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 記紀の「史料批判」とはいったい何か

 問題項目のE「根本史料の日本書紀や古事記の史料批判をすることなく」という表現についてであるが、

 拙見では、それが根本史料であろうがなかろうが、『書紀』『姓氏録』や個別文書も含め、全ゆる史料を十分に吟味して用いるべきだと考え、それを実践してきている(その史料吟味の結果が、批判者の見解とおおいに異なるだけの話しにすぎないようであり、これを「記紀批判がない」という形で、「曲げて表現する」のは疑問である)。そのため、こうした疑義なら、私には関係がない。記紀の記事には多くの誤りも転訛・造作や改編もあるし、その一方で史実・原型を伝えているものもあるということであり、この辺を、個別具体的にそれぞれの是・非を適切に判断するべき話である。

 ところで、ここで言われる「記紀の史料批判」というのが、例えば、津田博士が採ったと同様な仲哀朝以前の「記紀の記事の全否定」という意味であれば、私はむしろ、そんなことはしてはならない、と考えるし、なぜそのように否定するのかという問題にもなる(「批判」は即、「否定」にはならないはずで、是々非々のものであるべきだろう。記紀の一部を「物語」と認定するのは、博士の主観的な判断に過ぎないし、「物語」と認定したら、そこに歴史的事実はないのか、例えば崇神・垂仁両天皇は歴史上に実在した人物ではないという意味なのか。この辺が曖昧化されている。博士の「記紀記事の否定」というのは、総じてどうにも曖昧である)。
 津田博士のいわゆる「記紀の厳密な史料批判」なるものは、「同時代の確実な史料によって歴史を叙述しようとする素朴な実証主義に他ならない」という見方(高城修三氏)も見られる。しかし、拙見では、博士の著作を読むと、それが「素朴な実証主義」になっているとは到底、思われない(上田正昭氏も、津田史学が、「実証史学を批判して」おり、「実証史学を本領とするものではない」と明言しており〔『人と思想 津田左右吉』掲載の論考、1974年刊〕、土田健次郎早大教授も「津田の実像は、あくまで思想史の研究者である」とする)。
 東大の坂本太郎や井上光貞は、津田博士の研究が「主観的合理主義」に過ぎないとの主旨で批判を行った(井上光貞氏の著『日本古代史の諸問題』、1972年刊)、ともいう。
 拙見では、場所と時間wherewhen〔具体的には古代暦、紀年の問題につながる〕)を「記事の表記通り素朴に把握すべきだ」という津田博士自身の思込み・信念に基づく解釈と、その解釈に対する論理不徹底な否定にすぎないと考えられる(「素朴」に記紀の記事をそのままに受け取ること自体が、方法論として誤りであり、そのうえでの「実証主義」は、そもそも妥当ではあり得ない。敢えて言えば、拙見では、津田学説は「素朴すぎる合理主義歴史観」という評価か)。

 いったい、「造作論(創作論)と反映論(ないし誇張論)」で論理的に何が否定できるのだろうか。当時の現地地理事情も考えない、決して実証的ではない否定論を思込み(ないし信念、予断)で展開して、更に具体的な史資料の根拠なしに想像論を述べる形で自論を展開する。これが、「厳密な批判」なのだと、論理的にどうして言えるのだろうか(私には、信仰や思想・信念の展開としてしか思われない総じて言えば、「記紀批判」を口にする方のほうが、いい加減な想像論を展開する傾向すら見られる)。
 記紀編纂時(系図などの史料作成時)の「政治的思想」に拠り、記紀の記事・系譜の造作ないし創作が行われたなんて、これまででも、まるで具体的に論証されていない。そのように主張する人もいるようだが、具体的な論証がなく、思込みか妄想に過ぎない。そもそも、拙見では、無から有を造り出すような記事や系譜の創作は、古代人にはほとんど無理なことだと考える(それでも、『古事記』には不思議な偽造系図がいくつかあるが)。
 だから、少なくとも神武天皇以降の記事には史実・原態が多かれ少なかれあったろうと考える。そして、これまでに弥生後末期の硯が多く発見されるようになってきており、この基礎的な事情を考えると、上古の時期にあっても、なんらかの記録が作られない、残らないと考えるのが極めて不自然である。
 しかし、これが、個別には記紀に記事改変がなかったという意味では決してないことに留意されたい。現に『古事記』には、神功皇后系譜(開化天皇段)や品陀真若王系譜(応神天皇段)など明らかな「後世の偽造系譜」も含まれて、同書に掲載される。この辺は、当該系譜の稚拙で裏付けのない内容(当時には殆どありえない「異世代婚」の頻出や命名の不自然さなど)から判別ができる(もっとも、井上光貞氏は、五百木入日子が成務天皇と同人だとは気づかず、かつ、品陀真若王の実在を疑わずに、その系譜記事に拠って立論した事情があるが。この辺は、同人の異名表示の判別ができなかった故か。『古事記』のすべての記事を信頼しすぎるのは、問題が大きいということである同書の記事の各々の成立時期が不明な以上、言えることはあまり多くないが、古事記に記載の偽造系図には要注意ということである)。

 そして、大王権の主体が変わるごとに、各々の実権者の利害関係に応じ、系譜など関係諸事情に関して個別記事に修補の手を加えられたことは、疑いない。ただ、そのような系図等の改変は、六世紀中葉の「継体─欽明朝頃」の時期とか推古朝、あるいは八世紀代に限らず、当然に何度も皇統などの系譜の改変があったと考える(欽明朝とか推古朝あたりに、蘇我氏主導で、記紀の皇統譜が創出されたという説もあるようだが、皇統譜創出はまったくの想像論にすぎないまた、欽明朝だけで記紀伝承の改変が終わったわけでもない)。
 その一方、皇統や諸氏族の系譜でも、史書でも、多くの関係者、事件関与者がいたのだから、ゼロから全てを産み出すようなことができるはずがない(先にも述べたが、例えば上古天皇や英雄だけに焦点を当てて考える「英雄史観」の思考で物事を考えてはならないだから、架空の人物が系譜などに追加されたことはあまり考え難く、むしろ系譜上の位置づけの変更が主だったとみられるとかく、上古代の皇統譜関係については、妄想的な論調が多すぎる)。

 例えば、藤原不比等だけが史書の内容を大幅に改変した、となぜ言いうるのだろうか。「なぜ八世紀初頭の日本人(註:記紀編纂者のことか)は異説をいっぱい並べるという不体裁な正史『日本書紀』をつくったのであろうか」という高城修三氏の指摘・疑問も見られるが、まさにその指摘通りであろう。『書紀』には多くの異伝(重複記事について、並列した紀年の掲示も含む)が掲載されることは、多くの研究者が指摘するが、この事情を考えるだけで、特定のある一つの時期における創造・造作という見方が成り立たないと分る。


 記紀解釈としての津田博士の結論的見解はどうなのか

 記紀研究の学説史と抽象論については、話しが長くなり面倒になるからあまり論議したくないものの、津田博士の戦後に発表された結論的な見解(主に1946年発表の論考「建国の事情と万世一系の思想」に拠る)とみられる古代歴史像は、意外なことに、その大略が拙見ともほぼ符合しており、その範囲で基本的な内容を、私も首肯しているのが実態である(ところが、現在の考古学者主流派は、この津田博士の結論的な見解を無視ないし否定して、応神天皇以前の歴史の否定という部分だけを取り入れている。不思議な話である)。

 すなわち、両見解の概要的な対比をして見れば、次のようなものである。 

<津田説の
概要の要約>

 のちの形勢から推測すると、皇室の先祖は1、2世紀頃までには勢力として大和に存在したらしく、3世紀では出雲の勢力を帰服させたようだが、九州にはまだ進出できずにいた。それは、朝鮮半島における中国の政治的勢力を背景とし、北九州の諸国を統御する邪馬台の国家があったからである。4世紀に入ると、東北アジアにおける遊牧民族の活動により中国勢力が覆され、朝鮮半島でも同様であったため邪馬台の君主は拠り所を失い、大和の勢力はこの機に乗じて北九州に進出し、邪馬台の国家を服属させた。それが、4世紀の前半のことであり、これを更に進めたのが4世紀後半の大和朝廷勢力の朝鮮半島への進出であって、そこで日本と朝鮮半島と間に新しい事態が生じ、応神天皇のときに大和勢力が好太王と戦った状況は好太王碑文にも見える。
 すなわち、津田博士は、九州北半の邪馬台国と、大和朝廷の前身とが3世紀には併存していたと考えていた。

これに対応する関係の
<拙見では>

仲哀天皇以前の記紀の記事は政治思想に基づく造作だとか、例えば、神武東征や景行天皇巡狩、神功皇后の韓地遠征などが虚構の事件だという津田説については、拙見は当然に反対ではあるが

 皇室の先祖たる神武が2世紀後葉に北九州から大和に侵入して王権を建てており、当初は大和盆地南部を主域に周辺一帯を押さえるくらいの中勢力だったが、次第に勢力を貯えて4世紀中葉初め頃には出雲を服属させ、その後の中葉頃に武力で北九州を平定し、更に同じ4世紀後葉には渡海して韓地にも進出し新羅や高句麗と戦った、とみる。
 時期的には、総じて言えば、津田博士の上記の見方よりやや遅れる程度である。応神天皇の時に倭軍が好太王と戦ったのは同じだが、それより少し以前には倭王権は軍事的に韓地に出ていっており(政治的影響力をもった)、神功皇后も実在した、という点は異なる。
 そして、卑弥呼の時の3世紀前半には北九州と大和に勢力が併存したという点では、同じである。4世紀以降の大和王権の近畿圏外への勢力伸長は、基本的に武力行使かそれに準ずる軍事力を背景として行われたとみるのは当然であるが、津田説は、倭地ではそのような武力は考えていないようである。

この概要記事については、本HPの「上古史の流れの概観試論」で記述しており、拙著『「神武東征」の原像』『神功皇后と天日矛の伝承』や古代氏族シリーズの各冊などに詳しく記述してきた。


 このように、記紀の解釈について、記事に書かれた内容を、歴史の原態探索を目指して的確に把握すれば、津田博士のように、仲哀朝以前の記紀の記事を、わざわざ造作論・反映論でほぼ全面的に否定したうえで、不確かな想像論を展開しないでも、結論がほぼ同様な見方になる。読者は、どちらが合理的な接近法だとお考えになるだろうか。
 偶々、津田博士の概説的な見解が拙見とほぼ同様であったとしても、前者は殆ど想像論のうえで描かれた歴史像にすぎず、根拠のない勝手な想像論の展開は、基礎が想像だけに、その振れ幅が大きいだけ、却って危険であり、科学的な歴史研究にあっては問題が大きいものだ、と私には考えられる。
 高城修三氏が指摘するように、津田左右吉博士の見解が「憶説に満ちた古代史学説」にすぎない。これが、拙見による記紀吟味の結果としての見方である(ただ、津田博士の説では上記のような一定の歴史像が想像で築かれても、「津田亜流」の見方では、否定対象が多すぎて歴史像が構成できるとはとても思われないから、そうすると、津田亜流の見方は、どこかが津田博士の本意ではないということになろうか)。

 ほかにも、安本美典氏など津田学説批判の説はかなりありそうであり、いずれも批判論のほうが論理的に優れていると考える。その一方で、津田学説批判の基礎の上にある「古代歴史の流れ」に関する体系的な見方については、拙見では、これら津田批判説よりもむしろ津田学説のほうに近いことも、併せて言い添えておく(これは、あるいは三世紀前半の倭地の政治勢力分布に関して、高城説が九州に淵源を発する大和一元説を、安本氏が九州一元説をとり邪馬台国東遷を考えるに対し、「九州・大和並立説」を津田博士や拙見がとることに起因するのかもしれない。王金林氏の『古代の日本』でも、三世紀には北九州の邪馬台国と畿内の前大和国家が隆盛で、各自の地域で列島内で勢力が併存し、二つの異なる政治・経済の中心を形成したが、後者が四世紀末頃には九州などを降して統一したとみる。このように、四世紀代には倭地の並立状態が解消され、統一されたとする見方が重要だと思われる。
 このことは、崇神紀では大和王権の勢力が九州までは及ばず、景行朝になって九州まで及んだと記紀から読み取れるから、仲哀朝以前の記事を切り捨ててはならない
ところが、わが国の考古学者の多くが、簡単に記紀を否定ないし無視して、なぜか九州と大和との勢力並立説を無視する)。

 仲哀天皇朝以前の記事も、その原型・原態を的確に把握すれば、「物語ではなく歴史だ」として見ることができるという点で、拙見は、津田学説に大反対である。かつ、大和王権による国内平定や韓地遠征は、当然ながら武力活動が基本でなされたという立場でもある。
 しかも、仲哀朝以前に築かれた巨大古墳が大和にはかなりある以上、これら巨大古墳の被葬者について、津田学説により比定できるはずがない。同学説が、2世紀代頃から大和王権が存続したと認める以上、そこには王権を支える古代諸氏族の活動が当然あったはずで、その個別の氏族研究だって、記紀の記事を殆ど否定する津田学説ではできるはずがない(こんな基本的なことが分からずに、「無知、信念」を武器に向かってくる人へは、手の施しようがない)。
 津田博士が、考古学や暦法・紀年論、習俗・祭祀、更には東アジアのそれら関係分野に関して、殆ど無視したか知識が乏しかったという先学からの指摘があることを、津田亜流の研究者はよく認識されるのがよいと思われる。先にあげたが、土田健次郎早大教授が言うように、津田博士は、まさに「思想史の研究者」なのである。そして、津田亜流の研究者は、信念・信仰に基づいて、想像論を展開し、これが「科学的歴史観だ」と嘯く。
 仲哀朝以前の記紀記事の否定ということは、崇神・垂仁両天皇についてはその実在性を認めるような記事が津田博士の著書にあることから考えると、景行朝〜仲哀朝の記事(具体的には、倭建命遠征、景行天皇巡狩、神功皇后外征という内容が主か)に関する史実・原態について、博士なり津田亜流学究が的確に記事把握できなかったということを意味する。博士の持論にあっては、崇神・垂仁両天皇の記事は、津田学説で言う「物語」ではないのだろうか?「物語」という語の意味がどうにも曖昧だが、こうした矛盾するような博士の言動・主張は、私にはとても理解しがたいものである。

 津田博士は、応神朝に論語・千字文などが倭地に伝えられ皇子に教えられたとする記紀の記事を、「百済からの文字の伝来」だと受け取り、それ以前には倭地に文字がないので歴史などが記録されるはずがないとみた(すなわち、仲哀以前が「記録の無い時代」。この辺は、上田正昭・山尾幸久両氏、あるいは直木孝次郎氏の受取り方などにも見える。井上光貞氏も記録については同様の見解の模様)。これは、むしろ記紀の記事そのままに、経典など特定書籍の倭地到来にすぎないとみるべきである。
 漢朝の金印授与や邪馬台国の魏朝・帯方郡や韓地との通交の諸事情を考えれば、倭地の人々が応神朝まで文字関係技術を知らなかったとはまず言えるはずがない〔註〕
 原始的とは言え、部族国家を建てていて、租税を徴収するなど政治組織をもち、軍隊をもって狗奴国などと戦った国家において、文字関係技術がなかったとどうして言えるのだろうか。そもそも、邪馬台国を建てた種族は、その先祖が中国本土から朝鮮半島を経て倭地に渡来してきたのである。その時に、この種族がみな文盲だったと考える方がどうかしている。文字技術が支配階層の一部にでもあれば、その歴史や系譜も当然、記録の対象になるはずである(そのためには、下層や地方に普及することまでの必要がない。文字の普及と文字技術の伝来とは異なることに留意)。
 
〔註〕 文字(漢字)の伝来・使用については、『後漢書』倭伝や『魏志倭人伝』の記事よりも記紀の応神朝の記事(しかも、その拡張解釈)のほうを重視する学界のアンバランスぶりな思考には驚く。これまでの歴史学界は、『魏志倭人伝』など中国史書により記紀の記事を切り捨ててきたのではないのか。
後者の倭人伝には、魏朝との間で景初・正始年間に使者が度々往来したことが見え、そのうち正始元年(西暦240年)には、魏朝の帯方郡大守からの遣使が詔書・印綬を奉じて倭に行き、それに対して、倭では使に因って上表し(上表文を奉り)、詔恩(天子の恩典)に答え謝した、とまで具体的な動向が記される。これは、すべて倭地での出来事であるのだから、当時の倭人が漢字技術を用いて魏朝の遣使との間で意思疎通をしたことは明かである。これに関して、『魏志倭人伝』や大島正二氏の著『漢字伝来』(2006年刊)などをご参照。
現実に上古の文字使用の裏付けとなる弥生時代の硯は、出雲の田和山遺跡(松江市)や、筑前の三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)、中原遺跡・薬師ノ上遺跡(ともに同県朝倉郡筑前町)で出土した。最初に確認された田和山遺跡の硯(2001年出土)は権力者の威信財ともみられたが、硯の裏に「文字」の墨書きがあるとされ、2例目以降の筑前の二遺跡から出土の硯は、文字使用の点から注目される。
更には、柳田康雄教授が過去の出土品を検討して、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原遺跡での硯の製造が判明したと2019年に発表した。前者からは、工具とみられる石鋸(いしのこ)と硯未完成品の一部が出土し、後者からは大型硯・小型硯の未完成品をはじめ、石鋸、墨をするときに使う研石の未完成品があった。これらは弥生中期ないし後期のものと柳田氏はみる。世界でも「最古級」に近そうな、これら国産の板状硯が現実に存在するのだから、倭地、とくに北九州の広い範囲で文字文化の受容・普及がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。……以上は、西日本新聞等の報道に拠る。
 その後、吉野ヶ里遺跡からも弥生期とみられる硯と研石とみられる2点が出土した、と報道された(日経新聞2019.3.14付)。このほか、出雲の一例を除き、九州では既に40例以上の硯の出土があるという。柳田氏らの研究によると、奈良県でも、纒向遺跡で平成26年に出土した石製品をはじめ、唐古・鍵遺跡や布留三島遺跡(天理市)、新堂遺跡(橿原市)などから出土の計10例が硯(弥生期に限らないと思われるが)としてあげられる。そうすると、古墳時代のはじめから記録がなんらかの形で残された可能性が大きい。だから、記紀の記事の無闇な切捨ては問題が大きいということにもなる。

 上記のような誤った把握(今から7,80年前の当時としては、やむを得なかった面もあるかもしれないが)と予断・思込みから、仲哀朝以前の記紀の歴史が安易に否定・削除され、その後の文献学・考古学の多数派学説がこの見方を現在までほとんど踏襲してきたのである。仮に、文字伝来が四世紀後半の応神朝にあったとしても、その数世代前(百年弱ほどか)までの記憶はその伝来時に書き留められるはずであって、四世紀が「空白の世紀」になるはずがない。その場合には、「口承」などもされたのであろう。
 そして、総じて言うと、津田亜流の研究者は、戦後に発表された博士の論考「建国の事情と万世一系の思想」をあまりにも無視しすぎている。井上光貞博士も、中国史書で実在性が確認できる五世紀の「倭五王時代の直前までの天皇についてその実在性を確かめることは困難」だみて、応神天皇を実在性が確認できる最初の天皇だとした(『日本古代国家の研究』1965年刊など)。こういう見方、研究姿勢でよいのだろうかという問題である(そもそも、『記・紀』やそれより古い「帝紀」「旧辞」の編纂者が、その古代当時にそれほどの物語の構想・創造の能力があったものか。「造作論」「創作論」という考えの根底には、古代の「匿名の超能力者」がいそうである〔これは、まったくの無理な想定〕)。井上光貞氏は、記紀にはなんらかのモトとなるものがあったろうとみた。
 (なお、本雑考での津田学説の紹介・批判などは、上記であげてきた諸書・諸論考のほか、主に次の諸書に拠る。上田正昭氏の編『人と思想 津田左右吉』〔1974年刊〕や高城修三氏の諸著作論考など
)。

 ところが、継体天皇より前の「倭五王」時期についても、その諸天皇の実在性を疑ったり、否定する見解まであるとなると、もう何をか況んやという感じでもある。的確な疑問は、学問進歩の基でもあるが、「適切な程度の疑問」というものが必要だということである。
 考古学分野関係でも、内・外の遺跡発掘の目覚ましい進展など、最近までに様々な学問・技術の発達があるのだから、その辺を総合的に受け入れて、先進的な柔軟思考で上古の歴史を考えて行くのが本筋であろう。


 『古事記』はどのような歴史書か

 「記紀批判」に関連して、『古事記』は、そもそも「根本史料」なのだろうか、という疑問がある。

 同書は、序文が「後世の偽造」であり、同書自体も、中世になって突如、世に現れた歴史書であって、成立や編纂の経緯・事情がまったく不詳の書である。このことに十分、留意されるべきという問題意識がある。
 現代の歴史研究者が、本居宣長の呪縛にかかってはならないのである。これは、『古事記』が奈良時代の公的な官選書ではない律令国家の確立を踏まえた修史事業による歴史書ではない)、ということであり、この辺をしっかり認識する必要がある。かりに、推古朝における蘇我氏主体の修史事業の成果が『古事記』であったとしても、その推古朝当時のものがそのまま現存するはずがなく、その事後にいろいろな改編が加わっていることは、序文・本文の内容を見れば、明かである。

 この『古事記』序文の偽書問題の具体的な点について言えば、稗田阿禮の実在性や同書成立時期の問題、同書伝来の経緯などについて、大きな問題がある(本HPの「稗田阿禮の実在性と古事記序文」で書いたので、詳しくは、そちらをご参照)。問題の概略だけ、次ぎに書いておく。
 すなわち、稗田阿禮なる者は「猿女君」の出身ではなく、そもそもが実在性の極めて乏しい人物である(端的には架空の人物であり、当時の身分のある官人にあって、基礎となるカバネの表記がないのは極めて不審)。平安前期当時の畿内の主要氏族の系譜を掲載する『新撰姓氏録』には、「稗田」も「猿女君」も掲載がない。現在までに、稗田氏で氏人の実在性が確認できているのは、平城宮跡出土木簡のなかにたった一人「史生稗田友勝」という最下層の官人が見えるだけなのである。
 稗田阿禮と太安万侶とが関与したと記される『古事記』序は、その内容や表記法から言っても、明らかに後世の偽作である。文字の技術者たる「史部」の先祖が応神朝に韓地からやってきたら、少なくともその頃からの文字記録が残るはずなのに、そして欽明朝頃に「帝紀、旧辞」なるものが編纂されていたとしたら(この欽明朝という時期に関しても、具体的な行動者を言わない想像論に過ぎないが当時の蘇我氏が皇統譜創作の主導者ということはありえない。欽明朝における蘇我氏の政治的比重を考えても明白である)、どうして天武朝頃まで歴史書の口・頭での「誦習」が必要なのか。これ一つとっても、『古事記』序の記事はいい加減だと分るはずである(古事記真書説の立場からは、偽書説の問題点指摘は断片的だと言って、簡単に片付けるが、それが断片的であれ、疑惑を解消できない問題点があれば、論理的には真書になるはずがない。しかも、大きな疑義あるのが、同書の重要な成立経緯を示す記事なのである)。

 だから、『古事記』が何時、誰によって編纂され、どのように中世の鎌倉時代まで伝えられたのかはまったく分からない。平安前期に多朝臣人長によって編纂されたとの説もあるが、これについて具体的な裏付けはない。弘仁三年(812)に、参議ら十余人に対して『書紀』を講義したと六国史に見える多朝臣人長なら、「神代以来の故事・伝説を巧みに織り込んで」、記事を作ることができるという見方(まったくの想像論)のようだが、それは、多人長の能力の過大評価だとみられる。
 『古事記』の内容には、古代氏族の系譜もかなり詳細に織り込まれるが、例えば、天穂日命(出雲国造の同族)や神八井耳命(多臣の同族諸氏)などの後裔としての多くの諸氏の具体的列挙は、その個人能力から言って後世に創作して書きうるとは到底、思われない。その列挙される諸氏のなかには、『姓氏録』の記事とも異なるものがかなりある。しかも、内容的に、それが疑問だとは拙見には思われない貴重な記事も、『古事記』にはかなりある(遠江国造などの系譜)。
 神武東征の事件などの記事を比較しても、「速吸の門」の位置や「吉野河の河尻」など事件当時の地理状況の原態を良く伝え、『書紀』よりは古態を伝えるとみられるものがあるから、同書のなかには、新しい要素も含め、いろいろな要素が混淆して存在している。だから、『古事記』が「根本史料」というのは言い過ぎである。ただ、そうだとしても、序が疑問な『旧事本紀』と同様に、本文は、それぞれに重要な価値を持つ史料だと拙見では考えている(だからといって、記事内容が全て信頼できるものではないことにも留意される)。なお、神武東征に見える「河内潟湖」などの状況も、記紀の記事は、それぞれの編纂時の状態をよく伝えるものである。
 『古事記』の内容から見て、多氏という一氏族にとって有利な記事はまるでなく、むしろ大国主神など海神族系の伝承(いわゆる「出雲神話」)が同書に多く盛り込まれる事情があって、多人長という個人が仮に『古事記』の撰者なら、これはとても説明ができない(同書序文になんらかの関与をしたのなら、それはありうるかも知れないが)。蘇我氏に有利な記事(武内宿祢関係の系譜)もないではないが、これをもって蘇我氏が主体的に『古事記』を創作・改編したとは言い難い。
 『古事記』の成立経緯や編者・撰者については、現状では、不明のままであるとしか言いようがない(仮に、『古事記』が平安前期という時期の撰なのであれば、『古事記』批判のうえで、巨大古墳の被葬者の比定をせよという論調は、どのような意味なのだろうか、私にはまったく不審である)。
 『古事記』という書名が、十世紀前半の矢田部公望の『日本書紀』講書のなかであげられたと記事に見えたとしても、その具体的な内容が分からないから、それが現在の『古事記』と同じものだったかという裏付けもない。それより早い『弘仁私記』序において、『古事記』への言及があるが、この記事にも疑いがある(大和岩雄氏の『古事記成立考』)。

 なお、『古事記』も『書紀』も、そのなかに現れる姓氏・地名などの表記を見る限り、奈良時代中期以降にあっても、そこでの表記が改変されたことが、平城宮跡などから出土の木簡から知られ、その場合、他の内容も併せて改変されなかったという保証がない(例えば、記紀の「葛城」という表記は、八世紀当初頃までは「葛木」)。幸い、日本各地でこれまで多くの木簡出土があり、今後の歴史研究にあたっての動かぬ重要証人に木簡がなりうると思われる。
 『古事記』の内容には、かなり後になって記事に入れられたと疑われるものもあると指摘される。だから、奈良時代前期の和銅5年(712)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたという、『古事記』序文に見える成立由来の記事は、信頼してはならないのである。現在の時点まで、管見に入ったところで言うと、『古事記』序文偽書説をとる立場の研究者は、大和岩雄・三浦佑之両氏と拙見しかいなかった(三浦氏以外の国文学研究者における歴史感覚の乏しさを痛感する)。最近、関根淳氏が序文偽書説の立場だと表明される(『六国史以前』2020年刊)。この「古事記序文偽書」説を取らないで、「記紀批判」など、お笑い草というところでもある。太安万侶墓誌銘の出土は、偽書説問題とはまったく関係がないのに、どうしてこれが真書説の裏付けになるのだろうか。
  ※三浦佑之氏の偽書論は 「古事記「序」を疑う」をご参照。
     http://miuras-tiger.la.coocan.jp/jyo-wo-utagau.html

 津田博士は、どうして古事記の序文記事の批判を厳しくしなかったのだろうか。史料は、序でも本文でも、同様に適切な吟味が必要なのである。しかも、古事記序文は、同書成立に関する重要な由来(公の撰史事業だということ)を記している。これらのことを、他の津田説信奉者もしっかり認識すべきものと思われる。
 以上に見てきた『古事記』の世に出た経緯や編纂者・成立・伝来が不明の事情などから考えても、例えば、「古事記の神話・説話は皇統譜に起源を与えるために作られた」なんて見方(例えば、国文学者の西條勉氏)が、まったくの空想論にすぎないことが分る。国文学専攻でも、歴史学の研究をしようとするなら、裏付けのないいい加減な空想論であってはならないということである。『古事記』の成立や伝来が不明と言うことで、由来やわけの分からぬ「私撰」であれば、どういう意味をもつのか考えたことがあるのだろうか。繰り返すが、盲信は科学的研究とは無縁のものである。


 上古代の諸天皇の実在性

 私の古代史研究の原点の一つは、津田史学の基本を受け継いで戦後史学を代表した井上光貞氏の史学であった。その諸著作は戦後の学界を風靡した津田史学を踏まえて「大きな歴史の流れ」を叙述し、当時読んだ感覚でも説明はよくできていて、いまだにこれに優る日本古代史の通史ものは少ないのではないか(その所説に同意というわけでは、決してないのだが)と今でも高く評価している。その一方で、「非ユークリッド学」ならぬ「非津田・非井上歴史学」が描きうるのではないかとも当時、思われたところがある。
 その書で実在性を否定された(否定され気味の)人物について、当初は、拙見でもその井上見解を受け入れ、否定のままに考えていた。例えば、神武と闕史八代の諸天皇(大王)や、成務天皇、倭建命、神功皇后、武内宿祢などやその関係者など応神天皇より前の人物に関してである。ところが、彼らを勝手に切り捨ててはならないことが、古代氏族諸氏の系図類検討のなかから具体的に浮かび上がってきた。また、「記紀批判」という名の下に、額田大中彦や住吉仲皇子は「大王」だったはずだなんていう裏付けのない、いい加減な妄想は、いい加減止めてほしい(西條勉氏の発想は、根底から狂っており、もっと古代歴史学を学んでほしい)。津田史学の後継と自称する井上氏ですら認めた崇神・垂仁天皇の実在性や応神王統の諸天皇まで否定するのは、理屈がたたない(大和における王権の成立が2,3世紀にあって、その王者の名が漢字技術をもつ人々によって後世へ伝えられないと考えるとしたら、それはどういうことなのだろうか)。

 この辺の事情をもう少し丁寧に書いてみる。
 私は、日本の古代史の基礎的なところを昭和40年頃に刊行された井上光貞著『日本の歴史1 神話から歴史へ』などで学んだ。これは、津田史学を受けた東大教授で当時の古代史の大家の学説だったが、戦後の文献史学者の多くは、津田説を一部批判しながら、その文献批判の基本的な構図を受け入れたようで、一般に、六世紀の継体天皇以前ないし推古天皇より前の記紀の記述については、単独では証拠力に乏しいとみていた。
 井上博士の著作でも、基本的に応神天皇より前の歴史は後世の造作だとする「造作史観」で書かれていた。ところが、倭建命も神功皇后も、そして事績・実在性の乏しい天皇とされた成務天皇も、古代氏族諸氏の系譜・活動と照らし合わせると、これらは皆、切り捨てはいけない実在の世代として存在する。神武から崇神にいたる間のいわゆる「闕史八代」も同様である。
 邪馬台国東遷説
も、私は当初、これを受け入れ、それが「神武東征」にほぼ相当するかとも思っていた。ところが、古代氏族諸氏の系図を検討すると、神武と崇神の間に「4世代」分という期間が確実に入り(記紀の皇統系譜からは決して導かれないが、その時期、大和王権に従属していなかった出雲国造の系譜という例外を除き、他の大和諸豪族ではみな、両天皇の世代の中間に4世代が入る形となる)、それは生物学的に見て百年超の期間にあたるのだから、三世紀中葉頃の卑弥呼と崇神天皇治世の間に東遷が起こりえないと改めたものである。国というものの東遷が、記紀に見える神武の小部隊の活動に矮小化されることを、不思議に思わないのだろうか。
 だいたい、それが古代であっても、一つの国が簡単に遠隔地に移遷すると考えるほうがおかしい(どうして、大勢の著名な学究たちが邪馬台国東遷説をとるのか、誠に不思議である)。南九州の狗奴国でも、あるいは伊都国、投馬国でも、東遷したはずがないし、その具体的な必要性や東遷の論拠・裏付けに極めて乏しい。もう、いい加減な想像論は止めて、具体的な合理性をもって上古史を考えるべきである。だから、物部氏族や神武兄弟といった少数部族の畿内遷住しか現実になかったということであるし、記紀や『旧事本紀』天孫本紀の記事を的確に把握すれば、そうした把握しかできない。
 ※神武東征及び邪馬台国東遷説については本HPで、それぞれ論じているが、それらの頁をご参照。前者の否定は、神武の活動について、時間・場所を取り違えたという誤った把握の結果にすぎない。神武が現実に存在した場合、その後の諸天皇や纏向あたりを王都とした「崇神〜景行」の三代の天皇の存在を否定する論拠にも乏しいということになる。

 「闕史八代」の諸天皇について、系譜そのものが「一つの説話」だと津田博士は言うが、それが歴史ではない(ないし歴史の断片も含まない)という意味なら、この見解には、まったく反対である。当該八代の天皇は、実態が4世代のなかに皆がおさまり、殆ど傍系の相続の形で大王位を一族内で伝えていた(なかに一人、異姓姻族から入った天皇〔孝安天皇〕も考えられるが、ここでは詳しくは触れない)。だいたい、綏靖天皇の即位にあたっての異母兄・手研耳命討伐の記事も記紀にあって、この事件を見ても、当該八代が「闕史」とも言えない。「神武=崇神」でもありえない。時代も関係者も、それぞれに異なるからだ。両者それぞれに、大勢の部下関係者・敵対者がいたのだから、特定の少数者だけに焦点を当てて考える「英雄史観」で歴史事件や皇統譜などの系譜を把握するのは、歴史の思考方法として誤りである。

 次に、崇神天皇と応神天皇との間の世代では、井上博士などが言う成務天皇の実在性を否定したところ、古代豪族諸氏との世代対応が1世代分合わなくなるほか、『古事記』序文において重視して書かれる当該成務天皇の事績が宙に舞うことになり、「国造本紀」に見える各地の国造の設置年代が殆ど消えるという不都合が出た。現在に伝わる記紀では、成務天皇の皇后(本来は神功皇后)をはじめ、その関係者がみな本来の位置をかなりずらされてしまい、不合理な形の伝承になっているから、この辺りからも皇統系譜の原態改変があったことが十分、想定される。
 考え直してみると、津田史学及びその亜流の唱える上古諸天皇の実在性否定論の基礎となる記紀の見方は、総じて論理的に否定論になっていない。いくら「造作」「創作」だ、「後世の反映」(ないしは記事重複)だと学究が大勢で言い立てても、立証なしの予断、思込み(あるいは信念)にしかすぎない。
 記紀の記事を自分の狭い視野で捉えて、そうした理解・把握なら当該記事が否定されるということになるだけである(私だって、津田博士のような解釈なら、それらを否定する)。そもそも、その理解・把握が誤っているということでしかない。記紀の仲哀以前の記事を全否定しなければ、「史料批判」をしていないという批判は、明らかに誤りである。

 上田正昭氏の著に『大和朝廷』(もとは新書版で、その後に別の形で再刊)というのがあり、同書にもいろいろ教えられたが、そこに註で引用される論考に砂入恒夫氏の「崇神・垂仁王統譜の復元的考察」『歴史学研究』314号所収。1966年)がある。記紀の上代天皇関係の記事に対して丁寧な分析を基礎にする優れた論考であり、これで日葉酢媛などの重要性について改めて認識させてもらった。
 成務天皇の重要性(これは『古事記』序にも、成務天皇の事績をあげて、「境を定め邦を開きて、近淡海に制め」と書かれるが)などもあり、上古代天皇の否定は軽々にしないほうがよいと思われる。記紀の記事を否定してもとの原型はこうではないかと拙著作で説明しているのが多々あるし(例えば、神功皇后の本来の位置づけなど)、記紀などの様々な史料の記事などから推して、ほかに天皇(実権をもつ執政者)の歴代に入れるべき候補者として、神武天皇の長子の手研耳命、神功皇后(=日葉酢媛。ただし、息長足姫とは別人)、飯豊青尊(清寧天皇の皇后で、顕宗・仁賢の叔母)が考えられる。
 このほか、皇統関係では、崇神天皇の弟とされる彦坐王については、その子孫の祭祀・習俗傾向から考えて、系譜実態が海神族大物主命系の磯城県主一族の流れから出たとみるのが自然であり、彦坐王当人の系譜も、その子孫の系譜も含めてかなり疑問が多い。
 総じて言えば、記紀では、皇后や天皇生母を出した氏族は、本来の種族(氏族)系統から皇別に系譜を置き換えられるケース(皇統に祖系を架上させた系譜仮冒のケース)があり、それが、崇神〜応神の世代の皇統譜にかなり見受けられる(神武〜開化の時期では、磯城県主一族の出の后妃が多いが、この一族の出自が明らかで衰滅した故か、日下部連一族など以外は、皇統への統合は殆どなかった)。
 また、上古史上の個々人を5W1Hのなかで具体的に考えて、その先祖への遡上や子孫たちへの系譜の流れのなかで、とくに実在性を否定しなくてもよいものは、拙見では、一応合理的な存在として捉えて、その実在性を認めている。これまで、古代氏族シリーズとして合計17の諸氏族を取り上げ刊行してきたが、これら諸氏の多くの人々が、「祖先─子孫」の流れのなかで、相互に矛盾なく実在者として符合すれば、かつ、他氏族諸氏との関係でも符合すれば、それぞれにお互いがお互いに実在性を補強しあっていると考えている。この辺のチェックには、世代関係の考察が有効である。

 古代諸氏の系譜が、「大王権のもとで管理されていた」という空想論もいわれる向きもあるが、これは無益有害な議論である。それなら、なぜ古代諸氏の間でだけ世代数がお互いに符合しあって、皇統系譜とおおいに世代数などが異なるのかという問いかけには説明できない。そもそも、『書紀』允恭天皇4年9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓を失ったり、故意に高い地位の氏を名乗る者も出てきた事情を糺すため、飛鳥の甘樫丘(甘樫坐神社が鎮座)で盟神探湯を行ったと見える。平安前期の『姓氏録』を見ても、同族諸氏の間でも系譜伝承が様々に異なる例が多く見える(それが、実際に同族であったか、同族の系譜を仮冒したかの判別ができない場合もあるが)。

 最近の古代史研究者にあっては、皇統系譜や諸氏の氏族系譜が後世に簡単に創作しうるという思込み(信仰)からか、「擬制同族」(擬制的同族、同族擬制、同祖擬制)という語を頻用する方もいる(これが、「科学的歴史観」とか「科学的系図分析」だとでも思っているのだろうか)。
 拙見では、この語の意味がきわめて曖昧であるが故に、そして安易に使われるが故に、問題が大きいと考えている。実際に同族ではないのに「同族の系譜を称した」のなら、それはまさに「系譜仮冒」であり、敢えてわざわざ別の語を使うべきではない。そして、そうした「擬制同族」という語を、具体的な系譜の偽造関係(附合とか架上なども含む)の立証もせずに安易に使うのは、きわめて遺憾である。
 古代にあっても、「系譜偽造」は簡単ではなかったし(中世・近世でも系図偽造が多く見られるが、そうであっても、系図は簡単に作り得たとは言えない。かつ、割合容易に見破りうる)、その系図の是非、真偽は、氏の本宗からどのように分岐したか、その祭祀・トーテミズムはどうか、世代配分や命名・官位官職はどうかなど、幾つかのポイントを具体的に見ていけば、系図偽造は分る場合が多い。
 実際に同族であった場合にも、論者の感覚次第で「擬制同族」の語が恣意的に使われることもあり、古代氏族諸氏の関係の議論をいい加減で曖昧にするものでもある。系図関係の専門的な研究者として私が認めている太田亮、田中卓、佐伯有清などの諸先達はこんな曖昧な語を使わなかった。すこし調べたところでも、中世・近世史家の福尾猛市郎氏(広島大などの教授)や総じて抽象論が多い前之園亮一氏あたりが使い始めたくらいのようであり、あとは鈴木正信氏紀氏や「海部氏系図」について論考あり)がこの語を多用しているようで、考古学者の都出比呂志氏の著述にも見られる程度である。
 なお、中世の武士団、例えば肥前の松浦党、摂津の渡辺党、紀伊の湯浅党などが、地理的に近住し一緒に武力行動など党的な活動をすることで、通婚・養猶子縁組みなど様々な交際を重ねて同族的な親近感が生じる場合には、一種の「擬制同族」だとも言えそうだが、これは「党的結合」でよいのではなかろうか。古代でも中世でも、祖系の伝承を失って、系譜が偽造される場合もあったが、それでも丁寧に具体的総合的に検討を重ねれば、系譜偽造が殆ど分かってくるものだと私は実感している。


 地理・地域(Where)や移動経路の問題

 歴史人物の実在性に絡む要素について、もうすこし考えてみる。
 歴史の舞台・地域の問題(Where)も極めて重要であるが、あまりに長くなりそうなので、簡単に触れておく。すなわち、地名・地域は、その表記・範囲も含め、時代によりかなり変化するものがあるので、史書・系図等における地名の解読には十分な注意が必要である。
 例えば、記紀神話に出てくる「日向」や「出雲」などの地名比定をどのようにするのかの問題である。津田博士は、日向・出雲を奈良時代の地名そのままに把握するが、これが、原態を探るものになっていないのに、簡単にこの神話が造作だと否定する。『書紀』景行紀の記事を読めば、南九州日向国の「日向」は由来が新しいことが明らかであり、『古事記』と読み合わせると、「韓国」に向かう筑前沿岸部の日向峠あたり一帯が天降りの舞台となることが分るはずである。「出雲」も、山陰道の出雲は大国主神の活動地であったが、天降り神話の舞台のほうの「出雲」は、葦原中国と同義であって、稲・葦の生い茂る筑前沿岸部の那珂川一帯であった(国譲りや天降りの当事者も大己貴命が主体であり、この神は出雲の大国主神ではなかった)。こうした地名比定の考察も、予断抜きで丁寧に総合的にやってほしいものである(何よりも歴史の大きな流れを踏まえることが必要である)。神武東征の経路も、倭建命の蝦夷征伐の経路なども、それぞれ合理的に説明ができるが、ここでは少し触れる程度で、詳細はあげない。
 記紀編纂時の編纂者の認識にすぎないものを、統計的に計量したとして、国譲りの当事者たる大己貴命の居た地を、「山陰道の出雲」とする安本見解は、統計基礎データの精査不備であって、統計学的に誤りである(もちろん、歴史的に誤りなのだが、信奉者にはそれが分からない)。

 地理・地形は、河川の流れの変更、潟湖の変形、埋立・土砂堆積、地震などによる土地隆起・沈下など様々な事情で常に変わる可能性がある。古代の地形では、出雲や大阪湾などの変化がこれまで具体的に示されてきたが、八世紀前半の記紀編纂者が古い事件当時の地形を具体的に承知していたことは、まず考えられない。こうした観点から、神武東征経路で日下の津にまず上陸したという記事は、当時の地形実情に符合するから、後世の造作事ではありえないという指摘もなされる(古田武彦氏など、こうした論者が多いと思われる)。津田博士は、こうした地名・地理関係の問題意識すら見られない。

 瀬戸内海航路も、これが船舶航行ができるようになったのは、六世紀に大和朝廷が吉備に屯倉を開いてからだ、という指摘が長野正孝氏からある(『古代史の謎は「海路」で解ける』2015年刊)。この指摘通りなら、三世紀半ば頃の魏使はこの行路で畿内に到ることはできなかったろうし、現に白崎昭一郎氏など、畿内へは出雲経由の日本海航行で行路を考える研究者もいる(しかし、当時の出雲には北九州と異なる祭祀・文化をもつ政治圏であり、大穴持命〔大国主神〕後裔一族が繁居していたので、拙見では、ありえないことと考えるが)。
 たしかに、私が古代氏族の動きを追いかけたところでは、北九州から畿内あたりに入った上古代からの雄族の三輪氏族、鴨氏族、物部氏族、大伴氏族・紀伊国造族などの祖先たちは、みな日本海を陸路を見ながら進んで、いったん出雲に入り、そこから陸路を進んで畿内あたりに移遷したことが知られる。
 その三世紀半ば頃より神武東征が早ければ、これも瀬戸内海航行はどうかという問題がある。ただ、最も難関の場所は関門海峡とみられ、豊前宇佐あたりから先は適当な水先案内人がつけば条件次第で問題なしといえそうでもある。すなわち、洞海湾付近から宇佐あたりまでは陸路をとって、海洋航行技術をもつ海神族関係者が適切に案内をすれば(彦五瀬命・神武兄弟の母は海神族長一族の出であり、この姻戚関係者で航海専門家の東征参加も考え得る)、小規模の部隊なら吉備や畿内までの瀬戸内海の航行は可能となろう。現に「速吸の水門」(明石海峡)まで、海神族一族の珍彦(大和の倭国造の祖)が迎えに出ていた。
 倭建命東征でも、当時の武蔵海岸部の入海・湿地帯の分布から、東海道は相模の三浦半島から千葉県南部の上総に渡海していて、武蔵はもとは東海道の国ではなかった事情がある。弟橘姫の悲劇も、上総への渡海のなかで起きたことと記されるが、こうした地理・道路の事情も記紀編纂者はどの程度、把握していたのだろうか。『古事記』のモト本がいつ書かれたかは不明だが、遠隔地のこうした地理事情が想像の産物でできるものだろうか。
 現在時点で上古の地理・地形や地名などが知られない場合もあるが、現実の事件なら、こうしたWhereの問題が上古でも符合するようになっているはずである。この辺も、できる限り手を尽くして具体的に考えて行く必要がある。


 日本の上古の暦法や紀年の問題

 『書紀』紀年を編者が勝手に年代延長した(古い年代を造作した)と想像するから、年代把握が誤ったことになるわけで、この辺も、上古の諸天皇や人物の実在性論議に大きく関わってくる。
 これは、端的には、当時の暦法をどうみるかの問題であった。すなわち、上古の倭地では「二倍年暦・四倍年暦」が行われた時期もあっただけということである。だから、『書紀』編者が一定の思想観に基づき紀年を延長したとか、例えば3倍〜5倍かに恣意的に年数を延長して記事を古いものに見せるために上古代を遡らせた、といういい加減なものではない。
 どうして津田亜流の研究者は、ありえない妄想ばかりするのだろうか。「辛酉革命説」も「讖緯説」も、日本では平安朝ないし奈良時代以降に見られる中国起源の説から来た全くの妄想である。これらは、記紀編者が年代を後世に造作したとする見方から来ている。
 この記紀の長大な紀年の問題については、是非、貝田禎造氏の『古代天皇長寿の謎』をご覧いただきたい。『書紀』成立と暦法の問題については、大部な著作だが、友田吉之助氏の『日本書紀成立の研究 増補版』も同様にお薦めする。この二書は、古代の紀年論・暦法を研究するうえで必須の文献だと私は思っており、これまで強い影響をうけてきた(拙著の『「神武東征」の原像』では、こうした紀年論・暦法などについて概略、書いているが、これも併せてご覧ください)。

 2016年6月になって、当時の大阪市立大学教授の谷崎俊之氏が『記・紀』の紀年記事を分析して、「倭地の原始暦は四倍年暦」だったとする研究を『数学セミナー』第55号で発表された。このことを後になって知り、私は大きな衝撃を受けた。ちなみに、谷崎氏は、日本数学会のJMSJ論文賞(Journal of the Mathematical Society of Japanに掲載の卓越した論文を顕彰する賞)を受賞されており、多くの数学関係の著作がある数学の専門家である。既に貝田禎造氏は十数年前にご逝去されており、四倍年暦論者は私一人になったかと思っていたのだが、心強く感じたものである。
 春秋暦とか二倍年暦までは認める研究者も最近ではかなり見られるが、問題は仁徳朝以前の四倍年暦という把握である。これを的確に把握しないが故に、自然科学系の見地からの研究だと銘打っても、神武東征の時期をとんでもなく早い時期(例えば、西暦紀元元年前後とかそれ以前)にまで遡って考えてしまう見方もまだ見られる。この辺は、倭地の歴史の流れについてのバランス感覚が狂っているとしか言いようがない。
 ちなみに、貝田氏や拙見が採っているのは「二倍年暦、四倍年暦」であって、「春秋暦」ではないことに注意されたい(最近、竹田恒泰氏の著作に関する、とあるネット記事で、「貝田禎造氏や宝賀寿男氏らの研究(春秋年説)を引用する。しかし貝田禎造氏も宝賀寿男氏もいわゆるアマチュア愛好家であって、この春秋年説がいわゆる歴史学の専門家によって定説として認められた例を私は知らない」とあるのを見て、その無知なる批判ぶりに驚いた。わが国の「歴史学の専門家」なる方々は、総じて言えば、数学・統計学や暦法関係の知識が殆どないのだから、倍数年暦論の認否すらまともにできるとは思われないということである)。
     ※倭地の古暦の問題については、本HPの「倭地と韓地の原始暦」をご参照。

 『書紀』紀年の「二倍年暦・四倍年暦」論によって、中国南朝に関する史書『宋書』『梁書』などに見える「倭五王」の比定も、問題なく行うことができ(年代基点の調整など若干の対応が必要だが)、この倍数年暦論(X倍年暦)の正しさの裏付けになる。
  「倭五王」の比定については、『書紀』紀年を「X倍年暦」で適切に把握し、その年代基点等の適切な調整を行えば、五王比定に当たっての問題が殆どなくなり、むしろ『書紀』紀年はよく原態を伝えており、それを把握する貴重な史料であったと評価できる。倭五王について、中国史書に表記される名前から、現実の天皇(大王)を比定する手法は、当時の実名が必ずしも伝わっていない事情から言って極めて無理があり、『古事記』などから考えられる旧・帝紀において、天皇的存在として記載されない皇子たち(額田大中彦皇子とか住吉仲皇子)まで倭五王の比定候補に取り上げる妄説まで出てくることに唖然とする。これが、いわゆる歴史・国文の学究とされる方の発想なのである。これでは、アマチュア以下の学問水準としてしか評価できない。
     この「倭五王」の紀年の把握に関しては「5〜6世紀の書紀紀年の西暦換算表」をご参照のこと。
          
 すなわち、「讃=仁徳、済=允恭、武=雄略」は全くその通りの形になり、残りの2王は政治情勢などの判断にも拠るが、「珍は履中」で、「興は木梨軽太子」とするのが妥当かとみられるのである。この各々の説は先人が出しているし、拙見でも妥当だと思われる。その理由は、珍の遣使により高位の平西将軍を授与された「倭隋」が後の反正天皇にあたるとすると収まりがよい(反正は仁徳天皇の皇后矢田皇女が生んだ嫡出子で、履中の後継と目されていて、それ故、履中同母弟の住吉仲皇子の反乱も起きた)。「世子」としてしか『宋書』に記されない倭興を、即位した天皇に比定することはない(安康天皇〔穴穂皇子〕は兄の木梨軽皇太子を追放して天皇位についたのだから、「世子」になっていないし、宋に遣使する時間的余裕もなかったはず)。倍数年暦論は、このような貴重な示唆まで与えてくれる。
 ただ、注意すべきは、『宋書』『梁書』などを含め、中国史書の記事には誤りが無いという信仰も、一部研究者に見られることであり、普通の文献と同様な十分の史料吟味が必要であることに留意される。『宋書』と『梁書』とでも、すべてが合致しているわけではない。ましてや、当時の倭には、「王統が二系列あった」とか「継体以前の王統が定まっていなかった」などなんて、あまりに想像論すぎる。「記紀批判」の名のもとで、いい加減な想像論を展開するのが歴史研究ではあるまい(朝鮮半島などを含む東アジアにあっても、四世紀までの新羅三王家の特殊例以外はそうした例は見られない)。

 紀年論や暦法・統計論の知識の乏しい津田博士は、画期となる応神朝を「四世紀後半」と捉えたが、これは好太王碑文の記事をふまえてのものだったか。実際には、それより若干遅い好太王と殆ど同じ時期の四世紀末〜五世紀初頭頃が応神天皇の治世であって(拙考では、具体的には西暦390〜413年が応神の治世期間だと推定)、その見方とはすこしだがズレがある。崇神天皇治世や出雲降伏時期についても、博士の見方は、拙考より若干早い(その算出根拠は不明であり、私には博士のカンで推定したとしか思えない)。こうした時期のズレ(1/3世紀ないし半世紀)は小さそうに見えるかもしれないが、これにより津田説では神功皇后の韓地遠征という治績を抹消し、その存在すら抹消してしまったのである。
 おそらく紀年や暦法の具体的な感覚がないせいか、津田博士は朝鮮半島の『三国史記』さえも歴史検討の対象と殆どせず(日本の記紀同様に記事を切り捨てた)、文献検討といってもその範囲が狭かった。
 ちなみに、津田博士の指導を受けた韓国の李丙Z氏は、その方法論を受け継いで研究をし、戦後に文教部長官、学術院院長を歴任して韓国の歴史学を主導したが、「日帝殖民史学」の頂点にいるとの非難も受けている。すなわち、津田博士が、三国史記の初期記録不信論初期記録が造作されたという見方か)などの「殖民史学理論」を作り出した人物だというわけである。拙見では、韓国では総じて民族主義史観にやや偏りがあって、李丙Z氏の著作『韓国古代史』(上・下二冊。金思Y訳が1979年に刊行)を優れた歴史書と拙見ではみているが、それでも、韓地三国の初期段階の紀年の見方とその記事の否定という判断については、拙見は大きな疑問をもっている(拙著『神功皇后と天日矛の伝承』をご参照)。この辺には、津田博士らの韓地における原始暦の把握に関し、大きな問題があったということでもある。

 推計式による上古天皇の年代推定についても簡単に触れておく。
 井上光貞氏など古い研究者たちは、天皇一代(一世代)の年数を20年とかあるいは30年とかおいて、治世年代がほぼ確実な応神天皇あたりから世代による年代遡上の試算をした。ところが、安本美典氏は、「天皇一人の治世期間を10年余」と計算して年代遡上をさせている。
 「世代」の場合は生物学的にほぼ安定しているが、「天皇一人」だとその在位期間もたいへん幅があるわけで、しかもその推定計算の基礎には、重祚した二人の女帝とか短期で退任させられた天皇とか、更には明治になって天皇扱いとなった弘文天皇もおり、これら基礎データ内容・性格の異なるものを、精査もしないで含めて、一緒に計算するのだから、これが統計専門家を自認する人の行動なのかと疑わしくなる(要は、歴史知識が乏しいことに因る結果か)。しかも、平安中期の村上天皇より後の時期では、摂関家・上皇など政治実権者の意向で、早期退位が多くなったり幼帝の冊立があったりという天皇の地位が不安定な状態もあって、上古代の天皇とは政治情勢をまったく異にする。
 真面目な歴史研究者の久保田穰氏(本業が弁護士)などは、上古天皇の在位平均はむしろ13年ほどのほうがよいのではないかとみたが、これはこれで、数値としては一つの見識であり、まだマシかもしれないが(概ね数値的には妥当なのかも知れない面もある)。

 拙見では、@世代数とAその世代の天皇即位者数、とを2つの要素として、二元一次の推計式を算出してみたが、いろいろ試算をやってみて、1986年に『古代氏族系譜集成』を出した時には、「Ti=172.0+13.0Gi+7.8ΣNi 」(Giは世代数、Ni は即位者数)となり、要は、172は神武即位の西暦年、13.0は1世代の治世期間の基礎年数で、Nにかかる7.8は天皇一人増加につき加算する治世年数(従って、1世代に1天皇なら、その治世年数は約22年となる)、ということになる。
 その後、成務天皇の存在を認め、世代関係を入れ直して何通りか計算し、2006年に『「神武東征」の原像』を刊行したときは、結論として、 「Ti=174.7+13.0Gi+7.8ΣNi 」に微修正した。
 その後、PCの普及と共にExcel で多元一次の推計式の計算が自分の手でできるようになってから、何度か自分でもPCを使って推計式を計算し直したが(推計の基礎となる期間は、古代天皇としての同質性のある平安中期頃まで)、結局、神武即位年は概ね西暦175年で良いと判断し、その後も同じ数値で推計式を使って、現在に至っている。
 ちなみに、貝田禎造氏による『古代天皇長寿の謎』の「二倍年暦・四倍年暦」論の計算でも、これを踏まえると、神武即位年は175年となる事情もあり、この数字符合は心強い。

 とくに「崩年干支」について
 『古事記』の「崩年干支」については、上古の時代は干支を単純にそのまま換算して「崇神崩御年を318年(あるいは258年)」とするようなことは、疑問がきわめて大きい。科学的な学問の思考方法としては、大きな誤りである記紀の記事を否定して、崩年干支の記事だけ信頼するというのは、極めてアンバランスな思考だと思われる。崩年干支の記事の取扱いさえ、『古事記』の系統書によってマチマチな事情もあって、いわゆる真福寺本にしか崩年干支の記載がなされない)。

 崇神崩年の干支の「戊寅年= 318年」説は、 邪馬台国畿内説で有名な小林行雄氏をはじめ、多くの考古学者や古代史研究家が長年にわたり採用してきた、いわば「定説」に近い西暦換算であった。しかし、これが正しいというのは信念か信仰にすぎず(誰も正しいことの証明を具体的にしていないし、それができるはずgない)、科学的な歴史探究にはまったくそぐわない。
 ただ、なんらかの倍数年暦を考慮に入れて計算すれば、将来的に崩年干支から適切な数字がでてくるのかも知れず、この辺はいまだに良く分からない(全くの試算だが、崇神崩年が「318+60/4=333」とか、成務崩年が「355+15=370」とかいう可能性もあるのだろうか?)。
 ともあれ、『古事記』の「崩年干支」そのままの西暦換算は、記紀で具体的な年代値がほぼ一致してくる六世紀中葉以降を除くと、却って有害な年代数値になるとも考えられる。先にも記したように、『古事記』の記事の盲信はいけないということである。

 また、『書紀』の「太歳干支」に関しても、まだ解明はできないが有益な使用法があるのではないかとみられ、これでは応神即位年は西暦390年を示すが、応神即位についてこの年次を採る説も現在、かなり見られる。拙見でも、これを採用すると、好太王碑文の記事とも良く符合すると考えており、多種多様で総合的な検討から見て、これが現実的な数値だと評価している。ただし、好太王碑文の紀年は、当時の高句麗で行われた「センギョク暦」で解釈する必要があるのに、単純に現在の干支に換算する(この場合に1年のズレが生じる)という研究者が多く、これは遺憾だと思われる。


   次頁に続く