(香川氏の系図、関連して安富氏) <川部正武様よりのご教示など(1)> 03.4.29受信 中世武士の系譜を研究し、細川管領家内衆氏族の系譜を考察してきた者として議論に加えさせていただけたらと思います。 1 香川氏についての私の考えは『全讃史』を基本にしつつ、中世史料に見える香川氏を整理するというものです。 @ まずは、香川景則と景房を同一人物とする(これはほとんどの方が異論無いと思います)。 A 相国寺慶讃供養の香河(香川)五郎頼景は安富安芸又三郎盛衡と同じく、内衆の構成人員で守護代クラスであろうとすること。 B 香川元明は景明の改名であり、細川勝元の四天王と考えること。 C 五郎次郎和景は庶流であり、嫡流はほぼ同時代にいた孫房(備中)元景であり、かつ元景は景明(あるいは帯刀左衛門元景)の孫に当る人物で、幼少のため和景が陣代的地位にいたのではないかということです。そして元景が在京し、和景の子孫の五郎次郎の系統が讃岐守護代として続いたのではないか。 D 香川元景という名の人物は複数いる(すなわち細川氏の「元」字と香川氏の「景」字という最もありがちな組み合わせであり、偏諱として何度かあったのではないか、ただしその場合は彼らには別名もあった可能性が考えられますが)。 E 他には建武年間にいた四郎宗景から→四郎五郎→五郎→五郎次郎という嫡流の変遷があったのかも・・・と考えています。 2 具体的には、「武将系譜辞典」というサイトの 細川家人名録 において記載していますが、必要最小限の記述しかしていないので、見づらい部分が多々あると思います。 <樹童よりの返信> 03.4.29記 川部様 メール及びご教示等、感謝いたします。今後とも、よろしくご教示下さい。 ○讃岐の香川氏については、 1 室町期の活動が主であるため、これまで私はあまり十分な検討できず、この数ヶ月の管見に入った史料を中心に検討した結果ですので、不十分な点が多くあります。 2 その個別問題(とくに上記DEについて)に対するお答えとしては、 (1) 中田憲信編『各家系譜』所収の「香川氏系図」には、讃岐香川氏の祖とされる久景については、「建武三年多々良浜合戦に戦功あり、延文二年(1357)八月に尊氏将軍より本領安堵下文を賜り讃岐国雨霧城に居する」と譜註があって、清景の子におかれています。その兄弟が上から順に康景(右馬次郎)、行景(石見守)、盛景(三郎左衛門尉)、景春(四郎左衛門尉)とあって、景春の次に久景がおかれており、その子に細川頼之に仕えた景継(孫五郎)のみがあげられますので、久景を「五郎」と判断しました。 (2) また、景継の子におかれる応永時の義景は、『永源記』所収文書に見える永徳元年(1381)の「平景義(ママ)こと香川i五郎」と同人と判断しましたので、「五郎→孫五郎→i五郎」と「五郎」が通称の基本にあるとみたわけです。五郎次郎和景がもとは庶流で、和景以降、この系統が本宗に替わったのではないかとみております。 (3) ご指摘のように「元景」を名乗る人物が複数いる点などはいろいろ悩ましく、判断がつきかねますので、私としては、香川氏の在京者は守護代(本宗家)そのものではないとみる『善通寺市史』第一巻(491〜5頁)の記事にとりあえず従ってみました。 ○ 以上、貴信に関し、香川氏関係のとりあえずの感触ないし釈明を記してみましたが、一方、細川氏の重臣で讃岐東方の守護代安富氏の出自も謎であり(紀姓はともかく、尾張の堀田同族という系譜は全くの疑問)、室町期の系図検討もなかなか興味深いものがあります。 <川部様よりのお答え(2)> 03.4.29受信 1(樹童の(1)に関して) この系図については全く知りませんでした。貴重な情報をありがとうございます。 相国寺慶讃供養のときの高師秀の随兵・香川三郎左衛門景家は盛景と関係があるのかもしれませんね。 香川四郎宗景(埼玉県史か何かで見たのですが、建武時代の人です)は景春とどんな関係か、香川四郎五郎(いま、出典を忘れました)という人物はどちらの系統になるのか、ということを悩みます。 私ももう一度、検討し直します。 2(樹童の(2)に関して) 私も五郎次郎和景は庶流と思いますが、『見聞諸家紋』(おそらく文明初期)には和景が香川氏の代表者として登場しながら、京兆家内衆の署名順(文明後期でしたか?)で孫兵衛元景、五郎次郎和景、六郎左衛門となっているところを考えると、和景は元景が成人するまでの陣代だったのではないか、と考えました。 (史料のコピー等を探さずに、とりあえず、記憶だけで書いてます。) 3(樹童の(3)に関して) 京兆家内衆の研究では、讃岐守護代について安富氏は在京、香川氏は在国という趣旨のものがありますが、私はそれに対して疑問を持っています。 応仁文明の乱以前は通常、管領家の守護代は在京しているものが多く、香川氏だけが在国守護代というのは考えがたいからです。 讃岐国に足跡の少ない五郎頼景や四天王・肥前守景明(元明と同一人か?)や孫兵衛(備中守)元景らが嫡流であり、京兆家内衆であり、讃岐守護代(もちろん在京)であったと考えます。 4(安富氏についての問いかけに対して) 安富氏については、大内政弘の周防守護代・安富房行(周防の安富氏は仁戸田氏族と言われていますが)と関係があるのか?ということも含めて自分の課題となっています。 <樹童よりの再返信> 03.5.3記 今回またご教示に感謝いたします。多くの方々と異なる面から検討することで、探究も深みと幅が増すように感じます。さて、具体的な問題については、 ○香川氏関係 1 香川氏の系図には、同名異人的な存在がほかにも見られるようです。例えば、上掲系図には、「香川三郎左衛門景家」に関しては、鎌倉期の人物にも似たような名が見られます。具体的には、香川四郎景光の子(三郎景家)、景光の弟の三郎五郎正景の子(小太郎景家)で、この両者は同一人物かも知れません。 相国寺供養に見える「香川三郎左衛門景家」は系図に見えませんが、年代的に考えて大胆に位置づけてみるとしたら、細川頼之に従ったとされる孫五郎景継の兄弟か、その従兄弟(その場合は、安芸香川氏の四郎左衛門尉景春の子か)くらいではないかと推されます。香川石見守行景の系統は吉野行宮に仕え、三郎左衛門尉盛景及びその子・次郎左衛門尉景村は征西将軍宮に候したとあるからです。 2 「応仁文明の乱以前は通常、管領家の守護代は在京しているものが多く、香川氏だけが在国守護代というのは考えがたい」というご指摘は、織田氏の例を見ても、かなり肯けるものがあります。ただ、応仁の乱中に香川惣領家が断絶したという『大乗院寺社雑事記』の記事に関連して、和景の代くらいに香川本宗が絶え、在国の家がこれに替わった可能性があるのではないかとも思われます。この辺は、いまのところ推測の域を出ませんが。 また、香川氏については、讃岐東方守護代の安富氏とは異なり、小守護代の存在を示す史料がないという指摘(皆木秀司氏)もあるようですが、この辺の話は私にはよく分かりません。 ○安富氏関係 1 讃岐の安富氏については、周防との関係をあげられる点で、わが意を得たりという感もあります。ご指摘をうけ、貴HPには次のように記載があることに始めて気づきました。 「安富之家盛家子?仁戸田宗貞裔?貞盛流? 房行之家子近江仕大内政弘花尾城主周防守護代 行房左衛門 行秀遠江 永正頃 正金 周防入道 応永頃 孫三郎 文明頃 弘季新三郎 文明頃 源三 大永頃 源内 天文頃 大蔵怡土郡代 」 2 実は、もう十年ほど前に、武内宿祢の後裔と称する古代氏族の検討をしているうち、紀臣の一族である都怒国造(周防国都濃郡辺りを国域とした)の流れが安富氏で、都濃郡富田郷(新南陽市南部)に起ったのではないか、という可能性を考えたからです。都濃郡の隣の佐波郡にも、紀臣一族佐婆部首氏がおり、その一族の岡田臣や苅田首(刈田首)は讃岐に遷住しました。 中世、安富氏は、一族の光井氏とともに、周防の多々良宿祢姓大内一族の鰐石(仁戸田)支流といわれ、『姓氏家系大辞典』には大内一族貞盛の子の備後守宗貞を祖とするとの記載がなされます。しかし、比較的信頼のできそうな大内氏の系図、例えば御園生翁甫著「新撰大内氏系図」などには宗貞の名は見えません。『古代氏族系図集成』下1688頁の多々良宿祢の系図には、『姓氏家系大辞典』に基づいて宗貞の名を書き込まれましたが、これは誤記であったようであり、上記大内氏系図には、鎌倉初期頃の人にあたる「大内介満盛の弟・鰐石小大夫盛家−四郎貞盛」と続いて、貞盛の子に貞元・四郎貞行の二人をあげ、「貞元−三郎右衛門貞信−三郎兵衛助貞」と記載します。 以上のことから、周防関係の紀一族については、とりあえず試案的に、「角臣(都奴臣。この族裔として、周防国熊毛郡の紀姓と称した光井〔三井〕、安富、同玖珂郡の角〔隅〕などが推される)」と整理していたところです。 3 いま、ご指摘を受けて再検討してみますと、次のような事情も見られます。 @ 『姓氏家系大辞典』トミタ条(4018頁)には、源姓の富田氏をあげ、都濃郡富田郷より起り、『海東諸国志』に「富田津代官源朝臣盛祥」が見えることに気づきましたが、安富氏が紀姓とも源姓とも称し(『姓氏家系大辞典』ヤストミ条の5項・7項、6199頁)、「盛」も通字としたことに留意されます。 A 永享12年(1440)に光井盛勝は光井保東方一分地頭職を嫡子光井二王丸に譲り(『山口県風土誌』13)、代々その地頭職を相伝して、天文20年(1551)に大内義隆が光井雅楽允隆貞に与えた宛行状には、熊毛郡光井東方60石とあります。 天文18年(1549)頃には、光市光井地区の最北端の八海には城山があり、光井兵庫助源兼種の居城であって(『光井村風土記』)、同年に光井天満宮(現、冠天満宮)を再建したと伝えます。その時の天満宮棟札裏書には、「光井代々先祖事、本名字安富、宝治元下向」と記されています。 B 光井の島田川対岸の同市三井においても、南北朝期に安富氏がおり、永和2年(1376)に三井村安富美作守が二宮免田3町300歩を押領しています(東大寺文書目録2)。 次に、応永11年(1404)の「大内盛見判物」の文中に、永徳3年(1383)安富周防入道正金が周防国光井保福泉庵住持職ならびに免田畠を寄進した、という記述が見えます。 応永年間(1394〜1428)には、安富左衛門入道永選が大内氏の奉行衆のなかに名を連ねています。 (03.5.3掲上) <川部様よりのお答え(3)> 03.5.3受信 ○香川氏関係 1 香川氏についての検討事項 永享期以降に讃岐で見られる香川上野、帯刀左衛門、下野入道の検討。 文明期の美作入道道貞やその継嗣と見られる帯刀左衛門と先の帯刀左衛門との関係。 香川六郎左衛門について(私は元綱と推定しましたが、間違いの可能性もかなりあるので)。 2 試案の「香川氏系図」についての私見 孫五郎景継の子の元信という人物ですが、ここが一番ひっかかります。 系図的に景継の子で元信という諱が納得いきません。むしろ永享期の帯刀左衛門元景(ただし、帯刀左衛門の諱が本当に元景かは確証ありません。香川県関係の歴史本でそういう記述を見たことがあるだけです)の子に元信(初名・景光?)が来る方が通字、偏諱としてはしっくり来ると思います。 3 香川氏の二つの流れ(在京系、在国系)についての疑問 五郎頼景は在京系ではないか? 肥前景光(景美と同一人?)、肥前景明(元明と別人としても)、兵部元光は一つの系統ではないか? 在京系の最後の香川惣領と考えられる文明期の孫兵衛元景の系図上の位置は?、などがあります。 ○安富氏について もちろん私も周防安富氏が多々良氏族とは考えておりません(杉や内藤と同じく無理に系図を結びつけたものだと思います)。 安富氏被官の寒川氏も大内氏と関係があるのも気になります。 (以上の内容は、私の疑問を集めただけですので応答板で扱う必要はない旨のコメントもありましたが、一方で、当方の判断に任せるとの記事もあって、香川氏の検討には必要と判断して、ここに掲載しました−樹童) (とりあえずの樹童の総括) 香川氏や安富氏、あるいは浦上氏などといった室町期に突如現れ、江戸期にはまた消えてしまった名族の系図探究には、史料が乏しいだけに多くの困難があります。川部様のご指摘にもあるように、香川氏の在京系に主として見られる「元」を通字とする一派が主君の細川氏の名前に因るものとして、何時の時点でそれが始まったのか、在京系と在国系との分岐が何時だったのか、というのが大きな課題の一つだといえそうです。 (以上は03.5.4掲上) <川部正武様より 香川氏系譜追加差替え> 2005.9.23受け
1 このところ香川氏について再検討していました。
ポイントとしては、
@「香川元景」という人物が複数(恐らく三人以上)存在したこと
A相国寺供養の他の随兵(小笠原成明や安富盛衡)より、香川頼景は(後の)讃岐守護代と考えられること
B香川五郎次郎和景は元々惣領ではなかったこと
2 香川元景という人物
「香川元景」という人物で文書に登場するのは、文明十一年(1479)の孫兵衛元景や、天文六年(1537)の中務丞元景がいます。この二者は登場年代が60年近く離れているため,別人とすべきですが、多くの書では同一人物としているために混乱が起きています。 相国寺供養(1392)の香川五郎頼景が細川頼之か頼元からの偏諱とすれば、次に偏諱を受けた人物は「元景」を名乗るはずであり、それは「肥前守元明」よりも前の人物と思われ、それが最初の「元景」になると思います。
『西讃府志』では、「景明は、長禄年間には奈良、香西、安富等の諸氏と並んで四天王」、「景明の子・元景は、在京して管領家の執行」、などと書かれています。
ここの「元景」は恐らく二人目の「元景」であり、孫兵衛元景(1479)・備中守元景(1487、1491)などと名乗り、細川政元の重臣として活躍する人物と思われます。
ここで注目すべきことは、長享二年(1488)斎藤元右文書では「香川孫房、香川五郎次郎、香川六郎左衛門尉」とあり、「孫房」は「五郎次郎」よりも上位に記載されています。
「孫房」が孫兵衛元景と同一人物かどうかについては、確証はありませんが、同文書の他の人名や、その前後の細川京兆家の重臣の名前を比べれば、「孫房」は元景のことであると考えられます。
ここで最大の疑問は、『見聞諸家紋』では、香川氏の代表者として、「孫房」ではなく。香川「五郎次郎」和景が記載されていることです。ちなみに和景は寛正六年(1465)の文書などに見られる名前であり、長享二年(1488)の「五郎次郎」は和景の子の満景の可能性があります(『後鑑』の永正元年(1504)文書の香川五郎次郎満景)。
すなわち『見聞諸家紋』作成時に、「孫房」は未だ幼少であったと思われます。
長禄年間以降、肥前守元明に代わって讃岐に在国していた五郎次郎和景は、応仁元年に上洛したと思われます(『編年雑纂』)。
『大乗院寺社雑事記』から考えると、元明の戦死によって香川惣領家が断絶し、庶流の和景が上洛したということではないでしょうか。
というわけで、孫兵衛元景は元明の実子かどうかわかりませんが、孫兵衛元景が登場する文明11年頃まで、和景が「陣代」だったのではないでしょうか。
3 香川氏歴代の検討について
相国寺供養の随兵の一人・安富盛衡の父・盛家は1413年頃まで活躍していることや、安富盛衡は長禄四年(1460)頃まで活躍が見られるため、相国寺供養(1392)当時は相当若かったと見られるため、香川五郎頼景も若年と推定。 応永七年(1400)の讃岐守護代・香川帯刀左衛門は頼景のことか?
永享二年(1430)の讃岐守護代・香川下野入道も頼景のことか?
嘉吉元年(1441)の讃岐守護代・香川修理亮は下野入道の次の世代で、『全讃史』の「景光」のことか?
長禄年間(1457-1459)の香川肥前守元明(初名・景明か)は修理亮と同世代か同一人物。
香川孫兵衛元景は『全讃史』の「景美」のことか?(二人とも「兵部」の仮名が伝わる)
すなわち「頼景−景光(元景?)−元明−(景明)−元景(景美)−元光−景則」となる。
最後の景則は『香川県史』では「五郎景則」とされているため、この系統がずっと「五郎」であったと思われる。
「五郎」家の一族に「山城」家が存在し、最後には「五郎次郎」家の家老となった「山城守元春」が存在する。
寛正六年(1465)の香川五郎次郎和景は、惣領・五郎某の次男か、以前より存在した「五郎次郎」家の当主。
五郎次郎和景の系統は、五郎次郎満景(1507戦死)、中務丞元景(1537、1539頃の人)、五郎次郎之景(1563以降の人)であり、之景は後に信景と改名し、五郎次郎親和(長宗我部元親の子)を養子とする。
文明六年(1474)・文明十年(1478)の香川帯刀左衛門は惣領家につながる人物であり、香川美作入道と代官職をめぐって競合している。
応永二十九年(1422)に香川美作入道道貞が存在、「美作」家は有力庶流家か。
大永四年(1524)の摂津中島郡守護代・香川美作守は、丹波守護代・内藤貞正、摂津本郡守護代・薬師寺国長、摂津川辺郡守護代・薬師寺国盛とともに「四守護代」と呼ばれる。
永正年間(1500頃)に香川平五郎元綱や香川元定らが存在する。
※なんらかの検討をしたうえでの掲上を考えましたが、時間と手持ち資料の関係でほとんど検討できず、たいへん遅れましたが、ご連絡のとおり掲上した次第です。(樹童)
(06.5.11 掲上) |
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