(続き) 森浩一氏著『天皇陵古墳への招待』を読んで天皇陵古墳を考える
|
(3)
ここまでに河内大塚古墳の話しがでてきたので、同墳についていうと、森氏は当初著『古墳の発掘』では、雄略天皇陵としては現治定の高鷲丸山古墳(直径約七五Mの大円墳か)よりも河内大塚を妥当とみていた。ところが、最近著では河内大塚の年代を引き下げて敏達陵に比定したために、考え方を変更して、雄略の現治定について、「ほとんど疑問がない」という高い評価を与えている。五条野丸山(森氏の表現。欽明の真陵の見瀬丸山)と河内大塚とが、墳丘や周濠がほぼ同規模でしかも古墳の年代が近い、とも森氏は記述する。
しかし、これは疑問が大きい。高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳)については治定陵墓のため調査がなされていないが、前方後円墳時代の大王墓として雄略だけが円墳を築造したとみるのは、きわめて不自然である。しかも、平塚と呼ばれる一辺五〇Mの方墳を合わせても、規模が諸天皇に比べて小さすぎる。とても天皇陵古墳とは言えないと考えられる。
河内大塚は中世に丹下城という城郭などが造られて大きな改造を受けたとはいえ、最近までの調査のなかで僅かながら埴輪の出土があったとされる。西田孝司氏は、河内大塚を文献による「磨戸石」の表記等から、「半加工された六世紀後半以降の横穴式巨石墳と想定される」とし、最初の欽明墓だとみる(『歴史検証 天皇陵』)。河内大塚が横穴をもつ後期古墳であるのは、おそらくそうであろうが、だからといって六世紀後半以降まで築造時期を引き下げる理由に乏しいし、その年代の場合にはたしかに欽明天皇しか被葬該当者はいなくなる。その場合、規模の大きい河内大塚を一度造ってから、もう一度、それよりも規模のやや劣る見瀬丸山古墳を築造するのかは疑問が大きい。河内大塚の所在地は欽明と所縁のある地でもない。
河内大塚にはもう一つ考慮すべき点がある。それは、その墳形であって、雄略陵墓の河内大塚に見られる「剣菱形墳丘」(前方部墳丘の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をするもの)である。墳丘に剣菱形が確認されているのは、畿内の今城塚古墳(真の継体陵だと衆目が一致。剣菱形については争いがあるか)、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳(真の欽明陵)、鳥屋見三才(鳥屋ミサンザイ)古墳と、東国の武蔵の埼玉古墳群の瓦塚古墳、下野の塚山古墳(宇都宮市南部)くらいであって、極めて数が少ない。その築造時期は五世紀後葉から六世紀前半頃にかけてとみられる事情にある。鳥屋見三才古墳からは、先に見たようにTK47式須恵器が出ており、剣菱形墳丘と併せ考えると、同墳が武烈陵であることを強く示唆する。
河内大塚古墳が雄略の真陵とする説は多く(梅原末治、上田宏範、白石太一郎氏など)、野上丈助氏も、河内大塚古墳が占める古墳の向き方の意味も重視して、雄略陵とみており、この見解が妥当だと考えられる(野上丈助氏も、河内大塚が雄略天皇〔=倭王武〕の陵墓とみて、古市古墳群で北向きの前方後円墳は現応神陵・現允恭陵と河内大塚であり、前二者は系譜の上ではいずれも「初代」とも称すべき新たな系統に属する大王であり、雄略は事蹟の点でも輝かしい中国王朝の称号を得ているし、応神を強く意識する面があったと考えられるとする。ただし、現允恭陵には治定が疑問であり、向きの方向も河内大塚・現応神陵とは若干異なる)。
(4)
天皇の治世期間や後継天皇との続柄を陵墓比定に際して、森氏はとくに考慮しないから、履中・反正など期間の短い天皇について巨大古墳を比定し、逆に治世期間の長い雄略に対して相対的にかなり小さめの古墳を比定する。応神以降で欽明までの諸天皇にあって治世期間が二十年を超えるのは、記紀等の記事を実質期間に換算してみれば、応神、仁徳、允恭、雄略、欽明の僅か五人であり、これら治世期間の長い天皇の陵墓が日本の巨大古墳上位八傑のうちに全てが入ることは自然であろう。この場合、応神陵・仁徳陵は現治定、允恭は土師ニサンザイ古墳、雄略は河内大塚古墳、欽明は見瀬丸山古墳という比定を考えている。ちなみに上位八傑のうちの他の三古墳とは、吉備の造山古墳のほか、百舌鳥陵山(石津丘古墳。履中陵に治定)、渋谷向山(景行陵に治定)である。
規模から見て全国第八位にあたる土師ニサンザイ古墳については、反正天皇の真陵とみる見解もかなり多い。しかし、治世期間が実質二年余くらいの短期の天皇であって、しかもその後継天皇が異母弟(記紀に同母の葛城磐之媛とするのは疑問で、反正の実母は矢田皇女か)で血のつながりが薄い允恭天皇だから、同墳が寿陵にせよ死後築造にせよ、政治的社会的に考えて、反正について巨大古墳を築造する余地は乏しいとみられる。森氏は、最近著で履中の陵墓が土師ニサンザイかとみているが(p193)、これは次の(6)で述べるように、氏が、允恭の陵墓を大山古墳とみるからそうなるのであって、多数一般に考えられている築造順序は「大山→ニサンザイ」であるところからすれば(白石氏は、ニサンザイの円筒埴輪が大仙陵のそれよりも明らかに後出だとしており、これと反する見解は管見に入っていない)、これと逆転する見方であっては肯けない。なお、矢田皇女の陵墓とみられる佐紀のウワナベ古墳は、一般に全長255mほどとされているが(当初著でも254mとする)、最近著に掲載の表(p28)では280mという数値が記載されており、このいずれにせよ、仁徳皇后としてふさわしい巨大古墳といえよう。
(5)
履中天皇の陵墓については、治世期間も実質三年ほどと長くはないが、父・仁徳の後継者として仁徳後期の執政をしていて、その時期に自分の寿陵も準備したのではないかと考えれば、治世期間以上に陵墓の規模が大きくても、それは肯けよう。現履中陵の墳形が、その妃・黒媛の墳墓とみられる黒姫山古墳と類似しているという事情もある。
現履中陵の墳形について、宮川氏は、誉田山(現応神陵)の墳丘の最下段だけをカットして築造したという見解をだしたが、現履中陵の築造順が誉田山に次いでおり、その次に現仁徳陵に位置するという見方を森氏はとり(p182)、陵山古墳が仲津山古墳や誉田山と造営企画の点で強く関係するともみている(p186〜187)。百舌鳥古墳群のなかの巨大古墳として最初に造営されたのが百舌鳥陵山古墳(現履中陵、p179)だとみて、これが仁徳陵の有力候補だとみているのである(p182)。
そうすると、森氏は、現履中陵よりも更に巨大な現仁徳陵(大仙陵古墳)が真の允恭陵になるとみているが、現仁徳陵が土師ニサンザイよりも築造が早いと多数一般にされるのに従う場合、履中陵はどこにいけばよいのだろうか。
いま、埴輪の製造年代の比較や現仁徳陵関連の遺物の年代評価(後述)などを考えて、現履中陵が現仁徳陵に先行するという説が多くなっており、森氏もこの見方をとるが、これは、森氏が批判する遺物学的アプローチではないだろうか。遺物ばかりではなく、出土遺物の配置など出土状況を重視し、遺構・遺跡を総合的に考えるべきだという森氏の主張(遺跡学的アプローチ。p60)は妥当であり、その観点から墳丘形式などを考えたときに、現仁徳陵・現履中陵についての現治定とその築造順は妥当であろうとみられる。現履中陵古墳の先行築造説の大きな根拠とされるのが、川西宏幸氏の円筒埴輪の編年分類であるが、野上丈助氏は、実物比較をすると、V、W、X期の埴輪は共存するとし、「応神陵、仁徳陵が年代的にみておかしいということになる川西編年は、方法論的に誤りがあるということになる」としており((大阪府立泉北考古資料館「大阪府の埴輪」・T)、埴輪編年だけで絶対年代や古墳築造順を厳密に与えるのは疑問が大きく、野上氏の指摘どおりだと考えられる。
墳丘形式に関していえば、古墳の中央くびれ部に見られる「造出し」の差異がある。森氏の当初著(p38)には、造出しの種類についての図表があり、そこでは、@両側に造出しがある古墳(現応神陵・現仁徳陵・コナベ古墳・現継体陵〔太田茶臼山〕などの例)、Aそのどちらか片方だけ(ウワナベ古墳・現履中陵・黒姫山古墳などの例)になり、B造出しがない古墳(箸墓・桜井茶臼山、現成務陵・神功皇后陵・日葉酢媛陵、黄金塚などの例)、という三種類の図示がある。この図示で見る限り、最も古いのはBで前期古墳、次ぎに@、そしてAの中期古墳になる、という変遷傾向があったとみられ、造出しは総じて中期古墳以降に現れる。現履中陵は、現仁徳陵が両方にもつのに対し、前方部に向かって左側だけに見られる。これは、黒姫山古墳(被葬者は履中妃の黒媛か)やウワナベ古墳(被葬者は仁徳皇后の矢田皇女か)に同様の例があり、この型式を見た場合には現仁徳陵のほうが先行することになる(その後の造出しは、土師ニサンザイや今城塚では両側にあるとのことで、これだけで一概にいえるものでもなさそうであるが)。
(6) いよいよ、本題的な仁徳陵の問題である。
森浩一氏も、もとは当初著で、現応神陵・現仁徳陵の治定を「ほとんど疑問がない」という最高評価をしていたが、最近著では、現応神陵について「妥当なようであるが、考古学的な決め手を欠く」と1ランク落とし、現仁徳陵については「墳丘の型式が天皇の順位と離れている」とランクを相当に落とし、築造時期を従来よりかなり遅く考えている。
現応神陵については、森氏はランクを落としたものの、別の被葬者を考えているわけでもなさそうであり、「誉田山(注:現応神陵のこと)に先行する二ツ塚古墳の被葬者として品陀真若王が浮かび上がる」(p207)と記している。記紀等の文献を照らし合わせると、現実には応神以外の被葬者は考えられない。白石氏も、誉田山の造営年代については、五世紀の第1四半期頃に遡ると想定されると記しており、これは年代的にも応神陵に符合する(白石氏は、直木孝次郎氏の説に賛同し、応神の在位時期を四世紀末から五世紀の初め頃とみるが、これは拙考でもほぼ同じ)。森氏は、「応神陵と信じられてきたのは、奈良時代(末か)ないし平安時代以降に応神天皇を葬った御廟とする八幡信仰が生まれてからのことである」(p203)と断定するが、自ら引用するように(p205)、雄略紀九年条の誉田陵についての田辺史の先祖が見える記事もあり、これから直接に言えないものの、誉田山古墳が古来から応神陵として祀られてきたものとみられる(白石氏もほぼ同旨)。
なお、「品陀真若王」とは、『古事記』応神段の割注に中日売命等三柱女王(いずれも応神妃で、中日売は仁徳の母)の父と見える人物であるが、この命名は当時の状況から不自然であって実在性が疑わしく(実在したとすれば、仁徳に当たるか)、三柱女王の実父は成務天皇であったとみられる。
現仁徳陵について、森氏の見解の主な部分を紹介すると、次のようなものがある。
「前方部石室の出土遺物には、ヤマトの新沢千塚一二六号墳や百済の斯麻王大墓と共通する文物が多く、年代も接近しているとことが考えられる。倭王讃の生存した五世紀前半とは少なくとも半世紀から一世紀近く食い違っている。」(p155)
「ボストン美術館蔵の銅鏡と環頭は伝承のように大山古墳出土品の可能性が高い。」(p157)
「考古学の常識では、前方後円墳の主(被葬者)は後円部に埋められる。」(p157)
「前方部の石室は後円部の埋葬より半世紀余り後になっての追葬とみる人が多い。そうではなく、ぼくは前方部の石室の年代が大山古墳の造営の時期を示しているとみている。そのような考古学の所見から真の被葬者を割り出すべきだと考えている。……允恭天皇よりもまだ少し後の大王が被葬者ではないかという思いがしている。」(p161)
「後円部とさほどの年代差はない同時埋葬とみた。幸い副葬品がよく分かるので、五世紀後半から六世紀初頭の埋葬とみた。倭王済の允恭天皇か倭王武の雄略天皇が候補となる。」(p175)
以上のような森氏の見方については、疑問が大きい。現仁徳陵の評価については、その出土遺物を中心に築造年代を考えているが、これは、森氏が相容れないと考える「遺物学的アプローチ」に立った見方ではないのだろうか。しかも、ボストン美術館蔵の四点については、「仁徳陵のものでないにしても百舌鳥古墳群中の一墳から発見された」(平林悦治「百舌鳥耳原洪宝録」一九三八年)として、仁徳陵出土を否定する文献もある。また、主被葬者が後円部に埋められるというのが考古学の常識だと森氏が認識していながら、前方部の状況をを重視するのは理由が分からない。前方部と後円部が同じ被葬状況であるかは、誰も確認ができていないのだから、常識的な線で考えるのが妥当ではなかろうか。
墳丘の造出しについては先に述べたが、現仁徳陵の地理的位置付けについて、かつて森氏は『巨大古墳の世紀』(一九八一年刊)で次ぎのように書いている。
「誉田山古墳と大山古墳、つまり二つの超大型古墳の兆域が北緯線上でほぼ一致していて、同時に地点をえらんだのか、それとも先に造営された古墳を基準にして一方の古墳の位置を決定したかのどちらかである」(同書のp134)
「古市古墳群と百舌鳥古墳群内での竹内街道を直線道路として東と西に延長すると、誉田山古墳と大山古墳に至っていて、この点は軽視できない」
「それぞれの東・西の周濠まで一〇・五キロも離れている大山古墳と誉田山古墳…(中略)…ほとんど東西にならんだ古墳となる。これはまず偶然になったのではなく、測量によって位置を決定したのであろう。この場合、それぞれの墳丘よりも兆域の範囲を北緯線上であわせている可能性が強い」(ともに同書のp134)
これらはたいへん重要な指摘であるが、森氏は最近著ではまったく触れていない。森氏は現応神陵の評価を落としているとはいえ、被葬者の有力者として応神天皇が考えられるのなら、それに匹敵する位置づけを百舌鳥古墳群でもつ現仁徳陵の被葬者もそれに相当する重要な天皇であったはずである。誉田山古墳→大山古墳という築造順序は認められるのだから、両者が五世紀の偉大な大王であって、前者が父、後者が息子という関係を認められてもよかろう。記紀において、そうしたケースは応神・仁徳父子しか該当しない。
百舌鳥古墳群では、現仁徳陵の後にも土師ニサンザイという巨大古墳が築造されている(『全国古墳編年集成』、広瀬和雄氏『前方後円墳国家』)。この事実を考えたとき、現仁徳陵の被葬者は雄略ではありえない。可能性として残るのは、仁徳か允恭しかない。森氏が、「倭王済の允恭天皇か倭王武の雄略天皇が候補」というのは疑問であって、雄略は候補から明らかにはずれる。それでは、「仁徳か允恭か」のうち、允恭が応神に匹敵する地位にあったかという判断である。最終的には、森氏は、「允恭陵については国際的な倭王の地位からいって大山古墳がより適当であるという藤間説のあることは先に述べた」(p216)と記すから、これに同調しているのであろう。
川西宏幸氏の円筒埴輪編年では、古市古墳群(含む誉田山)の大部分と百舌鳥古墳群(含む大山)の巨大古墳の編年時期をW期と考えており、これから見ても現仁徳陵を六世紀まで下げるのは肯けない。川西編年W期の時代は、おおむね五世紀前・中葉の「倭五王」の時代に当たるとみられる(川西氏は、W期が六世紀後葉頃とみているが、総じてその具体的年代比定は引下げ気味である)。白石氏は、須恵器生産の開始時期が最近は従来よりも遡って考えられるようになってきており、当然それに続くW期段階の円筒埴輪の始まりも遡るとし(さらに年輪年代法の数値も加味して考えるのは、拙考としては疑問だが)、誉田山や大仙陵(現仁徳陵)の年代についても、「五世紀前半にさかのぼることが疑いがたくなってきています」とし、誉田山古墳が「記・紀にみられる応神大王の墳墓である蓋然性を否定するのは、きわめてむずかしいのではないか」と記している。
この白石氏の指摘は、妥当な考え方であろう(これも含めて、誉田山及び大仙陵についての白石氏の見方は総じて妥当であるが、関連する仲津山古墳・百舌鳥陵山古墳の見方には疑問がある)。森氏の言うように現仁徳陵を五世紀後葉とか六世紀初頭に引き下げたら、いったいどの大王がその被葬者だと考えられるのであろうか。この時期は、雄略朝をピークにして、応神王統の王権衰退期になっていった。文献を重視するはずの森氏が、記紀の記事を的確に把握していないのであろうか。
森氏に限らず、応神陵・仁徳陵の比定については、疑義が出され、総じて応神・仁徳両天皇の活動時期よりも後代に両墓の築造時期を考える傾向も見えるが、これまで個別に疑義を検討してきたところでは、それら論者の主張には根拠がないと拙考ではみている。
なお、仁徳について森氏が思い違いをしているのはその人柄についてもあり、「仁徳天皇はその諡号も示すように仁と徳のある聖君主であって、矢田皇女のことは世間に知られたくなかったのであろう。」(p157〜158)という表現にも見られる。後から皇后に迎えた矢田皇女は、応神天皇の正嫡(皇后所生)の皇女であって、母系で崇神王統の血も受けており、矢田皇女の同母兄で応神正嫡の後継者・菟道稚郎子(実際には短期間、即位か)を倒して皇位を簒奪した仁徳にとって、同皇女を娶って皇后に据えることは、自らの王権を裏付けるべき重要な存在という意味があった。だから、矢田皇女との婚姻関係を「世間に知られたくなかった」ということは、まずありえないし、森氏は当時の王権と王位継承の意味・裏付けを理解していないと言わざるをえない。
(7) 河内・古市古墳群の市野山古墳(現允恭陵)・古市墓山(現応神陵の陪墳扱い)と摂津・三島野の太田茶臼山(現継体陵)についての被葬者の問題がある。これら三古墳に関しては、同一の築造企画だと上田宏範氏が指摘しており、森氏はこの指摘を引いて、「造営の年代が近いことを意味するだろう」「三基の古墳の被葬者が血縁関係で結ばれている可能性はある」との指摘をする。これら上田氏・森氏の見解には、私としても何ら異議がない。ところが、その一方で、森氏は「三基の前方後円墳の被葬者についてはまだ解決の光がさしてはいない」(p216)としつつ、次のような見解を示す。
@「太田茶臼山古墳はヲホド王(継体天皇)の父・彦主人王の墓ではないか」(p217)とし、即位後の継体が「父のために大規模な山陵として造営したとみる」(p224)とされる。
A古市墓山については、「前記の三基のなかではもっとも年代は遡りそうである。後円部頂上には格子文を刻んだ竜山石製の長持形石棺の蓋石が露出していた」、同墳からは滑石製勾玉を二人が数百個ずつ採集していたが、葬送祭祀に用いた「滑石製勾玉は奈良県の室大墓古墳や京都府の久津川車塚古墳でも知られている」という特徴をあげて、「被葬者を雄略天皇の子の白髪命(清寧天皇)ではないかと推定する」(以上は、p217〜p218)。
B市野山の被葬者を顕宗か仁賢とみるのも一案であり、兄弟の父の「市辺王の墓を顕宗天皇が即位した後に造営したとみるのも一案であろう」(p219)。
Cなお、継体に関連して、熱田神社付近の断夫山古墳(全長約一五〇M)の被葬者を尾張連草香(継体皇后目子媛の父)とするのが定説化しているとして、これを認め、「ヲホド王が越から河内へと南下するさい軍事的にも支えたとみられる」と記す(p222)。
しかし、これらのうち、Aの古市墓山についての特徴記事以外の被葬者推定等については、疑問が大きい。いったい、@彦主人王、A清寧天皇、B顕宗か仁賢かあるいは兄弟の父・市辺王、という被葬者三名が、どのような「血縁関係で結ばれている」事情があったのだろうか。
上田宏範氏の古墳型式分類では、これら三基は、現応神陵や津堂城山・室大墓と同じく「B型式T」というグループに入れられている。考古学的な分析と自然科学の測定(埴輪の様式論的検討、埴輪窯の年代測定)の結果、太田茶臼山は五世紀前半から中頃、継体真陵の今城塚は六世紀前半の築造とみられると森田克行氏は指摘する(「白石編著」)。とても、親子の年代差ではありえない。
これらの基本的認識を森氏が無視するから、おかしな被葬者推定を行う結果になったと考えられる。すなわち、現仁徳陵と同様、築造年代を引き下げ過ぎているのである。室大墓の被葬者は、葛城襲津彦という説もかなりみられるが、『書紀』や伝承がいうように、武内宿祢で妥当である。また、津堂城山は森氏もいうように倭建命が被葬者である。これらの諸事情を考えると、問題のこれら三基の被葬者は、応神天皇の近親・后妃という線で探らねばならない。拙見では、@太田茶臼山は継体の四代祖先の稚渟毛二俣命(応神の実弟)、A古市墓山は大中姫(応神の姉妹で、仲哀皇后)、B市野山は応神皇后の仲津媛(仁徳の母)、とみている。三者の親族関係が密接なことは、森氏の言うとおりである。いったい、森氏は雄略没後に続く応神王統後期の数代の短期間の天皇をどのように評価するのか。これらの勢威を相変わらず強くあったと考えるから、大古墳の被葬者として五世紀後葉の諸天皇や王族を推定するのだろうと思われる。
なお、C断夫山古墳の被葬者を尾張連草香とする定説は大きな疑問があり、ここは素直に継体皇后の目子媛とみたほうがよい。尾張連草香なる者は、尾張国造の支族の出であり、応神王統後期の陵墓や手白香皇后真陵(西山塚)・安閑・宣化・敏達の諸天皇の陵墓(これら三陵がどの古墳に比定されようとも)や当時の大和の大豪族物部氏の墳墓を凌ぐ規模の大古墳を自力で築造できるはずがない。継体やその子の天皇が築造に関与したとしたら、その皇后のほうと考えるのが自然であり、墳丘形式(上田方式によるD型式で今城塚と同じ)や副葬品もこれを示唆する。しかも、西山塚など天皇・皇后級と同じく三段築造の古墳である。尾張連草香が現実に継体即位に際してどのような役割を果たしたのか、そもそも生存していたのかはまったく不明である。ましてや、「ヲホド王が越から河内へと南下するさい軍事的にも支えたとみられる」というが、これら推測を裏付けるものは何もない。
森氏は、仁徳陵に関して、「大山古墳について知っていることを洗いざらい吐露した。先学たちが大山古墳を仁徳陵として古墳研究の定点にしてきたことも、ぼくは御破算とするほかなくなった。……ぼくの頭は混乱しだした。」(p177)という記述をしているが、以上の大古墳被葬者の比定が混乱するのも理の必然である。すべては、大山古墳を仁徳陵としてみることを拒否したところに起因し、天皇陵比定のバランス感覚の欠如が相まって、大きな混乱が起きたのである。
最近の考古学究でも、応神陵・仁徳陵については現治定で是とする菱田哲郎氏の見方(『古代日本 国家形成の考古学』二〇〇七年刊)がある。白石氏も、応神・仁徳両陵について詳細に諸事情を検討したうえで、誉田山が応神陵としての可能性が高いことをいい、その関連で大仙陵古墳も仁徳陵として同様だと上記「白石編著」で述べる。白石氏に言わせれば、大仙陵について五世紀中葉から後半に降る古墳という位置づけを与えた代表例が森氏の著『巨大古墳の世紀』(一九八一年刊)とされるから、仁徳陵については森氏は自らかけた呪縛に長い期間、囚われすぎているのではなかろうか。
3 そのほか、最近著を読んで多少とも気にかかった点について、簡単に触れておく。
@森氏は、宮都の所在地を重視するとして、現治定の垂仁の宝来山古墳を疑問とし、これを中期古墳として築造年代もズレているとする(p93)。それとともに、安康天皇について、『書紀』に菅原伏見陵に葬ると言う記事に着目し、安康陵の現治定も疑問だとして、安康が宝来山の被葬者とみるが、疑問が大きい。宝来山古墳も、現在の陵墓治定から調査ができず、遺物事情も知られず、外形などから築造時期が推定されてきたが、これまでの見方はa前期古墳か、b前期末ないし中期初頭とみられてきた(白石氏も前期後半におき、今尾文昭氏も「白石編著」のなかで前期末葉〔古墳編年4期〕におく)。拙見でも、後者bの見方で妥当だと思われ、これを中期古墳とまでするのは年代引下げ過ぎである。安康は治世期間が短く、しかもこの頃は後期古墳の時代に入りかけていた時期であって、別の古墳を考えたほうがよいと思われる。
A森氏のいう「日本武の直系の政権」という意味合いの「忍熊王政権」という仮称(p201)には疑問が大きく、忍熊王について越前には劒御子伝承があったとしても、それが越前での実際の活動を裏付けるものではありえない。なお、拙見でも、忍熊王が倭建命・仲哀天皇という皇統の正統な後継者であることは否定せず、応神を仲哀天皇の外戚で、王権の簒奪者という立場を採るものである。
B「欽明天皇と堅塩媛には七人の男、六人の女があって」という記事(p233)があるが、これら十三人にものぼる堅塩媛の子女にはかなりの重複があって、記紀の記事通り受けとるのは問題が大きい。生物学的にみても、まずありえない子女数である。
また、敏達天皇の殯宮の地「広瀬」について、通説的な奈良県の広瀬郡ではなく、古市古墳群の広瀬ではないかと考えているが(p90)、その皇后・推古をめぐって用明元年五月条に見える記事からいうと、疑問が残る。
C揚げ足取りのつもりではないが、誤記があるのであげておく。それは、最近著の「森浩一試案(2011年)」(最終頁のp269)の天皇陵評価の表であるが、「美陵市」という表記が古市古墳群の三古墳ついてに見えるので、おや?と思って調べると当初著(1965年刊)には「美陵町」とされていた。この自治体の名前は、昭和35年(1960)1月に藤井寺道明寺町が美陵町に改称となり、次ぎに昭和41年(1966)11月に市制施行して美陵市となるが即日改称して、藤井寺市が誕生したという経緯があった。なお、白石氏は、森氏の記述する「河内守源頼信告文」に関する誤記ないし誤植について触れているが(永承元年が正しいこと)、同文書は信頼性の低い中世の偽文書とみられることに留意される。
D最後に、古墳の名前の付け方についても触れておく。従来の天皇陵古墳について、「遺跡名をつけるには余分な感情が混じらない方がよいと考える」(p139)という立場は十分理解ができ、新しい古墳名で最近多く呼ばれだしたのは、森氏の功績として最初にあげたとおりである。ただ、その結果、一つの古墳に数個の呼び方ができてしまった重要古墳がいくつかあり、読者としては混乱することもかなり出てきた。
森氏の最近著では、例えば、現仁徳陵について、「大仙陵」という表記を嫌ったり、現履中陵について、「百舌鳥陵山古墳の所在地は石津ヶ丘だが、これは新しい町名である」(p181。「百舌鳥陵山」と「石津ヶ丘」「石津丘」という表記がほぼ並立しており、他の古墳と違って特に紛らわしい)とか、現応神陵について、誉田山古墳という呼び方を是として、誉田御廟山古墳という言い方については、「御廟山といった資料は知らない」と註記する(p203)。あるいは、欽明陵の比定がなされる見瀬丸山古墳について、見瀬の地には古墳がすこししかかからないから、五条野丸山古墳が正しいと森氏は主張するが、これらについては、私にはどうも拘りすぎのような感じを受ける。
白石太一郎氏は、森氏の立場に理解を示しながら、地元で「大山」「誉田山」と呼んだ例がまったく見出せないとして、「大仙陵」「御廟山」のほうが妥当とする。また、森氏が「箸中山古墳」と呼ぶことにも疑問を感じ、「箸墓古墳」として話を進めるとする(以上は白石編著)。なお、五条野丸山については白石氏も使用するが、これも含め、地名の発生時期、その範囲地域等々、不確定要素が多いのだから、通常に親しまれている名称のほうがよいと思われる。
ともあれ、読み手の分かり易さ、指示の明確性や命名の簡潔性を十分考慮したうえで、考古学界全体で検討して、古墳の呼び名を是非とも統一してほしいと希望するものである。
以上、見てきたように森氏の最近著の記事を批判した部分でも、そのかなりの部分が同氏の当初著を含むこれまでの著作に拠るものであった。森氏の諸著作を愛好し学恩に預かってきた論者としては、最近著の記事に対して、「先生、本当にこれで良いのでしょうか?」と問いかけたい気持ちが強い。それ故に、それが本論考作成の動機の一つにもなっている事情がある。また、ここで引いた白石氏も一方の権威であり、その見解は様々に示唆深く、森氏と対比することにより、有益な検討ができたと考えている。
最初に述べたように、天皇陵の比定問題には様々な制約があるが、それでも、総合的合理的な判断が、最近までの考古学知見の増加をふまえてなされる必要があると痛感する次第であり、それが上古史解明への大きな手がかりないし手段になると思われる。
<※なお、紙数の関係などから、本稿の系譜関係の記事については簡潔にとどめざるをえなかったが、なかには記紀の記事や通説と異なるものもあり、古墳比定の詳細と併せて、本稿における更なる事情に興味のある方は、宝賀寿男著『巨大古墳と古代王統譜』『「神武東征」の原像』『神功皇后と天日矛の伝承』の関係記事をご覧下さい。> (2012.1.28掲上。2.4に語句等で微修正) <参考> 立花隆氏の「私の読書日記」(週刊文春2012.3.15号掲載)の記事について 最近、唖然としたのは、かの有名な立花隆氏の書評である。『週刊文春』2012.3.15号に掲載された「私の読書日記」の記事で、「タックスヘイブン、天皇陵」と題された記事には、矢澤高太郎著『天皇陵の謎』(文春新書)と右島和夫・千賀久『列島の考古学 古墳時代』(河出書房新社)の2冊が取り上げられるが、そのほとんど大部分が前者について書かれる。そして、その紹介記事の内容が疑問なものである。 矢澤高太郎氏は読売新聞の記者であったが、書かれる内容は、序章部分のほとんどが研究者の説の受け売りのようである。そして、その序章の記事を引いて、立花氏がした表現は、「宮内庁説の通りと歴史学者がそろって認める天皇陵はわずか二基(天智陵と天武・持統領〔ママ〕)なのだ」というものであり、これはきわめて誤謬のあるもの(ないし誤誘導的なもの)である。 まず、矢澤氏の著では、2011年10月に刊行されたものであるにかかわらず、森浩一氏の1965年の『古墳の発掘』における陵墓信頼度の評価表を引いており、その数か月前の最近著の2011年8月に刊行されている『天皇陵古墳への招待』での評価表を引いていない(これは、著作・印刷の関係上、いたしかたがない面もあろうし、最後に「追記」ということで、最近では、森説でも7基だと記される)。そして、前者の著では、開化から文武までの合計32陵墓について宮内庁説の通りとするのは、実は4基なのである。これが、考古学者のなかで最も厳しいほうの見方だという趣旨も、矢澤氏が書いている。矢澤氏の著書の謳い文句が、「初代神武天皇から第四十二代文武天皇までの古代天皇陵四十基のうち、被葬者が確実に陵名の天皇であるとされているのは、わずか数基しかありません。ほとんどの陵の被葬者は、学問的にきわめて疑わしい。」というものであるが、これは殆ど森浩一氏の説に基づくもののようであり、しかも、この森説の陵墓評価が全て正しいわけでもない(永年、森氏が精力的に研究してきたから、その学説が全て正しいというわけでもない)。森氏の説も、確たるアプローチがあまりないせいか、これまでいろいろ変遷してきているし、矢澤氏もその変遷を承知して、【追記】で、森説の変遷に触れたうえで、「最も森さんらしいと判断する時期(これはいったい何時なのか?。森氏の最新の考えではないということしか分からない)の考定」が著書に掲載されたとするが、それが信頼できる陵墓治定が2基だけだとする。なんと恣意的で、曖昧なものであろうか。 矢澤氏は、その「自著を語る」というHP記事のなかには、「古代天皇陵の9割は別人!?」とまで書いているが、これも誤解的である。森氏の説を引くのであれば、「○(ほとんど疑問がない)」に加えて、「●(妥当なようであるが、考古学的な決め手を欠く)」のついた陵墓は、被葬者として必ずしも別人だとはいい難い、という事情も考慮すべきである。●は実のところ、かなりの数がうたれている(1965年で12個、2011年で8個ある。実のところ、森氏が「考古学的な決め手を欠く」と考えるのは、記紀などの史料がハナから否定され、これまでの文献研究が偏向していて、かつ、天皇の治世時期の不十分・不的確な把握に因る事情もある)。矢澤氏も立花氏も、天皇陵治定について、その信頼性を安易に貶すようなデマゴーグ的な表現を慎むべきではなかろうか。これも、各々がご自身の判断基準で陵墓治定の是非を考えていないような事情があるからである。 とはいえ、矢澤氏の著書をすべて否定するつもりはまったくない。例えば、雄略天皇の陵墓に関しての記述は、現在の森浩一氏の考えよりは断然すぐれている。また、応神陵・仁徳陵については、現在の陵墓治定でよいと考える白石太一郎氏の考えをきちんと紹介している。その他、天皇陵についての様々な見方を知るうえで、本書はなかなか興味深いものもある。これらの事情があるからこそ、矢澤氏は、いろいろ変遷してきた森氏の最新の見方について、むしろ評価を低めていることが窺われる。実のところ、私も、最近の森浩一氏の見方はおかしくなっている部分がかなりあると考えており、それが本稿を記した要因の1つでもあった。だから、摘み食い的な立花氏の論調に対して、ここで疑問を書いた次第でもある。 ところで、4基と2基との「差の2基」は、どうして生じたのかというと、それが応神陵と仁徳陵についての評価の差異なのである。1965年の森氏の著では、これら2陵墓も天智陵と天武・持統陵と同じく「○」がついているのだ。だから、矢澤氏の著作自体がこの部分の森浩一氏の元(1965年)の評価表を変更している。たしかに、森浩一氏は、その後にこの2陵墓について説を改めて信頼度を下げているが(この変更、とくに仁徳陵治定の否定は森氏の持論であるが、最近ではこれに対する疑問も出てきており、実のところ、森説は疑問が大きい)、出典が1965年の上掲著だと断るのなら、そのとおり原典のまま記載しなければ、引用としておかしい。そして、2011年の森氏の最近著では、このHPで先に紹介したように、評価の変更がかなりの数、見られており、同じ32陵墓について「○」が7個もついている。 立花氏がお金をもらって書評を書くのなら、少なくとも強調する点については、原典とその関連書に当たって所要の確認をきちんと行ってからやるべきである。この辺に、ある意味で彼の本質が窺われるのかもしれない。 しかも、2012.3.15号(2012.3.8発売)の原稿を立花氏が何時書いたか不明であるが、天皇陵を取り上げようとするのであれば、矢澤氏の著ではなく、森浩一氏の『天皇陵古墳への招待』そのものや、白石太一郎氏の2012年1月の近著『天皇陵古墳を考える』を取り上げるべきでもある。矢澤氏の経歴や森氏などの「考古学者の大家」という名前に釣られてはならないし、その論調の分かり易さに惑わされてはならない。すべて個々の問題ごとに是々非々を考えるべきものであり、天皇陵墓の研究については、冷静に合理的に行われるべきものである。読み方によっては、本稿の論旨がふらついているように見えるかもしれないが、この辺が言いたい部分であることを言い添えておきたい。 (2012.3.16掲上) |
前へ戻る 独り言等topへ ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |