美濃の河田氏と川並衆

(尚田信行様からのご質問の詳細)
 
1 美濃の武将の事でどうしても分からない事があり、ご教授承りたく思い、ご連絡させていただきました。
  私は日置流弓術について調べていたのですが、伊予大洲藩の家臣に河田助右衛門貞高という者がおり、調べるにつれて、「河田・川田一族」という書籍に、この大洲藩河田家が美濃斎藤家の家臣、河田家の子孫であるという文を眼にしました。河田家の子孫の家に調査に行った所、既に家系図もなく分からないとの事、また、伝えられてもいないようです。
  しかしながら、江戸時代に書かれた「大洲秘録」には河田家の河田助右衛門貞高(1632〜)の欄に「本国美濃」(生国は阿波)とはっきり書かれていました。貞高は徳島出身で、父が徳島藩に仕えていたといいます。その前の世代が分かりません。
  美濃の河田家と関わりがあるのかと思い、美濃の河田を調べているのですが、早速行き詰まり、どうしても分かりません。美濃の方は私もよく分からないところです。そこでご連絡させていただきました。
  出来る事なら詳細な情報、家系、家紋などが知りたく、すこしでも知っている事があれば教えていただきたく思っております。
 
2 現在得た情報では、以下の通りです。
 
 (1) 河田隼人入道常久:弘治二年の戦(義龍vs道三)で斉藤道三方につく。
  河田新左衛門も同じく。
 (2) 本巣郡宗慶の住人:河田隼人正常、同新左衛門常遠、同八五郎恒?遠
(3) 一味合戦の軍兵一万……天文十一年五月二日大桑の城に押し寄せた面々の中に河田隼人・同新左衛門
 (4) 揖斐城を斎藤道三が揖斐光親を攻略した後、河田伊賀守常観が入城
 
の四つです。この中で出てきた者は、
 河田伊賀守常観
 河田隼人入道常久(河田隼人正入道常久ともあり)
 河田隼人正常
 河田新左衛門常遠
 河田八五郎恒(連?)遠
の五人です。彼らの相互関係は分かりません。しかしながら河田家は、斎藤道三の家臣として活躍したようです。
  大洲の河田家は美濃を落ちて蜂須賀家に召抱えられ、後に祖母が大洲藩の加藤家と面識が有った故をもって召抱えられたといいます。話では斎藤家、蜂須賀家、河田家と美濃がキーとなっている模様です。
*以上は、趣旨を損なわない範囲で原文を多少整理・修補しております。
 

 (樹童からのお答え−現段階での調査及び見解)

1 諸国に河田(川田)の地名があり、各々の地に系統の異なる河田(川田)氏が起こっています。例えば、薩摩の比志島一族、甲斐の清和源氏流武田一族、伊勢平氏、岩代に起った称藤原南家伊東一族、近江・越後に戦国期活躍した称藤原姓の河田豊前守長親の一族、伯耆の名和一族などに河田(川田)氏が見られます。
  しかし、これまでの系図研究のなかで、美濃の河田氏について管見に入った系図はありません。鈴木真年翁関係の目録などに当たっても、残念ながら出てきておりません。こうした前提ですが、ご質問を受けて調べてみますと、美濃のいわゆる川並衆と呼ばれた土豪とも絡んで、いろいろ興味深いことも分かってきましたので、その辺を試案的に書き連ねることとします。
 
 
2 河田助右衛門貞高は、ご承知のように、日置弾正正次(1444〜1502)に始まる日置流弓法を吉田久馬助重春のもとで学び、第二代大洲藩主加藤出羽守泰興に召し抱えられており、これにより大洲藩に日置流弓術が伝えられたものです。その父は阿波徳島藩に仕え、祖先は美濃の人といいますから、その辺に系譜を考える鍵があると思われます。
  阿波には麻植郡川田邑より起った河田氏がおり、『故城記』に「麻植郡分、河田殿、……、源氏、矢筈三ツ」と見えますが、河田貞高の祖先が美濃出自であれば、この麻植郡の河田氏とは別族で、藩主蜂須賀家に随って阿波に至ったものと考えられます。
  なお、「訳注阿淡藩翰譜/徳島藩上級家臣録(全12巻)」(中山義純・牛田義文共著)という書が最近刊行されており、そのなかに河田氏が取り上げられているかどうかは、まだ確認しておりません。
 
 
3 美濃の河田氏については、苗字起源の地が美濃国羽栗郡河田邑*1と推されます。往古、木曽川の流れを渡河する交通路として「河田の渡し」(訓は「こうだ」。幸田とも書く)があり、現在の岐阜県羽島郡川島町河田町(俗に美濃河田)と対岸の愛知県一宮市浅井町河田(俗に尾張河田)の間を渡船で結んでいました。
  この河田の地で、慶長五年(1600年)八月廿二日、関ヶ原合戦の前哨戦というべき「河田渡河の戦い」が行われ、東軍の池田輝政・一柳直盛らの一万八千の軍勢は、西軍に属する岐阜城主織田秀信(信長嫡孫)配下の三千余の軍勢との間で激戦を展開し、西軍はよく奮闘したものの遂に敗退し、東軍は勢いに乗じてその翌日岐阜城を落城させています。
  この事実からも河田の地が交通の要衝であったことが知られますが、美濃河田の対岸の尾張河田の地にも川田氏が居たことが知られ(尾張志)、「康正造内裡引付」に「川田雅楽助入道殿、尾州両所、散在段銭」と見えます。一方、美濃のほうは河田氏は、本巣郡の豪族として存在が見えており、太田亮博士は「宗慶(真桑村)の住人に河田隼人正常、同新左衛門常遠、同八五郎重遠等あり」と記しています(『姓氏家系大辞典』カハダ条、1650頁)。
  *1 美濃国羽栗郡河田邑は、もと尾張国葉栗郡河沼郷の地とみられており、天正十四年の大洪水で河道変更となり、その数年後に美濃国に所属が変更となって、葉栗も羽栗と書かれるようになったとされる。 
 
 
4 さて、尾張と美濃の境を流れる木曽川の中下流沿岸域には、戦国期、「川並衆(川筋衆)」と呼ばれていた諸土豪がおり、平時は水運業等を営みつつ、戦時は尾張の織田氏と美濃の斎藤氏に随時傭兵として用いられ、のち信長や秀吉の配下として天下統一の合戦に活躍したことが知られます。
  その代表的な存在が徳島藩主の祖となった蜂須賀小六正勝であり、また前野将右衛門長康、稲田大炊助稙元らがあげられます。このほか、坪内宗兵衛為定などの坪内一族、松原内匠介、和田新左衛門、草井長兵衛、日比野六太夫、野々村大善、青山新七などの名も知られます。前野将右衛門尉長康父子は大名になったものの、豊臣秀次に連座して失脚しましたが、徳島藩の筆頭家老となった稲田大炊助稙元をはじめとして同藩に仕えた川並衆もかなりあったとみられます。
  濃尾の河田は交通の要衝だけあって、その付近に川並衆の苗字の地や関係地が多く見えます。すなわち、川島町河田のすぐ下流の沿岸に松原島(現川島町松原町)、すぐ上流の沿岸に松倉があり(ともに同町域)で、松倉城には坪内氏が居りました。松倉の少し上流となる沿岸に草井があり、その少し南方に和田、さらに南方に前野や宮後(蜂須賀小六屋敷の所在地)があり、これらの地は愛知県江南市域(旧葉栗・丹羽両郡に所属)にあります。一宮市河田の近隣には日比野*2があります。
  以上の地に居住した川並衆は、相互に濃密な親戚・縁戚の関係にあったと思われます。主な川並衆諸家の通婚・養子縁組などの関係については、地元の研究者早瀬晴夫氏の著『織豊興亡史』をご覧下さい。
*2 日比野郷は尾張国葉栗郡に属し、その郷域は現在の一宮市浅井町大日比野・小日比野・前野辺りとみられている(『角川地名大辞典 愛知県』)。川並衆の前野氏の本拠は江南市のほうの前野であるが、同じ前野という地名が出てくることには、同じ丹羽一族の居住も考えられ、一宮市の前野の南方近隣には丹羽という地名も見える。
 
 
5 こうした川並衆のうち、河田の近隣の松倉城にあった坪内氏は、信長の美濃攻略に大きな役割を果たしました。
  同氏は加賀守護の富樫氏庶流と称して藤原姓を名乗っておりますが、その系図には疑問が多く*3、富樫の支族藤左衛門頼定が坪内又五郎の家に養嗣で入ったとも伝えているので、本来はこの地の豪族とみられます。
  坪内一族では、坪内宗兵衛為定やその弟P太郎利定(玄蕃頭勝定の子)などが信長の時代に活躍しました。利定は、信長死後は豊臣秀吉に属したものの衝突して放浪、天正十八年(1600)には徳川家康に召されて、以後徳川氏に仕え、関ヶ原の戦には鉄砲隊を率いて活躍した功により加増を受けて羽栗・各務両郡に六千五百三十余石を領し、子孫は大身の旗本として存続しております。この坪内一族と前野氏とが縁戚であったことが、前野将右衛門長康関係の所伝から知られます。
  *3 坪内氏の系図は、前掲の『織豊興亡史』の数種あげられるが、かなりの相違があるうえ、富樫氏に系を引くものは史料の裏付けを欠く。
 
 
6 美濃の河田氏についてみると、その居住が知られる本巣郡宗慶は、現在真正町東部の糸貫川西岸にあり、河田の渡しから西北に十五、六キロ離れていて、川並衆とはあまり関係なさそうにも見えます。ところが、付近の地名を見ると、宗慶の南近隣で糸貫川下流西岸に坪内という地名が見えます。美濃では他に坪内の地名を見ませんから、この地が坪内苗字の起源の地ではないかと思われます。また、坪内の東南二、三キロほどに長良川の河渡の渡し(旧方県郡で、岐阜市域。訓は「ごうど」。合戸とも書く)があります。
  こうした地名配置に着目すると、宗慶の河田氏は坪内など川並衆の一族から出たと考えるのが自然です。そして、坪内・河田の一族は古代から木曽・長良両川の渡しの職掌を持っていたのではないかと推されます。こう考えていくと、徳島藩に仕えた河田氏が本巣郡宗慶に居たかあるいは木曽川流域に居たかは不明ですが、川並衆の縁で蜂須賀氏に属したのではないかとみられます。
 
 
7 河田氏は、江戸前期の出雲松江藩主堀尾山城守忠晴(茂助吉晴の孫)の家中にも多く見えます。すなわち、『姓氏家系大辞典』に記載する「堀尾山城守給帳」には「百五拾石河田助次郎、四百石河田又左郎又十郎、弐百五拾石河田新左衛門」と掲げられており、これら河田を名乗る人々も美濃か尾張の出身であったと考えられます。
  というのは、藩主の堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所村(丹羽郡大口町豊田小字御供所)の出身で、秀吉に仕えて立身した堀尾茂助吉晴が大名となったものですが、その娘が野々村河内守に嫁し、茂助吉晴の妹が生駒孫兵衛に嫁すなど、川並衆関係者と通婚しているからです。野々村氏は上記川並衆のなかにも見えますが、太田亮博士は尾張国海部郡津島の名族と記しています。その苗字起源の地が葉栗郡野村であれば、現在の一宮市笹野付近であり、この地は同市浅井町尾関に接しており、尾関辺りは古代葉栗郷の中心郷域とみられています。また、海部郡に起った氏であったなら、おそらく近傍の同郡蜂須賀村(現美和町蜂須賀)に起った蜂須賀氏と同族だった可能性があります。
  御供所は、前野氏が居住した前野と生駒氏が居住した小折のほぼ中間点に位置しますが、生駒氏が前野・蜂須賀両氏と密接な関係にあったことは有名です。
 
  こうしてみると、公家の高階朝臣から出たと称する堀尾氏の系譜も、歴代の名を具体的に伝えるものの疑問が大きいものです*4。その姓を在原とも橘とも、あるいは源氏とも伝えて混乱が甚だしいうえ、中世尾張国中島郡には堀尾荘があり、堀尾行直・同行家・同家綱などの名が史料(「参軍要略抄」下裏文書。『鎌倉遺文』1619などに所収)に見えており、堀尾荘の所在地は羽島市辺り(木曽川下流西岸)かといわれております。堀尾春芳伝には、帯刀先生吉晴の裔で、その父が蜂須賀伴右衛門に養われたとあって、ここでは蜂須賀氏との所縁が出てきます。
 御供所の堀尾氏の旧跡はいま八剣社となっておりますが、八剣社は堀尾氏の祭神とされます。この八剣社は濃尾地方に多い分布を示し、その中心は延喜式内社の八剣神社であり、現在、熱田神宮境内に別宮八劔宮として鎮座します。同社の祭神は素盞嗚神とも草薙剣に因んで日本武尊ともされますが、尾張国造一族が奉斎してきた事情からみて、おそらくは海神族の祖八千矛神を祀るものとみられます。
 昭和十二年に発行となった『神道大辞典』には、八剣神社の主なものとして、愛知県では宝飯郡三谷町、岐阜県では羽島郡八剣村下印食、同郡桑原村八神、土岐郡肥田村、養老郡笠郷村があげられています。また、愛知県の海部郡富田村(現名古屋市中川区富田町)万場、名古屋市守山区、丹羽郡(現岩倉市)八剣にも同社が鎮座しました。こうしてみると、堀尾氏の起源は羽島辺りにあったものと推されます。
 おそらく、堀尾氏は川並衆と縁のある出自の一族で、海神族系の尾張氏族か和邇氏族を先祖とするものだったと考えられます。
*4 堀尾氏の系図については、茂助吉晴の父を中務少輔泰晴として、その祖を公家高階氏の右京大夫忠継とし、忠継の子の忠泰が斯波武衛義重に仕え堀尾を号し、その五世孫が泰晴とするものが通行し、『姓氏家系大辞典』でもこれを記載している。しかし、まったく別系の堀尾氏の系図が宮内庁所蔵の『中興武家諸系図』第四十二に記されており、これに拠ると、先祖を藤原吉国(堀尾左衛門)とし、その子が忠左衛門吉足で、以下、その子「吉久(忠左衛門、中務少輔)−吉時(ママ。茂助、帯刀先生)」とされる。
この系図が妥当であれば、公家に系を引く系図は仮冒となり、茂助吉晴の父の名は確定できず、先祖不明としてしか扱えない。『塩尻』では、堀尾帯刀長吉晴は在原氏と記している。
 
 
 
8 川並衆の諸氏の多くが遠い先祖を同じくする同族であったとするとき、その出自する古代氏族を推定するのは、比較的容易ではないかとみられます。濃尾地域にあって水運を管理した古代氏族といえば、古代海神族系の和邇氏族がまずあげられるからです。この氏族は美濃西部に額田国造として入り、濃尾に広く分布して、虚空蔵信仰を広めました。
  前野氏や稲田氏は古代の丹羽郡に繁衍した丹羽臣・椋橋宿祢一族の末裔であり、のちに良峰朝臣とか橘朝臣とかを称しますが、いずれも仮冒です。平安期に丹羽郡大領を世襲した立木田氏から前野・稲田両氏は出ており、平安後期の立木田大夫高義の子が稲田権大夫景高で稲田氏の祖となり、高義の弟左兵衛尉高長の曾孫が前野右馬二郎時綱です。ともに丹羽郡内の地名に因んで苗字としています。なお、清和源氏一色一族の出自を称する播磨三草藩主の丹羽氏も、左兵衛尉高長の後裔で前野同族です。
  蜂須賀氏は、清和源氏の斯波氏とか新田氏から出たと称しましたが、これも仮冒です。その起源の地が多氏族の島田臣の居住地海部郡島田郷*5の郷域にあって、この末流であったとみるのが自然です。だからこそ、故地が木曽川筋から少し離れた海部郡にあっても、母縁で宮後の蜂須賀屋敷に居住し川並衆の頭領と仰がれたものであろう。
  これら丹羽臣や島田臣は、皇別と称する多氏族(神武天皇皇子神八井耳命の後裔と称した)に属しますが、実はこの多氏族も和邇氏族の分かれとみられます。古代尾張の海部郡や知多郡では、和邇部臣など和邇氏族の分布が見られます。
 *5 海部郡島田郷は島田上下県の後身で、その郷域は海部郡の七宝町及び美和町南部から津島市東部にかけての一帯とみられている(『地理志料』)。
 
  また、一宮市の河田や日比野の近隣には葉栗村(光明寺村等が合併して、明治39〜昭和15の間、存続)があって、『和名抄』にあげる葉栗郡葉栗郷の中心地であり、和邇氏族の葉栗臣氏が居住しました。『塵袋』には、尾州葉栗郡の光明寺はハクリの尼寺といい、飛鳥浄御原御宇(天武朝)に小乙中葉栗臣人麻呂*6が建立したと伝えます。葉栗(羽栗)臣は山城国久世郡羽栗郷にも居りましたが、『姓氏録』山城皇別には度守(ワタシモリ)首があげられ、和邇氏族村公と同族と記載されております。度守首は、「宇治の渡し守を掌りしか」と太田亮博士が述べられます。
  和邇氏の系図には、和邇臣の祖・難波根子建振熊命の弟・建穴命が葉栗臣・度守首・猪甘部首の祖と記されていて、これら姓氏は皆山城に居住していました。『姓氏録』では葉栗臣は左京皇別に収め、「彦姥津命三世孫建穴命の後也」、山城皇別には葉栗をあげ「小野と同祖。彦国葺命の後也」と見えます。
*6 葉栗臣人麻呂の子孫が十三世紀末頃に切所大榎(一宮市)付近に築城し、のち栗木姓を名乗って江南市北部の宮田地域に君臨したという所伝があるが、これが尾張の葉栗臣の後裔を伝える唯一のものである。ほかにも葉栗臣一族の後裔はいたと考えられる。また、宮田は川並衆の草井の地の近隣にある。
 
  東国に展開する和邇氏族は建穴命か額田国造祖の大眞侶古命(建穴命の叔父とされるが、両者が同一人物の可能性もあろう)かの後裔ではないかとみられますが、その具体的な系譜は不明です。また、度津臣、度津宿祢という古代姓氏もあり、三河国宝飫郡渡津〔度津〕郷に起るのではないかとみられますが、これも和邇氏族と推されます。佐渡には式内社の度津(ワタツ)神社がありますが、五十猛神ないしは海童神を祀るとされ、阿倍氏族の道君が奉斎したことが考えられます。この阿倍氏族も、和邇氏族の分かれと考えられます。
 
 
9〔結論〕 こうしてみていくと、川並衆諸家は古代から木曽川筋を押さえてきて戦国期に至ったことが窺われ、なかでも濃尾の河田氏は古代の度守首ないし葉栗臣の末裔ではないかと考えられます。

  ただ、美濃のこうした系統から、なぜ弓道の大家が出たかは今のところよく分かりません。あるいは、系譜不明の弓道中興の祖日置弾正正次が伊賀国愛田村日置(三重県阿山郡伊賀町)の生れで、これも和邇氏族と同系とみられる阿倍氏族の伊賀臣の血筋をひく可能性*7があることと多少は関係があるのかもしれません。日置弾正正次の後継吉田上野介重賢などの弓道に関係する吉田一族が、阿倍氏族佐々貴山君の後裔になる近江の佐々木一族であることも併せて想起されます。
(以上は、具体的な系図なしに河田氏や川並衆を検討してきましたから、今後の史料発掘に伴い再考の余地は残ります。)
*7 日置弾正正次の系譜については、その祖を池大納言平頼盛の家人弥平兵衛宗清とすると伝える。宗清は伊勢平氏の一族といわれ、『尊卑分脈』では右兵衛尉平季宗の子に記載されるが、その叔父にあげる筑前守家貞や家貞の子の平田冠者家次・筑前守貞能と同様、系譜仮冒とみられ、おそらくは伊賀国阿拝郡の古族の末裔で、具体的には阿倍氏族伊賀臣の出ではないかと推される。この辺の系譜については検討を記すと長くなるので、結論のみに止める。

   (03.11.15 掲上)
 <備考> 川並衆に関連して、ここでは古代の和邇氏族・多氏族・阿倍氏族について言及しているので、これらの氏族概観をご覧下さい。

 (尚田信行様よりの返信) 03.11.16受け

  ホームページ拝見させていただきました。情報が多く、とても参考になりました。こんなにも丁寧に調べて下さってとても感謝しております。これからはその方面で調べていきたいと考えております。

  私もその間、河田家について少し調べていたのですが、美濃の河田家の事はやはりさっぱり分かりませんでした。しかし、江戸時代に書かれた書物で分限帳のような働きをしている「大洲秘録」によると河田家の家紋は剣花菱でした。しかし、大洲秘録は正式な分限帳ではないらしく、情報量は少ない物でした。
なお、大洲藩には分限帳として「藩臣家譜」という書物があるようですが、加藤家蔵と書かれていて大学図書館のほか国会図書館にもありませんでした。加藤家とは大洲藩主の加藤家のことだと推定していますが、詳しい事は分かりません。この中には河田家の重要な記述があるのではないかと思われますが、素人では見つける事が出来ませんでした。

  また、以前河田家の調査で法名帳を見させていただいたのですが、手元の写しによると、やはり「カワダ」と読むようです。姓は源であると伝えられていますがそれを表す証拠はなく、信憑性には疑問があります。貞高の祖母(信女:?〜承応三年一月六日没)、父(信士:?〜承応三年七月十四日没)、母(信女:?〜貞享四年五月十七日没)、貞高(居士)が古い人物になります。しかし、今回気づいたのですが、奇妙な事に祖父の記述がありません。徳島藩で何があったのか分かりませんが高齢の祖母と病に伏した父・幼少の貞高がある日藩を抜けるというのが少し怪しい気がします。
  大洲藩に来た年代は詳しくは不明ですが、大洲秘録の役職をみると貞高が幼少の頃であったようです。尚、祖母、母ともに元の苗字は不明です。阿波の河田家・川田家を探してみても、幕末にまで残った河田家はこの家とは別家のようです。しかし、「蜂須賀縫庵」(註:「蓬庵」で、小六正勝の子の家政のこと)の中には寛永九年(1632)に淡路仕置から川田助右衛門に下した文章があり、河田助右衛門貞高とかなり似通っています。この家が河田家と関係が有るのではないかと推測しています。淡路という土地柄、稲田家の陪臣を調べましたが有りませんでした。他は何も収穫はありませんでした。やはり蜂須賀家の家中であったようですが、どの分限帳にも江戸前期の事は書かれていないようです。
  長くなってしまいましたが、少しでも参考になれたらと思い、書かせて頂きました。また、今後何か分かった事がありましたら、お手数ですが、ご教授承りたく思っております。


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