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 江戸後・末期の国学の影響を受けた系図研究

 
さらに江戸後・末期の国学における歴史・系図の研究にあっては、近・現代の系図研究に直接つながるものとして無視できない。かつ、無視してはならない重要なものである。
 ここでは、平田篤胤や栗原信充とその門下生の系図関連活動が知られるが、篤胤門の六人部是香(乙訓郡向日神社の祠官家)や角田忠行(熱田神宮大宮司)、飯田武郷(諏訪大社などの宮司。東大教授など)あたりが系図研究をしたといわれる。
 とりわけ、鈴木真年生没が1831〜94)と中田憲信同、1835〜1910)の活動が著しい。両者は平田同門であるうえ、明治初期には京都の弾正台で同勤しており、真年はその後に宮内省・司法省のほか、職務を転々し晩年は帝大(東大)で重野安繹(編纂委員長。「史学会」初代会長)のもと修史事業にも関わったが、憲信は一貫して法曹の仕事に終始しており(秋田・徳島の検事正も歴任)、現在に残る諸著作は多くが甲府地裁所長を退官した後の明治三十年代になされた模様である。
 真年の歴史研究は上古代にまで遡るものであり、その五大目標として、系図学の大成のほか、地誌の体系確立、正史の大系の制定もあげるから、国史研究と相俟ったものであり、著作の『古事記正義』『史略名称訓義』にも系図知識の活用が見られる。真年・憲信の系図関係の提携・連絡はかなり密のようだが、実態が不明な面もある(両者間の転写を著作等で比べても、記事・文字に殆ど違いがないから、両者が各々、原典系図から転写した場合でも基本的に信頼がおけるのではなかろうか。真年による「綾氏系図」の転写でも、信頼性が分かる)。両人の系図等史料類の収集・検討も、わが国の上古・神代は勿論のこと、中国・朝鮮にまで及ぶものであったから、その範囲は広域で、長大な時間に及ぶ。それが、真年の「古代来朝人考」や「日本事物原始」の著述にも反映された。
 上記修史事業では、編纂委員として久米邦武・星野恒(ともに帝大教授)も名を連ねており、真年は「雇」という立場であったが、それなりに実績評価のうえでのことであろう。真年と久米教授との交流は、久米の著書にもスサノヲ神(素戔烏尊)の出自に関する記事で見え、近江・佐々木氏の祖系に関する議論(『蒲生郡志』)などでも窺われる。久米・星野は「高天原韓地説」(藤貞幹に始まる)の立場であり、真年も同意だ(スサノヲの起源地に関係してのものか)、と久米は回想している。こうした諸事情からも、真年が当時の学界から無視されていたものではなかった。 

 また、真年・憲信両者ともに、書写・作成した編著物に自身の名前を記さなかったり、原典系譜名や記事の出所(所蔵先)を記さないのも多く、いまだその系図関係活動の全体像が見えていない(この両人の活動・事績は、本HPの別処に書いたところもあるから、ここではあまり触れない)。例を若干挙げておくと、書写・編著の名前不明の系図では、東大史料編纂所所蔵の『惟宗系図』を慶応大学の利光三津夫・松田和晃両氏が取り上げ、総じて信頼性の高い系図だと評価したが(「古代における中級官人層の一系図について」。慶応大学『法学研究』五六─1・2所収。1983年)、これは真年の筆であった。これよりも更に詳しい『惟宗家系』を、憲信のほうは東博に残すが、これまた編著者不明の形であった。佐伯有清博士が『古代氏族の系図』で取り上げ、他の多くの学究からも信頼性が高いと評価される『越中石黒系図』(利波臣氏の系図)は、現存するものは真年筆による系図であった(同系図の原典は備前岡山藩士の家に伝えられた可能性がある)。最近でも、武蔵の中世武家・成田氏に関する『成田家系図』がその支流末裔の吉羽家の文書類に残るが、この提示を受けて見たところ、筆写人不明の同系図は真年の筆によるものであった。

 真年の死後四年の1898年に、静嘉堂文庫は、『百家系図』など遺書数十部(系図に関するもの多き)を購入しており(『静嘉堂文庫略史』現在は113部、268冊という)、これがその著書の保存につながる。真年の遺書は、天理図書館に『朝鮮歴代系図』が残されており、中山正善氏(第二代真柱)が入手して寄贈したとその表紙にある。同書では、朝鮮半島の上古からの諸王家の系図であるが、真年と交友のあった久米邦武が著『大日本史』において、素戔烏尊に関し、真年翁の言を引いて、「新羅の次次雄にて将来ともいふ」と記し、これが慈充で、新羅古代の祭政一致の尊長をいい、即ち巫君で、尼師今、王だとする。なお、この辺から、スサノヲ(わが国天孫族の始祖)が新羅から到来したようにみる見方もあるが、新羅近隣の伽耶からの到来を考えるほうが妥当である。

 真年に関して、飯田瑞穂氏(中央大名誉教授)が私に宛てた書信のなかで、幕末・明治期の「系図家」(この評価をどうみるかの問題もあるが)と言えば誰の名があがるかと周囲に尋ねると先ず鈴木真年の名があがったと書かれており、昔の学究のなかでも、真年が「知る人ぞ知る」という存在であった。佐伯有清博士も、真年関係の系図を知ってからは、その著書に引用したものもあり、また、近藤安太郎氏が真年関係系図を多く使った『古代豪族系図集覧』について、その新刊紹介を『史学雑誌』(103編1号)で佐伯博士は行っており、それより早く、尾池誠氏が真年・憲信を紹介した『埋もれた古代氏族系図』(1984年刊)を自らの著(『日本古代氏族の研究』の「はしがき」、1985年刊)で取り上げ紹介している。こうした諸事情があるのだから、「学究が真年らを認めていない」なんて記事があるとしたら、それは、佐伯博士ら先学の業績を否定するものでもある(「系図を十分に吟味する必要」というのは、一般論として、どの系図についても当てはまることである)。
 憲信については、真年亡き後の明治後期には、「洞院公定・丸山可澄以来の系図学の第一人者」という評価もなされていたという(『日本書誌学大系47 渡辺刀水集 (1)』)。この辺は、弟子だと言う増田于信(本居家に一時、養子に入り音楽家の長世の父となった国文学者)による評価かもしれないが、現実に憲信の後の系図研究者はしばらく出なかった。憲信は、芳川顕正や渋沢栄一など政財界の大物とも知己であって、彼らの家系についても相談されていたと伝える。明治初期頃には家譜提出の必要性からか、系図に精しい真年らが引っ張りだこだったとの伝聞話もあるが、だからと言って、すぐ系図偽造という認定とか評価に結びつけるのは論理飛躍で、危険な論法である。「三国真人」系図の冒頭部分に見える「朱大王」の名から、この系図を偽系図だと断じ、「元々椿井政隆が作成した偽系図で、それを真年・憲信が書写〔転写〕したのではないかという推測まで見られるようだが、これも論拠のない憶測にすぎない。椿井政隆の古代系図作成能力を過大に評価すべきではないことは、現在に残る「椿井家系継」(『諸系譜』三所収から分る。憲信の遺書は、国会図書館にかなりあるが、最近、堀内様の教示をうけて見たところ、上野の東博に編著者不記載のまま『神別系譜』などかなり多くの書が残されることが分かった(本HPの「『神別系譜』と中田憲信」。それでも、真年らが見た古代氏族の系譜がまだ多く、所在不明となっている)。
 
 これら国学関係者による系図研究の活動の基礎には、平田篤胤がその著『古史徴』一之巻の附録で『神代系図』(1818刊)を編纂したことにある。『古史徴』は記紀・新撰姓氏録などについて論じた書であるが、ここでの神統譜は推古天皇までの系譜だが、拙見では、素朴すぎて内容的には多分に疑義が多いものの(複数の名前をもつ神々について、的確な分別がなされないことがその一因か)、記紀に関連して神代まで及ぶ系譜の研究を篤胤がしたことは、これまでの系図研究の動きのなかでは画期的なものであった。それが、養嗣鉄胤の門下、真年・憲信の活動につながる。だから、上古代まで系図の検討視野を長く広げた点で、それゆえか、広域での系図の収集・発掘につとめた幕末期の国学関係者の系図活動は見逃しえない。これが、現在の系図保存にもつながる。
 江戸前期の『大日本史』編纂事業と併せて、当時に伝わる系図類の収集・整理が精力的になされ、江戸後期にあっては国学の隆盛に応じて同様な活動がなされたのだから、系図研究学がたんなる「ルーツ探し」、すなわち個別家系の調査・研究に始まる狭い視野のものではないことが明かである。この辺を誤解している学究もままおられるようである。もちろん、個別家系の研究も、系図研究の基礎となっている部分はある。
 
 栗原信充生没が1794〜1870。柳庵)は、師として真年が系譜学を数年間、学んだのだから、多くの系図を所蔵し、それに関する見識が当時の国学者のなかで高かったのであろう。信充は、屋代弘賢(『寛政譜』の編纂者の一人)と平田篤胤から国学を学び、弘賢の不忍文庫の膨大な蔵書の閲覧を許され、弘賢が幕命で編纂していた『古今要覧』(弘賢の病死で中止)の調査に加わる。故実家で、武具・馬具類に関する著作が多く(『甲冑図式』『刀剣図式』『弓箭図式』『武器袖鏡』『兵家紀聞』など)、これらの書は幕末武士の教養書とされる。無窮会文庫に所蔵の『玉簾』(阿倍氏、吉備氏などの系図を含む)があり、これを除き、現存する彼の系図関係書は殆どないが、自身出自の栗原氏の祖系や孫の養家先たる百済王姓三松氏(その栗原信充考証本があるという)の系図が真年著作のなかに見える。信充は幕末期に島津家に招かれ滞在した鹿児島で、蔵書類を島津家に預けておいたのが裏目に出て、これが明治十年の西南戦争の時に全焼したと言われるが、上記以外の系図関係史料も真年編著作(真年を通じて憲信著作にもか)のなかに取り入れられたとみられる。
 この信充や平田系国学者たちの研究活動については、太田博士はなぜか取り上げない。博士は、真年の『新田族譜』については言及があるものの、憲信についてはその著作をいっさい見ていなかった模様である。だから、おそらくは大正期における系図学の断絶を挟んで、昭和前期にまた系図学研究がなされたのだろうが、先学たちの残した様々な業績や史料類は、それが分かった以上、無視されるべきものではない。
 
 このほか、江戸後末期では、田畑吉正喜右衛門。天保年間に死去)は『断家譜』(慶長〜文化年間に断絶した約八百家の系図書。1809完成)、『幕府諸家系譜』(東大史料編纂所蔵)や『本朝武家諸姓分脈系図』(これも膨大な系図集であるが、編者は無名という形で国会図書館蔵)を残した。息子の小野一郎ともども吉正には系図偽作の疑いもかけられるが、息子のほうはともかく、吉正については、『断家譜』を含めて現存する系図史料類を見ても偽作の確たる証拠はあげられない(この辺の事情は、本HPの記事ご参照)。また、飯田忠彦編の『系図纂要』も膨大な系図集だが、内容的にはあまり参考にならず、その意味で拙見では評価は高くない。
 ここまでの江戸末期までの系図集にあっては、真年・憲信を除くと、上古代に遡るような系図の研究・記載が殆どない。なお、明治期までの大部な系図集には、『皇国世系源流』(国会図書館蔵。津田啓次郎信学編で1910年成立)とか『中興武家諸系図』(中興系図。宮内庁書陵部蔵)は、それぞれ中世系図が主体だが古代系図に及ぶものがなかに若干ある。これらは、データベース化されておらず、まだ殆ど知られていないので、早めのデータベース化が望まれる。中田憲信編の『各家系譜』(国会図書館蔵)についても同様である。
 また、『美濃国諸家系譜』(東大史料編纂所蔵、中里千族原蔵。ネット閲覧可能)もなかなか有用と思われる。中里千族は宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の旧祠官家で、幕末・明治期に生きた教養人で勤王の志が篤かったと伝える(『下野勤皇列伝』)。静嘉堂文庫の所蔵『百家系図』(真年編著)の「小泉氏譜」(巻四四)には、「明治十九年六月下野国宇都宮人中里千族上進本也」と記され、真年との接触があったことが知られ、同譜のあたりには宇都宮明神旧祠官諸家の系図が記載される。この系図は、東大史料編纂所蔵の『宇都宮旧神官系譜』(中里宗昌編、中里千族校)にも同じで、紀氏(中里氏は紀清両党の猿子支流で、紀姓を称した)の系図として貴重な内容が記される。


 昭和期以降の系図研究者─とくに太田亮博士

 明治中・後期頃まで真年・憲信の活動が続くが、それ以降の大正期まではめぼしい系図研究家は見られないようである(これも、華族成りなどで家譜を提出する必要性が、時代の需要としてなくなったことがあるのかもしれない)。
昭和期にあっては、太田亮博士(1884〜1956)の古代氏族制度と各地の諸氏の系図についての研究が著しい。その52歳の時、昭和11年(1936)に『姓氏家系大辞典』(第三)が刊行完成された。先に刊行された『姓氏家系辞書』(1920)や『系図綱要』(1923)を承け、それぞれの内容を拡充されたものである。太田博士は神宮皇學館卒で、山梨県・内務省での勤務もあるが、奈良県で生まれ、主に関西で居住、活動がなされた。そのため、寝食を忘れて系図や古代氏族制度の研究に没頭した(ご自身も「悲惨な」という表現をする)と言われても、これが個人的な努力で殆ど尽くされており、かつ、系図研究団体の系譜学会を組織して広く民間から系図を収集した事情があるものの、系図史料類の収集範囲が残念ながらかなり狭い。このような活動範囲では、数十年の系図収集は期間がまだまだ短く、収集対象は更に膨大であって、それが全国広域にわたる。また、大辞典刊行前は基本的に在野での活動であり、その第一巻刊行の1934年に立命館大の国史講師に迎えられた事情もある。1941年には同大教授となり、文学部長も兼ねた。
『姓氏家系大辞典』は、使えば使うほどその素晴らしさがわかる辞典であって(こんな史料まで博士が見てるのかと感じることがままあるような労作)、そこには卓見が多く見られ、豊田武氏も、姓氏研究の古典的な労作だと認めつつ、そうした長所の一方、五十音順に並ぶ姓氏相互の間にある関係については多くは語らない、という問題点をあげる(『家系』。ただし、これは苗字研究に関し、ほぼ共通する問題かもしれないが)。
大辞典の記事には、実のところ、誤解・誤説の提示もかなり多く見られるから(この辺の当大辞典への問題提起・批判が従来は殆ど見られないが、そうした及び腰では、歴史原態に迫る系図研究はできない)、同書記事の鵜呑みは時に大きな問題があることにも十分、留意したい。かつて日本家系図学会で、当該大辞典の補訂増補につとめたいというある発足時会員の熱意を、私は聴いたこともある。(だから、系図研究にあっては、在野・学究を問わず、「権威」にとらわれずに、弛みない系図収集と厳しい十分な内容吟味が常に必要だということである)。

太田博士の執筆の基礎のある系図史料類も、上記のように範囲がかなり狭く、国会図書館(当時は国図書館)、東大史料編纂所、宮内庁書陵部、東博など関東地区の大どころに所蔵される系図史料類を博士は殆ど見ていないし(大辞典に『中興系図』として引かれる系図も、宮内庁書陵部所蔵本の抄本にすぎない)、古典籍を多く所蔵する静嘉堂文庫・尊経閣文庫・無窮会文庫等、あるいは岩瀬文庫の所蔵書でも、同様に見ていない(真年らが見て収集した系図類の範囲・分量からは、比べものにならないくらい少ない)。鈴木真年・中田憲信の膨大な著作・系図収集も、『姓氏家系大辞典』の記事から判断する限り、真年著作の『新田族譜』くらいしか太田博士が見ていない感が強い(当該大辞典には、真年を「系譜学者。栗原信充の門、大多喜藩士」と記すから、明治期の真年の活動を承知していない)。この辺は、上記大辞典を十分に使いこなし、その記事内容を良く吟味して読めば、強く感じられるのだから、系図研究をしようとするのなら、当該記事・内容だけに満足してはならないということである。
端的に言えば、太田博士の系図学は、主に「中世系図」の『尊卑分脈』『群書類従』(江戸前期の『諸家系図纂』などを承ける)や『寛永系図伝』『寛政諸家系譜』など狭い範囲の系図類を基盤とするものにすぎない。これでは、「古代系図」の研究、ひいては古代氏族の研究に対処できるものではない(太田博士が著作に引く但馬の日下部氏も甲斐の三枝氏も、その古態系図を真年・憲信は明治期に既に収集して、その系図集のなかに記載する)。博士は、その著『姓氏家系辞書』で取り上げた系図史料以外に立派な系図がもしあれば、それは偽系図と思ってよいとまで言い切っているが(合理的研究法)、これは博士の大いなる勘違いだということになる(この辺の認識の差は大きい)。
だから、太田博士の著作には、『家系系図の合理的研究法』(後に『家系系図の入門』と改題)や「系図と系譜」(先に触れた)もあるが、記事のなかにはその真意や系図原態の探索の要があるものや、見解に首を傾げざるを得ないところもかなりの数がある(例えば、義家など河内源氏について、疑問な陽成源氏説に傾くように博士は記しており〔当該説は、赤坂恒明氏が当時の官制などから強く批判しており、生物学的にも陽成源氏はありえない。「源頼信告文」は疑問な文書であり、この問題に関して、竹内理三氏等の系図評価ができない学究が多い〕、太田博士の「系図偽作」に関しても、記事には問題がかなりある)。このほか、国別の氏族・諸氏研究シリーズで『日本国誌資料叢書』を越後・佐渡や信濃など12冊(1924〜27)を出した。『諏訪神社誌』や『高良山史』といった神社関係の研究書もある。

この辺も含めて、系図研究に関する各種の基礎作業を行った偉大な業績がある。ただ、太田博士在世の時期の関連・隣接する学問水準の制約か、邪馬台国を肥後に考え、卑弥呼を多氏一族くらいにみるのだから、古代氏族系譜関係の評価眼には、総じて言うと疑問も多分にある(上述。その要因として、古代氏族系図の収集数の少なさと上古世代の年代把握の不全〔古代暦法の不知〕が考えられる。例えば、「鹿島、香取、阿蘇」の諸神社の系図に関しては、香取は未だ不全だが、鹿島・阿蘇については真年・憲信が詳細な系図を収集しており、これらは偽作とは到底、思われぬ内容である)。
 それは、和邇部氏系図についての彼の評価にも同様につながり、大辞典では、これを簡単に系図偽造とみる事情もある(中田憲信編『各家系譜』第四冊には、大久保春野家の家譜草稿が掲載され、これが大辞典掲載の系譜に通じるところがある)。安房の「斎部宿祢本系帳」も後世に作成された系図だと博士がみるのには論拠が弱く(真年が偽造に関与したとの小杉榲邨の見方を太田博士が踏襲しただけであり、古代の正式な「本系帳」ではなく、安房忌部の系図の表題だとみれば、真年の筆写・関与は確かでも、内容は偽書とは言えない。筑波大学図書館所蔵の真年本には、「明治四年五月九日以小野義久家本抄写了」と記載があり、真年が小野家本を書写したことが記される。系図に書写などで関与した者について、すぐ「偽造」を云々する姿勢自体が問題である)、これも畿内・安房などの忌部氏の実態把握について、博士が的確ではなかった故と思われる。
ただ、「中臣宮処氏本系帳」は偽書であって、「筑後鏡山系図」「大和五郡神社記」を殆ど論外とするのは、その指摘通りであり、これら諸書の系図内容が酷すぎたからである(この酷い「鏡山系図」など高良山座主系図を基の一つにした古田武彦氏の「九州王朝説」の虚妄さが分る)。また、近江・蒲生氏の蒲生稲置後裔とか三河・牧野氏の穂国造末裔とかの見方は重要でもある(前者のほうの系図は真年編著本に見える)。各地の武家豪族が、源・藤・橘・菅などの姓を称するのは、「多くは多少の縁故から仮冒したもので、仔細に調べると大抵は其の地の旧豪族なのである」というのは、総じて正鵠を得た指摘である。
 しかし、それに続いて、「鎌倉時代に有力であった武士の系図は多くは此時代に出来たもので、それが尊卑分脈によって統一されたのである」という博士の見解は肯けない。『尊卑分脈』の影響・役割についての見方が大きすぎるし、そうではない反論例が幾つもある(『尊卑分脈』に記載がない称藤姓の宇都宮氏・伊達氏や称村上源氏の赤松氏・名和氏でも、祖系架上の内容が統一されている。これらを含め、祖系改編の動きはあったとしても、中世武士になって系図が作られたわけではない)。
これら様々な意味で、『姓氏家系大辞典』は、中世以降の苗字についての辞典という色彩も濃い(苗字関係のほうが古代姓氏関係よりも太田博士の分析・調査力があった故か。博士の古代氏族制度関係の専門研究があっても、基礎となる古代氏族系図の収集数が少ないのは、ある意味、系譜研究には致命的かも知れない。だから、「記紀以外の古代系図は旧事紀が根本なのである」という妄論まで「系図と系譜」に記される。旧事紀所載の系図の少なさから言って、ありえないことである)。太田博士が自らの研究対象は日本古代史だとその著『姓氏と家系』で記述しても、博士の古代氏族関係にはいろいろ問題が多いということでもある。この辺を冷静に踏まえた合理的な対応・判断が、現代の系図研究には必要だということである。

太田博士は昭和三十年代まで存命であったが、『姓氏家系大辞典』刊行の以降は、『新撰姓氏録と上代氏族史』(1940)や『姓氏と家系』『堂上家系譜大成』(ともに1941)、『日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究』(1945)が主だった著作か。1921年に設立された「系譜学会」は、日本で初めての系図研究団体であり、太田亮はそこで会誌『系譜と傳記』(後に『国史と系譜』と改題し、併せて全三巻の書としても後に刊行された)を発行して、系図研究の普及につとめた。これらの活動は、系図関係資料を広く朝野から募集する活動をするとともに、系譜学をあまねく広める目的で会誌が編集された。
以上に見てきたように、太田博士の大きな功績があるが、それとともに、時代の制約もあってか疑問な諸点も著作には様々にあるから(本稿記事では、博士について事績をいろいろ調べるうちに、予想外に「博士批判」を展開する結果となってしまったが、これは博士の業績の否定ではない。当時の研究環境からの制約が多分にあったか)、現在までの歴史関連分野等の研究進展も含めて、著述内容を冷静・合理的に判断をする必要がある。

 
戦後の系図研究の流れ

 戦後の学究関係にあっては、佐伯有清・田中卓両氏が古代氏族研究関係で傑出する。
 先に明治後期には、水戸藩出の栗田寛による『新撰姓氏録考証』の研究があるが、佐伯有清博士の業績はこれら先学の研究等を踏まえ、『姓氏録』研究の集成を示した。とくに、『新撰姓氏録の研究』は、本文篇、考証篇六冊 、索引・論考篇一冊にわたる。このほか、『古代氏族の系図』(1975年)、『日本古代氏族の研究』(1985年)などの著述がある。博士が古代氏族系譜について分析手法を鍛えたことは高く評価される(だからといって、その結論がいつも妥当とは限らないことにも留意される)。
 佐伯博士が真年・憲信関連の系図類に注目していたことは、自らの著述において、尾池誠氏の著『埋もれた古代氏族系図』を紹介したり、史学雑誌等で近藤安太郎氏の著作(後述)を紹介したりした活動で知られる。また、その著作『智証大師伝の研究』では、「円仁の家系図」の項で真年・憲信が紹介した円仁につながる毛野氏族壬生君の系図を具体的に取り上げる。

 田中卓博士にも、『姓氏録』の研究書があるほか、『田中卓著作集2「日本国家の成立と諸氏族」』などがあり、多くの古代氏族系譜の収集・調査につとめられたことは大きな評価ができる。田中博士がいわゆる「郡評論争」の際の判断材料に系図を使ったことは知られるが、信頼性の高い系図ならそうした目的以外にも歴史研究での用途は大きい。憲信筆の「異本阿蘇系譜」を内容的に評価しているが(『田中卓著作集2』)、これを「郡評論争」に関して目眩ましにされたと考えるのは、博士の学識に対する不当な侮蔑にすぎない。
 ただ一方で、そうした系図の評価に当たっては、博士の職掌に因るものか、様々な配慮で遠慮気味のようである。それが、例えば、「海部氏系図」や六人部家譜関係で感じられる。甲斐の『古屋家家譜』については、真年・憲信は既にこれを承知していたが、田中博士も関心をもっておられた。私は、田中卓博士から同家譜の原本写しの一部を拝受し、それが真年の筆跡とは異なりそうなことを確認した。真年・憲信による大部な系図集のなかには、大伴氏一族の系図があるので、そのなかに埋もれてしまっていたが、憲信の『諸系譜』のなかには古屋一族の系図が幾つか見られる。そのうえ、総じて真年などの系図研究者に対する評価も低かったことで、当該古屋家譜は世に殆ど知られていなかった。だから、鎌田純一氏や溝口睦子氏・佐伯有清氏による紹介は、同家譜の「再発掘」にすぎないが、世に広く知らしめた意味でこれら学究の業績は高く評価されても良い(だからといって、これら学究の評価・判断を丸呑みしてはいけないものであり、むしろ当該評価には種々、問題があって、この辺は拙著『大伴氏』で記述した)。
 佐伯・田中両博士とも、歴史関係の著述も多く、そうした歴史の大きな流れのなかで古代氏族の系図とその評価を考えられた。これらも含め、両先学の多大なご貢献に敬意を表したい。
 また、中央大学教授をつとめるとともに尊経閣文庫の運営にも関与された飯田瑞穂氏の業績(主なものに『古代史籍の研究』、飯田瑞穗著作集2〜4〔上中下〕)もある。井上光貞博士に関しては、鴨氏・道嶋氏の系図関係論考もあるが、前者には座田司氏など地元協力者にかなり負う面があったようで、今となってはあまり高い評価を与えて良いかは疑問な面がある。これら皆様は故人となられたが、井上博士を除き、様々にご交誼をいただき、受けた学恩には私は感謝申し上げる。ただ、系図研究の評価・判断や系図利用の仕方については、また別の話である。

 五味克夫氏(鹿児島大学名誉教授)による南九州の中世史研究、なかでも薩隅関係の諸系図・文書の精力的な発掘という業績も評価されよう(『南九州御家人の系譜と所領支配』『戦国・近世の島津一族と家臣』などの著作集もある)。南九州地域には真年・憲信の系図収集網が及ばなかった面もあり、主に中世諸族であるが、参考になるものが多い。
 阿蘇氏の研究については、村崎真智子氏の努力は多大なものがある。大著『阿蘇神社祭祀の研究』(1993年刊)を現され、阿蘇神社祭祀の史的変遷や阿蘇氏の系図・家伝の研究がなされたが、割合早く亡くなられたのが惜しまれる。ただ、彼女の著作記事には、中田憲信に関する『和学者総覧』(國學院大日本文化研究所編。1990年刊)の誤った没年記事(明治6年没享年39歳と、実際より37年も早く死没にされる)に導かれて、憲信による系図偽造説にも導かれそうな記事表現のあることには注意したい(よく誤解されがちだが、村崎氏は憲信偽造説を採ってはいないことを、彼女からの書信で確認している)。憲信に関する現存著作から見ても、阿蘇氏関係の多くの系図を集めて、これを編纂した事情があっても、それが彼の手による偽造ではないことを、別途、本HPのなかで記した。
 奈良時代の議定官を出した諸氏族については、高島正人氏の地道な研究をまとめた大著『奈良時代諸氏族の研究』(1983年刊)がある。

 溝口睦子氏の『古代氏族系譜の系譜』(1987年刊)は、殆ど全著が大伴氏研究だが、その労作ぶりは認めても、拙見では著者の評価・判断に疑問を感じる点がかなりある(具体的には拙著『大伴氏』ご参照)。溝口氏が、津田学説の影響を受けてか、応神天皇以前の歴史を「観念的歴史」(それより後の「現実的歴史」と対比させる)と把握すること自体に大きな問題がある。
 倭地の歴史は、上古から常に現実的な歴史であった。この辺の誤解は、記紀などの上古史料の記事について、場所(地名比定など)・時間(暦法など)を的確に把握できないことに因るだけである。「擬制血縁」という概念は、学究が好みそうな表現であるが、極めて曖昧な語であり、系譜仮冒か真実の血系かの区分しか考えられない。ただし、族長などの「地位継承次第」が系譜的に表されたことはあろう。だいたいが、古代氏族系譜について、原態把握が不的確なものでしかないものについて、系図の抽象論を展開することが学問的にあまり意味あるものとは考えられない。こんなことは、佐伯・田中両博士はやっていない。
 
 最近の系図研究者では、中世系図が検討の主対象ではあるが、佐々木紀一氏(山形県立米沢女子短大教授)の活動が注目、評価されよう。武家諸氏について関連する多くの系図史料を広範囲に見て、所載記事に比較検討を加える姿勢は、系図研究の基礎として欠かせない(ただ、結論などをもうすこし明確に表現されるのが、読み手にはありがたいのだが)。最初にあげた中村友一氏(明治大准教授)の丁寧で具体的な系図の比較検討も、着実な系図学進展に向けて評価されよう。
 このほかの系図研究をなされている諸学究たちも、最近までかなり多く散見するが、無駄な批判を縷々書き連ねたくないので、ここで取り上げるのは控えたい。一つ感じるのは、津田亜流史学の影響などという一定の史観のもとで(先入観をもって)、古代氏族の検討をすることには、危険性を感じる。これでは、古代における史実(歴史原態)探求の目的から離れるからである。系図所蔵者は、本宗が興亡衰滅したり、支族の流れを多く出すことで様々に系図が伝えられるから、現在の本宗的存在である祠官家に現存する系図史料類だけで系図検討を行うことには大きな問題もある。

 諸学究に関して、私が評価するための要点は、偽造偽作の系図・文書をどこまで看破できるかという系図鑑識能力の問題である。その辺が、いわゆる「学究」たちにあっては、古代分野でも中世分野でも、総じて系図鑑識が的確にできていないのではないかと感じられる(そして、大きな歴史の流れのなかで具体的に「5W1H」を押さえた系図検討をしないから、その場合には、系譜仮冒について鑑識能力が落ちる傾向にある)。
 近藤安太郎氏は、「系図の真偽について−系図については鑑識眼が必要−」(『日本姓氏家系総覧』歴史読本特別増刊 事典シリーズ11)を書かれ、そこでの趣旨が、「歴史学界では“二次史料”」「出自の部分に特に問題が多い」という二つの項目立てのなか、医家多紀氏や信濃の望月氏など具体的な事例をあげて、鑑識眼について分かり易く記される。系図鑑識眼は、多くの系図資料にあたって十分吟味するうちに磨かれていくものと思われるが、これが低いのは系図資料に関して丁寧に吟味に当たる経験が総じて数少ない結果ではなかろうか。
 太田博士は、その著『家系系図の合理的研究法』で偽作系図についても縷々記述するが、実のところ、博士の鑑識眼にも疑われる点(とくに古代氏族関係)もある。
 
 戦後の在野での系図・家系の研究家としては、昭和五〇年(1975)に共に日本家系図学会を立ち上げ、後に分れてそれぞれが新組織を運営した丹羽基二・丸山浩一両氏がおられる。
 丹羽氏は日本家系図学会を、丸山氏は家系研究協議会を運営したものであり、それぞれ家系研究の入門書を書いた。前者は苗字・地名・家紋の研究に大きな事績を残し、約30万にも及ぶ多数の苗字を収録した『日本苗字大辞典』を刊行したり、太田亮博士の著作を幾つか修補したりもした。後者は姓氏研究を行うと共にその関係資料の収集(所在確認なども含む)につとめたとされ、とくに当時の家研協幹部とも協力して大著『系図文献資料総覧』(日本各地に残る系図文献資料を所蔵先毎に網羅的にあげ、主なものに解説。増補版も刊行)を残した。
 なお、丹羽氏の記述に、「系譜の多くは偽者であって『君子危うきに近寄らず』が本来賢い。太田先生自身もそう仰っていた。」とも見えるが、これは苗字・地名の研究家からの見解であろう。現存する多くの系図には、個別の系譜仮冒の問題点が多々あることは確かだが、この問題については、鑑識能力を高め、史料吟味を十分厳しく行うことで対処しうる。その意味では、系図以外の史料類でも同じであり、このような認識では歴史研究ができるはずがない。太田博士の言は、仮にそう言ったとしても、真意が奈辺にあるのか分からない。

 また、近藤安太郎敏喬)氏は、自ら経営の近藤出版社で家系図学会の会誌発行に関与しつつ、自らも多くの系図史料類に当たるなど系図研究を長年すすめ(同社から1978年に刊行の豊田武著『日本史小百科7 家系』に対しても様々に尽力し、豊田博士からその該博な知識を讃えられた)、その学問集積を基に全精力を傾けて『系図研究の基礎知識』全四巻及び『古代豪族系図集覧』『宮廷公家系図集覧』を刊行された。上記の皆様が故人となられ、ここでも歳月の経過を実感する。
 近藤氏による上記二集覧は、各種系図を校合・編纂した系図集であるが、これまでの系図集は、『尊卑分脈』を除くと、多くの系図の羅列・集合であった。太田博士でも、具体的な系図編纂をしたのは『系図綱要』(1923年刊。皇室系図を中心に古代諸氏の略系図)及び 『姓氏家系大辞典』の冒頭に掲載される皇室系図くらいであった。『系図綱要』については、太田博士が十数年、氏族制度を研究しながらできるだけ正しい系図を作ろうと努めてきた結果だと序で述べるが、皇室系図は精しいものの、他の諸氏については「綱要」の名が示すように概略系図であるにすぎない(内容も疑問個所が多々ある)。
 真年・憲信にあっては、清書・活字化したいくつかの系図集(真年の『諸氏家牒』』『諸国百家系図』『諸氏本系帳』や、憲信の「諏訪家譜」など『好古類纂』掲載の諸家譜、『皇胤志』『各家系譜』等)があるほか、『百家系図』とか『諸系図』などは、いわば草稿的・出版準備的なものであった。
 ともあれ、上記例などで古くからの研究の実状を知れば知るほど、近・現代の系図研究における在野の研究者の幕末期以降の研究諸活動を無視することなど、できるはずがない(苗字・家紋・地名の研究者関係は殆ど省略したが、ほぼ同様な業績がいわれる)。また、通俗的な系図を多数、総覧的に集めた系図集もあるが(上記『系図綱要』の類書的なもので、例えば1936年刊の『日本系譜綜覧』など)、その刊行当時の系図に関する研究水準を知る手がかりになろう。
 
 <一応の総括>
 太田博士はその著『姓氏と家系』の序で、系図研究の基本を次のように述べる。
 すなわちA「近代人は古代人の継続なるが故に、系譜の調査は上代姓氏の研究より出発せねばならぬ」事を説き、そしてB「学界で最も信用されて居る系図と雖、誤謬が極めて多い故、廣く史料を蒐集すると共に、厳正なる批判を加えねばならない」事を主張した。

 これは全くその通りであり、私としても系図研究の基本はこれに尽きると思われる。そして、Aについては、中世諸氏の系図と言えども、上古からの大きな歴史の流れを踏まえて、基礎となる古代氏族の系図から丁寧に総合的多角的に研究することが必要だと痛感する。そして、祖系のみならず、後裔・末流のほうについても留意したい。
 Bもまったくその通りであるが、太田博士はこの面での尽力が、結果論としてまだまだかなり足りなかったのではないか、とも考えている。博士が心身を捧げて系図研究を行い、その残された業績に対し、大きな評価・敬意を払うものであるが、その研究の基礎となる史料収集は残念ながら不全であった。それも、幕末・明治期の国学系研究者による種々の研究活動を認識しなかった故、かつ、博士の個人尽力が主で、多数による共同活動が少なかった故ではなかろうか。ともあれ、視野狭窄な系図収集のもとで評価・判断してはならないこと、を博士自身が戒めている。そして、「厳正なる批判」は、太田博士の所見・認識に対しても、十分になされねばならない。

 以上のように、わが国の系図研究の長い歴史を概観してきたが、その分野の研究では、取り組むべき研究対象が膨大かつ多数であって、それらが広範囲の地域で諸施設・諸家に所蔵されるため、更なる収集努力の継続を今後とも要するものと思われる。だから、できるだけ同好の諸士・研究者と協力して情報・知恵を補い合い、組織的にもおおいに活動して収集・検討を進め、歴史原態の究明という最終目的に向かうべきである。そのことの必要性を、常々、実感する。その際には、先学たちの業績を的確に踏まえて行うべきものでもある。
 この数十年の研究環境を見ても、各地の史料類のデジタルベース化がかなり進んでおり(これで十分だとはまだ言えないが、太田博士の時代とは顕著に異なるほど利用がしやすい)、その辺を有効に活用して、全体的に整合性のある合理的な系図研究が進むことを期待する。「偽系図」の是非に関する鑑識能力が「学究」といえども、総じてかなり低いにもかかわらず、軽々に評価・判断をしようとする傾向があることをおおいに憂うところである。しかも、驚き唖然としたことには、ご自身で実際に関係史料類にしっかり当たったうえでの判断・評価ならともかく、他人の研究の丸呑みで系図偽造を認定する者が多く見られる。こんな研究姿勢で「学究」とは、恥を知らないのだろうか。

 系図に関心をお持ちになるのなら、その関係の鑑定眼をしっかり磨いて、そのうえで系図研究を合理的総合的に発展させていただきたく、お願いいたしたい。

 (2023.05.07掲上。その後も適宜追補

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