古代史の諸問題を考える視点

    

     古代史の諸問題を考える視点
          
非歴史専門の古代史研究者たちなど 
                                    執筆代表人 樹堂(
文責


  この四十数年ほど、日本歴史とその関係分野の研究・著作を見てきて、最近の傾向にはやや感じるところがあって、試論として、この一文を記したものである。多くの個別評価が文中にあるし、もっと丁寧に書かねばならない部分(挑発的と受け取られかねない部分も含んで)もあろうから、それら記事に異論のある方々もおそらくおられよう。ここで取り上げる内容は多岐に亘るから、おそらくかなり舌足らずの部分もあろうし、勘違いの部分もあるかもしれないので、ご批判があれば、適宜、お寄せ下さい。


 1 はじめに−概観ないしは展望

  (1) 非歴史専門家の研究者たち

 戦後の古代史学(主に文献学についていうことにする)を主導してきたのが、歴史学の学究では津田左右吉博士とその亜流の研究者たちであるが、昭和四十年代前半以降に現れたかなりの数の非・歴史専門家の研究者たちも、わが国での古代史への興味を人々に広く惹き起こし、研究水準の上昇に寄与してきたことは否めないと思われる。その意味で、学究の論考や言動だけしか考慮しない研究・検討など、権威的思考だといえよう。この分野で、学究としての権威がどの程度、通用するかの問題でもある。
 国内での古代史への関心はときに波があったなかで、昭和39年(1964)に東大教授井上光貞氏が名著といわれる『神話から歴史へ』を中公・日本の歴史シリーズの第一巻として刊行し、それが国民の古代史への関心をおおいにかき立てた。非歴史専門家の研究者たちがその後、続々と現れるのも、その影響がかなりあったのではないかとみられる。この意味で、この四十年強ほどの古代史研究の歴史を、わたしどもなりに振り返ってみたい。

 ここで、「非歴史専門家の研究者」(「非」は「歴史専門家」にかかる)というのは、例えば安本美典、古田武彦、白崎昭一郎、大和岩雄などの諸氏に代表される歴史研究者で、大学・大学院で歴史学を専攻しなかった経歴をもち、かつ、卒業後の当初は大学などの研究機関で歴史学研究の職をもたなかった人々を言うことにする。彼らが登場するのは、まず昭和42年(1967)に安本美典氏が『邪馬台国への道 科学の解いた古代の謎』(筑摩書房)であり、続いて翌年に『神武東遷−数理文献的アプローチ−』、1970年には『数理歴史学−新考邪馬台国−』を刊行するなど、現在に至るまで精力的に活動を続けてきた。
 次ぎに出てくるのは、古田武彦氏が昭和46年(1971)に『邪馬台国はなかった−解読された倭人伝の謎−』(朝日新聞社)であり、さらに白崎昭一郎氏は昭和53年(1978)の『東アジアの中の邪馬臺国』(芙蓉書房)であるから、邪馬台国の所在地問題が彼らにとって古代史分野の最も魅力的な問題であったことがわかる。なお、昭和42年(1967)1月刊で、当時たいへん話題をよんだ宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』(講談社。第1回吉川英治賞受賞)については、これが単発であり、しかも読み物としてはともかく、邪馬台国の島原半島比定説など古代史研究としては評価しないので、ここではこれ以上触れない。
 安本美典氏は、雑誌『季刊邪馬台国』(1979年(昭和54)7月創刊)を野呂邦暢氏(1980年(昭和55)5月逝去)の後をうけて責任編集しつつ、「邪馬台国の会」を長く主宰しており、古田武彦氏については、その支持者により「市民の古代研究会」が組織され(後に「多元的古代研究会」などになる)、1979年より雑誌『市民の古代』が刊行された。この両人のファン・支持者は多かったようで(私にはその辺が理解ができないが)、同じ邪馬台国九州説ながら、いまに至るまで激しく対立する諸論点をもつ(ほぼ共通な点もかなりあるのだが)。
 白崎昭一郎氏も、『古代日本海文化』誌を主宰して、同誌を1985年から刊行して自らの論考も発表してきたが、これが現在の『古代史の海』誌につながっていく(編集人はその後、変遷がある)。その著作としては、地元福井出身の継体天皇に対する研究のほか、邪馬台国や好太王碑文の研究などに主要著作があり、業績を残してきた。
 また、大和岩雄氏は、『古事記』偽書説を精力的に展開されるほか、多くの著作をなしてきており、この業績には十分な評価がなされるべきものと考えられる。それとともに、主宰の雑誌『東アジアの古代文化』は昭和49年に1974年春号をもって創刊され、多くの歴史専門家の論考も掲載されたが、惜しくも2009年1月で終刊となった。
 これら四つの研究会ないし雑誌が多少の変動を伴いつつ長く続いたし(いま大和氏・古田氏関係は終えたが)、それなりに現在に至っているから、非歴史専門家の日本古代史研究にあって大きな役割を果たし、影響を与えてきたことがわかる。これにより、非歴史専門家の分野で、多くの研究者や関心をもつ者が育ったことになる。

 
(2) 邪馬台国の所在地問題

 肝腎の邪馬台国の所在地問題についていえば、上記四氏の専攻研究分野を反映してか、文献研究を主とする安本美典(京都大学大学院文学研究科(心理学)修了)、古田武彦(東北帝国大学法文学部日本思想史学科卒)、大和岩雄(長野師範学校(信州大学教育学部)卒)の諸氏は、地域はそれぞれ異なるが北九州説(ただし、大和氏は台与の時には畿内へという移遷説)をとり、考古学研究を主とする白崎昭一郎氏(京都大学医学部卒)は畿内説をとっている。

 実は、本稿で主に取り上げようとするのは、これら四氏ではない。というのは、彼ら四人は長い研究活動を通じて、自らの立場・見解を鮮明かつ確固にしすぎており、(なかには間違いも多々あるのに)、自説になぜか自負・自信が強すぎて唯我独尊気味でもあって(私どもには、これが理解不能であるが)、その思考に柔軟性が感じられない点、他の学説を受け入れようとしない面が多々見られる事情にある。また、それぞれが説かれる見解も、肯けるものがある反面で、必ずしも合理的ではなく、実地に即して考えると個別に肯けない点も多々ある(とくに古田武彦氏の見解については、「多元的古代」という概念は一般論として妥当であっても、『東日流外三郡誌』関係の説は信念・盲信であって学問ではなく、九州王朝説もトンデモ説同然であるうえ、総じて邪馬台国関係の現伝本の記事・表現に関してすこぶる付きの信頼感をもち拘り過ぎだし、安本美典氏の説く諸点にも「卑弥呼=天照大神」や邪馬台国本国の東遷論、古代天皇一代治世が約十年とみる見方などの統計の用い方等々、疑問が大きいものがかなりある。白崎氏の見解も、無批判な考古学主流派への追随思考が多く見られており、疑問がある。大和氏の邪馬台国東遷論も、時期的にも内容としても疑問が大きい)。
 これら四氏のこれまでの多大で精力的な研究活動や、安本・古田両氏の津田亜流学説への批判には、まず多大な敬意を表するものである。それにしても、それらの見解には肯くことができないのもまた多くあり、全体にわたるような「敬服」など、とてもできないから、誰かの説の全面的な信奉者としての行動など、及びがつかない。とはいえ、すべてを否定するわけでは決してなく、上記四氏には有益な議論や示唆深い諸点もいろいろあるから、こうした学恩には十分感謝しつつ、この辺は個別の論点ごとに是々非々で適切に判断していくというところである。

 
(3) 久保田穰氏や辻直樹氏の登場

 だから、彼ら四人の活動成果を受けて、その次に出てきた研究者世代のほうが、むしろ合理的な研究アプローチや冷静な判断を期待できる。そこでは、数多くの研究者がいるが、実のところ、玉石混淆である。なかでも、主に久保田穰氏(東京大学法学部卒)や辻直樹氏(京都大学医学部薬学科卒)などを本稿では取り上げて、古代史の諸問題についての科学的合理的な研究視点を考えてみたい。この両氏は、上記井上光貞氏の著作にはそれへの批判姿勢も含めて、多大な刺激を与えられたとのことである。
 両氏の検討方法や論理・主張には総じて肯けるものが多く(勿論、問題点・疑問点も多々あるが)、ともに、古代天皇については実際に活動した期間や生没年・享年などを、個別具体的に検討する手法も用いておられる(その結果、神武天皇の実在という見方や古田氏の九州王朝説否定論でも共通している)。「時間」という座標軸に拠り、実証的な姿勢に徹して、物事や人物の実在性を論じるという意味で、これに優る学究の研究はほとんどないとみられる。そもそも、こうした泥臭い手間暇かけた実証的な検討を専門の歴史学究は嫌っているようで、記紀記事を「後代の造作」と安易に決めつけて、行おうとせずにいた。そして、いとも簡単に歴史学の対象から切り捨ててきた。平気でありもしないような仮説を主張し、歴史の験算を怠る歴史学究が多いことを辻氏は批判する。
 なおかつ、両氏は、すでにご逝去されており、いまは執筆活動を停止している事情にもあり、インターネット検索でも、ネット記事がほとんど引っかかってこず(検索で出てくるのは、両氏とも同姓同名者がかなり多い)、最近の古代史研究にあっては忘れられた存在になりつつある。このことを先般偶々認識し、その研究業績の大きさや卓見があまり知られないままになっているのを惜しみ、及ばずながら、その顕彰の一端を担おうととする気持ちも、本稿には多分にある(だから、拙見では、批判的な部分もあるが、トータルで見れば、良い評価のほうが上回っていることを註記しておきたい。できれば、両氏の著作・刊行物を本稿であげたから、実際にそれらに当たって、読者ご自身の頭で考えていただきたいと希望する)。
 
 ここまでに合計六、七名の非歴史専門家としての研究者の名をあげたが、白崎昭一郎・大和岩雄氏は、総じて歴史学究の立場に準拠して思考する傾向があり、このため、歴史学究主流の津田亜流ないし考古学主流の関西系学者の学説を基本的に丸呑みして受け入れて考える傾向(権威尊重の傾向)にあるようである。これが必ずしも合理的批判的な研究姿勢とは考えられない要素もあるので、ここでは必要に応じて取り上げることになる。ちなみに、久保田・辻両氏も、上記四氏とはまたそれぞれ異なる地ながら、邪馬台国の所在地を北九州に求めている(邪馬台国問題に関して、判断が分かれる論点がいかに多いことの証左か!!)。かつ、安本・古田・久保田・辻四氏は三角縁神獣鏡魏鏡説も採らない立場、また神武以降初期天皇実在説(辻氏のみ「神武=崇神」で、闕史八代の天皇は神武とは別系統とする)の立場にある。

 
(4) 文献学究たちの活動低下

 古代史の文献学究では、いま目覚ましく活動されておられる方を、残念ながらあまり目にしない。井上光貞、直木孝次郎、上田正昭、田中卓あるいは佐伯有清、三木太郎などの大家が既にご逝去・老齢などの事情で、活動が少なくなるとともに、その後を担われるような古代史における文献学主体の研究者は殆どいなくなり、わが国の古代文献研究は非専門家たちに担われるようになったのは、たいへん皮肉な話である。学究関係者はおそらくそのことを認めないのであろうが、現実問題として文献関係学究の活動エネルギーがきわめて低下している(もっとも上記の大家たちの見解にも、専門家とはいえ、歴史哲学者的な傾向が多く見られてあまり実証的ではなく、論理性やバランスに欠けたりして、おかしなものがいろいろとあるのだから、個別には厳しく批判・検討をしていかねばならない。例えば、辻直樹氏は、井上光貞氏の上記書における継体天皇関係記事について、「低次元の記紀批判」と批判しているが、その場合、津田博士の見解に対してはもっと批判が厳しくなろう)。
 もちろん、大学に古代歴史学の講座がなくなったわけではないから、その教官として担当者が存在するが、社会的に顕著な研究・発表の活動をされているとはいえない感がある。最近でも、歴史大系シリーズで日本通史をとりあげたもの(例えば、小学館の「全集 日本の歴史 全十六巻」、同社「大系 日本の歴史」全15巻、講談社の「日本の歴史」全26巻、「集英社版日本の歴史」全21巻など)を見ると、そのなかに古代史部分(とくに継体天皇より前の時代)も含まれるが、執筆者としては考古学者が殆ど(上記四シリーズでは、考古学者に考え方が近い立場の文献学者が一人いるくらい)を著述していて、残念なことに、文献専門学者の著述が見られない。
 岩波書店から出ている『列島の古代史』全八巻シリーズ(2006年完結)の第一巻「古代史の舞台」でも、各地域の記述のはじめの部分は考古学者が手掛けている。同第八巻「古代史の流れ」では、「通史的叙述により、「日本」の歴史的原型の形成過程としての古代史を新たな視点から描き出す」とされながらも、最初に、「倭国の形成と展開」の項を考古学者の白石太一郎が書き、あとの殆どは「律令制国家」がテーマとなっているから、上古代政治史の流れがほとんど取り上げられていない。
 そうした文献学者逆境のなかでは、『日本古代国家形成史考』などの著作のある小林敏男大東文化大学教授の研究業績に評価するものがあるが、みずから主流派ではないと認めておられる。武光誠・明治学院大学教授の著作は多いが、じっくりした体系的な歴史研究書の著述が期待されるところである。このほか、中国人学者の王金林氏の著作に示唆に富むものがある。とにかく、文献専門古代史学者がこうした全集もの、大系歴史ものには登場してこない。日本の文献専門歴史学者の書いた古代史の流れの書を購入し、読みたいのであるが、残念ながら目につかない状況である。

 そうした意味で、津田博士らの記紀否定論ないし切捨て論はたいへんな悪影響を古代史研究に残したとも言えそうである。主流派の考古学者は、この影響をしっかりうけて、平気で文献無視が著しい姿勢をとる傾向がある。考古学者のなかで記紀などの文献に関心をもち比較的くわしいのは、森浩一氏くらいなものであるが、彼は大学で考古学を専攻しなかった(同志社大学文学部英文学科卒業、同大学院文学研究科文化史学専攻修士課程修了)という変わり種の考古学者であった。三角縁神獣鏡は魏鏡ではないなどの卓見や著作が多い森氏が考古学界の主流になれなかった要素が、ここにあるともいわれる。そして、めぼしい後継者を残さずにご逝去された。わが国考古学界が狭隘な「象牙の塔」の住人であることを認識しなければ、現在の考古学者の学説を理解できないことになろう。
 古代史の細かい専門分野毎にはそれに精通した研究者がいたとしても、文献学を基礎に総合的に歴史の大きな流れを考える研究者が、現在では殆どいなくなってしまった。このため、いま、文献研究をしようと思い、いわゆる学究といわれる人々に頼ったら、まるで役に立たないことにもなる(こう言ったら言い過ぎだとして、文献学の学究の反発を買いそうでもあるが、それなら具体的に名をあげてその研究・著作を紹介していただければ、ありがたいことである。これまでの文献史学者に論理的思考が十分ではないことが残念である)。
 わが国の古代歴史研究でこれでよいのかという気分にもなる。若い学究の多くが中世史研究の志望で、古代史研究への志向がきわめて少ないといわれる。古代史関係で断片的な研究がいくら進んだとしても、それをもってすべてを解することはまずもって無理な話であるし、それが故に、歴史の流れ全体をかえって見誤る可能性だって考えられる。戦後の考古学の多大なる発展と考古学知見の増大を喜ぶものであるが、考古学分野でなしうることには、おのずと限界がある。そうした限界・制約をわきまえず、考古学者が平気で文献を無視して発言することに対しては、大きな危惧を抱くものでもある。

 
 2 久保田穰氏の著作と活動

 久保田穰氏(1926年生〜2004年没)は、東京大学法学部卒の後は弁護士として長く活動し、その専門分野は主に渉外法・知的財産法とされる。当初は、論考を1988年から『古代日本海文化』『季刊邪馬台国』『東アジアの古代文化』等に発表されていたが、これら発表文などをまとめた最初の刊行が1992年の『古代史における論理と空想 ― 邪馬台国のことなど』(大和書房)であった。以下では、『古代史のディベ−ト』(1994年、大和書房)、『邪馬台国はどこにあったか』(1997年、プレジデント社)、『邪馬台国と大和朝廷』(1999年、近代文芸社)と続けて刊行され、2004年にはご逝去されたから、主に1990年代に活動されたといえよう。
 法曹という職掌がらもあって、その検討方法、論理的思考法など優れたものが多くあり、歴史専門家を含めても、私どもの最も敬服する研究者(系譜学の太田亮博士、佐伯有清博士を除いて)といえよう。といって、その思考方法や結論の全てが容認できるものというわけではないが。そして、法律学専門の方であるから、学ぶのに時間がかかる考古学や祭祀・民俗・系譜などの諸分野についての知識に乏しいところがあり、彼が敬服するという白崎昭一郎氏からは、「『邪馬台国はどこにあったか』を読んで」と題する論考で、いくつかの批判を浴びている(『季刊/古代史の海』第10号、1997年12月)。
 
 その白崎氏の批判について、久保田氏がどこかでとくに直接的な反論しているのはないようだから、彼の著作などを通じてみて、批判の妥当性を検討してみることにする。
 白崎氏の論調には、相手に対し、どこか「上からの視線」ないし見下し視線が感じられることが時にあるが、この批判でもそうした表現傾向がある。すなわち、「久保田氏の弱点は考古学的考察にあるのではないか。素人を売物にされるのはよいとしても、全く勉強されようともしない。」「久保田氏は平気で初歩的な誤りを冒している。」と最初の部分に出てくる。これは、久保田氏が邪馬台国の比定地を「大分県南部(大分市から臼杵・佐伯あたり)」にあてる説を同書で出しており、これに対しての考古学見地からの批判だと受けとめられる。
 久保田氏は法曹界の先輩弁護士である久保泉氏の宇佐説を承けたものという認識があろうが、樹堂ら私どもとしても、大分県南部説には反対であり(久保田氏の諸見解のうちで、最も疑問なものの1つといえよう)、かりに白崎氏のあげる考古学的批判論拠の多くはほぼ妥当だとしても(個別の問題点は後ろに記す)、「全く勉強されようともしない」「平気で初歩的な誤りを冒」すとは、言い過ぎである。要は、白崎氏の信奉する主流派考古学者の学説を、久保田氏が受け入れないことに対しての苛立ちが、そこに感じられる。
 現に久保田氏は、その次の著作『邪馬台国と大和朝廷』では、「考古学と私」という項目で、現在の考古学に対して多くの疑問を提出している。そこでは、「考古学者は特殊な世界に住んでおり、……、仲間内だけで通じる言語を話しているのではないかという気がすることがある」として、三角縁神獣鏡魏鏡説や古墳年代観の変動に対する疑問を呈し、考古学者主流派ではない関川尚功氏の大型前方後円墳の始まりは四世紀だとする見解を一応納得できると記している。白崎氏の見方と明らかに異なる立場がそこにうかがわれる。
 しかも、邪馬台国所在地の問題は、考古学だけに頼るべきではないし、考古学の遺跡・遺物の発見が所在地を決定するという考えには、久保田氏は根本的に疑問を持っており、所在地を「決定する考古学的な決め手はないと思う」と種々個別に検討したうえで書いている。私どもも、現在までに出土の考古遺物等からみて、基本的にこれと同じ立場だから(もちろん、考古学的な知見・資料は十分に尊重したいが、それには限界があると言うこと)、白崎氏が批判を加えるとしたら、この点が本来、最も重要だったはずである。だから、白崎氏の書かれる批判はまず筋違いといえよう。
 
 白崎氏は当該論考でも書かれるように、「私は古墳の年代を上げて考える方で、二十年前に三世紀古墳時代説を唱えた」事情にあり、それが、「古墳の発生を三世紀後半に認めるのは、もはや学会の大勢であり、三世紀前半にさかのぼるのも時間の問題であろう」とも表現している。実は、これは特定の偏った見解であり、私どもは、その根拠がなく、大きな誤りだと考えているし、最近では、関川尚功氏がその著『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年刊)で明らかに記述した。久保田氏も、古墳築造年代の繰上げには反対の立場をとり、次の著作『邪馬台国と大和朝廷』では、現在の主流派考古学者に対して大きな批判を縷々記述している。ここには、問題意識をもって良く読んでもらいたい記事が多い。だから、久保田氏のこうした立場を「初歩的な誤り」というのは、きわめて独断的といえそうである。
 古墳の発生年代を従前より繰り上げられることに関して、白崎氏がなぜ拘られるのかは前々からの疑問だが、おそらく根底に邪馬台国畿内説があるものと推される。だから、久保田氏が池上曽根遺跡に関して、「弥生時代の柱一本で、今まで云っていた年代が変わる」のは疑問だと述べることに対して、「何を云っているのやら判らない」と白崎氏は訝ったように表現される。しかし、これの意味が判らないはずがない。白崎氏は、考古年代が従来より引き上げられるのを歓迎するあまり、これまでまったく検証されていない年輪年代法による算出数値を無条件に受け入れており、そこには批判的な姿勢、自ら検証しようとする姿勢がまったく感じられない。多くの主流派関西系考古学者が総じてこうした傾向を示すのだから、これに対して久保田氏は強く批判しているのである。

 年輪年代法の評価については、「原理からいって誤差はほとんどなく」と、白崎氏は手放しで算定数値について是認しているが、この数値がいかに不安定(ズレがあったりして、デタラメのようなもの)であるかは、具体的に検証しようとする研究者が多く指摘するところである。日本列島のような活発な火山島で、南北に狭長で、海辺が多い地域で、当時の自然界の炭素14等の大気状況が地域ごとに明確に把握できるわけがない。「多雨多湿の日本」でという表現が、白崎氏の当該論考のなかで別の位置に見られるが、これが年輪生育の地域的差異につながらないと白崎氏は考えているのだろうか。最近でも、炭素状況の把握如何で、約百年もの誤差が出てくるとも言われている〔注1〕。一般論としても、自然科学の原理がそのまま現実の分析・調査にあてはまるわけがない。放射性炭素年代測定法の算出値に関し、「適切な較正」が必要なことはもはや自明の理となっているが、それが現実に的確な較正ができるのかという問題である。いかに自説に都合が良くても、自らも含めて、誰も検証できないような見解・結論を白崎氏が簡単に受け入れるところに大きな問題点がある。
 池上曽根遺跡にかぎらず、複数の柱が出ているところでは、どこでも幅をもった形で試算数値がでており、年輪年代法と連関する放射性炭素年代測定法の話であるが、ホケノ山古墳出土の樹木でも、計測し直したら、なんと百年ほども後ろへずれてしまったという例まで報告されている〔注2〕。年輪年代法による算出値についても、「誤差はほとんどなく」というのは、原理主義者か盲信者の言う言葉であって、現実の話しではない。

 前期古墳と三角縁神獣鏡との関係についても、白崎氏は、出土状況から見てなんら裏付けのない三角縁神獣鏡魏鏡説と同様の結論を信奉している。すなわち、同鏡がかりに国産だとしても一向にかまわないとしつつも、「景初四年鏡の出現によって、三角縁神獣鏡の製作が二四〇年前後に始まることは動かなくなったのだから、三角縁神獣鏡が最も多く出るところが邪馬台国なのである」という独断も、平気で提示する。鏡銘文の記す時期が即ち製作時期だという判断は、あまりにも素朴すぎて、前期古墳の多くの銅鏡(三角縁神獣鏡に限らない)の出土状況と合わないことが明白である。魏王朝から下賜された魏鏡でもありえない三角縁神獣鏡が邪馬台国の所在地を決定できるはずがない。さすがの考古学界でも、いまだに中国本土からの出土がないことなどの事情で、三角縁神獣鏡魏鏡説は少数になってきているとされる。
 白崎氏は、久保田氏に対して、「目を大局に注ぎ、より包括的な邪馬台国論を展開されることを期待してやまない」と当該論考を結ぶが、久保田氏にはおそらく大きな異論があろう。その場合に、仮に反論するとしたら、「先入観を排し、現実に物を見て、総合的で論理的合理的な思考をもって、邪馬台国論や古墳年代論などを検討されたい」とおそらく言い返すのではあるまいか。
 
〔注1〕 中村俊夫名古屋大学教授は、大気循環の変化によりC14濃度に局所的なむらができ、実年代に直すと、日本では古墳出現期を含む紀元一〜三世紀に最大約百年古くなる方向でずれると述べられる。鷲崎弘朋氏は、年輪年代法の算出値に関して、長らく約百年の年代遡上を説き続けておられ、そのデータ公表を求め続けておられるが、いまだに基礎データの公表がなされないから、誰も検証のしようがない。

〔注2〕
ホケノ山古墳出土の木棺材について放射性炭素法に拠る年代値は、もっと早い時期(三世紀中葉頃)を示すと当初、された。他の同法による数値同様、信拠し難く、傾向的に見て百年ほどの年代遡上が考えられたところ、橿考研編集の最新報告書『ホケノ山古墳の研究』(2008年)では、「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」(奥山誠義氏執筆)で中心年代は四世紀前半と改定されている。もっとも、後ろのほうが絶対的に正しい数値だというつもりはない。

 
 3 辻直樹・貝田禎造氏の著作と活動

 次ぎに、歴史研究の辻直樹氏(1928年生〜 )については、同姓同名者がかなり多いので、現在の消息は把握できていないが、京大薬学科を卒業後、塩野義製薬研究所で勤務された薬学博士である。
 その最初の一般刊行の著作は久保田氏よりも少し早く、『季刊邪馬台国』などに発表された論考などをまとめた、1984年刊行の『五王のアリバイ』(新人物往来社)である。その後、1989年に『上古の復元―卑弥呼から倭の五王まで』(以下の三冊ともに、毎日新聞社)、同年に『上古の難題』(上掲『五王のアリバイ』のほとんど復刻本)、さらに1992年に『箸墓の秘密―隠れていた弥生の終止符』を刊行され、これでその歴史研究活動をほぼ終えるから、やはり十年ほどの活動期間であった。このほかに、最初の私家版で『まほろばの覇者』を1976年に出しており、また、随筆集『天が見える』も私家版として1988年に出している。この随筆集のなかに「景初四年」という項があり、13編の歴史関係随筆もおさめられる。
 先にヤマトタケルを主題とした『まほろばの覇者』を出した辻氏は、古代歴史に関するエッセイ集の『五王のアリバイ』を出して、「浮ついた思い付きの古代史の氾濫に対する実験化学者の小さな告発」という観点で書かれ、古代史学分野で記紀の記述を無視して奇をてらう傾向が見られる歴史研究者(当然、歴史学究を含む)を痛烈に批判したものである。それらの結論についていえば、熊襲の実体(それが、北九州にあった邪馬台国残滓)や三角縁神獣鏡の配布者、古代天皇の実際の活動年代などに関して、示唆深い有益な見解が見られる。

 多くの見解のなかには、私どもとしては肯けない点もかなりあるものの、古田武彦氏らの論理展開や、歴史学究では水野祐氏や直木孝次郎氏らに見られる、いわゆる「反映説」に対して厳しく批判しており、これらが的確である(そもそも、反映論なんて否定の論理には使えないのに、その辺の論理学的知識が無い)。歴史論文集でも体系的な歴史書でもないが、ほぼ大化前代の長い時期についてトータル的な考察を行っており、「邪馬台国論だけに終始するのを嫌う」姿勢をとっているから、総じて有益な示唆・見解が多い。
 同書のなかの「歴史の験算」という項目では、「今、歴史家が中国の文献に出た記録以外は客観性がなくて取り上げるわけには行かぬ、と言って、邪馬台国と倭の五王の時代しか日本の古代史に採録しないのなら、これは0度と100度の目盛しかない温度計のようなものと思われる。温度計というものは本来……それ以外の中間の温度を測定するものである」と、温度計を例に出して厳しく批判している。
 これは、私どもが「真理は中間にありか」ということで総合的に考える事情にも通じ、かつ、白崎氏などを含めての主流派歴史学究に対するおおいなる批判でもある。彼らが、「厳密な文献批判」と言って、有益な史料も含めて多少の疑問があるものすべてを流し捨てる姿勢は、史料がきわめて乏しい古代史分野だけにきわめて問題が大きいものである。しかも、論理的に「厳密な批判」になっていないのだから、お笑いぐさみたいな感もある。
 考古学者があげて批判をしている騎馬民族征服王朝説だって、そのすべてを否定してよいわけではなく、崇神や応神ではなく、時代を更に三、四世紀ほど遡らせれば、基本的に妥当するのではないかと考えられる要素が大きい。わが国古代の祭祀・習俗・支配体制などが、古代北東アジアの騎馬系ないし半騎馬系民族に通じることが多い、という江上波夫氏の指摘を十分に受けとめる必要がある。いわゆる進歩的歴史学者が批判し否定する「万世一系の天皇」だって、匈奴以来の多くの騎馬系民族に通じて見える、いわば「黄金王統」ともいえる唯一の王統制を考えれば、端から否定できるものではない(現実には、応神は神武以来の王統に対する簒奪者であるが、広義では同祖同族の天孫族であって、天照大神〔実体が男神の生国魂神のこと〕という祖神からみれば「万世一系」といえよう)。江上氏の著作『騎馬民族国家』は、姉妹婚・嫂婚制などの習俗などに関して、重要な教示をなされるし、こうした古代北東アジアの諸例は古代倭地にとっても大いに参考になるものである。

 辻氏の検討視角は合理的なものが多い。そのことは諸著作が示すところであるが、だからといって、その結論がすべて正しいということではない。とくに、安本氏の年代観を採用して、「神武=崇神」と考えることは最も問題が大きい一つである。両者の周囲・関係者がすべて異なり、神武とその臣下・敵対関係者と崇神のそれらとは、古代氏族系譜で見て、それらの中間に四世代(約百年ほどの期間)が入るという事情がある。神武とその後継者たる手研耳命・綏靖天皇の皇位争いの伝承(実態は、綏靖によるクーデター事件)も無視できない。歴史の大きな流れから考えても、神武朝の版図と崇神朝の版図とには具体的に大きな差異があって、一代のうちに王権がこれだけの大膨脹を遂げうると考えるのが不自然である。
 ともあれ、相手方に対する批判論が妥当であっても、また、検討のアプローチが基本的に正しくても、批判後に導き出された結論が正しいわけではない(これは、一般論としても言えることであり、例えば、安本氏の津田亜流学究や主流派考古学者への批判は、総じて妥当なものが多い)。様々な観点から、多種多様なチェックを行い総合的に歴史の流れを考えていくことが重要である。その際に、辻氏も久保田氏もほとんど手掛けない祭祀(辻氏にはその試みも若干あるが)や習俗、系譜・氏族、地名・地理、金属との関連などの多くの観点も十分、総合的に考えていく必要がある。
 
 ここで、貝田禎造氏(1935年生。既に故人)についても、併せて触れておく。
 貝田氏は、近畿大学理工学部を卒業して奈良県庁に入り、土木事務所や郡山市などでも勤務された方であるが、1985年に『古代天皇長寿の謎−日本書紀の暦を解く−』(六興出版)を出された。その後、神武天皇についての小説『弥生の風―神武と八咫烏』を 2002年に出したが、これは、記紀・考古学資料などを検証しつつ書かれた弥生時代及び神武を取り上げた小説とされる。古代史関係の著作はこれくらいだと思われるが、書紀紀年の研究に顕著な貢献をしたと評価されるので、取り上げた次第である。
 すなわち、『古代天皇長寿の謎』のほうは、書紀紀年のX倍年暦論を取り上げて、顕著な研究成果を示しており、その意義もあって、彼の古代暦観を検討し受け入れる(ないし、言及する)見解が現在、ネット上にはかなり見られるから、忘れられた存在ではないといえよう。古代史研究の二大座標軸が「時間と場所」であり(この指摘は辻氏の著書にも見える)、この二つがほとんど確定している中世史研究とは大きな差異がある。
 ところが、歴史専門家でも場所・地名については津田博士以来、素朴な理解が蔓延しており、時間とくに暦法についてはまるで無視ないし無知に等しい。ただ素朴に受けとめて理解し、これらの結果、地理や年代が合わないとして記紀を切り捨てている(この傾向は、古田氏の所説にも見られ、九州王朝論につながっている)。「巨象」に対処するのに狭い視野で行い、その結果が記紀の否定につながることが多いが、これは誰の責任かは明白である。この例外ともいえるのが、大著『日本書紀成立の研究』を書かれた友田吉之助氏と『古代史を解く鍵』等暦関係の著作のある有坂隆道氏であり、前者は不朽の名著ともいえるが、大部すぎて今ではあまり読まれないのかもしれない。
 だから、数理的なセンスをもって『書紀』紀年の解明につとめられた貝田氏の業績は大きいものである(これに対し、安本氏の「数理統計手法」には疑問が多々ある)。従来、『魏志倭人伝』の記事などからわが国古代における「二倍年暦」(春秋暦とも同視される)の主張が安本・古田氏などからあっても、「四倍年暦」(書紀紀年の数理的処理によって、『書紀』の神武〜仁徳間で用いられる暦は、現在の普通暦の四分の一の期間を一年としていることが分かったとされる)の指摘は、それまで誰もしていなかっただけに、たいへん重要なものといってよい。最近、2016年になって、数学専門家でこの分野での受賞歴もある谷崎俊之氏が『数学セミナー』第55号で、「倭地の原始暦は四倍年暦」だとする研究を発表された。

 貝田氏が同書によってなした有益な指摘は多々あって、上記の四倍年暦のほか、神武(その在位時期推定が176〜195年につながる)等の上古天皇の実在性、旧暦(『書紀』に用いられる太陰暦より前の古来日本人固有の暦)の存在、辛酉革命説の否定などがあげられる。私どもとしては、その結論のすべてをそのまま受け入れるわけではないが、たいへん示唆深く、十分に参考にしたい有益な内容を多く含んでいることに留意したい。それにしても、文献学アプローチを志向する歴史学究はどうして暦の研究をしっかりしないのだろうか。

 
 4 神話とマスコミ利用について

 一般的にいって、非専門家の歴史研究は専門知識・認識がはるかに劣るために、いわゆる「トンデモ研究」に陥りがちな傾向がないとはいえない。しかし、長年自分の頭や手足を使って柔軟な姿勢で考えていくと、おのずとその辺は補われることになる。それでも、独りよがりにならないように常に留意しておくことが必要である。
 これに関して、朴斎こと、中国の書『山海経』など中国古典文学の研究を専門とされる富山大学准教授大野圭介氏(その意味で、日本古代史に関していえば、やはり非専門家であるが)が、トンデモ研究の戒めと非専門家の日本古代史研究についての注意点を、ネットのHP「トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編」であげられていて、一応の目安となるので、参照されたい〔註3〕
 ただ、どれがトンデモ研究にあたるかどうかの判定にはかなり難しい面もあり、史料をいわば「暗号解読」するという形の研究はそれにあたるとしても、個別具体的には難しい。しかも、朴斎氏のHPにも、微妙な部分がいくつかある。その一つが、「神話」の取扱い方である。

 戦後の日本古代史においては、主流派をなしてきた津田亜流では、応神・仁徳天皇より前の時代の出来事は神話か「物語」で、後世の造作・捏造として片づけられることが多い。実のところ、こうした単純な上古史切り捨てはきわめて疑問が大きいものであるが、それはともあれ、「神話」の研究は歴史研究ではないという論調まで至るとしたら、それは行き過ぎであろう。だから、神話を扱う研究が歴史研究の一分野として、当然存在すべきものであり、かつ、即トンデモ研究だと決めつけてはならない。
 辻直樹氏も、その随筆集に掲載の「景初四年」という大項目のなかで、「神話と歴史を混同してはならない」という点に関して、これを当然のこととしつつも、「神話は歴史ではないことは誰でも認めようが、さてどこまでが神話でどこからが歴史であるかは、歴史の専門家の中でも意見が分かれている。記紀のどこまでを歴史と見てよいか、それを明らかにしようという努力に対して、記紀が神話であるかのような断定を下して、神話と認めない側の人を無智と罵倒するのが本当の学問であろうか」と指摘されており、これが論理的に正しい思考方法だと思われる。
 だから、先に安本氏の「卑弥呼=天照大神」という見解が疑問大と記したが、これが高天原神話としての記事だからという理由とか、記紀神話を信じる「皇国史観」だから問題外という否定の仕方は、合理的ではない。日本の「記紀神話」といわれる部分は上古の歴史にそのままつながる特殊性をもっており、これを考えれば、頭から否定して史実原型を認めないのは疑問な姿勢である。だから、「天照大神」が仮に実在の人物として存在したときに、その所在地や活動時期などが『魏志倭人伝』に見える卑弥呼と合致しないから、この見解は成り立たないという否定論(久保田氏や拙見)とか、性別が異なるという否定論(拙見では、天照大神は男性神)でなければならない。安本氏は記紀神話も積極的に活用されるが、こうした手法自体に関しては、歴史学究からの批判対象になるべきものではない。その検討の内容と結論が問題であるだけである。

 とかく、「皇国史観」や神話という批判・非難は、それが分かり易いだけに、かえってこれらの定義がはっきりせず、問題が大きい。辻氏は、歴史には主観主義と客観主義があり、主観主義に左と右があって、「津田史学のエピゴーネンと見える方々は単に左翼主観主義者に過ぎなかった」と指摘しており、「東アジアの古代文化を考える会の大阪例会がタカシマヤホールで行われるが、司会者はいつも「皇国史観に反対して……」と前置きをする。そして客観主義を唱えながら左翼主義でないとヒステリーを起こす」と皮肉を言っている。要は、どちらの主観主義にも学問的に大きな問題があるということである。
 津田亜流学説のなかには、「もとより後代の造作と考えられる」「もとより史実ではないが」という表現や、「戦前の皇国史観の反省の上に徹底した史料批判を行うことで古代を復元してきた二十世紀後半の文献史研究」という表現を見かけるが、これらなどは疑問が大きい認識である。「後代の造作」という証明は、具体的にはこれまでまったくなされず、論理的合理的に「徹底した史料批判」なども、ほとんどなされずにきている。久保田穰氏は、これを批判して、記紀の記事の否定論に対して、「これを否定しようとするならば、その立証責任は否定論者にあることは明らかだと思う。ところが、私はまだ否定のための理由らしい理由を見たことがない」と述べ、「何よりも、否定論者は否定のための立証責任を果たしていない」、自分は存在しないという主観論だけを言って、そういう議論がまかり通るばかりか定説になるような「歴史学界とは不思議なところである」とも述べている(『古代史における論理と空想』)。

 総じて言えば、視野狭窄の素朴な理解・解釈(及びそれらの能力)と先入観で無雑作に史料切捨を続けて、否定論の循環に陥ってきたのが彼ら津田亜流学説であった。このような、古代の実態・原像の究明に至らない古代史研究が、人々に歴史の魅力を与えるはずがない。
 
 〔註3〕 本文にあげる朴斎氏のHPhttp://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/tondemo.htm)のなかで、「古代神話は史実を反映している?」の項などについては、やや疑問な表現もあると思われる。例えば、次のような諸点である。
 @記事の「他の根拠もなくそれ自体を史実と見なすのは極めて危険な行為なのです。神話や伝説から歴史を組み立てようとしても、それは新たな神話を生むだけです。」
 →<コメント> 前段はまったくその通りだと思われるが、もう少し丁寧な書き方もあるのではないかと感じる。もちろん、例えば「天照大神=卑弥呼」は史実としてありえないことだが、一方では、神話だからありえないという論理では疑問である。そもそも、太陽神たる天照大神の原型は男性神であり、年代的にも卑弥呼の遥か前代にあたるからだという論理なら、別であるが。記紀神話の否定論者には、北東アジアの騎馬・遊牧系民族における太陽神・天空の崇拝、鳥トーテミズム・鍛冶関係伝承などの祭祀・習俗的な観点が大きく欠如しているし、古代中国でも、こうした傾向をもつ部族・種族がいた事情がある。白川静氏の著『中国の神話』で書かれる殷王朝と倭地との関連をご覧ください。
 後段については、戦後の日本の歴史学究の「神話や伝説」の検討方法には大きな疑問があるという立場がある。広く東アジア的な視点で「神話記事」を考えることなしに、視野が狭い理解に立った日本神話の造作論・切捨論が横行しているからである。「神話や伝説」は、なんらかの史実の原型から転訛したとみられる要素を含むものがあるので、これらから直接に「歴史を組み立て」ることは無理な面があるとも思われるが、史実のなんらかのチェック・傍証には使える場合があるということまでを否定するようなニュアンスが当該記事には感じられる。歴史学界には、神話研究は天皇支配の正当化につながるということで嫌う傾向もあるから、冷静な検討が求められることは言うまでもない。
 もっとも、「古代神話研究は一般の人には多かれ少なかれ「突飛」な印象を与えるものですが、それらのすべてが学問的に成り立たないわけではありません」という朴斎氏の表現も見られるから、神話の史的観点からの研究を一概に否定するものではないと理解されるが。
 ちなみに、戦後の歴史学界で多く言われてきた「反映説」という否定論法が、論理的に考えてみて、神話の造作や実在性の否定につながらない(安本、辻、古田などの諸氏が言うまでもなく、当然のこと)。だから、私どもは「反映」という曖昧な表現自体を好まない。いったい、どうして「反映説」という摩訶不思議な否定論理が、古代史の文献学究に普及したのであろうか。
 
 A朴斎氏の言の「文献研究を甘く見てはいけません
 →<コメント> これは、まさにその通りであるが、非専門家に限らず、「いまの古代史や考古学の学究」には、驚くほど文献を無視するか、それ同様な姿勢の方々が多く見られる。だから、これが「トンデモ研究」や非専門家の跳梁跋扈を許している原因の一つにもなっている。文献学究の真摯で合理的な研究が強く要請されるし、それに基づく責任ある発言・主張が強く要請される。辻氏の言を借りていえば、対古田氏に限らず、古代史の諸問題で諸説が分かれているのは、当事者たる文献専門学究の責任であろうとし、古代史に関する混迷の最大原因はこの辺にあると思われる。「邪教の蔓延は宗教家の責任である」という表現も見える。
 古代中国文学の分野については分からないが、日本史の古代史や考古学の学究たちは、論理にもならない否定論理を使い、歴史の大きな流れを無視し、誰も検証ができない年輪年代法・C14年代測定法による年代算定値を盲信するという行動をとっている傾向が見られる。考古学者では、いまだに1枚も中国本土で出土しない三角縁神獣鏡を魏鏡だとする見方を基礎にして、古墳などの考古年代大系を組み立てている方もまだおられるようである。
 だから、いま、日本古代史研究において合理性のない「トンデモ研究」をしているのは、実際には誰なのかという認識をもっと持たれたほうがよいのではないかと感じる次第である。朴斎氏のHPの主旨に反することを言いたいわけではないが、ややもすると、日本古代史・考古学分野の諸学究に対する朴斎氏の信頼感が強すぎるという懸念も感じられる。いま、そうした信頼感は、批判的な研究、ひいては学問の進歩への妨げにもなろう。
 
  マスコミの利用についても関連して触れておくと、辻氏が末永雅雄博士のエピソードを紹介するなかに、「最近の考古学の人々が発掘事実の範囲を逸脱して新聞記者に話す傾向が強すぎる」と感じておられたことが見える。これが辻氏が昭和60年5月当時に執筆した記事(『天が見える』に所収)であるが、その当時でもそうであったのなら、いまの関西系考古学者の行動は、いったいなんと表現したらよいのであろう。
 研究者はもっと研究内容自体を中心に考えるべきであり、考古知見もできるだけ客観的に説明する必要がある。なんでも、邪馬台国畿内説に結びつけて発表し、かつ、それをそのまま報道するのはたいへんにおかしなものである。だから、マスコミのほうでも、古代史の記事を書く記者は、歴史なり考古学なりをよく勉強して、特定の傾向をもつ研究者により、いいように利用されないことを十分に心がけるべきであろう。それが、読者に対するマスコミとしての責任でもある。
 
  (2010.10.18 一応終了して掲上。2021.04.11に追補)


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