』(1998年刊)、『神武東遷』(1968年刊)、『応神天皇の秘密』(1999年刊)、『大和朝廷の起源』(2005年刊)などや『季刊邪馬台国』に掲載された論考。
C拙見・宝賀……『「神武東征」の原像』(2006年刊)、『天皇氏族』(2018年刊)。
そして、下表掲載のこれら諸説をつらつら比べて見るに、「真理(原態)は中間にあり」かとも感じる次第でもある。総じて言えば、津田亜流研究者における「闕史八代」を含む初期諸天皇の実在性否定の論理が粗雑すぎる(どうして、あの程度の粗雑な論理で自らが納得するかが不思議だが、これら初期諸天皇は実在してはならないと思い込んでいる模様である)。「徹底した記紀批判」を謳うのなら、是非とも、もっと科学的で合理的総合的な歴史観と多彩で十分な歴史関係知識をもって、もっと的確な論理で具体的に研究していただきたいと強く願うものである。 もう少し言えば、津田亜流学究の視野は総じて狭いものがあり、せめて朝鮮半島・中国東北三省(いわゆる満鮮地方)までを含む地域まで、歴史や習俗・祭祀、紀年論、尺度論などの視野・認識を拡げて考えて欲しい。そうすれば、例えば「天降り」は自然人として奇怪だということではなくなるし(先祖の居た故地から新天地に移遷することをこのように表現しただけ)、紀年論だって、中国本土とは異なる高句麗の「センギョク暦」や倭地・韓地の「X倍年暦(春秋暦も含む)」などの差違が受け入れやすくなる。倭地の記紀紀年を過剰な年代遡上とか後世の造作だと批判しながら、『三国史記』における「X倍年暦」的な表示に気づかずにそのまま単純に年代換算をして、その結果、古くなりすぎる韓地紀年をそのまま受け入れて、平気な顔をすることもなくなるはずである。 北アジア・東アジアなどに遍く見える王家の「黄金血統」的な相続思想と行動を無視しており、倭地には五世紀末頃まで「複数の王統」があったなどという妄想も、本来、出てくるはずがない。高句麗や三韓諸国の王位について、また北アジアの北狄種族の王統について、中国の史書がどのように系譜を記しているか(王名や王位相続、王家の氏などを必ずしも正確には記していない)ということを、倭地の場合と併せ考えれば、支配階層が東アジアの同種の種族から出た倭地の大王家では、五世紀代でもまだ王統が確立していなかったとか、複数の王統が併存したなどの見方は、ありえず、これらは妄想だとしか思われない。 |
<比較表> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔註〕※1 高良社及び関係社の分布は、高良大社を中心に筑後川流域や旧・山門郡、大牟田市まで拡がり、邪馬台国圏を示すものか。
※2 長浜氏の推定値では、欠史八代で在位期間が約240年(前32〜207)とされ、この数字だと八代が全て直系相続と示唆。 なお、この表に余裕があれば、久保田穰氏の見解を併せて紹介したいところであるが、神武の活動年代について言うと、「神武天皇は200年代初期の人だと思う」と記している。倭五王の比定については、通説と同じで、「仁徳・反正・允恭・安康・雄略」だとしている。 拙考が、通説に異を唱えて、「珍(履中)、興(木梨軽皇子)」とする理由は、この両者の遣使は記紀紀年の実年代換算をすると、倭からの遣使の時期は、いわばほぼ境界点に位置することとなる事情がある。記紀等に記される倭地の政治情勢や南朝との往来・渡航準備等に要する期間(片道が半年ほどか)を考えると、通説には従いがたいと思われるからである。とくに「興」は「世子」と記され、「倭王」と表示されていない事情もあるし、もともと世子ではなく、簒奪して急遽、大王になった安康は治世期間が短く、遣使の時間的余裕もなかったと考えられる。倭王珍のときに臣下最高位の平西将軍に任じた倭隋が反正の皇子時代にあたるともみる。 また、最近は、筑後川下流域関係で山門郡論者では、藤の尾垣添遺跡に注目する研究者が、ほかにも片岡宏二氏などがおられ、この説は朝倉市説よりもやや勢いがあるように感じる。吉野ヶ里遺跡などを含む筑紫平野の全域まで邪馬台国を考えるのは、地域範囲を拡げすぎである。 拙見について言えば、歴史の流れ(景行天皇の九州巡幸の基点などの事情)や現在までに知られる遺跡(神籠石配置の中心など)などの諸事情から考えると、邪馬台国の本拠が筑後川中流域南岸の高良山麓一帯だとみる説(広域では、上記の御井・山本郡説)が最も自然であって、昔から御井郡説(植村清二・榎一雄氏など)として知られた説が最も妥当だと思われる。 ともあれ、上古の難問的なものを整理して考えるといろいろ見えてきたり、感じられるものが様々にある(総じて言えば、「真理は中間にありか」とも感じられるところでもある)。そして、いわゆる「学究」と称される人々については、記紀否定に妄執とすら感じられるところもある。 端的に言えば、文献学の学究にあっては、応神天皇(ないし継体天皇)より前の記紀の記事(とくに崇神より前の闕史八代と神武天皇絡み)は先ず否定して考えるという固定信念・信仰があり、考古学究関係にあっては、同じく纏向遺跡・箸墓古墳は3世紀代のものだという信念、国文学学究関係には『古事記』が序文を含め、すべて真書だという信念(かつ、『旧事本紀』がみな偽書だという信念)が、それぞれあって、これ以外の思考を許さない(これ以外の発想なら、「学究にあらず」とまで決めつける意識や思考傾向)、という雰囲気が様々に感じられたものである。これらは皆、誤った妄執・信念であり、上古史関係の研究・学問が科学的であることを妨げてきた。 例えば、関川尚功氏の最近の著作『考古学から見た邪馬台国大和説』では、次の主旨を記して、纒向遺跡が4世紀のものだとする。すなわち、現在の研究で最古の古墳とされる箸墓古墳は、前方部上の無文の近畿系の二重口縁大型壺(桜井茶臼山の壷とほぼ同じで、布留式土器と判じられる)から見て、初期の大型古墳と大きな時間差は認めがたい。その具体的な年代の比定では、4世紀後半頃より大きく遡ることはなく、築造時期が3世紀まで遡ることは考えられない、と記している。 学究関係で、神武東征を認めるのは、管見に入るところでは、田中卓氏(「日本国家の成立」1957年などを含む『日本国家の成立と諸氏族』1986年)、武光誠氏(『日本誕生』1991年、『邪馬台国の謎』1992年、『邪馬台国と大和朝廷』2004年などの一連の著作。しかし、最近作では主旨替えのようにも見える)くらいかと思われるし、両者ともに神武東征の具体的な年代をあまり明確にしないなど、総じて茫洋とした表現の記事となっている。
すなわち、田中氏は、皇室の発祥たる高天原が筑後川下流域にあったとし、その一族の神武が日向から紀元一世紀代頃に東征したとみる。邪馬台国は山門郡説をとるから、高天原と重なるか。武光氏は、筑後川中・下流域(北岸の三養基郡説)に邪馬台国があったとみており、吉備あたりから大和に入ってきた一団があって、そこに後世、神武天皇と呼ばれるような者(神武天皇的な人物)が実在したとみるが、北九州の邪馬台国は後に大和朝廷により征服された、とする。
田中・武光両氏ともに、筑後川下流域あたりに皇室の淵源に関わりそうな国・地域を認める点は共通するが、安本氏は、「高天原=邪馬台国」としながらも、これを筑後川中・上流域北岸の朝倉市域に考えるという差違があり、上記表のなかに「※」で註記した疑問もある。安本美典氏の説く諸見解には、誤った知識・認識や結論が多くあると拙見では思われ、本HPの各処で種々、批判してきたが、それでも、発想の自由さと合理的な古代史を志向する面があり、現実に様々な学問的功績がある(三角縁神獣鏡倭鏡説、『旧事本紀』の価値を認める立場など)。その意味で、久保田穰氏も2000年代初め頃に、それを評価したものではないかと思われる。 田中卓・安本美典及び長浜浩明の諸氏は、いずれも筑後川の中・下流域に邪馬台国をおき、神武東征の出発地を南九州の日向国だとみることで、共通点がある。この東征時期を邪馬台国時代よりとんでもない早い時期に考える長浜説はともかく、田中・安本両説が、「高天原」比定地と考える地域から離れた南九州の日向国を出発地とするのは、奇妙な話しだと思われる(田中説では、具体的な東征時期は不明だが)。安本説は、それでも邪馬台国東遷を言うから、支離滅裂な感がする。 高城修三氏があげる三大難問は、それぞれみな重要であるが、最近までの諸説を俯瞰してみると、上古の年代観(紀年論。考古年代観も含む)が判断・評価にあたっての決定的な要素、すなわち最も影響がありそうでもある。言い換えれば、この上古の年代観が誤っていて、上古史原態に関して正鵠を突けない感じが強そうである。これは、学究・在野のそれぞれの研究者について、言えそうな気がする。 戦前の歴史学界でも、那珂通世博士の「上世年紀考」などは、書紀紀年が六百年ほどの紀年延長あり(すなわち、神武即位年を前60年とか紀元前後くらいにおくとかか)、との見方を示し、これが当時の通説的なものだったようである。上記表の長浜見解はこれとほぼ同様の見方の年代観となりそうだが、この紀元前後の倭地の状況を記す中国史書を見る限り、とても妥当性を示す年代値とは思われない。そんな古い弥生中期において、文字も硯もなく、どうして神武東征伝承が伝えられようか? いわゆる在野の立場で、これら学究ないし研究関係者の言動を見てみると、様々なプライドをお持ちのようである。それが学問に向かわせる原動力になっているのなら良いことなのだが、そうではないように働く場面もあって、学問の進歩(古代史学の原態探求)のためには「師の説に馴染むな」という主旨を強調した宣長の言が想起される。古代史関係の研究・業績は、大学・研究所の肩書きとか、いわゆる権威だけではできるものでは決してない。そして、津田説を含む旧説に囚われていたのでは、歴史原態の追求という上古史学研究の本旨にも背くことになろう(もっとも、戦後の津田博士の結論的な所説は、なぜか拙考とほぼ合致するのであるが)。 願わくば、歴史関係諸分野の学究たちが、象牙の塔とかタコ壷に引き籠もらず、東アジア広域に関し、他の歴史学・民俗学など関係分野の学問にもおおいに関心・知識をもって、総合的な前進・展開をはかっていただきたく、これが強く思われるところでもある。中国で最近目覚ましく進む上古遺跡の発掘は、わが国上古史とも密接な関係をもつものだ、と拙見では痛切に感じるものである。倭地の上古史の問題は、日本列島のみの話ではない。 (2021.02.19 掲上で、その後に何度も追補)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本稿関係のトップへ戻る 第一部へ戻る 古代史一般の目次へ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||