わが国の系図研究の歴史
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その研究対象と研究者たち

                        
宝賀 寿男
 

 系図集など「系図史料類」についての説明はいろいろあっても、「系図研究者」についての研究・整理の記事は従来、多少は見えるものの、これがあまり良くなされていないようでもある。そこで、ここでは系図集と系図研究者(主に敬称略)を併せて取り上げて、その研究・編纂の歴史を追い、かつ、それぞれ吟味・批判を試みてみる。
 ここで取り上げる対象(系図集、系図研究者)や記事は、丸山浩一氏著の『系図文献資料総覧』、太田亮博士著の『家系系図の合理的研究法』(1930年刊。その引用は「合理的研究法」と略記する)及び論考「系図と系譜」(『岩波講座日本史第12参考編』、1933年刊)、や近藤安太郎氏著の『系図研究の基礎知識』、中村友一氏の見解(明治大学准教授。日本家系図学会総会〔2019年11月〕での講演レジメ「日本古代史学における系図史料の意義)、岸本良信氏のHP記事(「系図研究者たち」)、などを踏まえて、執筆者が適宜、選択した(系譜的記述を含む史料類よりは系図集のほうを主にした)。
 系図・研究者に関するそれぞれの評価は、「筆者による現時点での試案」である(ここでは「厳しめの批判という姿勢を本筋」としたが、評価の高低はあくまでも業績・記事に関する拙見であり、「人格的な評価」では決してないことを先ずお断りしておく。なかには、筆者の多少ともの誤解もあろうが、その辺は気づいたり認識替えしたところで適宜、補訂していきたい)。

          
 
  はじめに

 「何のために系図研究をするのか?」という基本的な疑問を、先日、投げかけられた感じもあって、本テーマに関して、諸書・諸史料類や諸論考を踏まえ、私なりに整理してみようと思った次第である。その意味で、先学・先考の引写しを多少はなかに入れつつ、各種資料類について長年、具体的に自分の手と目で当たってきた経験を基に、拙考なりにまとめた試論である。この辺をまずお断りする(なお、ここでは、「系図、系譜、譜牒」などといわれるもの及び関連史料類を、広く含めて包括的に「系図」と表現することにする。鈴木真年の五大目標の第一が「系図学の大成」という表現でもあったように、ここでの「系図学」は「家系探求」という狭い範囲の意味でもない)。

 総じて言うと、系図研究の目的で主なものは、史実(歴史原態)の探求(そのための補助・材料ではあるが、そのための基礎的で不可欠な作業の一つだとまとめられよう。史実探求の代わりに「社会変遷の探求」という見方もあるが、概ね同様であろう。多くの歴史的な事件に登場する諸人物の具体的な比定や様々な人間関係を具体的・的確に把握するため、系図(血系、家系)を史料として用いることで、史実の解明に寄与することである。佐伯有清氏も、「系図を歴史研究の史料として尊重する」というものであった(『古代氏族の系図』)。もちろん、他の系図類を分析・調査するためにも、系図研究は必要であって、系図研究は相互に絡み合う。だから、系図という史料の批判に当たっては、個別に(個々の個所ごとに)、十分に厳しく吟味する必要がある〔註〕
〔註〕日本史学の視点から、そもそも、「系譜」という分野の史料性はかなり低く見られてきたうえに、製作・編纂時にも、伝来の過程でも、潤色や改変・改編などが加えられる可能性があり、そのため史料的価値が著しく下がる(信憑性が乏しい)と評価される事情があるものもある。そのため、個別史料の評価に当たっては、系図内容の信憑性と同時代的な認識、それらを含み込んだ史料そのものの意義を十分に考えることが必要と思われる。
……以上の記事は、中村友一氏の表現を踏まえて、私なりに表現したもの。
なお、系図が「家系や祖先の顕彰を目的として、後世に編纂されることが多い」という見方には反対する。もともと、中国では、他氏族との歴史的区別や祖先祭祀〔トーテム崇拝〕の差違を目的に、系図が上古から書き伝えられてきた(朝鮮半島でも、そうした中国の伝統を受け継いできた)。後になって、個別の氏として、あるいは国家・政治体として系譜編纂がなされたときの目的には、それぞれの事情があろう。
 この「歴史」には、大きな歴史の流れのほか、個別の氏や家について遠い祖先からの活動事績のときもあり(祖先・家系への祭祀・崇拝や「ルーツ探し」、すなわち祖先探求の場合も勿論、含む)、いずれの場合でも具体的総合的な考察を必要とするから、生半可な歴史知識を基に判断・評価ができない(系図の評価には、近隣の東アジア史を含めて歴史知識が十分に必要だと言うこと。だから、日本列島は勿論、中国・朝鮮半島及び近隣地域における、上古からの歴史の大きな流れが的確に把握できていない人が、「学究」という肩書きだけで、系図関係を評価してはならない)。
 「総合的」ということは、日本史の歴史知識だけではなく、地理・地名とか習俗・祭祀、考古学あるいは暦・数学・統計学や中国語や時に理化学分野など、多種多様な分野の学問を含むものである。とくに、対象となる系図が上古代に遡るほど、時間・場所・人名比定の問題(When・Where・Whoの問題)に難しいことがあり、総合的で広域地域的な歴史見識を必要とすることに留意される(この辺が、日本史の「歴史学究」を認じる方〔とくに中世史関係の専門家〕の一部にはご理解されないところがあり、系図研究にあたっては学究・在野を問わないことにご留意されたい)。
 こうした検討の過程で、系譜史料の成立経緯や編纂(ないし製作)の意図、関係する由緒・伝承や歴史的背景・事件の諸事情などを踏まえて、総合的具体的に考察することが必要となる。しかも、長い期間、系図が伝えられていくことで、その時々の時勢や保持者に応じて記事が変更されたり(事績・官位の虚飾に限らず、祖系の架上、本・支流の別など)、部分的に記事が失われたり、と系図自体が大きく変質することがままある。このような系図の変化から、後世の系図偽造や系譜架上を主体に考える見方は、系図研究の姿勢として基本的に間違っている。勿論、始祖・出自を後世になって偽ることは多くあるが、総じて割合、限定的な系図変更であった(そうでもないと、簡単に偽造が見破られるおそれもあるから)。

 
 「古代系図」と「中世系図」

 ここでは、上古代・神代まで遡る系図を包括的に「古代系図」、基本的に平安時代以降の時期を取り上げる系図を同じく「中世系図」という形で表現をしておく。前者では、氏・姓(かばね)や祭祀・習俗の問題があり、後者では苗字(家系)・家紋の問題がある。大雑把に言えば、「姓氏」と「家系」ということであるが、この性格の差違が時に大きいこともあることに留意したい。
 この両者の区分は、意外に気づかれていないが、たいへん重要なものだと考える。それは、習俗・祭祀という面が、古代系図関係の検討ではかなり大きな要素を占めることで分かる。平安前期以降では日本列島(倭地)はいわば鎖国となり、そのなかで日本人が人種として形成されていったが、上古からは中国・朝鮮半島を含む北東アジア広域(この地域で活動する種族)の影響を日本の歴史・文化は大きく受けてきた事情がある。だから、系図についても、北東アジア広域の視点で考えることが必要となる。
 中世では、武士の本領維持(これも「政治性」の現れか)こそが系図と古文書を存続させた最大の理由だという荻生徂徠の指摘もある(中村友一氏は、「高度な政治性」の有無で、系図両者の差違を考えるが、「政治性」ということでは、古代系図も中世系図も共に持っていたと思われ、それが時代の差、濃淡の差にすぎないのではないか)。そして、古代の歴史・系図にあっては、@何時・A何処で・B誰が具体的な比定者。同名異人、異名同人の判別)、すなわち「When・Where・Who」という三大要素が一義的に判じ難い面があることにも十分に留意される(この辺の諸要素は、中世系図ではあまり問題にならない)。
 これら辺りのことは、公私による系図作成(偽造・編纂)の動機とも絡み、支配の正統性・姓氏(諸家)秩序の維持、所領・財産の争い、仕官、名字帯刀許可、一族(党的)結合や官位叙任、姓氏仮冒を含む家系装飾など、各氏の具体的な利得問題とも関連するが、後二者の官位・姓氏装飾は古代関係に多く見られるか。
 ともあれ、系図学を歴史検討に用いるためには、系図全体ばかりではなく(成立の時期、編者など諸事情)、個別各部分の記事を厳しく具体的に吟味・評価することが必要である(系図研究者の評価に関しても同様)。これらの作業なしでは、系図は史実探求の手段になりえず、氏や家の「単なる顕彰道具」に堕する。だから、本稿の記事もそうした姿勢で貫くことになる(この辺の記事検討が従来の系図研究者や系図集への評価に当たって、乏しいと感じ、ここに敢えて執筆する次第でもある)。

 
 古代の系図

 前置きが若干長かったが、そろそろ本題に入る。
 記紀や『旧事本紀』(「天孫本紀」など)、『上宮記』(逸文。『釈日本紀』に引用)などの古代史料には系譜的な表現(文章系譜)が多いし、とくに『書紀』には「帝王系図」一巻が添えられた(『続日本紀』養老四年条)というが、この巻は早くに散失した。以下でも幾つか記述するように、系譜研究という学問は、「ルーツ探し」の道具ではなく、もともと歴史編纂のために必須のものであった(これは、系図の作成・編纂の目的とも関連し、たいへん重要な認識である。この辺から誤解がある著述も見られる)。
 
 現存『書紀』の上記事情のため、系図集としてまず取り上げるのは、平安前期の弘仁六年(西暦815)に成立の官撰系図集『新撰姓氏録』(以下では、たんに『姓氏録』と記す)である。撰者としては総裁万多親王・右大臣藤原園人・三原弟平・大外記上毛野穎人などの名が伝えられ、実務を担当した者八人(石河国助、伊予部年嗣、越智浄継などで治部省関係が三人)も知られるが、実務主導者はよく分からない。これに先立って、天平宝字年間に「氏族志」編纂事業の試みもあったとされる。
 同書は、平安京及び五畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉の順)に居住する古代氏族の系譜書で、三十巻目録一巻から成り、1182氏を皇別・神別(天神、天孫、地祇)・諸蕃の「三体」(判別できない氏が「未定雑姓」)に大別したうえで、始祖・系譜や様々な由緒関係の記事がある。現在、完本は伝わらず現存するのが抄録本である。その編纂端緒は、延暦十八年(799)十二月、諸氏族に本系帳氏族譜)の進上を命じたことにある。
 今日に断片でも伝わる本系帳には、中臣氏(延喜本系)、多米宿祢氏(『政事要略』)、秦氏(『本朝月令』)、菅原氏(『菅家御伝記』)などがある(太田亮博士は、中臣宮処氏本系帳は偽書だとする)。氏文としては、『高橋氏文』(高橋氏)や『古語拾遺』(斎部氏)、『丹生祝氏文』もあり、氏の伝承・系譜を窺いうる。いずれも現存するのは完本ではない模様である。
 『姓氏録』は京畿内に居住する有力氏族の本系を集成するが、関連して畿外諸国に居住の氏族名も一部あげられ、これは地方氏族に関する貴重な史料でもある。本書は「冒名冒蔭の盛行による氏姓秩序の混乱を収拾するため」(佐伯有清氏)、あるいは軍事・課税などの負担単位たる氏族が分化、対立してきたのを諸氏族について序列を整理・確認するため(阿部武彦氏など)、諸氏の出自と賜氏姓の推移の明確化を期して編纂されたとみられる。こうした事情から、日本古代氏族について、その実態や姓氏家系や当時の時代背景を調べる上で欠かせない古代史研究の重要な史料の一つが系図である(以上は、主に佐伯有清博士による『国史大辞典』の記事を基に記述)。
 ただ、これら『姓氏録』の記事は各々の氏が提出した系譜に基づくから、自称や系譜仮冒も混じっており、諸天皇や中国・朝鮮の皇帝・王に系譜をつなぐなど、祖系の裏付けが取れ難いものもないではないことに留意される。編撰者の手腕の差違もあるのだろうが、抄録本からは窺い知れない事情もある。
 
 その後は、官撰による系図編纂事業は、平安期・鎌倉期ともになかった。『類聚符宣抄』には、貞観六年(864)に滋野安成が「天皇系図」を編纂したといい、寛平四年(892)の菅原道真編纂による『類聚国史』にも「帝王系図」三巻が付いていたとされるが、それぞれ系図は現在に伝わらない。
 皇室系図関係では、太田博士は、壬生文書中に見えるものが最古で、鎌倉時代の弘安期頃のものだとされる。飯田瑞穂氏に拠ると、尊経閣文庫所蔵の『帝王系図』〔五―七書〕は、『続群書類従』巻一〇六所収『皇胤系図』の祖本で鎌倉荘厳院旧蔵であり、神武天皇より後二条天皇に至る系図で伏見天皇の時に成立し、以後書き継がれたと考えられる(「帝王系図」の項。加藤友康他編『日本史文献解題辞典』)。『群書類従』系譜部に掲載の『本朝皇胤紹運録』のほうは、洞院満季が応永卅三年(1426)に「帝王系図」として原本を撰した(『薩戒記』。一本の奥書から、後小松上皇の勅命によって撰進された事情が分かる)と知られるが、その後に後代まで増補されてきて、異本が多い(現存する皇室系図関係では、中田憲信編『皇胤志』が最も詳細な系図だと思われる)。
 ともあれ、太田博士が、太古の皇室では「末子相続」で、仁徳帝以降に長子相続になったとみるが(「系図と系譜」)、これは誤りである。上古から「嫡長子」による相続が倭地の王族・雄族でなされてきた。いわゆる闕史八代などの皇統譜が、記紀編纂までに随分と変改された事情を無視する見方(記紀の系譜記事を素朴にそのまま受けとる見方)が「末子相続」ということである。記紀の記事には様々な変遷があったと思われるし、それが何度かの大王権簒奪にあたって影響をうけた事情がある。
 
 個別の古代系図では、『円珍俗姓系図』(『和気系図』。園城寺所蔵)や、古社祠官家に残る系図がある。後者は、阿蘇氏・宇佐氏・宗像氏・尾張氏・三輪氏(「三輪高宮家系」)や紀国造家など、各地の祠官家諸氏に幾つか伝来する(竪系図の現存初例としてよく引かれる、丹後・籠神社の「海部氏系図」は、宮地直一博士が見出したとされ、太田博士も著作で触れるが、記事に矛盾等があり、実在が確認できる人物が記事には誰もいないという後世の偽造系図である)。
 大倉粂馬が公表した『円珍系図』は、円珍自身の書込も見られる由緒ある平安前期の「竪系図」で、武国凝別皇子以下の系図が記される。その貴重性は確かだが、記事・内容がすべて正しいということではない(とくに祖系・出自の部分の記事には問題があり、その系譜原態は景行天皇の後裔ではない。同系図を取り上げる論考・書はかなり多いが、いずれも系譜原態の解明には至っていない。それは、上古史の流れと息長氏一族の把握が的確ではない故である)。
 
 以上に見るように、「@系譜の文章記述(文章系譜)→A竪系図→B横系図」の形式で、わが国の系図の記事様式が変遷してきたことは、衆目が一致する。なお、文章系譜の前に「口承系譜」を言う者もいるが、太田博士はとくにこれをあげないし、漢字を持って大陸から朝鮮半島を経由して、上古の倭地に入ってきた種族が支配層となって、古くから先祖からの系譜を伝えたとしたら、「口承系譜」という形態を考えないほうが妥当であろう(文字を持たないアイヌの口承とは異なると考える)。
 太田博士は、このほかに「世数書系図」という様式(太田博士の表現で、同世数の人名を列記したもの。すなわち、始祖より同世数になる人を集めて同列に記載して行く系図形式)を取り上げて、「天孫本紀」物部氏・尾張氏の系譜に見え、これが「支那の族譜形式」だとする。博士は、「支那の族譜の影響で」、「本系帳、或は竪系図を斯様に書き改めたと思はれる」(Aの後)とみるが、それは間違いで、最初の文章系譜から竪系図に移る過程(@とAの間)のなかに当該世数書系図があったのであろう。古代中国ばかりではなく、朝鮮半島の族譜も同様な「世数書系図」の形式で永く続いており、上古倭地の支配階層が韓地から渡来してきた上記事情を考えると、この形式が竪系図よりむしろ古いとするのが自然である(太田博士は、『旧事本紀』が偽書だという認識が強い故の結論だが、同書の偽書性は「序」の問題だとみるのが妥当である)。

 「太古系譜の特長」の項でも、太田博士の見解には疑問がある。それは、「今日伝えられたものは殆ど後世のもので、古典に見ゆる人名を基礎として作られたものに過ぎないと思ふ。但し、出雲、紀等の国造系図は大体信用してもよいであらう」と記すが、この辺も全面的に誤っている。後世に上古まで遡る系譜を簡単に作成できるものではないし、出雲・紀等の国造系図で中世系図集のなかに見えるものは総じて簡単なものが多く、上古関係の記事にはかなりの疑問があるからである(この辺の太田博士の見解を基礎とする学究もいるようだが、基本から見方が間違っている)。博士の見た中世系図集のなかの不完全な古代部分ばかりを基に考えるから、こうした後世の系図造作説に傾くものではなかろうか。

 
 中世系図の編纂と研究

 中世では、室町期の洞院家による『尊卑分脈』編纂事業がまずあげられる。
 西園寺家支流の洞院家では、有職故実に通じる博識者が多く出た家柄で多くの典籍を蓄積し、なかでも第四代公賢は、南北朝時代の重要史料とされる日記『園太暦』の記主で知られる。こうした事情を承けて、十四世紀後葉に洞院公定公賢の孫で、左大臣まで昇進。生没が1340〜99)が原撰した(そのため、鎌倉末期ないし南北朝初期頃までを系の末尾とする記事が多い)。同書は、二十年ほどの作業で応永二年(1395)頃までの撰とみられており、その後も養子満季(『本朝皇胤紹運録』の編者)、孫の実煕ら洞院家の人々によって引き続き編集・改変・追補が行われた。公定の曾孫・公数の文明年間に洞院家が一時断絶し、その後に同家の再興も十六世紀初頭頃にはまた断絶して、同書など記録抄物が散逸し、その際に三条家の所有になったという。室町時代以降では、同書が多くの手により広く増補改訂された事情もあるため、異本も非常に多い。
 内容的には、宮廷社会の中枢にいた藤原・源・平など諸氏の官人の系図に詳しいが、武家関係については、清和源氏はともかく、祖系・庶流も含め疑問な記事もかなり多いこと(編纂者が公家で、その系図収集先の関係もあるか)に留意される。武家平氏の系図は総じて粗雑であるなど、武家系図部分には疑問な点も系譜仮冒も数々ある。だからといって、「我が国の系図研究と云ふ事は長らく尊卑分脈を中心とする偽系図に支配されて居た」(「合理的研究法」)と太田博士が表現することは、受け取り方によっては問題がある(博士は、世に伝わる系図は殆どが「偽系図」だが、そのなかには「見方によっては価値のある部分があるのであって、むやみに貶す事は出来ぬ」と表現する。この「偽系図」という表現は問題が大きく、「疑問箇所」くらいのほうが妥当ではあるまいか「系図偽造」を安易に認定することには問題がある)。

 この『尊卑分脈』からは「中世系図」の系図集である。上記のほか、中央官人を出した多くの氏の系図も集められたが、地方豪族では有力でも系図記載はないものが多い。俗に「大系図」の名でも知られるが、後世になるほど関与者が多くなるため、偽造系図部分の加筆も考えられる。こうしたマイナス要素が同書にあるものの、総じて言えば、『姓氏録』以後の氏族と苗字の展開の史料として、その歴史的価値は高い(豊田武著『日本史小百科7 家系』)。これに先立つ内容が見えるのが、宮内庁書陵部蔵『諸家系図』壬生本である(東大史料編纂所蔵の『古系図集』と内容はほぼ同じか。古新判別の一要素として、源為義の位置づけがある)。
 公家関係では、『公卿補任』『諸家伝』や『歴名土代』『地下家伝』『諸家知譜拙記』という系譜資料もあるから、公家の系譜は総じてあまり問題がないが、祖系・出自を偽る(ないし誤る)氏がそれでもあることに注意したい(清原氏、丹波氏など)。
 
 江戸前期になると、水戸徳川家による『大日本史』編纂事業とともに、併せて系図関係の収集・整理が始まる。そのなかの十三巻に「氏族志」(巻267〜279)が収録される。
 それに関連するのが、浅羽三右衛門成儀・昌儀親子による系図の収集・整理である。父の成儀は、幕府の書物奉行をつとめて多くの系図類を集めたといわれ(南朝・後南朝の歴史を記した『桜雲記』の著者といわれる)、その子の昌儀が、徳川光圀に仕えて彰考館で系譜整理にあたり、取り纏めたものが『浅羽本系図』という系図集であって(『諸家系図纂』につながる系図集だという)、現在、水戸彰考館に所蔵され、私もこれを見ている。
 次に、『大日本史』編纂に関与した丸山可澄よしずみ。活堂。生没が1657〜1731年)がこの修史過程で得られた系図を基に編纂したのが、元禄五年(1692)に完成の『諸家系図纂』内閣文庫のデータベースで閲覧可能)である。これが、江戸後期以降の塙保己一編による『群書類従』正・続の系譜部・系図部や『系図纂要』などにつながる。可澄の著作・編纂物は系図関係(ほかに『本朝姓氏類纂』など)と神道関係が殆どであり、『諸家系図纂』には阿蘇大宮司系図など社家系図や古代に遡る系図も若干はあるが、総じて古代部分は記載が省略された部分が多く、殆どが不完全なものか簡略化された系図が多い。だから、『諸家系図纂』は中世系図が主体だと言えよう(古代部分の記事では、系図の信頼性が総じて欠ける。これは、当該編纂時点でこの形でしか系図が伝わっていなかったのか、編纂者の意向によるものかは不明な面があるが、編纂では、古代系図究明の意図があまり大きくはなかった、と評価してよさそうである)。
 一方で、松下重長が『改選諸家系図』(所蔵館が幾つかあるが、静岡県立中央図書館のデータベースで閲覧可能)の基礎を作り、後に藤田子家が校正・増補をしたのが現存の同系図(享保五年〔1720〕に刊行)だという。同書は、幕府に仕えた諸大名・旗本の系図集で、十八世紀中葉まで記される中世系図である。
 松下重長(生没が1683〜1718年)は三千石取りの旗本で、今川家臣松下加兵衛之綱の後裔であって、刑部と名乗り、閑翠軒と号した。国会図書館には『諸家系譜』もあり、これは将軍家・松平氏から始まる諸大名・諸武家の大系図集(「改選諸家系譜続篇」を含めて、四八四冊もある)であり、デジタル・ライブラリーで閲覧できる。
 
 ここまでが江戸前期のほぼ十七世紀代のことで、内容は殆どが中世武家の系図集であって、上古代まで遡る記事内容がある系図はあまりなく、総じて内容の信頼性に欠け、祖系を天皇に架上する傾向も見られるが、この辺は系譜仮冒である。これら浅羽親子や松下重長について、系図の「偽作」を言う者もあるが、明白に偽作の証拠が彼らにない(系図の編集・整理にあたる者について、「系図偽作」がとかくいわれがちだが、具体的な偽作の論拠をあげずに云々されることが多そうである。この辺の疑惑は、江戸後末期の栗原信充や真年・憲信(併せて「真年ら」とも表記)、田畑吉正についても言われるが、下記の沢田源内を除くと、明白な偽作論拠を私は具体的にはまだ見ない)。
 例えば、江戸中期の日夏繁高による『兵家茶話』(別名『同志夜話』。享保六年〔1721〕の序)には、「近世系図作りといふもの有て、家の系図を猥りに偽作して其祖を誤る人多し。是浅羽氏にはじまる。松下重長相ついで、諸家の系図を偽作す。又たゝら(多々良)玄信と云ふ盲人あり、諸家の系図を記憶して望にまかせ妄作し侍る」と記述される。多々良玄信の著作は私の管見に入っていないからコメントできないが(彼が盲人というから複雑な系図など作りえないと思われるが)、沢田源内の佐々貴系図関係は現存しているものもあり、これを見ると、六角氏郷関係で偽造系図の箇所は確かにあるものの、他の系図部分はあまり問題がなさそうであって、これで大量に偽造系図を作り出したと言えるのだろうか。浅羽成儀が系図をよく知るということで諸大名などから系図の相談を受けたようだが、系図を失っていた武家に他家でもつ系図の知識を与えたことはあったとしても、系図偽造の行為まではしなかったのではあるまいか(少なくとも、系図偽造の具体的な根拠は管見に入っていない)。
 そもそも、日夏繁高(天道流剣術家、武田流兵学者)なる者の系図鑑識力にも疑問があり、上記引用文の前に、「按るに伊賀服部氏は秦姓にて融通王の末也。近世平氏とし、弥平兵衛宗清が末とする事、中葉平姓の人服部氏を相続したるにや覚束なし。是にみならず、近世系図作りといふもの有て、……」とつながる。伊賀の服部氏が秦姓の流れということはありえず(服部氏に諸流あるが、総じて神別の流れ)、勿論、平氏後裔でもないが(弥平兵衛宗清も伊勢平氏一族とは思われ難い)、この程度の系図鑑識力で浅羽成儀や松下重長の業績・活動を誹るのがおこがましい感じでもある(だから、浅羽・松下両先学の業績について、非難記事を引用する太田亮博士もこの辺の評価が適切にできていないことにもなる。浅羽らに関係する系図集も、水戸彰考館等に所蔵されるが、博士はおそらく手にとって見ていないのではなかろうか。田畑吉正に関しても、現物を見ないで非難している。その編著作『断家譜』は偽撰とされていない)。
 
 江戸幕府による二度の大規模な系図編纂事業、『寛永諸家系図』及び『寛政重脩諸家譜』では、幕閣の若年寄・老中(寛永の太田資宗、寛政の堀田正敦)をトップにして、林家(寛永の羅山、寛政の述斎)などが中心になってなされた(両系譜とも、記事が古代には殆ど及ばない)。これら系図編纂事業にほぼ並行して、幕府の修史事業たる『本朝通鑑』及び『徳川実紀』もなされたことにも留意される。戦国乱世のなかで系図を失ったり、織豊・徳川政権の成立などとともに立身した諸氏も多くあり、幕府への提譜がなかには不適切なものもあったとみられるが、寛永及び寛政の系譜は古代まで遡るものは多くない。
 また、江戸中期には新井白石による編述の『藩翰譜』(1702年完成。幕藩大名家の系図・由緒書きで、廃絶大名も含み、三四〇家弱が掲載)、これに続く『続藩翰譜』がある。前者はかなりのスピード編集だったため、その改訂増補が要請された事情もあった。
 このほか、多くの諸藩においても藩士関係の系図集や由緒書等の編纂がそれぞれ行われたが(主なものでは、毛利家長州藩の『萩藩閥閲録』〔これらを基礎に岡部忠夫著『萩藩諸家系譜』〕、南部家盛岡藩の『参考諸家系図』などがある)、ここでは省略する。これらの編纂目的は、いずれも家系装飾や嫡庶の争いなどに備えて、藩士序列関係で藩として対応したというところか。個別諸氏の系図検討にあたっては、ありとあらゆる史料類を対象に総合的に検討するから、その際には諸藩関係の史料類も重要である。

  (続く)

  (2023.05.07掲上。その後も適宜追補

  
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