中村修氏の論考「初期国家論」を読んで−『古代史の海』誌を考える

                                              小林 滋 様

 

 『古代史の海』誌の「創刊十五周年記念」号である第60号が手元に届いたところ、その冒頭に原秀三郎氏の書簡と、それに関係する中村修氏の過去の論考「初期国家論」が事々しく掲載されているのを見て、思うところが多く、以下に雑感を書き連ねてみました。まぁ、私の独断と偏見によるところもあるかもしれませんが、言説の自由がある国ですから、一石を投じるのも悪くはないかと思っております。ご異見があれば、適宜、反論していただいて結構です、と予めお断りをしておきます。
 
T 原秀三郎氏との関係をまず考えてみます。

@古代史研究者の大部分がいまだにマルクス主義歴史学を奉じていることは、ヨクわかっております。唯物的な考古学偏重の姿勢や、まともに検証されない自然科学的手法をまとった古代年代値の採択姿勢などは、現代の風潮といえますが、それらも、その現れと考えています。ですが、上記誌の編集・経営委員会代表によって、こうも臆面なしに古色蒼然たる議論を全面的に持ち出されるとは、どのようなものか、とまず感じるところです。
 
A一方、旧稿の著者が引いている原秀三郎氏は、wikipediaによれば、「近年は180度方向転換し、田中卓の学説を支持して「敬神愛国」をスローガンに掲げ古典解読に取り組んでいる」とのことです(書簡の補注4でも、同じ様な趣旨のことを述べています)。だから、中村氏とは拠って立つ基盤がいまは相当に異なるのではないかという違和感があります。

 ただ、この書簡とか、合わせて掲載されている『日本大百科全書』の執筆項目の「古代国家」などを読むと、マルクス主義史観を大枠とする原氏の基本姿勢は何も変わってはいないようにも見受けられ、混乱してしまいます(P.11の「古代国家」の解説文では、「国家とは、一階級による他の諸階級支配のための機構」と明確に述べられています!)。

 原秀三郎氏にすれば、「高度に抽象的な理論分野の作業」として、「マルクス・エンゲルス理論にもとづく歴史理論」を「日本語によって再構成」させたものが自分の従来の仕事であり、最近行っている「日本古代史=民族史レベルの分析や叙述」にあたっては、「敬神愛国」(田中卓博士の立場に近いのであれば、実際には「皇国史観」かそれに近いものではないかと思われます)で臨んでいる、ということなのでしょう〔要すれば、全体的には“マルクス主義史観+敬神愛国”であり、仕事の重点を前者から後者に移している、という事情ではないかと思われます。ただ、こうした格好の姿勢の変化は、佐野学の「転向」(注1)など前例が山をなしています(注2〕。

 ですが、そんな表現をされても、良くわけがわかりません。いったい高度に抽象的な歴史理論と、日本古代史という具体論がどのような筋道で結びつけられているのでしょうか?両者がうまく接合された上での結論がどうなっているのかを、具体的な成果(何かの雑誌に掲載されているのでしょうか)として簡単には見ることができないので(3)、部外者には評価のしようがないところです。

(注1wikipediaによれば、佐野学らは「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動を行う」といった内容の転向声明を出しています。

(注2)もっと一般的には、高村光太郎などに顕著に見られるように、若い時分は西欧にかぶれ、年齢をかさね自分の周りを見て日本回帰を図る、といったありふれた行動パターンに属するものではないかと思われます

(注3)貴HPに掲載されている「随想「真理は中間にあり」か」の註6とか「考古学者の古墳年代観」の註16とかにおいては、この原秀三郎氏に言及されていますが、そこではマルクス主義史観的な立場からの見解ではなさそうですが。

 
B余所見には自家撞着を起こしていそうに見える原秀三郎氏によるとしても、「拙論の主旨をよく理解され」などと評価されるとのことで、中村氏は、原氏の書簡をわざわざ雑誌冒頭に掲載してしまいました!どうも、編集者として冷静な態度とは言えないように思われます。
 
 ですが、上記のように原氏は「敬神愛国」などとおかしなことを言っています。そのことは業界辺りではよく知られているのでしょうか(私には初耳でしたが)。

 中村氏は、今度の「編集後記」において、「現代人である私たち自身が「敬神」の気持ちを持たなければ古代人の「敬神」の気持ちを理解することが出来ないかというと、断じてそんなことはない」と断定する始末です〔この問題は、「理解」ということをどう「理解」するかにかかっていて、そう簡単に断定できないと思われます〕。

ともあれ、マルクス主義史観にせよ、「敬神愛国」の思考にせよ、とても合理的科学的に古代史を研究する姿勢とは異なるのではないかと考えます。戦前の歴史観の反省は、どこに行ったのでしょうか。こういう非科学的な先入観を排するところから、冷静な古代史の検討が始まるのではないのでしょうか。
 
Cまた、中村氏の旧稿では、「首長制は弥生中期から古墳時代の概念と考えている」などと積極的に「首長制」が取り上げられていますが、原氏は書簡において、その概念は「階級社会・文明社会を作っていく民族の分析には不向きだ」と明確に否定しています。
 さらには、そのことに関連しますが、マルクス主義歴史学者として著名な石母田正氏について、原氏は書簡において、その首長制概念には「理論上のカテゴリーとしてはゆれがある」と批判したり、磯前順一氏の論文を「従来の石母田正論とは一味異なる評価を引き出してい」ると評価したりしています。
 それを大層苦々しく思ったのでしょう(注4、中村氏は、同じ誌の「編集後記」において、「磯前氏が<後出しじゃんけん>をして……石母田正らの先学達の限界性ばかりを抽出して」いるなどと批判を加えたりしています〔なんと、その際には、あのレーニンや不破哲三氏の著作からの引用まで行っています!〕。
 
 ですが、そんな批判をするくらいなら、原氏の書簡などわざわざ掲載しなければよかったのに、と思われるところです〔さらに言えば、原氏の書簡をよく読むと、中村氏の旧稿評価は儀礼のようにも思われ、実際のところは、旧稿の核心部分と思われる「首長制」を批判しているところから見ても、原氏は中村氏の論考を高く評価していないのではと思われるところでもあります(注5)!〕。
 
 でも、原氏が“象牙の塔”の住人である大学教授(静岡大学、千葉大学→静岡大名誉教授)だからでしょうか、「賛意を表」され、あまつさえ「感謝」されたりしたものですから、いまさら“象牙の塔”の住人にはなれない中村氏としては、冷静さを欠いたのではないかともみられます(同誌前号の「編集後記」の姿勢から、そう推測されるところです)!
 それに、「業界から完全に無視され」た旧稿に対して、もう一度、日の目を見させたかったこともあるでしょうか!
 原氏の書簡に引き続いて、中村氏は、ご自分の旧稿を再掲載してしまうと言う挙に出ました!しかしながら、いくら編集・経営委員会代表とはいえ、それはやり過ぎではないでしょうか。氏が編集長とはいえ、編集委員会は機能していないのでしょうか。どうも、雑誌の私物化といわれても仕方がない行為のように思われるのですが、他の読者の皆様はどう思われますか。

 (4)中村氏の旧稿には、「文献史学の《首長制》概念は石母田正が提起した」などとあるところからすれば、ご多分に漏れず、中村氏も石母田氏を高く評価しているのでしょう。

(注5)原氏が書簡において、中村氏の旧稿が「「初期国家」概念を、拙論の主旨をよく理解された上で、民族史の分析や叙述に有効な概念として応用・加工されようとされている」と一応は述べているものの、実際に中村氏のやっていることは、岡本清一・原秀三郎氏の「生成しつつある国家」を「初期国家」と言い換えただけのことに過ぎず、それでは「具体的な内容が乏しい」からとして「初期国家」を「首長制」概念と結びつけたところ、原氏の方では「首長制」概念を明確に否定するのですから!
 

U次ぎに、当論考の内容を考えてみます。

 それでも、再録された旧稿の内容が現時点で読んでも優れているのであれば、それはそれで、ある意味、立場を考えれば、仕方のないことかも知れません。でも、掲載後の再考などが少しでもあれば、構成や内容は自ずから変わってくるものであり、それで補訂が加わったものを、新たに読者に問うというのが自然ではないでしょうか。それなら、「再録」でもまだ納得できるかもしれません。「ある意味」というのは、曖昧な表現ですが、このような意味で「仕方ない」と表現したわけです。

 ですが、実際のところ中村氏の論考は、内容的に疑問が多い論文ではないでしょうか?以下に私見を述べてみます。
 
(1)当論文は、まず麗々しく、「本稿は<人類社会には発展法則がある>という認識論に立っている」(P.14)と宣言しています。ですが、そんなのは「認識論」でもなんでもなく、著者が物事を認識するに当たり、前もってかけている色眼鏡であって、単なる思い込み・先入観にすぎません。
 加えて、「≪人類史の発展法則≫というものは、≪万有引力の法則≫などと同じように客観的に存在するものと考えている」ともありますが、本当に「客観的に存在する」のであれば、適切な立証か、それを証明するものを具体的に見せてもらいたいものです。それができずに、「存在すものと考えている」という程度なのであれば、それこそ単なる個人的な信念・思い込みにすぎません。
 (でも、中村氏がそう思いたければ、それ自体を非難するいわれはありませんが、信念の押しつけはご勘弁願いたいところです
 
(2)それでは、そういった「認識論」に基づく中村氏の国家論はどうなのかというと、今の世の中で「国家」に関して行われている議論はすべてすっ飛ばして、例によって例の如く、またまたカビが山をなしているエンゲルスの定義がイの一番に持ち出される始末です(およそ150年前の古証文です!マルクス、エンゲルス、レーニンを出発点にすれば、何事も許されるというのでしょうか!)。それもよくいわれるものは旧稿注7に引用するだけにしておき、中村氏の議論に都合がいい方の定義を本文に持ってきています。いったいこの二つのものはどこがどのように関係するというのでしょうか?
 (ですがそれも、中村氏がマルクス史観を報じているのなら仕方のないことかも知れません 

(3)そこまでは譲るとして、それでは、肝心の「初期国家」、「半国家」の議論はどうでしょうか?
 掲載誌のP.17の上段に記載してある図からすれば、「国家」と「半国家」に共通するものは「公共機関」しかありませんから、この図からごく自然に導き出されるのは、ここで言われている「国家」とはイコール「公共機関」なのだということになります。
 ですが、P.16の上段によれば、「国家発生二段階論が必ずしも<公共機能こそ国家の本質だ>とするとは限らない」のであって、<国家の本質は階級抑圧機関である>との立場を堅持した国家発生二段階論も十分成り立つ」のだそうです?!

 それでは、それ以下でその議論が展開されているのか見てみましょう。
 ですが、P.16の下段で述べられていることは、「半国家」の「生成しつつある国家」とは、「≪公共機関≫はすでに発生しているがまだ≪階級抑圧機関≫に転化していない段階」であって、「原始社会をすでに脱しているが、国家段階にはまだ到達していない過渡期の段階」だというにすぎません。
 これでは、単に、P.17の図をほんの少しだけパラフレーズしたものであって、ご自分の議論が「十分成り立つ」根拠などどこにも見出せません!
 
 ところで、ここでの説明によれば、「≪公共機関≫はすでに発生しているがまだ≪階級抑圧機関≫に転化していない段階」とありますが、そうだとすると、P.17の上段に記載の図にある「国家(公共機関+階級抑圧機関)」となっているのはおかしなことになります。「国家段階」とは「≪公共機関≫が≪階級抑圧機関≫に転化している段階」なのですから、「+」で結びつけられるはずがないのです!

 おそらくは、「半国家(公共機関)」→「国家(階級抑圧機関)」とすべきなのでしょう。そして、「共同体の生産」→「奴隷制」へと「社会の主要な生産様式」が次第に移行していくと「≪公共機関≫が≪階級抑圧機関≫へと次第に転化していって、ついには「半国家」が「国家」になると言いたいのでしょう(注6
 ですが、こんな図式はマルクス主義史観からも外れているのではないでしょうか?次第に「転化」するとは?マルクスからすれば、例えば、資本主義生産様式から共産主義社会への移行は、次第に進行していくものではありません。その間には「革命」という断絶があるはずなのです(こうした「断絶」は、他の生産様式の変革にも見られることでしょう)。

 中村氏らの「過渡期移行」論は、「客観的に存在する法則」(?!)を求める余り、人間が歴史を作っていくのだとするマルクスの考え方も無視してしまっているのではないでしょうか〔中村氏らがマルクスから離れようがドウしようが、とくに興味もありませんが!〕?
 
 とにかく、「半国家」とされているものは〔中村氏によって?原氏によって?〕、「国家」の前段階なのですから、「国家」ではないのであって、単に「前国家」とでもすれば、多少は混乱しなくて済むのではないでしょうか?ですが、そうしてしまうと「国家」ではないものになってしまいます。どうしてもその段階のものを「国家」という括りに入れたくて「半国家」などと言ってしまうものですから話が混乱してしまうのです。
 「国家」への移行期間における社会の形態をクローズアップするにしても、国家の本質として把握しているに違いない「階級抑圧機関」が存在しないのですから、「半」にせよ「国家」と呼ぶわけにはいかないと考えられます。

(注6)原秀三郎氏による「奴隷制」の解説(P.11)によれば、日本においては、「社会的生産が奴隷労働によってになわれる労働奴隷制にまでは発達しなかったとみられている」そうです。としたら、古代にあっては、日本にはついにきちんとした「国家」は存在せず、「半国家」状態のままだったということになってしまいますが?原氏の「奴隷制」の解説もそうですが、「客観的に存在する法則」なるものを無理矢理どこでもあてはめようとするから、わけのわからない議論が延々となされるのではないかと思います。
 
(4)こんな議論をこれ以上続けても、おそらく時間の無駄だと思われます。こんな低レベルで抽象的に「国家」とは何かと議論してみても、古代史研究には、何の利益ももたらさないでしょう。というよりも、概念の混乱によって悪影響すら考えられます。

 この辺りでより具体的に考えてみると、次のような問題があります。

 中村氏は、エンゲルスの「国家の基本的属性」として4点をあげていて(<>P.25(7))、その一方で、平気で「キビ王権」「ツクシ王権・ヲハリ王権」という表現をしています。「王」というからには、国家が前提だと普通には考えられますが、キビやツクシ・ヲハリに実際に国家が成立していたのか、それは、エンゲルスの属性要件をどのように満たしていたのか、そうしたことに関する説明がいるはずです。先にあげた、「首長論」にも通じますが、軍隊・警察など地域の独立性を担保する公的強制力(エンゲルスの要件Aに通じる)や、当該地域内で完結する官吏組織の存在(同、Cに通じる)なしには、古代でも「国家」と呼べないと思われますし、そうした国家の基盤なしに単独の「王」など存在しえないと考えます。

 「裸の王様」は物語にすぎません。いったい、わが国の古代において、キビやツクシ・ヲハリという地域に「国家」が存在した証拠がどこにあるのでしょうか。「古代における地域の有力者」を安易に「王」と呼ぶ傾向は、最近までの風潮によく見かけるところですが、そのように呼んでしまう研究者に「国家」という認識が乏しい故ではないかと考えられ、中村氏の旧稿も、大きな矛盾を平気で露呈していると思われます。

 こうした事例を具体的に考えていけば、抽象的な理念先行の議論がなんの役に立つのかということになりますし、中村氏の旧稿の評価にもつながると思われます。
 

V 当誌の掲載内容など

 以上に述べてきたように、疑問の多い論考が麗々しく雑誌に再掲載されたということで(一度の掲載なら、それはそれで、まぁ構わないとは思いますが)、そして、そんなことをする方が「編集代表」に就いているということでは、かなり長いおつきあいをし、拙稿の掲載もしていただきましたが、どうも当誌とのお付き合いはやめにしたほうがいいのでは、と思うようになりました。
 
 加えて、本号には、書き出しから情交シーンが描かれている「古代小説」が掲載されたり、大学院生の市木氏のエッセイが掲載されたりと、従来の本誌の傾向のとはかなり毛色の違ったものが見受けられるところ、「小説」を書くことについての自覚がない人の作品(?!)を読むことほど苦痛なことはありませんし〔編集者は、小説の善し悪しを判断できる見識をお持ちなのでしょうか?〕、また市木氏のエッセイ(今号には2本も掲載され、それだけでなく書簡まで掲載されています!)と本誌との関連性もヨク理解できないところがあります。
  研究誌なら、研究誌らしくあってほしいと感じます。小説の発表の場ではないはずです。
 また、「古代史の海」といっても、日本の古代史に関連するような地域や内容で通じ合わなければ、本誌の存在価値はどこにあるのかという気もしており、アンデスの古代文明等に関することは、余りにも日本の古代史とかけ離れていると思われるところです。

                                           (2010.6月下旬記)

  (10.7.10 掲上)


 <樹童の感触>

  貴見を読んで考えることを書いてみますと、概ね次のようなものです。

  「国家」としての要件を実態として具備しない部族や地方・地域の首長を、安易に「王」と呼んではいけない。戦後の古代史の学究のなかには、「国」についてのきちんとした定義も踏まえないで、地域あるいは部族の首長的な存在を安易に「王」と呼ぶものも、最近、屡々見うけられるが、これでは、古代であっても科学的定義にみて、きわめて問題が大きい。具体的な事例で考えると、大和王権が及んでその勢力圏のなかに取り込まれる前の段階の出雲や丹後、あるいは北九州の一部に「王的な存在」は認められるかもしれないが、それ以外の地域に「王」がいたということは論理的に飛躍がある。
  その一方、古代のヤマト(大和)の王権についても、考古学者などの論考には「政権」と書かれることも屡々見られるが、これとならんで、疑問の大きい用語である。こうした概念の紛らわしい「近代用語」を用いることで科学性を装うなど、古代分野とはいえ、歴史研究にあってはならないことである。

  目新しい表現や緻密性をもった議論だから、すべてが近代的で正しいわけではなく、歴史の大きな流れのなかで、妥当な方向となっているかどうかのチェックが常に必要である。そして、これらの表現や具体的な事例が、近隣の東アジアの当時の歴史状況のなかで現実に見られることなのかのチェックも必要となる。こうした様々な観点からのチェックなしに、観念論だけで日本の古代史を考える傾向がこのところよく見られるようになってきたのは、残念なことと思われる。

  (10.7.17 掲上) 



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