陸奥の塩竈社家

                             宝賀 寿男



  本稿は、「塩の神様とその源流」に関連して検討され、1996年頃に書かれたものであるが、未発表のままきていたのを、現時点(2008年8月下旬)で見直したものです。関連する検討ともども、ご一読いただけたらと思います。



 はじめに

 中世の陸奥一の宮に宮城県塩竈市の塩竈神社がある。式内社のなかには掲げられないが、格別の盛威をもち、また全国の塩の神様の中心としても名 高い。この神社は、いったい古代のいかなる氏族が奉斎してきたのだろうか。なぜ、そうした権威がもたらされたのだろうか。後者の問については、近くの多賀 城に置かれた陸奥鎮守府との関係で考えられそうである。しかし、前者については相当の難問であり、答えが求められないのではないかとも思っていた。ところ が、塩の神様について、日本全国から遂には朝鮮半島・中国大陸まで追いかける過程で、わが国の塩神とは、「金属神の天目一箇命と同神ないし眷属神」ではな いかとみられることが分かってきた。この神は薬・麻・温泉などの智恵の神様・少彦名神と兄弟神とみられるが、様々な形で両者が同じ神のように混淆している 神であり、土師器などに関係深い土師連や物部氏族の遠祖であり、鍛冶部族の祖神でもあるから、宮城の塩竈神社の奉斎氏族も塩神の後裔ないし族裔とみられ る。
 本稿はそうした結論の整理であり、中世の塩竈神社の主要祠官家を中心に、その出自や系譜について考察を加えてみたものである。ただ、同社の大神主でもあった留守氏とその家臣団の神社関係者については、旧来からの奉斎者ではないので、簡単に触れるにとどめ、基本的には別稿とした。これらの論証過程をすべて書き記すと、大部となるので、ものによっては結論的なものを挙げたものもあることを、はじめにお断りしておきたい。
 
 塩竈神社の祠官諸氏のうち、主要な家についてその系譜を創祀以来たどることは、文治年間(1185〜90)より前の史料の無い状況ではほとんど無理かと考えていた。ところが、1994年に発行された『宮城県姓氏家系大辞典』(以下、『宮城県姓氏辞典』とする)が県内の苗字について『伊達世臣家譜』等伊達藩関係資料などをもとに、よく整理して示してくれたことで、多少の推測を加えれば、さらに出自遡及についての探求が進むのではないかと示唆してくれた。同書の姉妹編の『角川日本地名大辞典』や、平凡社の『日本歴史地名大系』の宮城県・福島県・岩手県・茨城県など地名からの検討、県史など各地域史関係資料も相当役立ちそうである。
 塩竈神社の社人は、@創建以来の社人の左宮一禰宜安部安大夫ら十五家の古家(ふるいえ)(本人(もとびと))、A奥州留守職の留守家(同社の大神主職も兼ねた)から伊達氏の仙台入府で支配関係が変わるときに一時祠官をやめた御釜大夫鈴木氏・塩蒔(しおまき)大夫藤塚氏ら四家の中興家、B国府の役人から社人に転じた志賀氏ら九家の在庁家、C山代の佐藤氏の別格、など合計二十九家あったと『宮城県姓氏辞典』は記している。これら諸氏について、具体的に見て行こう。

 
  一 陸奥国柴田郡の丈部の流れ
 
 陸奥出羽に繁衍する諸氏の多くは、前掲の塩神検討のなかで、古代の丈部の後裔ということがわかってきた。丈部にはいくつかの流れがあるが、陸奥の丈部一族は陸奥南東部の石城国造を本宗的な存在としており、その先は諏訪神建御名方命と密接な関係を持つ一族で、製鉄製塩の神・天目一箇命の流れとみられる。すなわち、二世紀後葉の神武の大和侵攻に抵抗した建御名方命一族は、敗れて東遷を余儀なくされ、信濃の諏訪地方等へ落ちて行ったが、それと行動をともにした伊勢津彦一族の後裔が武蔵・両毛に行き、そこから常陸などを経て福島県の磐城地方に至り定着し、磐城を本拠として更に陸奥各地へ分出して繁衍した。この一族は、四世紀前半の崇神朝には会津地方まで東征してきた阿倍臣の祖、武渟川別命らに服属して、その馳使いとしてハセツカイベ(ハセツカベ)を名乗り、「丈部」と表記した。
 丈部一族は、上古代では石城国造のほか石背・那須・白河・伊久・志太・菊多・阿尺・染羽・信夫といった陸奥の諸国造の殆ど全てを出した。これら陸奥諸国造は、「国造本紀」には阿岐国造同祖で天湯津彦命の後と記すが、その文意は玉作部の祖天明玉命の後ということであり、天明玉命とは塩・鉄の神天目一箇命と実体が同神であったとみられる。
 陸奥諸国造の後裔は、奈良朝期になって阿倍陸奥臣・阿倍磐城臣・阿倍柴田臣・阿倍信夫臣・阿倍安積臣・阿倍会津臣など、「阿倍□□臣」という形の姓氏を賜る例が多くみられる。後になって、これら諸氏の後裔は、下部の「□□臣」を省略して、単に阿倍氏・安倍氏(あるいは冒姓して阿倍朝臣氏)を名乗る者もでた。こうした関係で、東北地方には安倍・安部・阿部という苗字の分布が多く見られる。前九年の役で滅ぼされた奥六郡の主、安倍頼時・貞任の一族もこうした流れであり、本稿で取りあげる塩竈神社の祠官家も最有力者は阿部(安倍)氏で、同様な流れであった。
 これら諸氏は単に「アベ」を名乗るので、その具体的な系統・系譜を知り難いが、以下で検討していくように、福島県西北部の陸奥国柴田郡(のちに養老五年〔721〕十月、柴田郡から刈田郡が分出するが、元はこれも合わせた地域)と深い関係をもち、おそらくこの地域の丈部の流れを汲む阿倍陸奥臣・阿倍柴田臣(前者の可能性が高い)の末裔ではなかろうか。以下、具体的に祠官諸氏についてみていこう。
 
  左宮一禰宜阿部氏
 同社の社人筆頭たる左宮一禰宜の阿部安大夫家は創建に関わった社人で、この地の土豪で社人のなかでは最も古い家柄といわれる。現在に伝わる系図では、十六世紀中葉ごろの安大夫時光を初代とし、藤原姓を称するが、これは仮冒で古代安倍氏の後裔であると太田亮博士も指摘する。この阿部氏の古い時代のことは知られないが、十四世紀中葉の観応元年(1350)九月の塩竈神社文書に「左宮禰宜安大夫時常目安状案」があり、これが同家の史料上の初見とされる。同社には、その一族で別宮御太刀仮役をつとめた阿部常陸家もあった。
 安永四年(1775)の書上には、「安大夫儀は先祖より左宮一禰宜相勤め、代々家名安大夫とのみ申来り候故、何時相続仕候哉、聢と相知申さず候。推古二年七月、始めて圭田を奉り神事相行はせられ候由、日本總国風土記に相載せられ候えば、上古より拙者共先祖も其節より奉祠仕候事と存じ奉り候、……」とあり、あるいは推古朝のころより奉仕していたのかもしれない。その創祠のとき、阿部氏の先祖がなぜ関与したかというと、当時のこの地の大族であった事情が考えられる。塩竈神社の鎮座する宮城郡の南方の柴田郡には、古代氏姓国造で本州最北端におかれた志太国造の一族が居住しており、一族の阿倍陸奥臣ないしは阿倍柴田臣の後裔が左宮一禰宜の阿部安大夫家だったのではなかろうか。
 阿倍陸奥臣・阿倍柴田臣の賜姓については、神護景雲三年(769)三月に白河郡人外正七位上丈部子老・賀美郡人丈部国益・標葉郡人外正六位上丈部賀例努等の十人が阿倍陸奥臣姓を、柴田郡人外正六位上丈部嶋足が阿倍柴田臣姓を賜り、次いで承和七年(840)二月には柴田郡権大領丈部豊主・伊具郡擬大毅陸奥真成等の戸二姻に阿倍陸奥臣姓を賜った。次いで、貞観十一年(869)三月に柴田郡権大領外正八位上阿倍陸奥臣永宗に借外従五位下を授けたが、年代や職名からいって、永宗は前掲の豊主の後継者(おそらく子か)であったことが推される。この永宗の叙位に先立つ三日前に、柴田郡の大高山神は従五位下から従五位上に神階を進められており、相関連するとみられる。おそらく平安期にあっては、柴田郡では阿倍陸奥臣氏が郡領家として続いたものと考えられる。
 このほかにも、阿倍陸奥臣の賜姓例は多く見られ、同姓の人々が広く陸奥に分布した。承和七年に続いて、承和十五年(848)五月にも、伊具郡麻績郷戸主磐城団擬主帳陸奥臣善福や色麻郡少領外正七位上勲八等同姓千継が、白河郡大領外正七位上奈須直赤龍、磐瀬郡権大領外従七位上勲九等丈部宗成・磐城団擬少毅陸奥丈部臣継嶋・権主政外従七位下丈部本成、信夫郡擬主帳大田部月麻呂、標葉郡擬少領陸奥標葉臣高生等の戸とともに阿倍陸奥臣を賜姓している。この同日、本来の柴田郡に鎮座した刈田嶺名神が従五位下から正五位下へ神階を進められており、これら阿倍陸奥臣の賜姓と深い関係をもっていたことが考えられる。さらには、貞観十二年(870)十二月には安積郡人矢田部今継・丈部清吉等十七人も同じく阿倍陸奥臣を賜姓した。こうした賜姓者は、位階などからいって、氏姓国造後裔の有力者で、それぞれの地域の郡領層に属していたとみられる。
 
 安倍頼時・貞任の一族は、居住地からみて、ここに掲げられた賀美郡人阿倍陸奥臣国益かあるいは色麻郡少領阿倍陸奥臣千継の族裔ではなかったかとみられ、頼時(頼良)の子、黒沢尻五郎正任の八世孫の小松五郎重助の子、助頼は陸奥七郎と名乗っている(「盛岡藩士黒沢氏系図」)。こうした国名を称するのは、国司(守・介・掾・目の四等官からなる)の子ないし後裔が父や先祖の職名を称号とする例が多いが、助頼の父祖には陸奥の国司関係者は見られず、おそらく先祖の姓氏の阿倍陸奥臣に由来するのではなかろうか。頼時の子、則任(一に正任)は胆沢郡白鳥村に住んで白鳥八郎と称したが、その居住地については刈田郡白鳥という「藤崎系図」もある。この刈田郡白鳥はおそらく誤伝であろうが、前掲の刈田嶺名神こそ、奥羽における白鳥信仰の中心であり、式内名神大社の刈田嶺神社のことであった。
 刈田嶺神社は刈田郡宮村(現蔵王町宮の字馬場)に鎮座して、土地の人々から白鳥大明神または白鳥様と呼ばれている。その社地の裏手には青麻山(あおそやま)があって、古くは刈田嶺と呼ばれ、当社はかってその山頂に祀られていたという。宮村の肝入は山家・阿部・佐藤らの諸家が代数有之百姓として交替で務めたが、うち阿部氏は幕末頃刈田郡里前地区の大肝入を世襲した。
 いま刈田嶺神社の祭神は日本武尊とされるが、これは本来の祭神とは考え難い。のちに白鳥伝承をもつ日本武尊が東征のさい、この地を通過したことは考えうるが、それとは別問題であろう。当地は白鳥の飛来地であり、刈田郡から柴田郡にかけての地域(すなわち元の柴田郡)には白鳥伝承と白鳥信仰が色濃く分布する。それも、この地の古氏族が白鳥を中心とした鳥トーテミズムをもっていたことの現れである。奥羽の丈部は鳥取部の祖たる少彦名神及び同族の流れをくんでおり、その源流は鳥トーテムをもつ中国大陸の東夷(ツングース種)にあった。少彦名神は青麻山の麻にあらわれる麻の神でもあり、服部・長幡部など繊維衣服関係氏族の祖神でもあった。青麻山は東蔵王とも呼ばれ、蔵王連峰の南東部に位置しており、この山頂には薬師仏が祀られ(創建年代は不明)、そのため薬師ケ嶺という異名もある。少彦名神は薬の神で、薬師如来やわが国の薬師信仰にも通じている。
 刈田嶺神社の同名社は、蔵王町の遠刈田温泉にもあり、伝承によれば、奈良時代に役小角の叔父・願行が大和国吉野の蔵王権現の分霊を移して以来、山岳信仰の聖地になったといわれる。蔵王権現は金の神で、これも少彦名神に通じるが、『倭爾雅』に、「金峰山社、吉野郡にあり、少彦名命なり。蔵王権現と号す」と記される。遠刈田温泉の発見については、炭焼藤太の伝説があり、京三条盛実の娘が当地を訪ね、炭焼をしていた藤太と夫婦になり、金鉱と温泉を発見して長者となって橘次・橘六・橘内の三子を育てたという。遠刈田温泉から西へ五百メートルの岩崎山では往時金を産出し、この金山跡を岩崎金窟という。藤太の子の橘次は吉次とも書くので、源義経伝承で義経を奥州に導いたという京三条の金売り吉次(三条吉次信高という)にもつながりそうであり、また橘次の「橘」は、中世の柴田氏が橘姓とも称したことにも通じよう。
 さきに阿倍陸奥臣永宗との関連であげた大高山神も、白鳥信仰と関係が深い。大高山神社は式内名神大社であり、柴田郡大河原町金ケ瀬の刈田郡境近くに位置し、大高宮、大高白鳥明神とも称された。祭神はいま日本武尊・橘豊日尊(用明天皇)とされるが、近世、柴田郡の総鎮守として信仰を集め、同郡の村人は白鳥を食さなかったという(「観蹟聞老志」)。同社は古来、本郡及び刈田郡の崇信をあつめた。同社の四月の例祭には、支倉村金田(現柴田郡川崎町)の足軽四人が警護に当たったと『平村安永風土記』に記される。この平村とは金ケ瀬・緑町などの一帯で、大高山神社や薬師堂などを中心に発展したといわれる(『柴田郡誌』)。
 塩竈神社の祀る「塩土老翁」とは、塩・鉄・土器など先進的な知識をもつ「少彦名神ないし近親神(天目一箇命)」のことであり、阿部氏はその子孫として同社を奉斎してきたのであろう。塩竈神社が陸奥一ノ宮となる以前では、石城国造一族が奉斎していたとみられる白河郡鎮座の都都古和気神社(福島県東白河郡棚倉町の棚倉及び八槻に有力論社がある) が式内名神大社で陸奥一ノ宮とされていた。「ツツコワケ」とは筒子別で、塩筒老翁にも通じそうである。都都古和気神社の祭神は、いま味高彦根命と伝える が、この神は塩竈神社の祭神としてもかなり有力に掲げられることに留意される。味高彦根命は、記紀では大己貴命の子とされるが、少彦名神の眷属神(母系の叔父神)であり、筑紫(あるいは筑紫から出雲へ遷住した)の神と考えられる。ただ、味?高彦根命は、その妹婿で姿形がよく似たといわれた天津彦根命(少彦名神の父)が転訛したことも考えられる。 
 塩竈神社の祠官阿部氏の一族ではないかとみられる他神社の祠官家もある。この神社とは名取郡の有力社たる名取熊野三社(名取市高館)であり、祠官家には高橋・阿部・安達などがあった。文治五年(1189)の源頼朝の奥州合戦の際には、藤原泰衡の一方後見として熊野別当があり、頼朝方に降って、のちに赦免されている。奥州藤原氏のもとで、熊野社が大きな力をもっていたことが知られるが、この熊野別当は神主高橋氏の先祖ではなかろうか。高橋という地名は『和名抄』に柴田郡高橋郷と見え、その比定地については、金ケ瀬かとする説(『大日本地名辞書』)、村田・菅生・沼田などの柴田郡村田町の町域とする説(「日本地理志料」)がある。また、塩竈神社の西南五キロほどに宮城郡高橋村(現多賀城市高橋)もある。
 宮城県には高橋氏が多いが、そのなかでは葛西氏の重臣や塩竈神社の祠官などが目につく。前者は文治の奥州合戦に際して葛西清重に従った高橋刑部義勝を祖とするといい、この流れとみられる高橋郡司大夫は葛西氏第五代宗清に仕えて家老となり、牡鹿郡真野古城(石巻市)に住んだという。この子孫は葛西氏滅亡の後、零羊崎三社(石巻市湊に鎮座の式内社)の神主になった(『葛西氏家臣団事典』)。こうした行動からみて、高橋氏は古代郡領家の流れとみられる。後者は、塩竈社人の高橋大隅(安書大夫・御膳御給仕役)・高橋肥後(台城大夫・同役)・高橋大和(別宮流鏑馬大夫・流鏑馬役)であり、その同族とみられる高橋氏が数家、宮城郡の留守氏に仕えている。また、伊達政宗が遠田郡八幡村(現大崎市)にあった大崎八幡を岩出山に、次いで仙台に遷した大崎八幡神社(仙台市八幡四丁目)では、大社司が高橋家、射手が笠原・高橋・尾形の三家であったとされる。
 岩手県でも高橋氏が多く、平泉藤原氏の重臣の子孫と称する家や胆沢郡衣川村(現在は奥州市衣川区)石神の磐神社の別当を世襲した家が留意される。磐神社は延喜の式内社であり、神体は俗に男石様という大石であるが、少彦名神など天孫族の族裔には石神・巨石信仰が顕著に見られる。衣川村大平の高橋家は、延暦以前から当地に居住していた膳氏の流れと称するが、その一族には最古の剣舞が伝承され、衣川安倍氏の末孫と称する安倍家や阿部家との結びつきが強いという特色をもつという。石神には安倍新城跡があって、安倍貞任が衣川柵で敗れた後にここに籠城したものの守りきれず北方に退却したと伝える。
 熊野神社は柴田郡でも小泉村(現村田町小泉)や支倉村(現川崎町支倉)にあり、小泉村の北の村田郷の鎮守は白鳥社であった。村田郷は古くは北西の足立村と一村であったと伝え、足立はいま「あしたて」というが、これに通じる安達を名乗る社家が名取熊野三社にあった。安達という地名は小野郷にもあり、川崎町の本砂金(もといさご)の南に見える。こうした足立・安達は、武蔵国造一族など五十猛命(素盞嗚神として現れることが多い)の後裔関係者に見られる苗字や地名である。
 こうして見ていくと、名取熊野三社の社家は塩竈神社や柴田郡と関係が深いことが知られる。『宮城県姓氏辞典』は、名取熊野三社のある名取市熊野堂字岩口南に阿部家があり、安倍貞任一族の支流で、その先祖が元文五年(1740)に名取郡熊野堂に移り住んだという伝承をもつと記している。この阿部家が社家だったのではなかろうか。同辞典は、柴田郡船岡村(柴田町)を領した柴田家の家臣にも、阿部家が数家あることも記している。
 熊野神社と白鳥神社との関係では、越中国婦負郡に密接なことを示す事情がある。白鳥を追って婦負郡に到った少彦名神の後裔(鳥取部一族か)が、この地で式内社の熊野神社と白鳥神社を奉斎した例である。陸奥の胆沢郡でも、旧前沢町(現在の奥州市前沢区)の地域は興味深い。旧町域の旧前沢村には、鎮守熊野神社が山下にあり、白鳥神社が五十人にある。その南の旧白鳥村には、白鳥明神社が塔ヶ崎にあり、旧町域北端の旧小山村には幅に鎮守の熊野神社がある。旧小山村の南隣の旧中畑村(現前沢区古城)にも熊野社があり、その字野中には止々井神社があって、鳥取部の祖神天湯河桁尊を祭神としている。止々井神社は胆沢郡の式内社で、もと旧都鳥村(現奥州市胆沢区南都田字都鳥で、古城の北西六キロほどの地)にあり、近隣には岩手県下唯一の前方後円墳、角塚古墳がある。都鳥や止々井は鳥取の転訛した地名とみられている。
 陸奥の丈部の本源地とみられる石城国造の領域にも、白鳥村・熊野堂村が近接してあり(現在は共にいわき市常磐白鳥町)、熊野堂村はかって熊野堂があったことに因むものとされる。石城国造と同じか同族とみられる菊多国造の領域には、旧県社の熊野神社があり、いわき市錦町に鎮座して御宝殿熊野大権現といわれた。その社伝によると、大同二年( 807)菊多庄司別当の日下大膳が紀州より分霊して創建したといい、菊多郡の総社であった。その当時で日下大膳という名前は信じ難いが、菊多庄司別当という職掌や総社という社格からいって、同社は菊多国造の後裔によって奉斎されたのであろう。
 話を塩竈神社に戻して、天文頃の同社の祠官のなかには「あへあんたう四郎」が見え、「あんたう」が安藤であり、安藤氏が安倍氏につながることを示している。津軽守護人とも称された安藤(安東)氏も安倍貞任一族の出であった。宮城県でも安藤氏は多く、柴田郡柴田町やその南の刈田市に多く見え、柴田郡船岡の柴田氏の家臣等にある。
 
  右宮一禰宜小野氏
 次に、右宮一禰宜などを占めたのが小野氏である。小野氏には右宮一禰宜新大夫のほか、右宮二禰宜藤大夫・左宮三禰宜遠下大夫・右宮三禰宜喜平大夫・別宮若子大夫・三社兼帯米蒔大夫などの諸家があった。その史料上の初見は阿部家より早く、文治二年(1186)四月の竹城保司へ宛てた藤原秀衡の下文に守真源藤禰宜が見え、在家役と万雑事を免除されている。
 右宮一禰宜の家は春日氏ともいうが、塩竈神社の近隣の宮城郡利府町の春日(春日神社の所在地)に居住したことに因るものか。太田亮博士は「小野は春日より出でしに據るべし」と記すが、この例については疑問である。これに続けて「塩竈社右宮一禰宜にして甚だ権勢あり。中頃左宮安大夫の右に出づ。文治以来の文書を蔵す、世に塩竈社古文書と云うものこれなり」として、安永四年(1775)十一月の書上に見える先祖以来の系図を記す。
 それによると、平安中期頃の従五位下行式部少輔小野朝臣有季を祖とし、以下民部大輔忠季―民部少輔成季と続け、その子に当職季次―真道―守真とする。守真については、文治二年(1186)文書に源藤禰宜の事云々、その子の利恒については、嘉禄三年(1227)文書に塩竈社右一禰宜職とし、以下は「高真―恒元―恒古―恒定―恒廣」と続け、その次の春日新大夫恒高について、「観応元年(1350)左宮禰宜安大夫と争ふ、右宮禰宜新大夫とあり。同二年尊氏袖判の文書に右一臈新大夫恒高、文和三年(1354)文書に塩竈春日新大夫と見ゆ」とあり、その子におかれる家恒が明応(1492〜1501)頃で、その子の恒高が大永四年(1524)の頃の人として江戸中期頃まで系を続けている。
 この系図は、最初の部分に信じられない点があるが、当職とある季次から後はほぼ問題がなかろう。ただ、文治の守真から観応の恒高までの間には傍系相続も考えられ、一方、恒高と家恒との間には一世代分ほどが入るものか。始めの部分に見える式部少輔小野朝臣有季から民部少輔成季までの三代が実在の人かどうかは確認できないが、仮に実在の場合は中央の廷臣か先祖をそのように仮冒したものであろう。こうしてみると、少なくとも平安末期くらいから小野氏が塩竈神社に奉仕してきたことが認められる。
 小野氏は位記や吉田許状には藤原姓で記されるが、実際には藤原姓でも小野姓でもなく、小野は苗字であったとみられる。その系譜はやはり阿部氏同様、柴田郡の丈部の流れに属したと考えられる。というのは、前掲の刈田嶺神社の社家にも小野氏があり、『封内記』に「社家山家但馬守、小野伊大夫、祀事を掌る」とあり、柴田郡には小野郷があって、同書に「小野邑、小野長七郎寛長、古来の采地にして古塁あり」と記されるからである。
 柴田郡の小野郷に限らず、陸奥国には小野の地名は多く見られ、『和名抄』では白河・安積・柴田郡に各々、小野郷を載せており、宇多・桃生・雄勝・志田以下の郡にも小野の地名があるとされる。
 これらのうち先ず注目されるのが安積郡小野郷、中世以降は田村郡小野郷となる地である。いま、福島県田村郡小野町の一帯となるが、その中心の大字である小野新町(おのにいまち)には、塩竈市の塩竈神社に次いで社格の高い塩竈神社が鎮座する。その近くには小塩(いま出庭とあわせて塩庭となる)や皮篭石という地名も見えるが、皮篭石は神篭石に通じる地名で、刈田嶺神社のある宮村のなかにも同じ地名がある。同社の社伝では、延暦年中坂上田村麻呂の陸奥の夷賊討伐に際し、陸前塩竈大神に祈願したところ神験著しかったことにより、奉賽のため祭祀したことに創まるという。しかし、これは後世の訛伝と考えられ、この社こそ、塩竈市の同名社の基ではなかったのか。田村郡小野町は夏井川の上流域にあたっており、この下流には石城国造の本拠地があった。
 陸奥国磐城郡の南方近隣、常陸国多賀郡におかれた多珂国造は石城国造とごく近い同族(あるいは同じ国造家)であったが、その領域であった北茨城市に塩竈神社が二社、日立市には塩釜神社が一社ある。このうち、北茨城市中郷町足洗の塩竈神社は旧村社であり、その社伝によると、応永十二年(1405)に陸奥の塩竈明神を山続きの粟野の地に分祀したといい、それを江戸期になって現在地に移し足洗・小野矢指二村の鎮守としたという。これら多賀郡の塩竈神社の起源は、おそらくもっと古いのではないかと考えられる。鎮座地の近隣に小野・粟野・石田という地名が見えることにも留意される。
 「小野」というと、遣隋使小野妹子を出した和邇氏族(海神族の後裔で、安曇連と同族。孝昭天皇の後裔と称するのは仮冒)の小野臣・小野朝臣という系統がまず想起されるが、諏訪神建御名方命の関係にも「小野」の地名・神社名が多く見られる。本拠の諏訪地方では、南隣に位置する矢彦神社とともに信濃二ノ宮といわれる小野神社(本来は両社併せて一社か)がある。諏訪湖の西方、小野川流域の塩尻市北小野に鎮座する同社は、式内社ではないが、旧県社として社格が高く、建御名方命を祀る。この地は古くは憑里(もり)と称し、祭神の留まった遺跡だと伝える。諏訪神社は、石城国造の領域であった「いわき市域」にも多いが、田村郡小野郷にも諏訪神社は多く、小野六郷に一社ずつおかれたという。
 次に、諏訪神族と同じように行動して東国に来住した部族の流れを引く武蔵・相武の両国造一族も、小野神社を奉斎した。武蔵では多摩郡の式内社として小野神社があり、多摩川の中流をはさんで、南北両岸近くにそれぞれ一社ずつ小野神社があって論社とされる。多摩市一ノ宮のほうは一宮大明神と呼ばれたというから、神社として氷川神社を凌いでいた時期があったことがしられる。いま両社とも祭神に天下春命をあげるが、この神は知々夫国造の祖とされる神である。相模では、愛甲郡に式内社の小野神社(厚木市小野)が鎮座する。
 武蔵では、平安後期から武蔵七党とよばれる武士団が割拠していた。そのなかに小野朝臣姓を名乗る二党があり、横山党・猪俣党とよばれた。この両党は、その系図伝承によると参議小野朝臣篁の子孫で、武蔵守孝泰の子の義孝が武蔵権介となり多摩郡横山庄に住んで横山大夫と称し、その甥の時範は那珂郡猪股邑に住んで猪股野兵衛尉と称し、各々党祖となったという。
 この所伝について、太田亮博士は疑問を提起し、多摩郡の「小野」が郷名として、神社名として、また御牧として古くから知られ、小野神社の祭神を武蔵国造祖・兄武日命祖神とする説(『式社考』)から考えて、この地の小野氏がこうした神を祖神として祀ったとすれば、武蔵国造の一族だったからではないかとみる。この太田説は、当初奇異に感じたが、検討を加えたところ、かなりの卓見だとわかってきた。ただ、武蔵国造族の大伴(大部)直から両党が分岐したことについては疑問があり、現段階では、横山・猪俣両党は知々夫国造一族の大伴部のほうから出たものと私はみている。武蔵国造・知々夫国造と陸奥の丈部は、ともに諏訪神建御名方命の関係者となる天目一箇命・少彦名神一族の流れをくんでおり、それぞれに小野という苗字・神社を出したことは興味深い。
 話を塩竈神社祠官の小野氏に戻すと、その一族と見られる小野氏が宮城郡の留守氏の家臣に数家あり、江戸期には留守氏について水沢に在った。岩手県では、稗貫郡の大迫(現大迫町)の小野氏はもと宮城県にあって、伊達政宗に追われて同地に至ったという。このほか、磐井郡には平泉の熊野三社の神職を司る小野氏があって、同社は承安四年(1171)に平泉藤原氏が平泉鎮護の神として紀伊から勧請したと伝える。同郡の涌津村(現一関市花泉町涌津)にも鎮守の八幡神社の宮司を代々務める小野氏があった。
 
  柴田郡小野郷の小野・支倉一族
 陸奥の小野氏の発祥地とみられるのが柴田郡小野郷であり、『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条にみえる小野駅のおかれた地である。その地域比定については、名取川の上流・碁石川及び支倉川の流域の川崎町からその南の村田町足立にかけての地と考えられている。
 この地域には小野城の小野氏、本砂金城の砂金氏、上楯館の支倉氏などの土豪が割拠したが、戦国期後半には伊達氏の勢力下に入った。『伊達世臣家譜』等の史料によると、小野・砂金・支倉の諸氏はみな同族で、柴田郡小野村に一千石を領した小野雅楽允の兄弟から出たという。雅楽允の弟の一人は砂金村に住んで砂金氏の祖となり、もう一人は支倉村に住んで支倉氏の祖となったといい、三氏とも少しずつ違った鷹羽の家紋をもっていた。
 小野氏初代という小野雅楽允は伊達晴宗の代に伊達氏に属し、その孫・信常は大坂の陣に従い、伊達忠宗に仕えて足軽奉行・勘定奉行などをつとめた。信常の親族には「常」の字を名前にもつものが多いが、『安永風土記』にみえる館主の小野長七郎寛長は信常の七代後である。この小野氏は菅原姓というが、信頼できず、おそらく古族の後裔で、塩竈神社の小野氏と同族であったとみられる。なお、名取郡にも鎌倉期以来の名族小野氏がおり、大曲館主(名取市大曲)であったが、天正十三年(1585)二本松畠山氏に与して伊達政宗に滅ぼされた。その後裔が近隣に居住の洞口氏といわれ、洞口家住宅は十八世紀の豪壮な農家建築として国指定重要文化財となっている。
 砂金氏も支倉氏も「常」を通字とする名前をもつ人が多いが、その伝承は少し異なる。砂金氏については、菅原姓といい、先祖は源義経(ママ)の家臣で衣川の合戦ののち砂金本郷に来住したとも、砂金常重(ないしは、その子常清)が砂金村守護人になったとも伝える。砂金蔵人大夫常重は延元年間(1336〜40)に浪人して奥州に来たともいい、その子の「常清―長常―重常―常房」と継ぎ、常房は文明年間に伊達氏に仕えたという。常房以降は、伊達氏に属して軍功多く、天文十二年(1543)四月、常久・貞常親子は砂金氏所領の村々に打ち入った最上勢を押し返した。砂金氏は小野村の西南一里ほどの川崎村(前川村。現川崎町前川)に住んで、伊達氏の一族の家格とされた。川崎宿の北側の丘陵上には川崎要害(前川城とも臥牛城ともいう)があり、慶長年間に砂金実常(又次郎貞常)の築城といわれる。十七世紀中葉には、伊達安芸家から嗣子として又次郎重常が入っており、砂金氏の地位の高さが知られるが、元禄十五年に砂金氏は断絶し、一門の伊達村興が居城した。砂金氏の一族は宮城郡の留守氏の家臣にもあった。
 支倉氏は長谷倉とも書き、伊達政宗の家臣で慶長の遣欧使で有名な支倉六右衛門常長を出した。桓武平氏と称して、その系譜は高望王の七世景常を祖としており、景常は天喜四年(1056)に伊勢国司となり、伊勢国一志郡伊藤荘に住んで伊藤と称したという。その子孫の常陸介常隆は常陸西方目代となり、その次男伊藤壱岐守常久は、十二世紀後葉に初め平清盛に、後に文治元年(1185)に伊達氏の祖朝宗に仕え、奥州攻めに軍功があって柴田郡支倉村・信夫郡山口村・伊達郡梁川村を与えられた。その子・久成は支倉村に住んで支倉氏を称したという。久成の七世孫時長は応永五年(1398)伊達郡南方旗頭となり、その後数代にわたり同職を務めた。支倉常長の子の常頼はキリシタン信仰に連座して刑死したものの、その後の子孫は民間にあって名跡は伝えられた。
 伊達郡西大枝村(現伊達郡国見町西大枝)から起こった西大枝(西大条)氏はもと伊藤氏を称し、伊達氏始祖中村念西に従い常陸から当地に移り、その譜代の家臣となったというから(『伊達世臣家譜』)、支倉氏の早くに分かれた同族とみられる。「晴宗公采地下賜録」には西大枝松千代・同伯耆後家などが見え、大身の伊達氏家臣であったが、その陪臣には大河原・富田・白岩・高橋・草刈などがあったという。仙台藩家臣には、平姓で、千葉介常兼の子という常広から「常久―常俊―常親」と続けて、この新妻三郎常親を祖とする新妻氏がいる。新妻氏もおそらく本来は支倉一族であろうと思われ、同じ家臣に藤原姓の新妻氏もいる。藤原姓新妻氏はもと岩城家浪人といい、伊達政宗に仕えた新妻宣久の子・重信を祖として名前に「常」の字が見えないが、岩城菊多地方に起こり後に伊達家の準一家となった上遠野(かどおの)氏の宿老に、先に掲げた新妻三郎常親を祖とする平姓新妻氏がおり、その子孫に景信を始め信・宣を名に持つ者が見える。これらはみな同族としてよさそうである。
 このように系譜伝承に若干の差異があるものの、小野・砂金・支倉の三氏は、家紋の鷹や通字の「常」を共通にし、起源及び居住の地が柴田郡川崎町域の近隣であったことからみて、同族性が認められよう。この地域では、釜房ダムの西岸の小野を中心に、西北一里強に砂金があり、東南一里強に支倉が位置する。三氏の分岐は遥かに遠く、鎌倉期ごろ(あるいは平安期も)に遡るのではなかろうか。
 鷹羽の家紋についていえば、宮城県でこの家紋を用いる諸家を見ると、高橋・阿部・小野など(三つ並び鷹羽)、高橋・鈴木・阿部・伊藤・平尾・日下など(丸に並び鷹羽)、阿部・高橋・鈴木・志賀・安倍・小松・佐藤・日下・草刈など(丸に違い鷹羽)といった塩竈神社祠官諸氏や奥州安倍一族関係諸氏が目につく。家紋は家に複数あったり、同じ苗字でも家によって異なる例も多く、姓氏の出自を一概には説明できないが、鳥取部の祖・少彦名神の族裔としてか、鷹の羽を家紋に用いている。九州肥後の大族菊池氏も、少彦名神の族裔たる筑紫・肥国造一族の日下部君の出とみられるが、やはり鷹羽を家紋とした。東北地方でも菊池・菊地の苗字が多く、九州同様に鷹羽の家紋を用いる。これらは肥後菊池の流れと称する家が大部分のようであるが、その分布の多さからいって、陸奥の古族の後裔が殆どだったのであろう。陸奥にも小田郡の金を出した山の神主日下部深淵(『続日本紀』天平勝宝元年条)をはじめ、伊具郡や白河郡などの地域に草部・草壁(ともに「くさかべ」)を氏とする者が見え、これに通じる日下・草刈も多い。鷹でなく、雀を家紋とするのは、鈴木・柴田・高橋などの諸家であるが、これも関係があろうか。
 なお、小野氏については「橘」を図柄とする家紋を用いるものも多く、菊田・遠藤・斎藤・庄子・大宮・大友・鈴木・高橋・伊藤・長谷・我妻などの諸家も橘紋を用いた。このうち、我妻氏は古く宮村の刈田嶺神社の神官を務めた鎌倉時代からの名家とされ、宮村の北隣の曲竹村(現蔵王町曲竹)の禰宜屋敷に住んで同村の肝入を世襲した。刈田嶺神社が日本武尊を祭神として、この尊が我が妻と詠んだ弟橘姫を想起すれば、同社の神官に橘を家紋とする我妻氏がいた事情もわかる。いま円田に住む我妻家は、新羅三郎源義光を祖として宮城郡、次いで刈田郡の宮村・曲竹などに居住したと伝えるが、古族の後裔であろう。戦国期、天文年間の宮村の領主は遠藤修理亮宗忠であり、伊達家十五代晴宗に仕えて伊達家一族の家格となり、宮内と改姓している。延宝年間(1673〜81)成立の「仙台藩家臣録」には「私先祖宮内因幡法名益斎代には刈田宮八郷領知仕、宮に住居を致し」と記される。宗忠の父は宮内氏より養嗣に入ったというが、文覚上人(遠藤武者盛遠)の後裔と称する奥州の遠藤氏自体の出自にも疑問を抱かせる。
 支倉氏の系譜では、常陸介常隆より前は信頼し難く、古代丈部の後裔としてよかろう。太田亮博士は、「支倉氏に古文書類ありて、古くは長谷倉とも記せり。支と書きて、はせと読むこと詳ならず。丈部の丈の字の訛などにやあらむとの説もあり」という大槻氏の言を『姓氏家系大辞典』で紹介する。支倉は馳倉とも書かれ、この表記も丈部に通じると考えられる。支倉村の鎮守は熊野神社であり、柴田郡金ケ瀬の大高山神社の例祭には、支倉村金田の足軽が参加したという話は先にも紹介した。金ケ瀬のあたりは平村というので、支倉氏が平姓を称するのは、この地名に由来するものか。平村は刈田郡にもあり(白石市越河の平)、この村の村肝入は古井沢屋敷の阿部和泉の子孫が世襲し、村鎮守は白鳥神社であった。平という地名は、磐城郡の平に発したものであろう。磐城平の地には石城国造の末裔、岩城師隆が鎌倉初期に別当をつとめた飯野八幡宮(いわき市平の八幡小路に鎮座)があった。
 支倉郷のうち東南部の菅生(この地名は少彦名神の後裔の居住地によく見られる)に関係して、小野氏や砂金氏が菅原姓を称したことも考えられる。平村など白石川中流域から北方の山間地へ分け入ったのが、小野・支倉・砂金三氏の先祖だとみられる。砂金氏がもともと居住していた本砂金(砂金本郷)では、その地名が示唆するように、昔砂金が産出したことが考えられ、こうした金属資源の採掘も遷住の契機であったものか。砂金氏の領域であった今宿村の中央にはかって銅山もあった(「柴田郡地誌」)。砂金貞常の次男内記は伊達政宗の代に金山本判役として召し出され、家臣として続いた。
 支倉氏等の先祖が伊勢国にいたというのは、信じ難いが、伊藤氏と名乗ったという所伝が正しければ、この「伊」は伊具郡の伊の可能性があり、同郡に阿倍陸奥臣があったことは先に述べた。常陸国にいたというのも疑問で、先祖に常陸介の称がみられることや伊達氏にその初祖以来属したことからの付会であろう。
 支倉常長は山口常成の子で、伯父の支倉時正(常成の兄)の嗣子となった。山口は信夫郡山口村(福島市東部の山口)に因む苗字であり、支倉氏の先祖常久が伊達朝宗に仕えてこの地を賜ったとされる。仙台藩家臣には平姓の山口氏がおり、また戦国期の名取郡北方の領主粟野氏(伊達氏の初期分岐支族)の家臣に山口氏がいたが、ともに同族であろう。
 支倉氏の所伝では、その祖伊藤壱岐守常久の長兄太郎左衛門(名は定隆)の子孫は不明とされるが、県内にこれに該当するとみられる氏がないわけではない。同族の砂金氏が柴田郡柴田町域に多く見え、柴田町の東隣の岩沼市に北長谷・南長谷(もとの柴田郡玉前郷域)という地名が見えることから、考えていけそうである。長谷に起こった長谷氏は、桓武平氏といい、伊達家中にあるが、千葉介平只常の後裔、千葉介常重の庶流たる長谷美作重只の後という伝承からみると、砂金・支倉の同族ではないかと考えられる。長谷氏の祖・常重とは、千葉介一族の祖常重ではなく、文明年間に伊達氏に属した砂金常房の子の常重であったろう。
 
 柴田郡の鎌倉期の地頭に四保氏がある。四保氏は四保館(柴田町南西部の船岡にある古塁)に拠った豪族で、郡内に勢力を扶植して室町期にまで及び、元亨四年(1324)に宮城郡の留守氏の女子が四保氏に嫁したことも「留守文書」に見える。その子孫の四保但馬定朝は天文年間、伊達稙宗に仕えて一家に列した。定朝の子の宗義は、伊達政宗の代理で天正十七年(1589)に豊臣秀吉に謁見した際に、本姓の柴田に復姓するよう命じられて柴田を称したというから、定朝以前は不明であるが、柴田郡の古族の後であろう。同郡には前掲の丈部系の阿倍陸奥臣・阿倍柴田臣のほか、大伴部系の大伴柴田臣(神護景雲三年に外従八位下大伴部福麻呂に対し賜姓、さらに延暦十八年には外少初位下大伴部人根に対して賜姓)もあったが、丈部系の蓋然性のほうが高い。四保館は、鎌倉期の正治二年(1200)に反乱したとして、宮城小四郎家業(伊沢家景の弟)により追討された芝田次郎の故墟だったという。『余目旧記』では芝田次郎のことを弥次郎左衛門とし、のちの四保氏の祖と記している。四保氏は藤原秀郷流の小山・結城一族と称したというが、これは信頼し難い。「シホ」が塩とおなじ発音で、柴田町の北東部に塩という地名があることにも、注目される。
 仙台藩家臣には、藤原姓で柴田豊後常弘の子・常元に始まる芝多氏もある。常弘は三河の人で、伊達政宗に召し出されたというが、先祖は柴田郡人ではなかったろうか。四保氏から柴田に改められた系統では、伊藤氏との間に養子交流も見られる。伊藤は支倉氏の祖常久が称したという苗字であり、安達郡の稲沢春日明神社(現安達郡白沢村稲沢の春日神社)や信夫郡鹿島社の祠官にも伊藤氏があった。
 柴田郡は古代の思太国造が置かれた地域で、この国造もまた石城国造と同族であり、族裔の丈部は、郡領など有力豪族として存続した。先に掲げた阿倍柴田臣や阿倍陸奥臣がそれである。鎌倉期には『吾妻鏡』に見える正治二年の芝田次郎や、承久三年(1221)の芝田橘六兼義(「承久記」に、しばた吉六かねよし)がおり、彼らは阿倍柴田臣氏の嫡裔であろう。江戸幕臣の柴田氏は、笠置城に籠もった大河原源七左衛門尉有重の後として橘姓を称するが、大河原は四保館のあった船岡の西隣であり、この柴田氏は芝田一族の出自とみられる。ただし、橘姓といい、藤原姓といい、仮称・仮冒にすぎない。鈴木真年翁は『史略名称訓義』で何によってか、芝田次郎について「橘氏ノ人大納言橘好古卿十一世柴田次郎兼行ナリ」と記すが、中央の廷臣橘朝臣氏から柴田郡に分岐した系統は管見に入っていない。おそらくは、前掲の刈田嶺神社の橘家紋をもつ我妻氏と関係があろう。
 柴田郡入間田(柴田町北部の入間田)の館主入間田氏は、四保(柴田)氏の分流といい、柴田氏に仕えて家老となったものや、伊達氏等に仕えた一族がいる。入間田村には祇園社(いま八雲神社という)がある。その南は入間野村(いま柴田町槻木)で、この地の入間野源七郎は、留守景宗が伊達氏から入嗣する際に随行した柴田七騎の一人である。
 柴田郡村田郷の村田館に拠った村田氏も、秀郷流小山氏の出というから、四保氏の同族の可能性がある。その系譜伝承では、嘉吉年間(1441〜4)に常陸国真壁郡村田庄から移った小山(村田)大膳大夫業朝を祖とするという。このあと、「定朝―朝広―朝盛―宗盛―近重」と続き、紀伊守近重は伊達氏に仕えた。近重の跡には伊達稙宗の第九子民部少輔宗殖が嗣子として入り、伊達氏の系統となり、江戸期には伊達姓を許されたから、かなりの名族である。村田郷の鎮守は白鳥神社であり、同社には永享三年(1431)村田政重・久重父子が寄進した鰐口があったということからみても、秀郷流小山氏の出自には疑問がある。小山朝政の曾孫左衛門尉政村(朝村)が常陸国村田荘に住んで、その子孫が村田や四保を苗字としたことはあっても、これは常陸国のことである。
 村田郷の北隣、菅生村の菅生氏も秀郷流小山氏の後裔というから、村田氏の同族であろう。仙台藩家臣にも、柴田郡船岡村を領した柴田氏の家臣にも菅生氏があった。地元の伝承によれば、菅生助八郎は安倍宗任の部将で、前九年の役の際、源義家軍と戦い討死にしたという。菅生村の西隣りは支倉村である。
 こうしてみていくと、四保・村田・菅生の諸氏も支倉氏と同祖同族だと考えられよう。
                                                (続く)

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