古樹紀之房間

    古川隆久氏著『建国神話の社会史』を読んで
  「建国神話」を考える


                                 宝賀 寿男



 昨年2020年の1月に刊行された古川隆久氏の著『建国神話の社会史─史実と虚偽の境界が、いまかなり読まれていることを知り、また、その書評もいくつかネット上で見ることができるので、その辺を読んで、同著や古川氏のいわゆる「建国神話」について雑考を繞らしたものである。


 
 はじめに

 
著者の古川隆久氏は、1962年生まれの日本大学文理学部教授であり、専攻は日本近現代史だと紹介される。本書のもとには、『歴史学研究』958号に掲載された「近代日本における建国神話の社会史」(2017年6月号)があり、その後の大学の授業でもこのテーマを扱って、さらに新たな肉付けをしたとされる。これが、中央公論新社から「中公選書102」として発売され(2020年1月)、筆者が入手した版が3版とされるから、いま、かなり読まれている歴史関係書籍だと言えよう。
 標題の語「建国神話」の具体的な意味について、ここで取り上げる当該書では、記紀に描かれた、@「天照大神を中心とする天皇の先祖とされる神々が日本の建国に向けて活動し、地上に降りるまでの物語」(天孫降臨など神々の手による日本の建国への道筋の物語)と、A「その子孫とされる彦火火出見が橿原で初代天皇たる神武天皇に即位するまでの物語」(神武天皇の東征・即位の物語)とを、本書ではそう呼ぶと記される。この辺を踏まえて、本書が記される明治以降の歴史経緯やその周辺事情を考えてみたい。
 なお、本書に関して、管見に入ったところでは、呉座勇一氏(朝日新聞掲載:2020年3月7日付)や成田龍一氏(日本女子大教授。東京新聞掲載:2020年3月8日付)、福間良明(立命館大学教授。日経新聞掲載)などかなりの数の書評があるので、管見に入る範囲で、併せて適宜、取り上げて考えてみたい。


 「建国神話」という標題と定義

 
「建国神話」という語が歴史学界にはあるそうである。『国史大辞典』や、山川出版社の『日本史広辞典』、上田正昭編『日本古代史大辞典』には取り上げられない語であるが、管見の及ぶところでは、早くは直木孝次郎氏の著作『神話と歴史』(1971年刊)に使われていて、その記事に拠ると、1968年2月11日付けの「朝日新聞(大阪)」には、教育課程審議会の答申とそれに基づく学習指導要領に関して、「建国神話そろって登場」という見出しの記事が掲載されたというから、この語の創出の関係者と当初から含まれる意味がおおよそ推されるところでもある。
 「建国神話」の意味は、一般には、ウィキペディアに見えるように、「その国を建国したとされる神、あるいは神の血筋を引くとされる指導者が建国事業を行なったとする神話を指す」というところであろうが、普通には神々が活動する物語が「神話」とされ、北東アジアの諸例でも多いが、天降った神の子がそのまま建国するのが殆どあろう。
 ところが、記紀(『古事記』『日本書紀』を併せ言う)では、天照大神の五代も後の子孫とされる神武以降が人代であって(『書紀』では、神武登場の巻三以降は「人皇紀」と呼ばれる)、それ以前が神代(天降り後の「日向三代」の神話も含む)とされるから、当該書の語「神話」の意味が異なることにまず注意しておきたい。神武天皇に関して記紀が「人」として描いているにも拘わらず、わざわざ「神話」と呼んで本の標題とするところに、本書の前提とする予断があり、サブタイトルが「史実と虚偽の境界」とあっても、本書の言う「建国神話」に関して、本書がなんらかの史実性を認めているわけでは決してない。もともと虚偽・虚構の神話を戦前の政府が無理に「史実化」しようとつとめたと著者はみて、その経緯を受け手の面も含めて広く社会史、当時の世相、関係者の行動などを見ようとしたということである。

 だから、本書は最初から「主観的な予断含み」であり、神武即位譚まで語の意味に含めるのであれば、冷静に「建国伝承」としたほうが客観的な表現だと言えよう(『日本古代史大辞典』の和田萃氏の執筆項でも、坂本太郎・平野邦雄監修の『日本古代氏族人名辞典』でも、神武天皇については「伝承、伝説」として取り上げている)。
 私の関心や問題意識が、著者が「建国神話」として取り上げる記紀の記事について、なぜ史実性がないと考えるのかを具体的に知りたかったことが先ずあり、かつ、近現代史の研究者が上古史分野の問題について、そもそも的確に取り扱いうるのか(論理的な手順を踏んで内容も的確な形で取り扱う)、ということにあったから、その辺にはまるで答えられていない。

 とはいえ、明治政府以降の大日本帝国では、記紀神話を、天照大神の血筋をひく万世一系の皇統が日本列島を統治することの正統性の根拠とした事情があった。これは、直木孝次郎氏の上記書が言うように、大日本帝国憲法(1889年制定)の第1条及び第3条が定める天皇の統治大権及び神聖不可侵の特権は、記紀の「神話」以外に根拠を説明しようがないことは確かであり、また、翌1890年の教育勅語における「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト」という一節も、天照大神の命による天孫降臨と神武天皇即位から始まる歴代の諸天皇を意味する。このように、明治以降の近代日本が記紀を背景にして成りたつ国家体制をとって進んだのは確かであるが、そうだとしても、後者のほうの始まりの神武即位伝承が即、虚構性の「神話」だとは直ちに言い切れるものではない。この辺は、上古史における原態探求の問題であることに留意される。
 「記紀神話」が戦前の教育現場などでどのように取り扱われたのか、受け手はどのような反応だったのか、政府などの施策・対応はどうだったのか、などの動きを具体的に知るうえで、おおいに参考になるものが本書にあり、その辺は興味深い記事がある。そして、そうした政治・社会動向の記述は総じて読みやすく、利便を感じるものでもある。
 ところで、著者にあっては、要は、戦前においても、普通人(学究も含めてのことと思うが)の誰しもが、「建国神話」は史実ではないと当然、思っていたという信念・思込みがある。しかし、「天降りから神武東征譚まで一括り」で皆がそう思っていたとは、とても考えられない(もちろん、多少とも素朴な受取はあったろうから、人によって受け取り方は異なると思われる)。
 著者の前提的な信念がまず事実と違うのである。具体的に言うと、いわゆる「皇国史観」の一部学究を除いたとしても、著者が卒業した東大文学部において、戦後のかなりの期間、古代歴史学の教授として主導的な立場にあり、しかも数多くの史料類の研究にも詳しく東大史料編纂所所長をもつとめられた坂本太郎氏は、昭和50年、1975年に出版された『国家の誕生』(講談社。日本の歴史文庫A)にあっても、神武天皇以下九代の諸天皇の実在性を説かれた。その著では、見出しだけ取り上げても、「神武天皇は実在の人物」「神武天皇の即位─大和国家の成立」「神武天皇の事績は否定できない」「神武天皇東遷は九州邪馬台の一部族の移動か」「八代の天皇はたしかな伝承の記録」「なぜ八代の天皇を実在と考えるのか」などと表現される。この辺の話は、古川氏の当該書ではいっさい触れられない。だから、天降りから神武東征譚まで一括りで「神話」とみなすことには、まず無理があると言うことである。
 一方で、「建国神話」を言う直木孝次郎氏は、その上記著作のなかで、「第二 建国「神話」の形成」という章を設け、「一 建国神話の虚構性」を言い、「二 神武天皇と古代国家」という標題で論述する。ここでも、「建国「神話」」という表現にされ、「神話」とカッコ付きの表示がなされることに留意される。このように、「建国神話」という語は、熟したものとはなっていないということである。
 そして、ほぼ同時期に刊行された両書を比べ読みすると、神武天皇に関して言えば、坂本太郎氏のほうが遙かに説得力がある(この辺は、具体的に諸点を後述する)。天孫降臨にあたっての天照大神の神勅『書紀』の一書正書のなかにはないことに留意)のなかにある程度のものだから、こんなものは誰が考えても、後世(例えば『書紀』編纂者くらいか)の造作にすぎないことはわかる。現に、古川氏の本著作では、神武天皇の事績関係については殆ど触れられない。そうすると、本書の標題にそもそも問題があるのではないか、天孫降臨と神武即位譚を一括りにして「建国神話」で論議すること自体に問題が大きいのではないか、ということである。


 記紀神話の近代日本における役割

 著者は日本近現代史が専攻だから、『古事記』と『日本書紀』を一括して「律令国家の修史事業」の一環であって、八世紀前葉に成立し、両書の性格の違い(成立意図の違い)は認めるものの、ともに皇統の正統性、政治体制を正当化を綴るものとしてしか把握されない。
 ところが、『古事記』はその序文に見える稗田阿禮という得体の知れない人物(実在性がまず確認されない、ほぼ間違いなく虚構の人物)の記事により、まるで成立・伝来経緯が不明な書だとされざるをえない。同書の内容からは、序文に記す八世紀前葉より早い時期(八世紀初頭よりも1,2世代前の時期か)に原案が作られた可能性が考えられることを三浦佑之氏も指摘する。『書紀』だって、中味をよく見れば、紀年なども含めて多くの異論・異伝を一書の形で併記するなど、伝承者あるいは編纂者がどれが史実(歴史的事実)だとみていると言えないような様相を呈するから、同書に書かれる記事全てが史実だと信じていたとは言えない点がある。
 だから、こうした記紀に関する諸事情から言えば、虚構たる「神話」の史実化を、王政復古した明治政府以降の政府がはかってきた、とどこまで言えるのだろうか。もっと丁寧な検討がなされるべきではないかと思われるが、戦前の政府が推し進めたのは、おそらくは、天皇崇拝や神々の加護など「神国日本」(あるいは「皇国日本」)に関する特定の部分だけなのであろう。当時の政府が「特定の神話の信仰」を推し進めたのが事実だとしても、それが、「神話の信念化」だと言えても、「神話の史実化」を図ったといえるのだろうか(著者は、記事では信念化と史実化〔事実化〕を併せて用いるが、信念化と史実化とは内容がおおいに異なる)。

 ともあれ、明治以降の大日本帝国の版図拡大と国家主義・軍国主義の進展に伴って、さらに「神国日本」を強調する傾向に次第に変質していき、それに拍車がかかったのも確かであろうから、その辺は戦前の政府施策への批判・告発としての社会動向に関する当該書の記事には肯けるものもある。1926年に「建国祭」が行われ、1940年(昭和15年)には皇紀二千六百年の記念行事が国家的に行われ、五輪と万博の同時開催計画もあるなどの動きがあった。満州事変後には建国神話が「排除の論理」となっていき、国内的には戦争動員に利用されて戦争へ突き進む過程なども記される。この辺は、歴史の利用についての反省材料と言えよう。
 呉座勇一氏が本書の書評でも、「本書のユニークなところは、建国神話を押しつけられた国民の本音を赤裸々に描いた点にある。小学校教員は「天から降りるつて落つこちはしませんか」と茶々を入れる児童に苦悩し、神話を無理に事実と教えればかえって教育不信を招きかねないと訴える。」(この辺は次項でも述べる)と書かれる。なお、「建国神話」の政府から国民への教育に関しても、時期によりかなり変遷があった模様であり、長浜浩明氏は、群馬県太田市の生家にあった1900年(明治33年)の『小学内國史 甲種第一』の冒頭には、天照大御神は天皇の先祖で、その孫の瓊瓊杵尊を豊葦原瑞穂国に降し(これは、「遣わし」とほぼ同義ではあるまいか)、その曾孫の神武天皇が日向から東征して、皇紀660年に初代天皇として即位したが、この皇統が連綿としていまに続いて、第121代が今上(明治)天皇に当たると記述されると紹介する(『日本の誕生』2019年刊)。同書には、この教科書の現物を写真で提示されるから、そこには、天照大神の神勅も高天原・天降りの語も見えないことが確認できる。
 だから、明治から終戦までの歴史教育の内容にもいろいろ変遷があったと思われ、著者の古川氏もその辺を丁寧に追いかけて、どの辺から学校の歴史教育として問題なのかを具体的に紹介されるべきようにも思われる。


 記紀神話のあまりに素朴単純な理解

 さて、国民学校の授業で習った天孫降臨の故事について、本書の帯にも使われている「先生、そんなの嘘だっぺ!」と言って、嘘かと先生に問う学童の頭部を木刀で強打したという昭和十八年(1943年)の茨城県の教員のエピソードが記される。こういう学童の素朴な疑問を体罰で押さえつけるような事件が起きることからは、「建国神話を歴史として教えることの理不尽さを痛感する」と著者は述べる。
 しかし、問題の「高天原」が天空・空中にあると素朴に考えるくらいの頭しか、近現代史の歴史学究はもっていないのだろうか。昔も今も、歴史学究の頭脳は中学校の学童並くらいの単純素朴なのか?と私には感じられる。今でも役所や大企業から下部組織への転向を揶揄して「天降り」というくらいであり、これは、例えば役所や大企業を「御上」に喩える言い方にすぎず、記紀に見える「高天原」だって同様であり、祖先や上位ランクの宗族・親族が居る故地を喩えた表現にすぎないということである。

 中世史や近現代史では、あまり問題意識は持てないのだろうが、古代史とくに七世紀以前の史料の読解にあっては、報道の六条件たる「5W1Hなかでも時間・場所・人(When、Where、Who・Whom)について、広い視野から的確な把握につとめる必要が常にある。
 具体的に記紀神話で言えば、天降りの主舞台たる「葦原中国、日向」は律令時代の出雲、日向とは異なるし(具体的には、各々、筑前海岸部の那珂郡中心域、怡土・早良郡の中心域にあたるとみるべき。前者は語の名義から見ても、日本列島という広域ではありえない)、「高天原」も現実の地上の地であって、天皇家の祖先・宗族がいた地にすぎない。「天降り」の原態は、決して「人間が天空から降りてくる」というわけではなかった。日本上代史と関係深い韓地や中国・東北地方にも、重要な「天降り」の伝えがいろいろあるし、上古の東北アジアの建国者・王族たちは決して宇宙人ではないということである。
 本居宣長は一種の信仰的な立場から「高天原」天上説であり、これが戦前の皇国史観に結びついた理解のようだが、『書紀』にあっては「高天原」は神代紀の一書これも正書の部分ではない)に見えるのみである。『書紀』本文には「高天原」という語が記されないということだけでも、同書編纂者が「高天原」を重視したわけでもない(繰り返すが、『古事記』はその序文があきらかに後世の偽書であり、八世紀代の官撰書、修史事業の結果ではない)。
 平泉史学の後継者的存在で、皇學館大学の学長などをつとめたから戦後にもまだ遺る皇国史観学者ともみられかねない田中卓氏ですら、「高天原」とは筑後国山門郡などを含む筑後川下流域かそこからさほど遠くない地だとみていた(邪馬台国所在地とは、本来は別問題だが、結果的に合致することもある。だからと言って、「天照大神=卑弥呼」では決してないことにも留意される)。朝鮮半島南部の伽耶の高霊の地に、「高天原故地」の石碑が建てられたのも、天皇族遠祖の五十猛神やその祖先一族が居た地を「高天原」だと定義すれば、あながち過ちとは言えないということであり、「高天原」の定義如何で数か所も地上に存在したということである。

 上古史の原態探求にあたっては、そうした現実的なバランス感覚や地理感覚をもって、東北アジア・中国まで及ぶ広い視野で実証的な検討を常に必要とする。上記のほかに、天皇族の遠祖・源流が上古中国の殷王朝王族につながる要素があって、この辺を拙著『天皇氏族』で詳述した事情があるからでもある。白川静氏も『中国の神話』で、殷との関連を記述する。
 この程度の理解・把握が近現代史の学究になぜできないのであろうか。同じ歴史学分野といっても、史実探求の手順・プロセスが古代史ではかなり異なるのである。上古史探求を甘く見てはいけないということでもある。
 笹山晴生氏(東大名誉教授)は、その著『古代をあゆむ』(2015年刊)のなかで古代史料の読み方にふれ、「ほんとうに古代史を勉強することは、それほどたやすいことではない。数少ない、しかもその性格に問題の多い史料を用いて古代史の真実に迫るには、きびしい修練が必要である」と記して、歴史学者の中国語・朝鮮語の学習まで言及している。そして今では、数学・統計学や自然科学的な年代測定法関係の知識なども含め、語義や資料判別などに関し、様々な関連諸分野の学問知識が求められる。考古学関係だって、遺物・遺跡に関し、文字で端的に書かれるものが少ないから、その意味するものが一義的なわけではなく、その研究成果や考古学専門家の立論・仮説を吟味できる総合的な学識・能力が必要となる。

 要するに、「天降り」の建国神話は、扶餘・高句麗や韓地などの東北アジアのツングース系種族などに数多く見えており、これらに関する習俗・祭祀などの諸事情を知って、視野を日本列島・倭地から東北アジア・中国方面にまで広く向ければ、「天」や「太陽神(日の神)」の崇敬、鳥トーテミズム(神秘そうな「八咫烏」も、鴨族の鳥トーテミズムの現れに過ぎない)の意味するものが自ずと変わってくる。だから、狭い視野での自らの誤解を基にして、上代関係史書の記事を安易に否定するというのは、学問・研究を生業にする学究として、いかがなものなのであろうか?素朴な合理史観では、物事を見誤るし、ましてや歴史分析を専業とする方々がその程度の頭脳ではいけないということである。


 本書の結びにおける著者の感慨

 本書のエピローグとして書かれることについて、いくつか問題がある。
 それは、@「天照大神の孫が地上に降りて天皇として日本を統治し始めたという話を軸とする建国神話は、古代、日本の天皇制度が確立しつつある時代にそれを正当化する根拠として創作され」て、記紀に記されたとあり、これが、更に繰り返されて、「神の子孫が地上に降りて日本を支配したという、建国神話を事実と信じる人はいまさらいません」と記される。
<拙見>「天降り」の問題は既に述べたが、上古の歴史の大きな流れを考えて、「高天原」の比定候補地をあげておくと、拙見では、筑後川中流域の御井郡あたりと結論的に記しておく。一方、「建国神話」と一括りにされた神武天皇の即位譚は、どこに問題があると言うのだろうか。実証的に神武関係を考えて、『「神武東征」の原像』を著した私としては、具体的な問題提起を是非、望みたいところである。具体的に北九州から畿内大和へ移遷した者が大和王権の基礎を築いたということで、とくに不自然なことではない。津田博士も北九州からの移遷を考えたことがある。そして、これは決して「邪馬台国東遷」に直ちにつながるものではない。
 そして、天降り伝承や神武即位譚を、何時、誰が創作したというのであろうか?この問題を具体的に解明した研究者は、津田博士を含めて、いまだかっていなかった。ただ、津田亜流の研究者たちが粗雑な「造作論、反映論」などの否定論理でいろいろ言ってきているだけの話であった。七、八十年も昔の津田博士の記紀分析を、今でも「厳密な記紀批判」だなんて、どんな論理学感覚で言えるのだろうか。
 もちろん、「天降り」に関して、天空から人々が降りてくることなど、信じる者は誰もいるはずがないが、だからといって、神武天皇の即位譚までを一括りにして、誰も信じていないと言うことができるのだろうか。
 ある土地の目印にもなる高山に、地域住民の先祖や氏族先祖が降りてくる伝承は、わが国では天皇族に限らず、鴨氏・物部氏の祖先伝承や『出雲国風土記』などに多く残っている。これらは、「天降りの者()」が当該高山を目標に航海・歩行などの行動をして、その山麓あたりに落ち着いたという喩えにすぎないということでもある。

 「万世一系の皇統」なんて、記紀などを丁寧に見て各種史料から原態を考えていけば、神武天皇の流れの王統から応神天皇が王権を簒奪し、更に継体天皇が簒奪したことが分かる。ただ、この三系統とも皆、「天照大神」(原態が「天活玉命」という男神で、実体は人間)の流れを汲むから、広義では「一系」の範囲のなかではあり、しかもそれぞれの簒奪者は、先に旧王統と通婚したり、簒奪後に旧王統一族の娘を娶ったりとそれなりの天皇即位の正統化の試みがなされていた。中国古代の匈奴でも、チンギスハンのモンゴル帝国でも、王統創始者からのいわゆる「黄金血統」をひく一族のなかで大汗位・王位が相続されており(なかには、かなり遠い傍系からの相続例もあったことに留意される)、天皇族の出たツングース種では、こうした広義の「一系」が普遍的な王権世襲方法であった。
 なお、「建国神話」には誇張やウソが多少とも含まれ、後代に長く伝わるほど訛伝も生じる。このことは、古代の東北アジアのどこの国でもあまり変わらないのだから、近現代史と同様にまったく記事の通りのことが倭地の上代当時に起きたわけでもなかった。そこに、習俗や祭祀・トーテミズムなど古代の様々な面を考えなければならない要素があり、そこに歴史解釈の問題がある(この辺も、近現代史と大きく異なる)。天皇の神格化につながりかねないから、「万世一系」を認めたくないという気持ちと、事実として広義の「万世一系」であったということとは、別問題である。
 
A「結局、近代日本における建国神話をめぐる歴史像から浮き彫りになるのは、やはりウソは良くないという、ごくあたりまえの教訓なのでした」で、本書は結ばれる。
<拙見> 教育や歴史探究等に「ウソは良くない」ということはまったくその通りであり、誰も異論はない。永原慶二氏も著『皇国史観』のなかで、この史観が「歴史の真実をねじまげ、虚偽の歴史像をつくりあげる結果になる」と記述しており、いわば信念論的な史観が虚偽を強制する結果をもたらすことを強く戒める。
 そこで問題は、神武即位譚が後世の「創作」であって、史実ではないという著者の考えが「ウソ(誤解)」ではないという立証がどのようにできるのだろうか?過ぎたるは及ばざるが如しで、過剰に史実否定をするのも、やはり「ウソ」なのである。
 古代人の物語創作能力を過大に評価することはできないはずだし、現在に残る記紀などの記事から神武即位譚の原態を考えれば、具体的に不自然・不合理なところはまるでない。そのことは上記拙著で具体的に記したところである。要は、記事からの的確な原態把握ができているかどうかの問題である。
 『書紀』のいう神武即位年の「辛酉」が、単純そのままに年代を比定した紀元前660年のはずがない(もっとも、戦前の「皇紀二千六百年」の記念行事があったが、当時の学界では、総じて約六百年の年代遡上があるとみられていたというから、こうした古い年代は神武の実在性が認められたうえでの話であろう)。

 『書紀』の安康朝以前の暦法が後代の「儀鳳暦」に拠っていることは、小川清彦氏が指摘するとおりであり、これは学界に広く認められている。その場合、八世紀の『書紀』の編纂者が安康朝以前の時期にの紀年関し、根拠なく恣意的な紀年設定(紀年の造作・延長)をしたわけではない、と考えるほうが自然である(古い時期の「儀鳳暦」で記された紀年がすべて編纂者による造作だとみるのは、論理の飛躍である)。
 言い換えれば、なんらかの原始暦が当時の倭地には存在したということである。これは、『古事記』雄略段に見える引田部赤猪子という娘への求婚譚が、そうした原始暦法の存在を示唆する。すなわち、彼女が天皇からの求婚の話を信じ「八十年」を経るほど待って老女になったと記事に当時の暦法の1つが窺われるが、雄略治世の実年期間は『書紀』の元嘉暦が示す「二十三年八か月」だから、雄略段の記事「八十年」はその範囲に入る期間だ(端的に四倍年暦での歳月だとみれば、実質二十年)、ということである。同書に雄略天皇の享年について、「天皇の御年は百二十四歳」と記されており、これもなんらかの倍数年暦計算が御年に入っていることを窺わせる。やはり同書雄略段には、伊勢国の三重采女が、「纏向の日代宮……」で始まる「天語歌」をうたって罪を許された伝承が見えるが、この歌は語部・天語連らが伝えたものとみられ、倭王権には古い事件等を伝える機能をもっていたと考えられる。
 西暦一世紀から中国・大陸と通交・朝貢して、その王権のもとにつながることの意味は、その王朝の暦法・年号・距離測定法などの諸制度をそのまま受け入れたり、なんらかの形で取り入れるということにつながる。弥生後期から倭地とくに九州や畿内では、文字用具としての硯が、現在までに既に四、五十点にものぼり出土している。古くは崇神天皇朝頃から大和王権のもとに「語部」があり、応神天皇朝頃に多く渡来してきた韓地文化人の子孫による「史部」があった(『書紀』雄略二年十月条に史戸の設置が記載)。だから、彼らが大陸・韓地から歴史・伝承関係の諸技術を受け入れたはずで、誦習された伝承、文字記録や暦法などの諸技術が上代倭地になかったと考えるほうが理に合わない(津田博士や井上光貞氏などが、応神朝になって初めて倭地に文字が渡来したとみるが、これは、記紀に見えるような「古典籍」が届いただけの話を「文字伝来」と誤解したものである。応神朝には既に韓地との通交・戦があった事情があるうえ、これら先学の時代には、弥生硯の出土も知られなかった)。

 日本の古代の暦法が数種類あったことは、新しくは天武八年(「薬師寺東塔銘」)あるいは同九年(『書紀』)の記事でも分ると遠藤慶太氏が『六国史』(中公新書、2016年刊)でも述べられる。これに限らず、『書紀』と関連する史料をよく見て行けば、仏教公伝、聖徳太子の没年、阿倍比羅夫の蝦夷征討、白村江の戦など、それぞれの年次について多くの紀年異伝が『書紀』等に見えており、倭地上古の暦法には並行して複数のものがあったと分る。
 その場合の倭地の「原始暦」が二倍年暦及び四倍年暦であったことを、貝田禎造氏(『古代天皇長寿の謎−日本書紀の暦を解く−』1985年刊、六興出版)が『書紀』紀年の分析を通じて指摘しており、上記拙著では、当該貝田指摘が当時の実態的に正しいことを、古代氏族諸氏の系譜分析から導いている。そして、数学専門家でその関係の受賞歴のある谷崎俊之氏(当時の大阪市立大学教授)が『記・紀』の紀年記事を分析して、「倭地の原始暦は四倍年暦」だとする研究を『数学セミナー』第55号(2016年6月)で発表され、貝田説を裏付けた。
    ※倭地の原始暦の関係については、「倭地と韓地の原始暦」をご参照

 神武当時の倭地の原始暦が四倍年暦であった場合には、記紀に記される初期諸天皇の異例の長寿と長い治世期間もなんら問題がなくなる『書紀』の紀年が、後代に恣意的な「年代延長策」のために創作されたという異常なものではない)。また、応神天皇より前の初期諸天皇の系譜関係が、記紀に記されるような直系相続ではなく、原態が傍系相続であったことは、記紀・『旧事本紀』などの各種の系譜関係記事を丁寧に検討すれば自然に導かれうる。『書紀』に記される神武即位年が「辛酉」であるので、後世の思想である讖緯説に基づく「辛酉革命説」による紀年設定(造作)だと、これもまことしやかに唱えられたが、これはまったくの誤解に過ぎない。「辛酉革命説」がわが国で流行したのは平安期の十世紀以降であり(同説によるわが国の年号改変も十世紀以降になって例がある)、『書紀』編纂時点に当該「辛酉革命思想」が伝わっていて編纂者がこれを知っていた証拠もない。そもそも、「辛酉革命説」による、神武当時までの年代遡上の基点を何時に設定するかの争論さえもある。要するに、「辛酉革命説」による神武即位年の設定という仮説が明らかに間違いということである。

 そして、『書紀』で重視されたのは諸天皇の元年等に記される「太歳干支」であるが、神武天皇については、その即位元年の「辛酉」について「太歳」とは記されずにあり、その前の東征出発年に関し、「太歳干支」が「甲寅」だと記される事情がある。そして、この「甲寅」の年が西暦174年に当たることでは、拙見も貝田説も合致する(以上の諸点についての詳論は、上記拙著『「神武東征」の原像』をご参照)。上古中国の古代暦も国により異なり各種あったことを平勢隆郎氏が記しており、高句麗でも当時の中国本土とは1年差違がある「センギョク暦」が使われたと友田吉之助氏が指摘する(『日本書紀成立の研究』)。だから、暦法も干支も、国・地域で種々あって、これらを一義的に考えないほうがよいということである。津田博士やその亜流学説関係者には、暦法の知識に総じて乏しく、「異例の長寿、長期治世」を云々するが、これらは誤解であって、実在性否定の根拠になり得ない。

 このように各種の事情から考えて、神武の東征活動期間西暦170年代頃だとする見方は、坂本太郎氏氏が『国家の誕生』(1975年刊)で説く、中国史書に見える倭国大乱の頃に神武東征があったものかという見方と合致する(「倭国大乱」そのものではない)。しかも、津田左右吉博士にあっても、のちの形勢から推測すると、皇室の先祖は一、二世紀頃までには勢力として大和に存在したらしいと見ていること(1946年発表の論考「建国の事情と万世一系の思想」に拠る)とも、ほぼ符合する政治事情にある。ここまで、神武東征の年代論について割合詳しめに記したが(これまで、年代論や異例な長寿が、初期諸天皇の実在性否定論の主要根拠とされたようだからであるが)、その他の論点も次に記すように、神武東征事件等の実在性を否定するものはなんらない。
 併せて言うと、新羅建国の初代王たる朴赫居世の治世記事に倭人瓠公が見えるが(『三国史記』新羅本紀)、それが赫居世38年条で、その紀年を単純換算した場合には紀元前20年になる。ところが、実年代がおさえられるところから倍数年暦などを用いて新羅王の治世年代を遡上する形で試算すると、初代の朴赫居世の治世時期は二世紀後葉頃となり(拙著『神功皇后と天日矛の伝承』をご参照)、倭人瓠公に関しては、神武天皇の次兄・稲飯命(稲氷命に当たると見る説もある。記紀では、この者は母の国たる海原に入ったとあるが、『姓氏録』右京皇別・新良貴条では稲飯命の後は新良国王になると見える事情があり、拙見では必ずしも否定し難い。
 
 この西暦二世紀後葉当時の地理状況も、東征譚に見えるような大阪湾につながる河内潟の地理に合致しており、この辺の古地理事情は、古田武彦氏などかなり多くの研究者が既に指摘するところである。経路の「熊野大迂回」なんて、神武当時の「熊野」の地を後世の編纂者が勘違いして比定しただけであって、『古事記』に記されることを読み解けば、同じ紀伊国でも、紀ノ川遡上の経路しかありえなかった。
 瀬戸内航路が開かれたのはかなり後代のことであり、2,3世紀の航行は無理だとみる説もあるが、その場合、邪馬台国畿内説は成り立たない。瀬戸内航路で最も困難なのは関門海峡であって、それを抜けたら、適切な航路案内人がおれば、小部隊を乗せる船の航行なら問題がなかったとみられる。神武の母方親族となるのが海神族で、その関係者の道案内も十分考えられ、その連絡もあってか、明石海峡あたりまで海神族の珍彦(倭国造の祖)の迎えも記紀に見える。四世紀中葉の景行天皇の九州巡狩も、基本的に、畿内から防府までの瀬戸内航行経由でなされたように記事からは窺われる。防府から姫島を経て豊後に上陸したとみられ、そこから九州での活動が始まっている。
 神武と崇神とが、同じく「ハツクニシラス天皇」と呼ばれるから、両者が同一人だという論拠はきわめて粗雑である。今は同じ訓みであっても、漢字の表記がそもそも異なるし(始馭天下之天皇と御肇国天皇)、記紀編纂時にどのように訓まれたのかは不明である(二つの称に見える「天皇」という称号からも、このように命名された時期は遅くて、七、八世紀頃ではないか)。記紀に見える両天皇の后妃・皇子女や随従者・敵対者の名前もそもそもまるで違うし、中心の天皇だけに焦点を当てる「英雄史観」考えるのでは、総合的な歴史原態の判別や認否ができるはずがない。こうした粗雑な論拠で、記紀記事が従来、簡単に否認されてきた。要は、ヤマトに初めて侵攻してその南部など一部地域の支配者になった神武と、日本列島主要部(まだ九州や陸奥には勢力が及ばない範囲)を広く版図とした崇神が、同じ大王でも同一人視されるわけがない。ヤマト侵攻の裏付けの一つに当地域の高地性集落の分布を考える見方もある。
 神武の生母が海神の娘だというのも、竜蛇信仰をもつ海神族の首長が「海神」と表現されているだけであり、生母の姉・豊玉媛(記紀では「祖母」だが、原態は伯母)がワニ(中国江南にもいた「鰐」であって、魚類の「鮫」ではないことに留意)の姿で彦波瀲尊(ウガヤフキアエズの命として知られる。原態は神武の父ではなく、長兄にあたる)を産んだというのも、海神族(この流れが古代の安曇連・和珥臣・三輪君などの雄族諸氏)の竜蛇信仰・トーテミズムから考えて自然なものである。ちなみに、朝鮮半島の檀君伝承に見える熊女・虎女も、その属する種族のトーテミズムの現れにすぎない。実在の人間の先祖が「神」だとしたら、その「神」も本来は実体をもつ人間であるはずであり、そうでなければ架空の者にすぎない。
中世史や近現代史にはトーテミズムが見えないからと言って、上古の重要な習俗・祭祀を学究が無視する神経が、私には理解しがたい。「神」と表記されても、実体をもった遙かな遠祖を崇めて言う場合もあるということを、なぜ認識しないのだろうか?

 これら諸事情を神武東征譚等に照らしてみれば、神武とその事蹟の実在性にはまったく問題がなく、むしろ上代当時の活動・習俗や地理事情の傍証ないし裏付けにもなりうる。津田博士が神武天皇以降の物語について、「決して其のまヽに歴史的事実とは見られない」とするのはその通りであり、記事の原態について、常に的確な解釈・把握が必要なものの、「史実性が皆無であることを論証」したわけでは決してない(津田博士が把握される範囲の内容では、史実性が認め難いということにすぎず、当然のことながら、拙見でも「津田把握」の内容では、史実性を認めるわけでは決してない。要は、その把握が視野狭窄で、誤解だと言うことである)。
 なお、以上の諸事情は、最近までの各種の上代研究を踏まえたものであるが、これらの諸事情が知られる前に、先駆者的に神武天皇について様々な検討をされ『神武天皇』という著作もある植村清二氏が、『国史大辞典』神武天皇の項で、「『帝紀』の記載を尊重する限り、神武天皇の史的存在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」と記される。更に、これに続けて、「近年、この磐余彦の大倭平定説話を以て」、崇神、応神もしくは継体天皇などの事蹟を、より古代に反映させたものとする説もあるが、「これら諸説は、いずれもその論証がすこぶる不十分なばかりでなく、その前提となる崇神・応神・継体の事蹟の史実性についての吟味を欠いているために、信用することができない」と的確な指摘を行っている。
    ※神武東征関係については、「神武天皇の原像」をご参照。  


 海外の建国伝承の取扱い

 ここで海外に目を向けて、それぞれの国の建国・始源の事情に関して、どのように国家的に見て記述されているかの問題がある。この方面の詳しい研究を私はあまりしているわけではないが、管見に入るかぎり、なんらかの形で国の建国・始源について公的な認定がなされてきている。
 近くの中国の例では、各種遺跡の発掘が近年、随分進むことを踏まえ考古学・天文学・文献学の総合的な視点から検討されて、既に「夏商周年表プロジェクト(夏商周断代工程)」で具体的な年代が公式のものとされている。これに拠ると、紀元前2070年頃に夏王朝が開かれ、紀元前1600年頃に夏に代わって商王朝(殷王朝)が起こり、紀元前1046年に殷周革命(周が殷を打倒して代わる)が起きたとされる。拙見では、中国史の大家・宮崎市定などの見解を踏まえて、春秋時代頃より前の時期の上記中国紀年は年代がかなり遡上しすぎだとみるが、その理由は暦法などの原因かどうか不明である。漢字の起源の甲骨文字が、帝盤庚が殷墟(河南省安陽市)に遷都した時期(上記の工程では、紀元前1300年頃とされる)より後に使われたとみられているが、なんらかの文字代用品など伝承を残す手段は考えられて良い。様々な史資料をもとに、今後とも的確な上古年代の追求に当たる必要があるが、これは年代比定の問題であって、史実否定の問題ではない。
 中国で国家的規模で認められている夏王朝の存在が、わが国学界ではいまだ否定説が多いようであるが、ここまでくると「否定の妄執」としか言いようがない。中国ではその後も遺跡発掘が進み、最近では、黄河上流域で画期的なシーマオ遺跡の発掘成果が発表されており、神話的な「三皇五帝」のうち、後ろの帝堯・帝舜・帝禹の三帝の時期が対象となって、遺跡発掘なども含め各種の歴史研究がさらに進められている。ここでは「神話」だとして、切り捨てられているわけではないということである。年代的に夏王朝よりも古ければ、必然的に「三皇五帝」も考えざるをえないということだけである。
    ※中国の最近の発掘事情や朝鮮の神話関係などについては、「「扶桑」概念の伝播」をご参照
         また、「殷王朝など中国上古王統と祖系についての雑考」もご参照。

 お隣の朝鮮半島では、天神桓因の子・桓雄が天から降りてきて熊女を妻として産まれたという神話をもつ「檀君王倹)」が開国の祖と崇められ、北朝鮮では、その陵墓まで現代史のなかで偽造された。これは、十二世紀に成立した『三国史記』にすら見えない神話で、十三世紀末に書かれた『三国遺事』に基づくものであるが、朝鮮半島各地の王家や高句麗の蓋氏(泉蓋蘇文の一族)の先祖が檀君だと伝える系譜も現実にある。
 韓国においても、檀君を朝鮮の祖とみる立場があり、天降り神話の類が各地にかなりあって、人間以外の形(例えば「卵生型」や太陽光)で従者なしの場合も多い。三韓の起源で「天降り」から記す『三国史記』の記事の始めのほうを否定する津田学説の信奉学者に対して批判が大きい模様でもある。韓地の伽耶、駕洛国(金官加羅国)の初代首露王は、天神の子で天から黄金の卵の形で亀旨峰に降りてきて、すぐその年(西暦42年)に王となり、158歳の長寿で西暦199年に死去するまで王であり続け、以後の王九代は皆、直系の相続で王位を世襲したという(『駕洛国記』)。首露王は新羅の脱解王や婆娑王とも交渉があったと『三国史記』新羅本紀にも見えるから、こうした神話・伝承があっても、その実在性の否定にまで行けるのだろうか(なんらかの倍数年暦法や紀年換算によっては、その原態を探れる可能性もあろう)。
 もちろん、神話的なものが建国伝承関係で国家的な規模に認定されているから、それが全てそのまま史実で正しいというわけでは決してない。檀君朝鮮は様々な意味でたしかに非合理であるが(それでも、様々な形で朝鮮半島で教えられている模様)、中国史書に見える箕子朝鮮まで、わが国では疑われる。その場合に、実在性の認否の論拠が、それぞれに合理的かどうかという問題がまず基礎にある。
 これら中国・朝鮮の神話探索を見ると、わが国戦前の「建国神話」の強制に関して、虚構でも人びとに通用するはずである、という「為政者の愚民観」だとみる著者の歴史観にも疑問が残る。記紀神話を一種の「憲法」に喩える著者の見方も、法律体系の基本をなす法に喩えるのは、法曹としての私の感覚では、それぞれの意義が異なると思われる。『書紀』の神話に異伝が多くあげられるが、法としての「憲法」は一つの形でしか記されない。

 ヨーロッパ諸国の関係事情は、ますます分からないが、例えば、イタリアでは、ロムルス・レムスにまつわるローマ建国伝承は、まるで否定されて教えられないのであろうか。英・仏ではどこから歴史が始まったと教えられているのだろうか。それぞれにおいて、国の始源期を裏付けるような確たる史料や遺跡・遺物があるとは、到底思われない。
 わが国の神武即位譚については、上記のように記紀記事の原態を的確に把握すれば、史実とみてよいと思われるが、これが「建国伝承」だということですら、歴史で説明されない(歴史研究の対象とされない)よいうのは、各国の例から見ても、却っておかしいのではなかろうか。日本では、まともな研究対象ですらなっていないのは、先入観が強すぎると感じられる。


 <一応の総括など>

 ここまで書いてくれば、著者古川氏は、「ウソは良くない」というお考えや視点のもとに、どのように行動されるのだろうか。ちなみに、中世研究家の呉座氏も「建国神話を史実と教える時代の再来はないだろう」と書評にはいとも簡単に書かれるが、古川氏の言う定義の「建国神話」の中味をどこまで呉座氏当人が実証的に分析したうえでの言辞なのか、きわめて疑問である。その著『戦争の日本中世史』などでなされたような多視点からの実証的な史料検討が、記紀の「建国神話」についてなされたとは思われないのである。それが、なんらかの史実性を含む「建国伝承」なら、歴史教育の場で取り上げてどこに問題があるのか、と問われるということでもある。
 それは、同じく当該書の書評で、成田氏も、「神話である以上、歴史的な出来事(史実)ではない」と言い切ることにも通じており、果たして、これで良いのだろうか。「神話」という規定を誰が行って、それが正しいと誰が認定したのだろうか、ということである。これらの学究には、古代史と中世史とのアプローチの差違が理解できているとは考え難い。

 ここまで見てきた限りでは、まず朝日新聞が「建国神話」と認定して表現し、一部学究がそれに乗っただけのことであろう。それを、いやしくも大学教授の肩書きを持つ研究者たちが丸呑みするのか、という問題である。たしかに、多くの学究たちが、崇神天皇あるいは応神天皇より前の時期(極端な場合には継体天皇より前の時期)の記紀記事には史実性がないとみているようだが、その把握内容や各々の論拠が正しいかどうかの問題でもある。これに対する有力な反対説や疑問は、おおよそのところを上述したが、そうした記紀記事を否定する場合には、否定される時期における倭地の歴史がどうだったのかを具体的に提示する責務もあろう。そして、丁寧に研究すれば分かるはずなのだが、中国史書の信頼性への過剰な信仰も垣間見られる。内外共に、史料の取扱いには十分な吟味・検討が必要だということである。
 記紀批判の先駆者たる津田博士自体が、すくなくとも二世紀頃から畿内の王権的なもの存在を認めているのだからでもある。弥生後期以降から硯の使用例が考古学的に多数、認められているとき、その使用者が自分たちの歴史や記事をまるで残さなかったと考えるほうが不自然である。

 上古の倭地の支配者階層・氏族には、それぞれの記録が伝わったとみられる。
 『書紀』巻一・二の神代は、神話・伝承に特化した巻で、古代氏族の始祖や氏族が奉仕する祭祀の起源についての記述が多い。同書持統天皇五年(691年)八月条には、大三輪氏など当時の朝廷の有力氏族十八氏にその祖らの「墓記」(家記、氏文)の提出を命じた事情も併せ考えると、それらが基礎となった『書紀』の読者となるこれら諸資料の提供者に対しても、「勅撰」の史書とは言え、編纂時に当然に配慮がなされたと考える。神代・人代ともに大王権関係だけの都合で恣意的な記事創作がなされ、この一方的な「歴史」が当時の読者に提示されたとはまず考えられない。この辺は、遠藤慶太氏が上記書(56頁)でその主旨を指摘されるが、『書紀』には多くの異伝が「一書」の形で併記されており、これもそうした事情のもとでの編纂者の対応であったろう。
 
総括: 歴史学究たる者は、史実(歴史原態)の研究・探求がその重要な務めのはずであって、特定の思想・信仰の鼓吹者であってはならないということであろう。これが、歴史教育では「ウソは良くない」という意味ではないのだろうか。
 要は、それぞれの立論・主張の基礎にある歴史原態をよく調査・研究してそのうえで言動されることを、いわゆる「歴史学究」を認じて活動する方々に望むものである。成田教授の言葉を借りれば、「あらためて建国神話に、いかに向き合うか」という問題について、信念的ではなく、実証的総合的に真摯に考えて、そのうえで研究してほしいということでもある。その際には、当然のことながら、わが国最古の官撰史書たる『書紀』など各種史料の記事・表現を、先ず丁寧に読むことも期待される。

 (2021年4月2日に掲上。その後も適宜、追補あり)

 
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