平姓長尾氏の系譜

(問い)平姓長尾氏は越後・関東に勢力を持ち、戦国時代には上杉謙信を出した事で有名ですが、実は謙信以前の長尾氏の系譜は混乱していて分からない事が多いのです。則ち長尾氏系譜は大別して次の3つに分けられます。

A.鎌倉景成−景政−景継−長尾景行−為景−定景(弟)−景茂−景能−景為(上杉氏に仕える)−景忠(関東長尾氏の祖)−景春(弟、越後長尾氏の祖)−義景−朝景−重景−能景−為景−謙信

B、鎌倉景村−景明−長尾景弘−定景−景茂−景能−景為(上杉氏に仕える)−景忠(関東長尾氏の祖)−景恒(弟、越後長尾氏の祖)−高景−景房−頼景−重景−能景−為景−謙信

C、鎌倉景村−長尾景明−景弘−景基−友景−景熙(上杉氏に仕える)−景忠−景廉(越後長尾氏の祖)−景弘−景春−高景−頼景−重景−能景−為景−謙信

 尚、「国史大辞典」ではAとCとを折衷させた物で、長尾氏には本来、景政系と景村系の2つ系統が存在し、景忠、景廉はAからCの系統に養子に入ったとしていす。「国史大辞典」では景熙の後を継いだ景忠と南北朝時代に活躍した関東長尾氏の祖の景忠を同一視していますが、新人物往来社刊「鎌倉・室町人物辞典」では年代的から両者を別人としています。私もそう思います。
 私は、景廉=景為、景弘=景忠(関東長尾氏の祖)、景春=景恒(越後長尾氏の祖)と考えています。これだと時代的にも問題ありません。
 如何でしょうか? 御教示して頂ければ幸いです。
 

 (樹童からのお答え)

 長尾氏を始めとする鎌倉党諸氏の系譜には混乱がきわめて多く、本来は相模古族の末流であったのを良文流桓武平氏に位置づけたことに加え、同党の内での養猶子関係が多かった模様であり(室町期の長尾氏でも一族内で養子が多く見られる)、系譜混乱に一層の拍車をかけたとみられます。また、頼朝の鎌倉幕府創業に当たって敵対し三浦氏に付属した被官として存続したこと、その三浦氏に従って宝治合戦で一族の大部分が滅亡したことも、系譜をよく分からないものとした原因にあげられると思われます。
  長尾氏の系譜等の研究に当たっては、第一期の関東武士研究叢書にある勝守すみ著『長尾氏の研究』(名著出版、1978)が基本文献といえますが、上記の諸事情もあって出自を含めて系譜関係の記述・究明は不十分ではないかと考えられます。

 長尾氏の系譜の問題点は、概ね次の3,4点と考えられます。時代順にあげると、
 @ 長尾氏の始祖は誰で、鎌倉党のどのような位置づけか?
 A 上杉氏に従って京から下向したという長尾氏の存在が認められるか?
 B 南北朝期に活動が見える景忠の父祖は誰か? (これはAとも関連します)
 C 越後長尾氏の祖は誰で、関東の長尾諸氏とはどのような関係か?

 上記の問題点に対する現段階における一応の回答としては、次のようなものです。  なお、『古代氏族系図集成』中巻の「間話休題」として227頁に鎌倉党関係、343頁に長尾景虎の系を挙げていますが、再考した結果ここでは一部変更しておりますので、ご注意下さい。また、『国史大辞典』では長尾氏について、群馬県中之条町歴史民俗資料館長の唐沢定市氏が執筆されていますが、室町期は概ね良いとして、初期段階から南北朝期までの部分の系譜(具体的には(一)関東長尾氏諸流の前の部分の記述)の考察は、後世の所伝をそのまま受け入れるなどの問題点があり、かなり粗雑であって採用できません。

  比較的答えやすい問題点から答えてみますと、次のように整理されますが、時間の関係上とりあえず結論だけを記し、詳しい根拠などは省略します。『姓氏家系大辞典』の関連項目などと併せてお読み下さい。
@について
  鎌倉党の祖としては相模国村岡に居たという忠通(姓氏不明も相模国造族の出自か)があげられますが、この者を村岡五郎平良文の子孫におくのは後世の仮冒かと思われます。
  忠通の子の太郎為通は三浦郡に居して三浦一党の祖となり、鎌倉郡には次郎章名があって、武蔵大掾となり鎌倉甲斐権守と名乗りました。章名の子に平六良名のほか、鎌倉郡大領丸子連公景の女を母とした権大夫景通・四郎大夫景村・五郎(鎌倉権守)景成の諸子があって鎌倉党諸氏の祖となりました。すなわち、景通は梶原の祖、景村は大庭・長尾の祖、景成は長江・香川の祖とされますが、梶原や大庭・長尾の系統には鎌倉権守景成の子・鎌倉権五郎景政とその兄弟とみられる者の子孫が養嗣として入り、系譜をいっそう複雑なものとしています。
  長尾の家は、大庭庄司景宗の弟・二郎景弘が鎌倉郡長尾郷にあって初めて長尾と号したものですが、この兄弟の父には諸説あります。世代や呼称などを考えて整理してみると、おそらくは鎌倉四郎大夫景村の子の鎌倉太郎景明の跡をその従兄弟権八郎景経(権五郎景政の弟か)が継ぎ、その子が鎌倉太郎景忠で、これが景宗・景弘兄弟の父とみられます。
  大庭御厨下司景宗の存在は、天養二年(1145)三月四日の相模国大庭御厨古文書(『平安遺文』2548号)で香川氏の祖庁官散位平高政らとともに確認できます。景弘の存在は文書で確認できるものはありませんが、景宗・景弘と並んで系図にあり、石橋山合戦の平家方として、年代的に各々の子とみてよい大庭景親の軍勢のなかに長尾為宗・定景兄弟が見えますので(『東鑑』治承四年八月廿三日条)、まず信頼して良いと考えられます。

Cについて
  越後長尾氏の祖は、足利尊氏の従兄弟上杉憲顕に属して南北朝期に活動した豊前守景廉とみられます。この者は、名前を景恒、景春(景晴)ともいい、呼称を新太郎、弾正左衛門尉などともいい、法号を春阿彌といって、越後守護代になったと伝えます。『太平記』にも長尾弾正として登場しています。その嫡子を弥六郎高景(弾正左衛門尉、筑前守)といい、その子上野介邦景、その子淡路守実景(この系統が三条長尾)と守護代を世襲した後、実景の跡の同職は従弟の信濃守頼景(弾正左衛門尉景房の子)に受け継がれ、以降はこの系統の府内長尾氏が同職を世襲して謙信に至ります。系図は「頼景−重景−能景−為景−晴景、その弟謙信」であり、頼景以降はあまり異説を見ないところです。頼景以降のこの系統の家督は代々、弾正左衛門尉及び信濃守の呼称を名乗っています。

  ※ 越後では長尾氏が三条、府内のほか、古志、栖吉、蔵王堂、山本寺、下田などに分かれて繁衍しましたが、庶流の系譜については、多くの混乱があります。これについては、 越後の長尾一族 をご覧下さい。

  関東の長尾氏本宗の祖は、豊前守景廉の兄(実の兄ではなく、景廉の養父を通じて兄。実際は従兄弟か一族)の左衛門尉景忠(又名が敏景、法号を教阿彌)であり、尊氏に属して上杉憲顕の名代として上野守護代にもなりました。その子が清景(彦四郎、太郎次郎)で本宗白井長尾の祖であり、その弟の孫六忠房が惣社長尾(高津長尾を分出)の祖となります。『太平記』には巻29に長尾彦四郎、巻30に長尾孫六が見えており、そうした清景・忠房兄弟の活動時期からみて、彼らが景忠の子に位置づけられます(景忠の孫とする系図もあるが、疑問)。
 関東にはもう一つの流れの長尾があり、鎌倉長尾(のち足利長尾。犬懸長尾を分出)といわれますが、これは豊前守景廉の実弟新次郎(のち新五郎)景直を祖としており、景直の曾孫景仲は本宗白井長尾の家を嗣いで活躍しますが、有名な昌賢入道です。新太郎景廉・新次郎景直の父の名は分かりませんが、『太平記』巻22に見える長尾新左衛門が呼称・年代からみて該当するのではないかと思われます。

A及びBについて
  この問題が最も難解であって、裏付ける史料が見当たらない部分があり、『東鑑』等の史料に拠って丁寧に長尾氏の動向を見る必要があります。
  頼朝挙兵のとき、長尾新五郎為宗は弟の新六定景とともに従兄大庭景親に従って対抗しますが、その後、長尾本宗は新六定景の系統となり、定景の子が太郎(平内左衛門尉)景茂、二郎左衛門尉胤景、三郎兵衛尉光景であり、平内左衛門尉景茂の子の新左衛門尉定村・三郎為村及び次郎兵衛尉為景(三郎兵衛尉光景の子か?)等は、景茂を筆頭とする父・伯叔父らとともに宝治元年(1247)六月五日に三浦氏に殉じて法華堂で滅亡します(『東鑑』六月廿二日条)。このとき、平内左衛門尉景茂の子の四郎景忠は長尾討滅に向かった佐々木一族に生け捕られますが(同書、六月五日条)、鎌倉後期以降の長尾氏は生き残った景忠の流れとみるのが自然です。この四郎景忠は、時代的にいって南北朝期の左衛門尉景忠とは明白に別人ですが、系図には両者を同人とする混乱がかなり見られます。

  長尾系図の異伝(『長尾正統系図』)には、長尾始祖の景弘の子に景基をおき、この系統が在京して長尾の血脈を残したように伝えますが、後世の捏造です。すなわち、承久元年(1219)の将軍藤原頼経の関東下向のおりに長尾友景(景基の子とされる)が供奉し、建長四年(1252)の将軍宗尊親王の下向のおりには上杉重房に随行して長尾四郎大夫景熈(友景の子とされる)があったとも伝えますが、これら長尾氏の関東下向は『東鑑』には全く見えないことであり、在京した長尾一族の存在を裏付ける史料は全くありません。そもそも、上杉氏祖先とされる重房が宗尊親王の下向に随行したことや、その系譜が藤原朝臣姓の公家勧修寺一族の出自すら、きわめて疑わしいものです。
  年代的にいえば、また世代的にみても始祖景弘の曾孫世代ということで、長尾四郎大夫景熈は長尾四郎景忠に対応することに留意されます。

  さて、鎌倉中期の四郎景忠と南北朝期の左衛門尉景忠との間には、世代にして二世代ほどが一般的な年代感覚としておかれますが、この空白をどう埋めればよいのでしょうか。管見に入ったところでは、中田憲信編の『各家系譜』第十冊に所収の「萩原家譜案」に拠り考えるのが穏当のように思われます。萩原氏は、上杉一族千秋氏の支流と伝える系譜を残しています。
  同家譜に拠ると、上杉始祖とされる重房の子の三郎頼重の子に重顕・頼成・憲房(憲顕の父)及び足利尊氏母・清子などをあげ、上杉千秋越前守頼成は長尾平太左衛門尉景基の女を妻として藤成・氏明(萩原祖)・藤明・藤景を生みますが、うち兵庫頭藤明・修理亮藤景の二人は長尾左衛門尉基景の養子となり、兵庫頭藤明には子がなかったので左衛門尉景忠を養子にしたことも記されます。
 そこには、長尾平太左衛門尉景基と左衛門尉基景との関係は記されませんが、世代を考えると親子とみられます。また、兵庫頭藤明の甥に左衛門尉景忠をおきますが、これはおそらく誤伝で、藤明と左衛門尉景忠とは同世代であろうと思われます。この左衛門尉景忠の出自は、おそらく本来の長尾一族で、新五郎景為の子とされる可能性があり、景忠の本宗相続で跡継ぎのいなくなった新五郎景為(長尾系図を考えると、「四郎景忠−景能−景為」か?)の養子として一族から新太郎景廉・新次郎景直兄弟が入ったとみられます。
  このように考えれば、世代的に四郎景忠の子に平太左衛門尉景基がおかれるのが自然であり、一旦長尾の家に外甥とはいえ別姓の上杉から養嗣が入ったことになります。この辺の事情は宇佐美定祐記にも見えており、長尾の一族が悉く滅びたとき上杉氏の「頼成の子藤景をして、長尾の家を継がせらる」と記されます。また、関東長尾氏の祖景忠の先代が上杉氏に仕えたこと、景忠が長尾本宗の養嗣であったことなどは、長尾氏所伝のいくつかとは合致します。

  以上のように考えてみますと、貴殿があげられた3系のうち、比較的にBが妥当だと考えられます。私が『国史大辞典』掲載の長尾氏の系譜を信頼しない事情も、お分かりになると思われます。
 
  (03.6.30 掲上)

<川部正武様よりの来信> 03.7.06受信

 面白そうなテーマなので便乗させてください。
 僕のページの掲示板でも長尾氏の話題で盛り上がったことがありました。

 僕の疑問は,「鎌倉長尾氏」という存在です。
つまり長尾景忠(敏景)のあとに活躍した長尾新次郎景直からの家系を鎌倉長尾氏と呼んでいますが、これは景直が鎌倉に住んだことに因むのか、ひょっとすると鎌倉権五郎景政の子孫という意味の名字の「鎌倉氏」なのか、ということです。
  なぜこういう疑問を持ったかというと、長尾氏の系図には2つの系統が知られますが、1つは鎌倉氏の系図であって、鎌倉氏出身の左衛門景忠が長尾兵庫助藤景の後に長尾氏を名乗って、鎌倉新次郎景直が継いだのではないかと思ったからです。

  長尾氏の系図は,長尾景弘−定景−胤景−基景=藤明=藤景 であり、
  鎌倉氏の系図は,鎌倉景行−為景(長尾景弘の子か養子)−景臣=景能(長尾四郎景忠の弟?景茂の子)−景為−左衛門景忠(長尾氏を名乗る)。鎌倉景為の弟・定時−新次郎景直(景忠の養子?)。

 そもそも鎌倉時代以降の長尾氏の当主の流れが掴めなくて困っていました。武蔵守護代を勤めた長尾兵庫助藤明、同藤景や同景雄(氏春か?)が初期の長尾当主であったと思いますが、その後、長尾左衛門景忠が上野・越後守護代となります。
 僕が知っているところでは,
(1)上野守護代の流れは
長尾景忠→景泰(景忠の子)→(惣社)忠房→(白井)景守→(高津)憲明→(白井)景仲→(白井)景信→(足利)景人→(惣社)忠景→(惣社)顕忠→(高津)定明→(高津)顕景

(2)武蔵守護代は
藤明→藤景→景雄→(白井)景守→(鎌倉)景英→(犬懸)満景→(惣社)忠政→(白井)景仲→(惣社)景棟→(白井)景信→(惣社)忠景

(3)上杉家の執事や家務、家宰は
長尾景忠→(鎌倉)景直→(犬懸)満景→(惣社)忠政→(鎌倉)実景→(白井)景仲→(白井)景信→(惣社)忠景→(惣社)顕忠→(足利)景長→(惣社)顕方→(足利)憲長

といったところだろうと思いますが、それぞれ、就任・退任年月を確認していないので、順番が間違っているところがあるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。

  これらから、鎌倉景直−犬懸満景−鎌倉実景−白井景仲−白井景信−(弟)惣社忠景という直系が権力の中心にいたことがわかります。犬懸憲景の没落後、惣社忠政・高津憲明兄弟が一時期権力を握りましたが、結局白井景仲の子・忠景が惣社氏を継いだので鎌倉景直の子孫が嫡流と言って良いのではないかと思いました。

「長尾系図試案」 
  http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/nagao.html

  http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/uesugi.html

  なんか途中から応答板とは違う話になってしまいましたが、ご意見をいただけましたら幸いです。
                         

<樹童よりの返信> 03.7.11

○貴信、ありがとうございます。まだ十分考えていない部分もありますが、とりあえずの感触等を以下に記します。

(1) 上野・武蔵守護代職や上杉家執事(家宰)職の歴代について
  貴見を興味深く拝見しました。これらの室町期の職については、いま関係資料を手元に取り出せませんが、室町前期については貴見と感触があまり異ならないように思われます。中期ないし後期については、実のところ殆ど検討したことがありません。
  ただ、@貴見では鎌倉景直から惣社忠景までの六名を直系のようにつなげていますが、鎌倉実景と白井景仲との関係は親子ではなく、景仲が白井景守の家に養嗣に入った後、景仲の実父鎌倉房景の家に養嗣として実景が入ったとされており、六名は三名と三名の二系に分かれるものと考えます。
A長尾の宗家は、上杉家執事職とは異なり、@の養嗣関係に見るように、また景忠と景直との兄弟関係に見るように、やはり白井長尾だと考えられ、はるか昔からそう書かれたものを信頼してきました。太田亮博士も、白井を筆頭にあげていると思われます。

(2) 鎌倉期ないし南北朝期の長尾氏について
  貴「長尾系図試案」については、私としては、次のように異論ないし感触があります。
1 鎌倉長尾氏については、宗家が白井に遷住した後も旧地鎌倉に残った景直系統の長尾氏を呼んだもので、これが足利、更には館林に遷して、その住地の名を冠して呼ばれます。鎌倉権五郎景政及びその一党の子孫という意味の苗字「鎌倉」は、大庭、梶原、長江、長尾などの苗字を分出して名乗られなくなったものではないか(鎌倉殿〔頼朝〕に憚る面があったのかもしれない)、と私はみております。

2 先にも記しましたように、鎌倉期の長尾氏は一系のみであり、「権五郎景政−景次−景行−為景」という系図は、信頼できません。景次は景継に当たりますが、その子は『東鑑』に見える長江太郎義景であり、多少とも信頼できそうな鎌倉党関係系図には景次の流れに長尾氏は見えません。
  ちなみに、『中条町史』等に所収の「桓武平氏諸流系図」には、景政の後については、その子「景次〔号小大夫〕−義景〔長江郎〕−明義、その弟景行〔桑五郎〕−景家〔沢次郎〕」(※〔 〕内の記事にはおそらく誤字ありか?)と記載され、長尾氏の系は「鎌倉四郎大夫景村−長尾太郎景明−大庭権守景宗」と見えるのみであり、同系図は、鎌倉期の長尾氏が属した三浦氏の越後支族「三浦和田氏」に伝えられたものだけに不思議です。同系図と共に所蔵・所収の「三浦和田氏一族惣系図」にも、甲斐権守景名の子として鎌倉四郎大夫景村(梶原長尾)及び鎌倉権五郎景政(長江このすゑ也)がわずかには見えるくらいです。
  以上の1及び2からいって、「鎌倉氏出身の左衛門景忠が長尾兵庫助藤景の後に長尾氏を名乗って、鎌倉新次郎景直が継いだ」ということではなく、長尾兵庫助藤景の跡は、本来の長尾一族の左衛門景忠が継いだものと考えます。

3 貴試案だと、鎌倉殿のときの為景・定景兄弟と南北朝初期の藤明・景忠・景恒との間の世代が少なすぎると考えます(通常は中間に四世代ほど)。その意味で、基景を胤景の子とする系図*はどこかで見たように思いますが、疑問に思われます。また、定時については、宝治合戦のときに戦死しており(『東鑑』。御家人制研究会編『吾妻鏡人名索引』では、定村<時>と記す)、景能の子に置くことも、景忠の叔父に置くことも、年代的に疑問です。白井清景の父に置く景行についても、清景の活躍時期から考えて疑問な存在です。

 *上杉文書所収の長尾氏のいくつかの系図の中に、そうした系図があり、「基景−藤明−景忠」と続けている。

  (03.7.11掲上)

<川部正武様よりの再来信> 03.7.12受信
 いちいちご尤もですが、私見を以下に記します。

(1)について
@鎌倉景直から惣社忠景までの六名を直系のように記したのは、系図を作るときに間違いました。

Aについて
(ア) 僕が注目しているのは上杉氏との関係です。
  宇佐美定祐説によれば、中先代の乱で長尾某(本宗)滅亡→長尾基景の外孫の千秋上杉(藤明及び)藤景が継いだ、ということです。よって藤景は基景の養子になったとまでは思っていません。ただ血縁を元に長尾氏を名乗り、上杉の権勢で本宗となったと思っています。そして藤景らは犬懸上杉氏のもとで武蔵守護代を勤めていました。

(イ) 山内上杉氏の執事・家宰や上野守護代を勤めたのが、鎌倉長尾氏、犬懸長尾氏でした。白井長尾氏が表舞台に出るのは、鎌倉長尾氏出身の景仲が白井長尾氏に養子に入ってからでしょう(上杉禅秀の乱後に景守が武蔵守護代になっているかもしれませんが、このときに長尾景雄の後を継いだのかもしれません)。
  すなわち長尾景忠・景泰父子のあと、白井景守・景仲父子まで白井長尾氏は振るわなかったと思います。
  景行の存在は怪しいというか、景泰と同一人物の可能性もありますが、清景は全く登場しません。確かに清景は長尾氏のなかで一番上の兄の家柄(景泰没後は)ではありますが、現実には活躍がないことから、山内上杉家臣のなかで鎌倉・犬懸長尾氏が本宗であったと思います。その後に景仲の活躍によって白井長尾氏が本宗となったと思います。

(ウ) 例えば上杉氏についても本来は在京の二橋上杉氏が本宗であり、詫間上杉、犬懸上杉、山内上杉の順であり、山内上杉が単独で惣領となるのは室町時代中期以降だと思います。ちなみに僕は高倉上杉氏(越後守護)は山内支流でなく、犬懸支流だと思っています(といっても山内氏から詫間、犬懸、高倉に養子を出していたので、意味のない区分ですが、越後守護職は山内憲顕が失ったあとは、犬懸氏の朝房、憲栄、房方と相伝し、房方の子・朝方が高倉氏を興したからです)。

  系図は最後の本宗(山内上杉や白井長尾)が作るので最初から彼らが嫡流であったように書きますが、実際にはその過程で衰えた嫡流が沢山いても不思議ではないと思います。

(2)について
  1,2,3については、お説の通りだと思います。
  自分でも自信があったわけではなく、議論の契機になればと思って書きましたので、反論しません。

 白井景行は白井城主として見られる事が多いので景忠の子・平三左衛門景泰のことかもしれないと思っています。景泰の後を弟の清景が継いだかもしれません。


 <樹童よりの再返信> 03.7.13

  時代・権力の変遷により、また系図の作成者により、本宗ないし嫡流が衰退(滅亡)し、庶流がこれに替わった(替わったように記された)ことがあったことは、古代以来例が多く、ご指摘の通りだと考えます。それを踏まえても、やはり以下のように考えます。

(1) 上記A(ア)(イ)と(2)に関連して、長尾本宗等について 

 (あ)
 先に「兵庫頭藤明・修理亮藤景の二人は長尾左衛門尉基景の養子となった」と書いたことについては、次のような資料もあります。
  @) 明治に米沢の上杉茂憲が呈譜した『羽前米沢 上杉家譜』という史料が東大史料編纂所に所蔵されますが、そこには藤明について、「三郎左近将監、長合ト号ス或作長宇、襲長尾氏」と記載し、その子に氏景(長尾兵庫助、武州守護代)をあげますが、藤景は見えません。藤景は、藤明と同一人物に併合されたか、氏景に当たるのか、よく分かりませんが、おそらく後者ではないかと推されます。なお、『姓氏家系大辞典』ナガオ第14項に見える藤明の孫、氏春(兵庫助、禅秀乱の時討死)については、上記『上杉家譜』では、藤明の兄・藤成の子に置かれています。

  A) 「藤原姓上杉氏家系流略」という書に、藤明について、「長尾左衛門尉為長尾六郎景基養子」と記されます。ここでは、基景と景基が同一人物とみられているのかもしれません。

 (い) 「長尾景忠・景泰父子のあと、白井景守・景仲父子まで白井長尾氏は振るわなかった」のは、その通りだと思われますが、長尾家督は依然として白井長尾にあったからこそ、前記養嗣関係が起きたと考えます。景仲の活躍により、長尾氏の本宗・庶子家関係がはっきりしたのだと思われます。なお、清景については、『太平記』には巻29に長尾彦四郎と見えることは、先に記しました。

 (う) 「景行の存在は怪しいが、景泰と同一人物の可能性」ということについては、私もありうると思われますが、今までのところ、景行の存在を文書で見ておりません。ちなみに、上杉文書所収の「安田本長尾系図」では、「景為−景忠−清景」としております。
  景忠の子・景泰は平三左衛門と号し、清景が彦四郎・太郎次郎(その子景守が孫四郎)、忠房が孫六と号したと伝えますから、兄弟順は景泰、清景、忠房であって、清景は次男であったと考えられます。

(2) 上記Aに関連して、越後上杉氏について  (上杉本宗問題については、別頁
 「上杉氏についても本来は在京の二橋上杉氏が本宗であり、詫間上杉、犬懸上杉、山内上杉の順で」という貴見には、あまり従いえないと考えています。その理由は、別頁に記しました。なお、ほかにも、在京の二橋家あるいは八条家が本来の本宗であったと見解も見た記憶があります。

  「越後守護職家は山内支流でなく、犬懸支流だと思っています」という点については、そうもいえると考えます。というのは、上記『上杉家譜』には、犬懸朝房の養嗣に房方をあげ(これは命名として自然か)、「実憲方二男、後続左近大夫憲栄家」と記されるからです。いずれにせよ、上杉氏には一族間の養子関係が多く見え、端的に系統を判断できない要素が多分にあります。

  (03.7.13掲上)


(1) 宇留窪長尾氏など長尾一族諸氏について、さらに問い合わせが入っておりますので、これらについては 次頁 をご覧下さい。

(2) 越後の長尾一族については、次々頁をご覧下さい。
 上杉本宗問題については、更に議論が展開しましたので、別頁 を参照して下さい
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