『医心方』撰進の丹波康頼の祖系 ─丹波国造とその同族を考える─ 宝賀寿男 |
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はじめに─『医心方』と丹波康頼
上古史分野の記事は、誤解と謬説が溢れている。最近、とくにそう感じさせるのは、丹波国造とその同族に関する記事である。その要因の一つか影響の一つかは不明だが、そのなかに国宝指定の『海部氏系図』がある。本稿では、やはり国宝に指定されている『医心方』(東京国立博物館所蔵の「半井本」。鎌倉中期の写本たる仁和寺蔵の残欠本も国宝で、同書に二系統がある)とその撰進者たる丹波康頼を取り上げる。 まず、『医心方』(いしんぽう)について、東博などの各種の説明記事をもとに概略を記すと、次のようなものである。 同書は、わが国に現存する最古の医学全書で、隋・唐の医書を集成して全三十巻から成り、中世に至るまで宮廷医家に重んじられた。内容は、医師倫理・医学総論・各種疾患の療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などに及ぶ。本文はすべて漢文で唐の『外台秘要』の形式にならって書かれており、唐代に存在した膨大な古典医学書を引用し、中国古典医書の逸文を多量に含むから古代東洋医学に関する知識の宝庫である。諸薬の和名も記すが、康頼自身の意見は記されない。
永観二年(984)に宮中医務官を務めた丹波康頼により撰進された。同書は、長らく宮中に秘蔵されていたが、室町時代後期の天文廿三年(1554)に正親町天皇から典薬頭半井光成(瑞策。和気清麻呂の後裔で和気朝臣姓)に下賜され、以後は半井家に伝来したもの(「半井本」)であって、大部分が平安時代院政期の写本である。諸写本の中で最も古く、かつ全巻が揃っている。ということで、同書の文献学上の重要性が知られる。平安・鎌倉時代の送りカナ・ヲコト点がついているため(鎌倉時代の書写が一巻ある)、国語学史(古典文学)・書道史上からも重要視されている。記事には現代医学を超える理論や処方があり、民俗学、考古学や宗教史などに新たな視座を提供するもので、動植物学や鉱物学にとっても資料の宝庫だという評価もある。1984年に国宝指定がなされた。
次に、丹波康頼とは、平安中期の官人で生没が912〜95年、享年84歳とされており、撰進の永観二年(984)当時には、「従五位下鍼博士兼丹波介」の官位にあり、丹波宿祢康頼と見える。官位は従五位上左衛門佐に至ったとされる。康頼のときに宿祢賜姓があったことも知られる。ここで、その前の姓は何だったかの問題(具体的には、史姓か直姓かの問題)にもなる。 丹波康頼の後裔からは名医を輩出し、代々が典薬頭・医博士・侍医や施薬院使などの医官を歴任し、和気氏とならんで医道を世襲した。その嫡流とされる堂上公家の錦小路家や地下の小森家などや、江戸幕府の医官をつとめた多紀家(半井家と並ぶ幕府の最高医官)があるが、豊臣氏番医の筆頭の施薬院全宗も後裔とされる。丹波家や多紀家においては、幕末までに同書の多くが失われていたとされる。
錦小路(にしきこうじ)家は、丹波氏嫡流とされ(丹波朝臣姓)、堂上公家としての家格は半家、家業は医道であった。典薬頭丹波重直の子で、室町時代中期に活動の錦小路幸基(初、頼直。典薬頭正三位)を祖とする。十六世紀中葉の第五代刑部卿盛直の後に百五十年ほど系が中絶するが、江戸前期、十八世紀前葉に同族の宮内大輔小森頼季の子・頼庸(典薬頭従四位上)が入って、錦小路家を再興し堂上家とされる。幕末の錦小路頼徳(従四位上右馬頭)は尊皇攘夷派として活躍し、「八月十八日の政変」で失脚して三条実美らと共に長州に下った七卿落ちの公家の一人である。明治維新後には華族に列し、家格は子爵家であった。
丹波康頼一族の祖系に関わる諸説など問題の所在
丹波康頼は丹波国天田郡(現在の福知山市)の出身とされるが、「天田郡」が系図に「矢田郡」とも記されるので、これが桑田郡矢田の出身かと受けとる向きもある。後者の亀岡市下矢田町には、康頼が住み薬草を育てた伝承や「医王谷」の地名も残る。 康頼以前の系譜は、これまで明らかではなかった。というのは、明治の華族提譜の際に、錦小路頼言(頼徳の養嗣)が宮内省に提出した『錦小路家譜』(東大史料編纂所にも同様の内容)や『尊卑分脈』丹波氏、『諸家系図纂』や『群書類従』所収の「丹波氏系図」(及び『続群書類従』所収の諸本)など現存の系図では殆どが、後漢霊帝の子孫とするものだが、この場合、途中の歴代に三百年弱もの長い欠落があり、とくに康頼の直接の父祖は不明だからである。この場合、遠祖を後漢・霊帝とする渡来系の流れを汲む坂上氏の一族の出とされるものの、この系図所伝では、壬申の乱の功臣坂上忌寸老の子たる大国(『続紀』天平元年〔729〕に叙位。その子の大和守正四位上坂上忌寸犬養が天平宝字八年〔764〕に年八十三で卒去)の子に丹波康頼を置くが、両者の間には年代的に長い中断があって世代の整合性がまったく取れないし、姓氏も符合しない。『諸家知譜拙記』でも、大国と康頼の間に「此間中絶歟」との記事がある。
太田亮博士は『姓氏家系大辞典』で出自を坂上氏の一族、丹波史(『姓氏録』左京諸蕃。後漢霊帝の八世孫孝日王の後裔という記事)の子孫とする説を出しており、このためか、各種系図や歴史辞典類ではこの説を採るものが殆どというくらい多い(そして、「学究」の記事でも、丹波史と丹波直の差違を認識せず、これらを混同する説明記事が殆どであるにも驚く)。 しかし、康頼の出身地の丹波国天田郡は、渡来系の丹波史の地ではなく、古くから丹波国造の主要拠点の一つであった。『続日本紀』延暦四年(785)正月条には、同郡大領外従六位下丹波直廣麻呂が他地の郡領(近江の蒲生郡大領外従六位上佐々貴山公由気比など三人)と共に見えて、職に精励し民を撫したことで外従五位下を授かっている。丹波直氏については、これより先に『続紀』に見えており、延暦二年(783)三月条では丹後国丹波郡人の正六位上丹波直真養が国造に任じられた。一方、丹波史については、和銅四年(711)十二月条の大初位上丹波史千足等八人の官印偽造・流罪の記事だけが六国史に見える。康頼は丹波介の兼任もあり、その近親一族には清雅・雅康や忠明に同じ丹波介就任者も見られる(『平安人名辞典─長保二年─』)。こうした事情も古族末裔の傍証か。
してみると、この辺にも太田博士の系図研究手法の問題点(基礎とする系図類に関し、収集範囲の狭さ。具体的な氏族の地域移遷等の不検証)が露呈される。加えて、丹波国造の具体的な系譜も従来、明かではなかった事情がある。太田博士の著述には卓見も多いが、記事のすべてを鵜呑みにしてはならない。史料の制約があってか、かなり粗雑な系図分析もなかにあるということである。
これに対して、早く明治期の鈴木真年は、その著『華族諸家伝』錦小路頼言条で明確に丹波国造後裔説をとる。拙著『古代氏族系譜集成』でも、それを踏まえた記事を掲載するも、従来、学界等ではこれが殆ど顧慮されないできていた。この辺に、広域の丹波地方(丹後・但馬を含む地域。ここでは「丹波広域」とも記す)の古代氏族諸氏のみならず、従来の系図研究の問題点があるということである。
丹波国造一族の系譜
まず鈴木真年による『華族諸家伝』の記事を見てみる。丹波国造関係の記事の概要は、康頼までは次のように記される。
かつ、記事の最後に付記して、世本に後漢霊帝の後とするのは『姓氏録』左京諸蕃丹波史に猥りに付会したものであり、当家の如きは、「歴然タル神孫ナリ中世系図ヲ偽造スルモノノ杜撰ナル耳」と明確に指摘している。『華族諸家伝』は、その草稿が明治十一年に成り、出版が明治十三年(1880)とされるから、この時までに丹波国造及び丹波康頼の系譜史料を得ていたことになる。この原典がどこにどのような形で所蔵されるのかは、私には長く不明であった。現存する真年関係の史料類には、それらしきものが見あたらないからである。 なお、丹波国造が豊宇気大神(豊受大神)を奉祀したという真年の説明は、次に記す天田郡天照玉命神社が五穀豊饒の神としても名高いことに通じると思われる。丹後国丹波郡では、式内社を見ても、大宮売神社、稲代神社、矢田神社、多久神社などでは豊受大神(保食神、倉稲魂神)を祀るという。このうち、丹波郡の中心地とみられる京都府京丹波市(旧・中郡)峰山町丹波に多久神社が鎮座し、その南西近隣の峰山町安に稲代神社が鎮座する。安の西南近隣の同町久次に鎮座の式内社・比沼麻奈為神社は、豊受大神を祀り伊勢外宮の故地であって、この「比治の真名井」の地から大佐々命が伊勢への遷座に関わったと伝える。
医家の丹波氏の出自が諸蕃(丹波史)か神別(丹波直)かは重要な問題であるが、その判別材料が、上記の地域の点のほか、丹波広域での神社祭祀にもある。すなわち、天田郡の延喜式内社の天照玉命神社(天田四座 の一。元郷社で京都府福知山市今安に鎮座)に関わることで、同社祭神は天火明命とされ、創建は成務天皇御代に丹波国造大倉伎命が宗家の祖先を祀られたと伝える。この神社を久安三年(1147)十月に典薬頭重基朝臣が氏神を拝祀するため丹波国に下向してきて、馬及び指貫の二物を奉納したとされる(『台記』)。
同社は、鎌倉後期の延慶二年(1309)撰『夫木和歌抄』(三十巻神祇)に「丹波国天照る乃社にて」と見え、丹波忠茂朝臣(康頼の後孫)の和歌、「おほ江山 昔の跡の絶えせぬは 天照る神も あはれとや見む」が載せられる。「おほ江山」(大江山)は、小式部内侍の歌「大江山 生野の道の遠ければ……」(『古今著聞集』巻五)を本歌取りしたものとみられる(生野も同じ福知山市域にある)。このように、丹波氏一族は、平安後期から鎌倉後期まで天照玉命神社を氏神として奉祀したことが知られ、渡来系の氏族にこうした祭祀伝統はまずありえない。
同社は福知山市街地の西、和久川右岸にあって、周辺は古代の和久郷の中心域とされ、多数の古墳や条里制の遺構が残る。和久川沿いの街道は丹後国府に至る山陰道丹後別路だとされる。中世では、今安の地は大炊寮領今安保として推移した。江戸前期の福知山城主松平忠房が承応二年(1653)に当社修造したおりの棟札の裏には、往昔に丹後国余佐郡(与謝郡)から天照神(実態は伊勢外宮に鎮座の豊受大神)が伊勢に遷座したときに此の地に宿った由縁で神宮が建てられたと記される。これは、雄略朝廿二年に丹波国与佐の小見比沼の魚井原(上記の「比治の真名井」の原)から伊勢国度遇(度会)の山田原に遷座したという伝承とも関連する(下記「憲信編系図」では、この関係の度会神主の祖・大佐々古直〔佐布古直の孫〕の記事に詳細に記される。本HPに掲載の系図では、この皇太神遷座の記述はスペース事情から省略した)。
系譜のほうは、拙著『古代氏族系譜集成』で問題意識を持って、それから三十五年経ったところで多少分かってきた。それが、堀内様による東博の『神別系譜』の教示であり、そこには鈴木真年の僚友憲信が編纂した丹波国造丹波直一族の系図があった。この関係の経緯は、拙考「『神別系譜』と中田憲信」で説明したところであるが、具体的に当該系図をご覧ください。
丹波国造一族の系図部分 (一部省略あり) 真年が康頼に至る歴代の名前を省略した記事が、憲信編の系図では具体的な名前があげられており、両者が基本的に同じ史料を基にして書いたことが分る。ただ、若干の差違があり、例えば「丹波直古米」の名前が憲信編の系図では「古麻呂」と記されており、これは先に見た真年が正しいか。
当該系図には、上記で見た天田郡大領下丹波直廣麻呂や丹後国丹波郡で国造に任じた丹波直真養も見えるが、そのほかにも六国史に見える丹波直有数一族など各種史料に見える人々が書かれるから、次項でその辺を見ていく。
『神別系譜』掲載の丹波直一族
ここまで書けば、「憲信編の系図」(以下は「憲信編系図」という)の信頼性がほぼ分かると思われるが、さらに具体的に見ていきたい。 まず、丹波国造については、『旧事本紀』「国造本紀」の一本(『鼇頭旧事紀』)では、成務天皇の時代、「尾張連同祖。建稲種命の四世孫の大倉岐命」を国造に定めたとされ、国造初代の名が符合する(他本では丹波国造の記事欠落で、下線部分に誤記の可能性あり。例えば、「建稲種命」は記事原態が「建諸隅命」か「建田背命」か)。この国造初代の名という点で、国宝「海部氏系図」が健振熊宿祢を言うのがまったく齟齬するのと大違いだが(「勘注系図」では、健振熊宿祢の祖父に大倉岐命を十六世孫としてあげるが、歴代の世代数が極めて多く、この辺が後世の追記であることは明らか)、丹波国造の系譜の初期部分は、尾張連のほうに伝える系図(宮内庁書陵部蔵本及び『諸系譜』第一冊掲載)とも「憲信編系図」は合致する。この国造歴代のほうは、他の史料には見えないから是非は判じ難いが、古代の世代数はほぼ問題がないから、一応信頼してよさそうである。 「国造本紀」に見える建稲種命は、尾張連の祖とは同名別人であって(この者の存在で、系が後世になって尾張氏に附合した可能性もあるが)、「憲信編系図」には、穴穂天皇御宇(安康朝)にオケ・ヲケ兄弟(仁賢・顕宗天皇)が当国に潜伏したとき、稲種命が宮室を作って供奉したと見える。この安康朝という世代的な配置にはとくに問題が見られない。『書紀』顕宗即位前紀には、オケ兄弟が父の皇子の殺害後に丹波国余社郡に避難したと見える。
丹波国造同族からは、丹波広域で采女部、但馬・丹後の海直や、朝来直(『姓氏録』右京神別。尾張連同族の記事あり。ただし、「憲信編系図」の記事には疑問あり)が出たという系譜は、伊勢の石部直(磯部直)・度会神主の分出と同様、信頼してよかろう。丹後には采女直も史料に見え、国造一族とみられる。
なお、丹波国造一族は早くに祖系を変更しており、原態が但馬国造(但遅麻国造)と同族で、丹波道派遣の四道将軍ともされる日子坐王・丹波道主命の後裔であったのが、同じ海神族後裔とは言え、尾張連同族になっていることに留意される。すなわち、『旧事本紀』天孫本紀に見える系譜では、尾張氏の建斗米命の子の建田背命について、「神服連、海部直、丹波国造、但馬国造等の祖」と記されるが、この「建田背命」こそ、丹波道主命(名は彦多々須)に当たる(なお、建田背命の子に建諸隅命をおく『神別系譜』の記事は誤り。天孫本紀の誤解か)。この辺の系譜は、ここでは詳しくは触れない。 丹波国造と但馬国造とは、地域的な経緯から見ても、本来は同族であったのが上古のどこかの段階で、祖系を別々に伝えるようになった。この一族の中央からの移遷が日子坐王・丹波道主命親子の丹波道への派遣に基づくもので、但馬国造では長く丹波道主命後裔と伝えた(記紀や粟鹿神社所蔵『田道間国造日下部足尼家譜大綱』など)。「国造本紀」では、竹野君と同祖で彦坐王の五世孫船穂足尼が成務朝に但遅麻国造に定められたと見えるが、これは原態が丹波道主命後裔ということである。
次に、奈良時代以降の丹波直一族に関してである。
この時期には、「憲信編系図」に拠ると、一族は丹波と丹後に三系統に分れて後世につながると見える。すなわち、孝徳朝に大領に任じた小山上の古米(古麻呂)の居地を、真年は丹波国天田郡と記すが(憲信は郡名をあげない)、その子に豊足・老の二人がおり、ここで丹波と丹後に分かれる。持統天皇の藤原宮御宇に天田郡大領となった豊足の子には、大島・足島・若島・千島の四人がおり、大島と若島が後世まで天田郡に長く子孫を残した。
足島は、天平九年(737)の「但馬国正税帳」に「丹後国軍団の少毅無位 丹波直足嶋」と見える。なお、海部氏の伝える『勘注系図』では、「海部直千足」の子を「海部直足嶋」と記すが、千足は丹波史姓で、足嶋は丹波直姓だから、デタラメも甚だしい。
@丹波の大島の流れ……大島の孫の人足は『続日本紀』延暦四年(785)八月条に見えており、外正六位上丹波直人足が外従五位下に叙される。この者は、『大同類聚方』(大同三年〔808〕成立)に「保賀世ノ薬ハ丹波国天田郡天照玉神社之丹波ノ直人足之家ノ方也」と見え、丹波直伝世の薬が知られ、康頼の薬への素養の基になったのかもしれない。 人足の子・孫・曾孫の三世代十名が、『三代実録』元慶六年(882)四月八日条に見える。それに拠ると、丹波国人の右近衛従八位下丹波直有数、及び兄従七位下丹波直有貞・正八位下丹波直数宗・従八位上丹波直核頴・弟従八位上丹波直有道は、故外従五位下丹波直人足の孫、清雄(一に清雅)の子であるが、蔭孫と偽称して図籍を奸着し、蔭孫を貢挙し、位階を選叙した。有数の男の秀助・惟影・惟恒三人は、位子に入貢し、共に徭役を免れたので、国司が申請して、実態に拠りて改正した、とある。この記事に見える一族の人名が皆、「憲信編系図」に記載される。人足の弟・大庭には「祝部」と見えるが、天照玉神社の祝部をこの流れが担ったものか。 人足の長子の従七位下丹波直有貞の子に「左大史岑行」が系図に見えるが、これが初めて丹波宿祢姓を賜った峰行のことである。醍醐朝に左大史丹波宿祢峰行がいたことは、『西宮記』に見える。なお、「左大史」とは、 令制で太政官左弁官局の主典で 正六位上相当の官職とされ、平安中期以降では左右弁官局は実質的に一つの局となって、最上首の左大史は五位に叙された(中世では小槻氏がこの職を世襲したことで有名である)。
丹波直有数については他の史料にも見える。寛平元年(889)十二月廿五日付「丹波川人郷長解」に、桑田郡検校丹波直有数とあり、同郡の郡老丹波直門宗や擬大領丹波直豊岑、擬大領丹波直興世とともに見えるが、桑田郡の丹波直同族については系図に見えない。 また系図には、右近衛従八位下有数の後として、次男惟影の孫に左大史惟道、その子に左大史惟光がいたが、惟光の曾孫・時澄は丹波国船井郡須知郷に居て須知太郎を名乗った。この子孫は武家として中世に発展したが、「憲信編系図」は時澄の孫までしか記さない。系図には、時澄の長子が須知太郎景澄で、その子に赤井藤太景俊(仕義経)・黒井二郎景次をあげ、景澄の甥に常陸坊海尊をあげる。常陸坊海尊は義経配下で武蔵坊弁慶と並ぶ存在であるが、他書にはその出身地・出自が記されない。『平家物語』巻三には、「右馬頭(源義朝のこと)の郎等丹波国の住人志内六郎景澄」と見えるから、これら一族の事情と符合する。なお、船井郡にはこれより早く丹波氏一族が見えており、後述する。
赤井氏は戦国末期まで丹波に見え、通行する系譜所伝では信濃の清和源氏井上氏の支族が丹波に来て、その同族と称される。中世丹波の雄族たる葦田一族であるが、『太平記』に「志宇知、山内、葦田の者共」と記されており、須知・赤井・葦田や籾井(幕藩大名の西尾氏が後裔)などは皆同族で、清和源氏の出とするのは系譜仮冒とみられる。
さらに、有数の三男惟恒の子に記載の惟貞は、史料に「但波惟貞」と見える。康保五年八月に太政官史生、天禄四年三月に中務少録に任じているが(『類聚符宣抄』巻1及び巻7)、 姓氏の「但波」表記は、後の行衡や奉親につながるものでもあろう。 A丹波の若島の流れ……次に若島の系統であるが、康頼はこの流れから出ており、先にあげた天田郡大領廣麻呂は若島の孫におかれる。この系統が丹波では最も有勢だったようで、天田郡の大領などの郡領や国造などを輩出した(系図には、若島の子の益麻呂、その孫・秋成、その子の稲主について、国造と註される)。廣麻呂の弟として系図に見える廣主は、『続日本後紀』承和四年(837)九月廿九日条に、「金銀長上工正六位上丹波直廣主、年老いて郷に還る。勅して正税穀五十碩を給う」と記される。その子も、同じ「金銀長上工」の職にあったと系図には記される。
稲主の子の郡少領友足について、「憲信編系図」には貞観十二年六月に叙爵して従五位下と記されるが、『三代実録』には該当記事が見えない。友足の子・季頼、その子の康仲と郡大領に任じたと系図に見える。 郡大領で右近衛将監に承平三年(933)に任じた康仲が丹波康頼の父とされており、康頼の弟・康興(大領外正六位上)の孫世代まで系図に記載される。
このほか、船井郡にも郡領で丹波直氏の記録が残る。こちらは、延喜十七年(917)四月の「丹波国某(木前郷か)郷長解」で、欠名の丹波直三名(検校と擬大領二名)とともに、擬主帳従七位下丹波直常直、郡老丹波直秀良の名が見える(当地では、物部首氏が有勢の模様で同文書に見える)。その後、天暦八年(954)九月の太政官符(『東寶記』第八)には、船井郡出鹿郷の戸主丹波継有の戸として丹波福秀が見える。これら船井郡の支流についても、「憲信編系図」には見えない。 B丹後の老の流れ……この流れは丹後国丹波郡に在って、丹後国造にも任じた。後に平安中期には但波朝臣姓を賜って左大史等で活動した一族も出した(備考:掲載スペースの関係で上記の系図掲載では省略したが、東博データベースの『神別系譜』をご参照)。
丹波直老は丹波郡少領であったが、和銅六年(713)に官符で丹波国から割いて丹後国を置いたときに国造になった。その曾孫の真養は延暦二年(783)三月に国造に任じたと『続紀』に見える。
九世紀後葉の丹波直副茂(一に嗣茂。真養の曾孫)が『三代実録』に多く見える。まず、貞観八年(866)閏三月、丹後国丹波郡人左近衛將曹従六位上丹波直副茂(嗣茂)は、本居を改め山城国愛宕郡に貰附すと見え(貞観十四年〔872〕八月の記事は重複で不要)、天皇の命をうけ吉野深山の沙門・道珠を召したり、外従五位下の叙位をうけたりし、貞観十二年(870)正月には豊前介に任じた。その後、元慶三年(879)正月に正六位上右近衛将監の丹波直助麻呂が外従五位下に叙されるも、「憲信編系図」には見えず、年代的に見て副茂の弟か(ないしは近親一族か)。
その後、延喜二年(902)の土佐大目従七位下丹波直土成が『大間成文抄』に見えて、これが副茂の子だと系図に言う。土成の弟・棟成の孫が信濃権介茂忠だと系図に見え、これは『除目大成抄』天元四年(981)の記事に「信濃権介正六位上丹波直茂忠」とある。次いで『魚魯愚鈔』永観二年(984)八月に紀伊権大目丹波茂安が見えるが、年代・名前から見て茂忠の弟か。
茂忠の子に丹後守行衡が系図に見える。この行衡は、『権記』等に奉親の父と記されるが、「但波宿祢行衡」と見え、長保元年(999)十二月に朝臣姓を賜り、土佐守・丹後守などを歴任し、長和三年(1014)四月には主税頭に任じた(『除目大成抄』。なお、「但波」は医家丹波氏の忠明のほうも含めて、丹波と適宜、併用されたか)。 子の奉親は、『正倉院文書』東南院の寛弘九年(1012)九月廿二日付で従五位上行左大史但波朝臣奉親と見える。豊後守や播磨権介などにも任じ、『小右記』『御堂関白記』などに長和・寛仁・治安に及ぶ期間で活動が見られる。また、治安元年(1021)七月から長元三年(1030)四月にかけての期間、『小右記』等に左大史正五位下や加賀守で見える但波朝臣公親は、奉親の改名とされる(永井晋著『官史補任』)。但波奉親朝臣は藤原道長の家司もつとめ重用されたが、当時の医家丹波氏では、忠明宿祢(康頼の孫)が名医で名高く、寛仁四年(1020)九月に道長を灸治したと『小右記』に見える。 この忠明の時に朝臣賜姓と医家丹波氏では伝えるが、具体的な現存史料には見えない。『平安遺文』では、忠明の子の雅忠について、承暦二年(1078)十二月に正四位下主税頭兼典薬頭侍医丹波権守丹波朝臣雅忠と見えるから(九条家本延喜式巻十裏文書)、所伝はほぼ妥当か。 「憲信編系図」には、行衡で終わって、その子以下は見えないのが惜しまれる。『平安遺文』には、その後も長元九年(1031)四月の「明経生但波宣任」(奉親の近親一族か)など但波を名乗る官人が数名見える。それらの出典記事からは、但波奉親との系譜関係は知られない。 なお、丹後関係では他に、平城宮出土の木簡に与社郡謁叡郷の丹波直筆手の貢進が見え、平安中期の永祚二年(990)二月「丹後国国司解」には采女従五位下丹波直勝子、その姪の同姓徳子が後任の采女になると見える(『朝野群載』巻九)。
このように、丹波国造一族を「憲信編系図」や各種史料に基づき見ていくと、丹波・丹後の諸郡で郡領に任じ、神社祭祀を行い家伝の薬を持ち、中央にも出仕して典薬頭・左大史・諸国司等に任じて活動した姿が無理なく見えてくる。丹波康頼の学識・業績は、こうした古来からの一族の活動基礎にたってなされたものとみられる(丹波氏嫡流が、錦小路家の中絶はあっても、早くに祖系を失った事情は現存史料からは不明である)。併せて、伊勢外宮で豊受大神を祭祀する度会神主と丹波国造の関係も知られ、同神を籠神社でも祀った。
(2023.04.18掲上。その後も適宜追補) |
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