小林 滋 様 |
『古代史の海』誌の「創刊十五周年記念」号である第60号が手元に届いたところ、その冒頭に原秀三郎氏の書簡と、それに関係する中村修氏の過去の論考「初期国家論」が事々しく掲載されているのを見て、思うところが多く、以下に雑感を書き連ねてみました。まぁ、私の独断と偏見によるところもあるかもしれませんが、言説の自由がある国ですから、一石を投じるのも悪くはないかと思っております。ご異見があれば、適宜、反論していただいて結構です、と予めお断りをしておきます。 @古代史研究者の大部分がいまだにマルクス主義歴史学を奉じていることは、ヨクわかっております。唯物的な考古学偏重の姿勢や、まともに検証されない自然科学的手法をまとった古代年代値の採択姿勢などは、現代の風潮といえますが、それらも、その現れと考えています。ですが、上記誌の編集・経営委員会代表によって、こうも臆面なしに古色蒼然たる議論を全面的に持ち出されるとは、どのようなものか、とまず感じるところです。 ただ、この書簡とか、合わせて掲載されている『日本大百科全書』の執筆項目の「古代国家」などを読むと、マルクス主義史観を大枠とする原氏の基本姿勢は何も変わってはいないようにも見受けられ、混乱してしまいます(P.11の「古代国家」の解説文では、「国家とは、一階級による他の諸階級支配のための機構」と明確に述べられています!)。 原秀三郎氏にすれば、「高度に抽象的な理論分野の作業」として、「マルクス・エンゲルス理論にもとづく歴史理論」を「日本語によって再構成」させたものが自分の従来の仕事であり、最近行っている「日本古代史=民族史レベルの分析や叙述」にあたっては、「敬神愛国」(田中卓博士の立場に近いのであれば、実際には「皇国史観」かそれに近いものではないかと思われます)で臨んでいる、ということなのでしょう〔要すれば、全体的には“マルクス主義史観+敬神愛国”であり、仕事の重点を前者から後者に移している、という事情ではないかと思われます。ただ、こうした格好の姿勢の変化は、佐野学の「転向」(注1)など前例が山をなしています(注2)〕。 ですが、そんな表現をされても、良くわけがわかりません。いったい高度に抽象的な歴史理論と、日本古代史という具体論がどのような筋道で結びつけられているのでしょうか?両者がうまく接合された上での結論がどうなっているのかを、具体的な成果(何かの雑誌に掲載されているのでしょうか)として簡単には見ることができないので(注3)、部外者には評価のしようがないところです。 (注1)wikipediaによれば、佐野学らは「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動を行う」といった内容の転向声明を出しています。 (注2)もっと一般的には、高村光太郎などに顕著に見られるように、若い時分は西欧にかぶれ、年齢をかさね自分の周りを見て日本回帰を図る、といったありふれた行動パターンに属するものではないかと思われます (注3)貴HPに掲載されている「随想「真理は中間にあり」か」の註6とか「考古学者の古墳年代観」の註16とかにおいては、この原秀三郎氏に言及されていますが、そこではマルクス主義史観的な立場からの見解ではなさそうですが。
中村氏は、今度の「編集後記」において、「現代人である私たち自身が「敬神」の気持ちを持たなければ古代人の「敬神」の気持ちを理解することが出来ないかというと、断じてそんなことはない」と断定する始末です〔この問題は、「理解」ということをどう「理解」するかにかかっていて、そう簡単に断定できないと思われます〕。 ともあれ、マルクス主義史観にせよ、「敬神愛国」の思考にせよ、とても合理的科学的に古代史を研究する姿勢とは異なるのではないかと考えます。戦前の歴史観の反省は、どこに行ったのでしょうか。こういう非科学的な先入観を排するところから、冷静な古代史の検討が始まるのではないのでしょうか。 (注5)原氏が書簡において、中村氏の旧稿が「「初期国家」概念を、拙論の主旨をよく理解された上で、民族史の分析や叙述に有効な概念として応用・加工されようとされている」と一応は述べているものの、実際に中村氏のやっていることは、岡本清一・原秀三郎氏の「生成しつつある国家」を「初期国家」と言い換えただけのことに過ぎず、それでは「具体的な内容が乏しい」からとして「初期国家」を「首長制」概念と結びつけたところ、原氏の方では「首長制」概念を明確に否定するのですから! U次ぎに、当論考の内容を考えてみます。 それでも、再録された旧稿の内容が現時点で読んでも優れているのであれば、それはそれで、ある意味、立場を考えれば、仕方のないことかも知れません。でも、掲載後の再考などが少しでもあれば、構成や内容は自ずから変わってくるものであり、それで補訂が加わったものを、新たに読者に問うというのが自然ではないでしょうか。それなら、「再録」でもまだ納得できるかもしれません。「ある意味」というのは、曖昧な表現ですが、このような意味で「仕方ない」と表現したわけです。 ですが、実際のところ中村氏の論考は、内容的に疑問が多い論文ではないでしょうか?以下に私見を述べてみます。 それでは、それ以下でその議論が展開されているのか見てみましょう。 おそらくは、「半国家(公共機関)」→「国家(階級抑圧機関)」とすべきなのでしょう。そして、「共同体の生産」→「奴隷制」へと「社会の主要な生産様式」が次第に移行していくと「≪公共機関≫が≪階級抑圧機関≫へと次第に転化していって、ついには「半国家」が「国家」になると言いたいのでしょう(注6)。 中村氏らの「過渡期移行」論は、「客観的に存在する法則」(?!)を求める余り、人間が歴史を作っていくのだとするマルクスの考え方も無視してしまっているのではないでしょうか〔中村氏らがマルクスから離れようがドウしようが、とくに興味もありませんが!〕? この辺りでより具体的に考えてみると、次のような問題があります。 中村氏は、エンゲルスの「国家の基本的属性」として4点をあげていて(<注>のP.25の(7))、その一方で、平気で「キビ王権」「ツクシ王権・ヲハリ王権」という表現をしています。「王」というからには、国家が前提だと普通には考えられますが、キビやツクシ・ヲハリに実際に国家が成立していたのか、それは、エンゲルスの属性要件をどのように満たしていたのか、そうしたことに関する説明がいるはずです。先にあげた、「首長論」にも通じますが、軍隊・警察など地域の独立性を担保する公的強制力(エンゲルスの要件Aに通じる)や、当該地域内で完結する官吏組織の存在(同、Cに通じる)なしには、古代でも「国家」と呼べないと思われますし、そうした国家の基盤なしに単独の「王」など存在しえないと考えます。 「裸の王様」は物語にすぎません。いったい、わが国の古代において、キビやツクシ・ヲハリという地域に「国家」が存在した証拠がどこにあるのでしょうか。「古代における地域の有力者」を安易に「王」と呼ぶ傾向は、最近までの風潮によく見かけるところですが、そのように呼んでしまう研究者に「国家」という認識が乏しい故ではないかと考えられ、中村氏の旧稿も、大きな矛盾を平気で露呈していると思われます。 こうした事例を具体的に考えていけば、抽象的な理念先行の議論がなんの役に立つのかということになりますし、中村氏の旧稿の評価にもつながると思われます。 以上に述べてきたように、疑問の多い論考が麗々しく雑誌に再掲載されたということで(一度の掲載なら、それはそれで、まぁ構わないとは思いますが)、そして、そんなことをする方が「編集代表」に就いているということでは、かなり長いおつきあいをし、拙稿の掲載もしていただきましたが、どうも当誌とのお付き合いはやめにしたほうがいいのでは、と思うようになりました。 (2010.6月下旬記) |
<樹童の感触> 貴見を読んで考えることを書いてみますと、概ね次のようなものです。 1 「国家」としての要件を実態として具備しない部族や地方・地域の首長を、安易に「王」と呼んではいけない。戦後の古代史の学究のなかには、「国」についてのきちんとした定義も踏まえないで、地域あるいは部族の首長的な存在を安易に「王」と呼ぶものも、最近、屡々見うけられるが、これでは、古代であっても科学的定義にみて、きわめて問題が大きい。具体的な事例で考えると、大和王権が及んでその勢力圏のなかに取り込まれる前の段階の出雲や丹後、あるいは北九州の一部に「王的な存在」は認められるかもしれないが、それ以外の地域に「王」がいたということは論理的に飛躍がある。
その一方、古代のヤマト(大和)の王権についても、考古学者などの論考には「政権」と書かれることも屡々見られるが、これとならんで、疑問の大きい用語である。こうした概念の紛らわしい「近代用語」を用いることで科学性を装うなど、古代分野とはいえ、歴史研究にあってはならないことである。 2 目新しい表現や緻密性をもった議論だから、すべてが近代的で正しいわけではなく、歴史の大きな流れのなかで、妥当な方向となっているかどうかのチェックが常に必要である。そして、これらの表現や具体的な事例が、近隣の東アジアの当時の歴史状況のなかで現実に見られることなのかのチェックも必要となる。こうした様々な観点からのチェックなしに、観念論だけで日本の古代史を考える傾向がこのところよく見られるようになってきたのは、残念なことと思われる。 (10.7.17 掲上) (応答板トップへ戻る) ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |