古樹紀之房間

   古代史と系譜・系図の研究の原点に関する雑考

                                 宝賀 寿男



  系図研究、ひいては古代史研究の原点的なものについてなんらかの整理をとの考えから、書籍・ネットなどをいろいろ当たっていたところ、津田左右吉博士の学説紹介、その批判、また「津田亜流」の思考体系をもつ方の記事など、様々な諸情報に巡り逢い、それらから幾つかの教示・示唆、啓発を得たので、ここに拙見雑考の試論的なものを掲上する次第です。各種の歴史研究の「原点」の1つに関する叩き台のようなもので、日本の上古史は探求できないのかという問題意識をもっています。
 本考は、系譜・系図に問題を限定せず、「記紀批判」など古代史など歴史研究一般に及ぶものがあって、「日本古代史一般」の部及び「系譜関係」の部の両方のトップに置きました。

 ※本稿作成にはかなりの時間がかかり、執筆者なりに様々な思考を重ね、また多くの方々のご協力・ご意見・ご助言も得て作成したものですが、表現が練られていない内容・表現の記事や説明不足的なものも、まだ種々あるかと思われます。その辺は、筆者の本意のほうをご理解いただくとして、ご寛恕いただき、この掲上後にあっても、徐々にでも補正をしていきたいと考えています。



 はじめに

 (1) 丸山浩一もと家研協会長の思い


 私が関与する家研協(家系研究協議会が今年(2020年)で創立40周年を迎えるにあたり、運営者の一人として所感の挨拶を出すことになり、これを契機に標記の件についていろいろ考えることになった。数日考えて、結局とりまとめたのは、次のような趣旨である(『』内の記事。ここでは、実際に挨拶として使用された文章について、その意味を補いつつ、敷衍、整理して分かりやすく記するものです)。

 当会(家研協)の設立以来、このような長い歳月を運営できてきたことは、多くの関係者の皆様の多大なるご支援・ご協力に支えられたものとして、深く感謝申し上げます。
 純粋に民間の団体が、趣味的な要素を基礎にして長く活動を続けるのは、なかなか大変なことです。当会の運営においてもこの間、実際に多くの波乱がありましたが、関西地区を中心に組織の再建がなされてから以降は、割合、現在まで順調に進んできたと思われます。それも、何代か替わった事務局長を中心とする執行役員体制による尽力の賜物だとも思われ、それらも含めて、関与された多くの関係者の方々に対し深謝する次第です。

 家系・系譜の研究は、先祖・先人の足跡をたどり、その活動を実地にあたり具体的多角的に調べて、上古から続く歴史の実像(原像、古態、原態)を、個々人や家族・同族という小単位から歴史や文化・技術などの大きな流れへと、総合的なものに再構成する役割を果たすものだと思われます。血の通った生身の人間(一個の生物体)たちの行動や事件の集積が歴史となり、こうした歴史を構成する基礎としての「具体的な人間関係」の把握が重要です。従って、系譜・系図の研究は、広い意味で歴史研究の重要な一分野であります。その研究のなかでは、他の関係する諸史料・諸分野との的確な連携や相互チェックを経て「歴史の原態」を総合的に的確に把握することが必要ですが、それにより、人間や社会に対する多大なる興味・関心がまた湧いたり拡がったりすることもあります。それが、更に家系・氏族や歴史についての研究の進展にもつながものにもなります。そこに、歴史研究の楽しみがあると思われます。

 当会の設立者の一人で初代会長をつとめられた丸山浩一先生※1が、会誌『家系研究』の第1号、これは1981年2月に刊行されましたが、ここに「家系研究序説」を巻頭に掲載しております。その言われる趣旨のまとめとして、次のように締めくくっています。
「家系研究の対象領域の多面性に思いを寄せ、全国の姓氏家系研究機関及び一般研究者との提携と連帯によって個々の家系溯源に努力し、地域・同族の系図収集と考証をはじめ、埋もれた庶民家系の正史への反映に努力する方向がこれからの大道と信じるものである」

 このなかで言われる、世に「埋もれた家系」や誤解され無視されてきた家系などの研究から、ここで分かった史実を「正史へ反映」するまでを目指してつとめていくのが、たいへん重要であります。そのことは、現在までに伝わる家系所伝や記紀など各種の史書・史料をそのまま盲信することでは決してないし(所伝であれ、文書であれ、権威のありそうな研究者の学説であれ、信心・信仰は厳に慎むべきこと。学究の肩書きで、系図研究はできない)、自己や家族関係者の家系を飾ったり、誇ることにつながらないのは言うまでもありません。また、粗雑杜撰な論証や安易な思込みで、貴重な史資料を無闇やたらに切り捨ててもならないことです。日本列島にはまだまだ埋もれている史料もありそうであり、失われたり行方不明となった史料も多種多様にあるので、これら多くの史料の発掘に努め、系譜研究と関連諸分野の整合性のある具体的な研究を通じて、古くからの歴史について、実態としての史実・原像を様々な角度から多くの力・史資料を集合しで総合的に追い求める必要があるということです※2
 記念すべき40周年を迎え、私たちも、この初心をしっかり保持・認識して、更に前向きにつとめていきたいと思われるところです。  
 (ここには、一人の力で全てをやるのではなく〔実際に、一人の力では研究内容に限界が多くあるから〕、大勢の労力・叡智をうまく集めて、前向きに問題解決に当たりたい、という気持ちを込めています。現存の系図や各種史料には疑問な内容のものも多くあるが、全てを否定して安易に史料切捨てをするのではなく、衆知を集めて探しうる史資料を極力多く集め、それでもなお乏しい史料類のなかから価値あるものを的確に見いだし、これを有機的に総合的に有効活用して行きたい、という気持ちが強くあるということです。ただ、そうした努力のもとでも、史料の乏しさや内容の制約から、歴史的事件も系図も、史実の把握・解明まではいかないものがあり、できるだけ原態・原像に近づけるように更につとめることが重要だと思われます。この辺は、中世・近世の系図でも、古代の系譜・系図でも、同じような面があります

〔註〕
※1 丸山浩一氏については、一般の歴史研究者にはあまり知られないのであろうが、『系図文献資料総覧』(1979年刊。増補改訂版が1992年に刊行)や『家系のしらべ方』『姓氏苗字事典』などの著作があり、前者の『総覧』は当時の家研協の会員も協力して作られた、たいへんな労力の結晶であって、まさに系図関係史料の総覧の大著であり、研究者は手元に置きたい書である。 

※2
高城修三氏の記事でも、やるべきことは、「記・紀やその他の古文献を綿密に比較検討し、本来の伝承がどのようなものであったかを出来る限り復元して、その虚実を確かな史料で検証することでなければならない。」、と記しており(『諸君』2002年5月臨増号に掲載された記事の初稿版のネット記事「奪われた古代史」に拠る。以下同じ)、ここに拙見と同旨を言われる。単一の文献、史料だけを基に論じると、往々にして評価・判断を誤りやすいものでもある。 

 上記が挨拶文の主旨であるが、その執筆の後も、「系譜・系図の研究」の原点に関連して付随的にいろいろ考えることもあり、その辺を「雑考」として、ここに記載する(そのため、やや随意に話が流れますが、その辺はご宥恕のほどを)。本当は、「歴史研究」の原点やその楽しみという大きい問題意識もないではないのだが、そこまで言うと、話しがまた大きくなりすぎてここにまとめきれないおそれもあり、「原点」の一つかと考えて、とりあえずは標記のような題にした次第でもある。必要に応じて適宜、上古史関係にまで触れるが、研究の要点はやはり上記のことに尽きると思われる。
 だから、よく知っておられる方々には、言わずもがなの内容も多々ある雑考であり、しかも、やや順不同気味ですが、ご関心があれば、次の文以下もお読み下さい。


 (2) なぜ系譜研究に取り組むことになったか

 私が古代史研究に取り組み始めたのが、昭和43年(1968)秋の「東大紛争」のときだから、もう既に五十余年の長い歳月が経過している。もちろん、その間、本職としての仕事もいろいろあったから、この関係の研究に取り組んだ時間はその何十分の一とかもっと少ないのだが、逆に、ほかに本職をもったおかげで、普通なら行けないような僻遠の地や諸遺跡なども行く機会があり、詳しい現地事情も実際に見聞することができた。行動が制約されていたことの多い当時の中国に勤務したとき(1976〜78年)でも、秦始皇陵とか殷墟発掘現場、山西省大同市の雲崗石窟などにまで、足を伸ばす機会も得て、これらを実地に見ることもできた(その当時の認識・知識が当該見聞の基にあるから、どこまで的確に把握できたかは、疑問な面も勿論あるが)。

 次の話は私個人のまったくの余談で恐縮なのだが書いておくと、勤務のため1年間研修を受けて中国語を多少学び、中国現地に2年間住んだことで、今でも中国語のネット情報を概略読むことができるし、甲骨文研究の大家とされる欧陽可亮先生にも中国語の授業を通じて知り合えた事情もある(甲骨文研究を欧陽先生から教わったわけではないが、甲骨文で書かれた掛け軸をいただき、その方面への関心など、いまも常に学問的な刺激を受けている)。日本の古代・中世史とは関係がないが、仕事で太平洋孤島の硫黄島や南鳥島(日本最東端)という現代史の舞台へも行き、国内各地はいろいろと足を伸ばした。
 また、経済企画庁や大蔵省で、毎年度の「政府経済見通し」の策定作業に合計で三年間も関わり、数学・統計学の基本的な知識とその実践運用を身を以て行った(うち、二年間は計数関係の実質的な総括的位置にあった。この関係の本〔宮島壮太編『経済見通し』〕を出す際の記事取りまとめの責任者という仕事もした)という経験もできた。PCも、Windows3.1の時代からひととおり触れてきており、Excelを用いて、数元一次方程式の試算も自力で何度も行ってきて、古代天皇の治世・活動年代の推計などに、この辺の知識は活用することができた。

 話しを戻して、大学時の1968年秋から翌年1月末までの期間は、いわば「実質休学」の時間であったから、その間、暇つぶしもあって古代史の研究に没頭したものである(ただ、その研究の具体的な契機はあったから、無目的ということではなく、それなりに熱意が持続した)。日本列島の歴史の始まりの弥生時代頃から継体・欽明天皇登場の頃までの期間を主に対象にして研究し、まだ歴史知識の乏しいなかではあったが、多くの先学の諸著作・研究を貪るように読んで教示され、多種多様な示唆・刺激を受けた。自分なりに多くの文章を書き綴り、思考を広く様々に巡らしてみた。その前の各種受験の時期とは別の意味で異なり、私なりになかなか充実した時期だったと思われる。
 そのときに感じたのは、「古代史研究は従来のようなやり方で良いのだろうか」という強い疑問である。端的に言えば、戦後の古代史学をおおってきた津田左右吉博士の亜流・後継者的な研究者たち(本稿では、総称して「津田亜流」と表示するが、彼らの見解が津田博士の本意かどうかは、不明なところもある)がとる思考・論法では問題があり、上古代の歴史が安易に切り捨てられる危惧が大きい(これは、津田博士の戦後の著作内容などを見ても、必ずしも博士の本意ではないと思われるのだが。この辺については、後ろのいわゆる「史料批判」の項で更に記述する)、と感じた。これでは、その時期の史実原型を探ることは不可能ではないか、ということである。

 歴史の基本である「多くの生身の人間たちとそれらが織りなす事件」、そしてその個々の事件の集積としての歴史の大きな流れ、大きな歴史像が、的確に合理的に把握できないおそれが強いと感じた次第である。「仲哀天皇以前の記紀の記事はみな物語・お話し」だと片付ければ、それでよいわけではない。仮に津田学説を採っても、少なくとも二世紀以降には大和の王権(原始国家)の歴史があるのだから、この中味を具体的に探索するのが歴史家のつとめであろう。例えば、津田博士が「物語」だと言うなかに出てくる「崇神天皇、垂仁天皇」は、いったい歴史上の実在した人物か否か、実在したのならその活動はどうだったのか、という問題である。
 津田亜流の研究者たちは、いったい、なんのために日本列島の歴史研究をしているのだろうかという大きな疑問でもある。「血の通った生き物である人間たち」という歴史の研究対象が十分に考慮されず、史料や事件がいとも簡単に切り捨てられてよいものだろうか。歴史研究は客観的、合理的に考えるべきだという思考方法の基本はまったく正しくとも、その研究への現実の運用では間違っている点が多くあるのではないか、ということでもある。とくに、「津田博士による厳密な記紀批判」という彼らが使う常套的な表現には、その検討過程、論理展開や結論に関して、いつもおかしなものを感じていた。
 その実際の運用・結論を見る限り、その論理思考法は総じて視野が狭窄であり、検討する史資料の範囲も狭く、字面そのままに素朴すぎる受けとめ方その結果、とくに地名比定・年代比定を誤って把握)をして、記紀など史書の記事を考察する。こんなことは、非科学的で生身の人間の行動ではありえないから、後世の編纂者による「造作」(創作、作為)であるとか、後世や海外に似通った事件・人物があるから、それらの「反映」(ないし誇張)であるとか言う。これが、津田亜流で常用された史実否定論法の問題であるが、なんら立証がない決めつけか信念である。歴史研究は信仰や哲学であってはならない。

 その論理のあまりの粗雑さに、この研究者・論者たちは、論理学を知らないのではないか、物事を具体的に実証的に考察していないのではないか、と痛感した。なによりも、検討される記紀記事の内容が的確に捉えられておらず(事件発生当時の原態の意味が把握されていないということ)、自らの記事把握の悪さを史料のせいにして、史料を切り捨てている。そして、そうした基礎のうえで、裏付けの乏しい想像論・観念論を自由奔放に展開する傾向も見られる。
 逆に言えば、どのように大きな歴史的事件でも、(それが虚構ではない限り)、それぞれの基礎には、現実の生身の個々人たちが多くいるのだから、報道の6条件5W1H)を踏まえて、個々的なところから具体的にしっかりと積み上げていき、関係する歴史像を体系的に再構成していかねばならないと思われた。それが、どのように面倒で時間が掛かるものであっても、そうしなければ、現実に生起してきた歴史の原態・原像が的確に把握できないのではないかということである。
 歴史的な事件は、一人で起こすことができず大勢が関与してなされる以上、それに関与した多くの人々の具体的な人間関係の把握が必要である(だから、神武天皇や倭建命だけを取り上げ、これに焦点をあてて批判・検討するような、いわゆる「英雄史観」は歴史検討にあっては明らかに誤りであり、関与者も含めて大勢の人々の動きや各々の祖先・子孫を、総合的に考える必要がある。後ろでも触れるが、上古の皇統譜を考える場合にも、英雄史観で物事を考え、簡単に大王たちやその系譜を古代人が創作できるとする思考方法には、ただ驚くしかない。系譜・系図を甘く見てはいけないということでもある)。それを表した重要な史料の一つが系図・系譜だと思った。そして、この貴重な史料を、これまでの歴史研究者が有効に活用してこなかったのではないか、と痛切に感じたものである。

 ご承知のように、系図には偽系図や誤った記事(故意に誤った形で記したものも、長年伝わるなかで事実が転訛して誤った形となったものもあり、様々な形態の誤りがあることに留意)が多い傾向にあり、史料として系図類を忌み嫌う研究者も大勢いる。現実に、「私は系図が嫌いだ」と公言する歴史研究者もおられたが、個別の文書や史書だって、同様に意識的であれそうでないものであれ、誤った内容のものや偽造とされるものが、実際には少なくない(実際にその必要があれば、文書でも系図でも同様に偽造されるということである)。要は、歴史の原型・原態の探求のためには、系図類を含めて、すべての偽文書・偽史書や誤った史料記事との弛みのない十分な戦いが、歴史研究には必要なことに変わりがない。
 確かに、総じて言えば、歴史関係の文書類のなかで相対的に史料価値が劣るのが系図類ではあるが、すべてが無価値なわけでは決してない。そこには、貴重な人間関係やその事績・活動が具体的に書かれているのだから、有効有益な部分があれば、これを的確に摘出して、総合的に合理的に歴史像を再構成していくことが妥当なのである。系図類を頭から無視するのは、むしろ歴史そのものの否定につながるとさえ言えよう。とくに史料がきわめて乏しい上古代の研究にあって、丁寧のうえに更に丁寧を重ねて、有益な史料(その史料断片でも)を探索する必要がある。だから、簡単かつ安易に史料的なものを切り捨てる思考形態であってはならないと痛感する。

 こうした思考が大きな契機となって、私は、古代・中世関係の系図の収集に励みだした(ただし、個人的限界が様々に多くあるので、当初からしばらくは藤原氏・清和源氏関係はかなり対象外とせざるを得なかった)。その結果が、1986年に刊行された『古代氏族系図集成』全三巻である。ただ、当時、なし得る限り精一杯の努力を重ねたものの、その後に分かった新資料などとの照合により、多くは微細なものながら多様な誤りも、編者として若干、気づいてきており、その辺にはご寛恕のうえ、適宜、内容を検証されて発展・補正されることをお願いいたしたい。
 この『集成』編纂に至る当時、東京圏はもちろん、留意すべき系図史料に気づいたときは、全国各地、どこにでも可能な限り自分自身の目と手で行ったし、手紙などで関係者にお願いして資料を入手させていただいたのも多い(先学・関係者には深謝します)。この収集・検討の作業を始めて十年ほど経ったときに、国会図書館で『鈴木真年伝』という分厚い本に巡り会った(同書を後に大空社から再刊するときには、依頼されて、私が注釈・解説をつけた)。これを手掛かりに、真年の様々な著作・史料を多く所蔵する静嘉堂文庫や東大史料編纂所などには、随分足繁く通って閲覧・筆写させていただいた。目黒区駒場の尊経閣文庫、町田市の無窮会神習文庫や愛知県西尾市の岩瀬文庫、そして秋田市の佐竹家文書、米沢市の上杉文書等々まで足を伸ばしてきた。
 この上記書『真年伝』は、戦前の昭和18年(1943)に真年末子の鈴木防人氏が父を偲んで関係史料を集め、刊行したものである。真年が明治前期頃に精力的に収集した史料はきわめて多いが、没後にそれらが殆ど散失したものの、それでもまだ保存されていたものも幾分かはあった。真年と同好の士、平田鐵胤同門の国学者で、法曹人であった中田憲信の残した史料類も、同様に重要である。幕末から社会体制が大きく変わる動乱の明治前期において、よこぞ多くの史資料を、この両人が集めて残してくれたものだと思わざるを得ない(ただ、現在までに失われた真年・憲信関係史料はまだかなり多くあり、その全容は把握できていないし、私の系図研究は、この両人や太田亮博士だけの研究に依拠するわけではない。これら研究者にも、時代や史料収集範囲などに基づく多くの誤りがあるし、彼らが把握できなかった多くの史料類もまだ各地にあるからで、この辺は言わずもがなのことであるが)。 →鈴木真年の系図収集先 をご参照。


 研究対象としての系図や史料とは何か

 太田亮博士が昭和11年(1936)に編纂し終えた『姓氏家系大辞典』は、現在でも系譜研究の最高水準にあるが、残念なことに、記事には多くの誤記・誤解があるほか、鈴木真年・中田憲信関係の史資料類は殆ど記載がないなど掲載史料にはかなりの限界がある(大辞典で言及があるのは真年の『新田族譜』くらいか。その点で、真年・憲信関係の史料の意味が大きい)。
 すなわち、太田博士が活動・居住した地域からの制約か、現在、東大史料編纂所や国会図書館・宮内庁書陵部、そして上記各文庫などが所蔵している史資料なども、この大辞典にはあまり記載がないから、いま分かっている限りで系図類を集めて比較照合していくと、別の形が見えてくるものもある。それでも、地方史関係も含めて多くの史資料にあたって記事を書き上げた丁寧な編纂ぶりと系譜仮冒などの適切な系図上の問題指摘はたいへん重要であり、この大辞典の役割をいまなお痛切に感じる(なお、太田博士には『家系系図の入門』という著作もあるが、「入門書」にすぎず、これもまだ十分な系図研究の手引きにはなっていない)。
 私が現在、会長をつとめる日本家系図学会でも、かつて再組織化するときに、『姓氏家系大辞典』を評価するが故に、その追補修正、拡大的な再刊を是非とも心がけたいとの志をもった発起人の言葉も聴いたことがある。すなわち、系図学、系図研究はまだ成熟した学問分野にはなっていないし、「最高水準」と言ってもまだ目指すべきものが種々ある、ということなのであろうし、当該大辞典の補充・補正などが系図学の研究水準の向上のためにも望まれるということでもある。
 そうした事情があるから、いわゆる学究たちには軽く見られている面も、系図関係にはあるが、やはり基本的な知識・技術が必要だから、歴史分野の大学教授などの肩書きだけで系譜・系図の研究はできないということである。ちなみに、古代史の研究関係についても、それ相当な知識なしに、中世史や近・現代史の歴史専門家が的確な分析ができるかどうかには疑問がある。とくに古代史の分野では、When、WhereやWho・Whomに関して特殊な知識と判断力が必要だからである。どうも、この辺が学究たちから軽く考えられている模様である。

 ここで、具体的にどのような系図を、どのように研究するのかという問題が出てくる。
 抽象的に論じることは、あまり有益な意義あることとは思われないので、拙見に対する批判かどうか不明なのだが(記事には誤解がありすぎるようで、意味が良く分からない面もあるのだが)、一例として、ネット上の某所に掲載の見解などを取り上げて、具体的に考えてみる。


 系譜・系図について、「しかし、それは、個々の断片として活用が可能であるというもので、ひとつの体系としてみた場合には、現存する古文書の系譜が、基本的に真実で、その系譜に書かれた神々も、実在した人物のことであるという主張は、非合理的なものである。そして、根本史料の日本書紀や古事記の史料批判をすることなく、系譜や事実関係の判断の基準としていることも、全く理解できない」という記述を目にしたので、これを本稿で考えてみる。


  この見解は、多くのことが混淆して整理のついてない文章のようだし、その根底に、そもそも多くの誤解、誤りがある。そこで、箇条書き的に次ぎにあげて(順不同)、拙見を記してみる。

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いわゆる系譜・系図を併せ総称して「系図類」と呼ぶことにするが、この系図類は、記事内容が正しければ個々の断片として利用することは勿論、全的的総体的なものとして捉え、大きな歴史の流れの一部としての歴史像構築に必要な資料として用られなければならない。そうしたことが可能となるよう、できうる限り歴史原態を表示するような系図類(原態にできるだけ近づけるような系図類)の形が探索・探求されるべきものである(この辺は、最初に掲げた丸山浩一氏の目的意識にも通じる)。
 系図類の個別断片がそれぞれ史実を備えたもの(史実原型にマッチするもの)であれば、その集積もまた「史実の大集積」であり、そうしたものにより、総合的に系図や歴史原態を考え得るというのは、当然のことであろう(考古学研究でも同様である)。
 なぜ、「断片的な利用」しか系図類が許されないと言うのか?むしろ、そうした系図の利用法は、系図や歴史の評価を誤らせる恐れすら出てくる(なお、系図類は、いかに長大なものとなっても、それでも、まだやはり「断片」にすぎないという指摘がある)。

 
だいたい、血縁集団としての「氏族」を捉えねば、祭祀・習俗・トーテムなどの問題が見えてこない。これまでの歴史学界(津田学説)に殆ど無視されてきた祭祀等の問題は、歴史研究にとって本来はたいへん重要なのである。ごく一部分だけの系図では、それが正しいかどうかも分からないときもあるから、ごく断片的な箇所だけ問題にするのは疑問であろう。
 系図を全体として見た時に、そして、これを中・長期的な視野で見た時に、見えてくる対象が変わってくる可能性すらある。歴史は一種の「巨象」であり、断片的にその一部のところだけ撫でて、全体の「巨象」を把握できるはずがない。だから、そうした視野狭窄な思考法の方々とは、ともに研究も論議もすることができないものと思われる(総じて、津田亜流の研究者は視野狭窄で論理粗雑のようでもあり〔しかもそれが、否定論理なのだから、始末におえない〕、これまで蛸壺形の歴史研究をしてきたようでもある)。
 個別の系図研究を大きな歴史に反映(修補)させることができるように、個人や家系についての研究を徹底して個々の史実原型を固めること、これが、系図研究の大基礎だと考えられる。先人の丸山浩一氏の見解記事を最初に引用したのも、私には、これが系図研究の基本姿勢だと考えられるし、歴史研究の基本でもあると考えるからである。

A現存する史料については、史書・古文書でも系図類でも、書かれたそのままが基本的に史実(原態)だとみることは、そもそもあり得ない(こんな見方など、合理的思考をもつ歴史研究者に、いるはずがない。「思想家」「信条家」なら話しは別だが)。
 様々な理由・事情で、時代がすぎるだけ、その内容・記事が変形・転訛する可能性があり、事件と同時代に作成された史料だからと言って、その全てが正しく把握され、記録されるわけではない。このことは、誰しもの常識であろう。だからこそ、ありとあらゆる史料は様々な見地から十分に総合的に吟味したうえで用いなければならないのである。
 拙考でも、現存の「古文書の系譜が、基本的に真実」だとみているわけでは決してない。そのことは、個別に事件や個々人について、各々の問題点を具体的に検討し、個々の人間関係を様々に吟味し、適宜修正した結果を踏まえて歴史像や系譜を再構成し直している。
 具体的に言えば、神武から継体までの古代諸天皇の系譜だけ見ても、記紀に記述される系譜を大幅に見直して考えており、これら諸天皇の実在性は基本的に認めても、個別の人々の系譜関係は、記紀の記事通りに考えるはずがなく、現に異なって考えている(例えば、「闕史八代」の諸天皇の系譜、垂仁と景行との関係、神功皇后や応神天皇の位置づけ、オケ・ヲケ兄弟の位置づけ等々)。なお、記紀に掲載の歴史的事件については、その殆どが現実に起きたものと考えてよいが、その後の王権に都合良く脚色・改編されたものもあること、しかも同様の事例が似た形で繰り返されたことは十分ありうることである(応神や仁徳の大王権簒奪とその一族の皇統系譜への取込み、武烈天皇と継体天皇との関係など)。
 こうした諸事情から言っても、もし拙考に向けられた批判なら、それは明らかに誤解に基づくものである(批判される方は、拙考やこのHP内だけでもよく目を通されたうえで、具体的な内容をもって、適宜の問題点に関して、是々非々という言動をなされてほしいと希望するものでもある)。 

Bその一方で、貴重な史料を簡単に切り捨ててもいけないので、他の史料類から見て明らかに誤った史料だとは言えない系図類(の部分)は、取りあえず有効なものとしておいて、常々総合的具体的ななチェック対象とすることを忘れてはならない。
 全体の歴史・史料のなかで一応の整合性があれば、取りあえずは生かしておいて、頭から否定・抹殺しなければならないというものでもない、ということである。この辺を、取り違えないでほしいものである。「史料批判=史料否定」ではないはずであるが、この辺を取り違える論者もかなり見られる。

C系図類など史料に書かれた個々人や事件・場所・時間など全ての記事が、常に検討・吟味の対象とされるべきものであって、史料のなかに記載があるからといって、それが実在した人物であったり、そのとおり実在した事件だ、とは限らないのは、これまた当然のことである。
 もっと具体的に例をあげて見ると、例えば、国宝指定されている「海部氏系図」にあっては、当該系図記載の者たちは全てが、史料等から見て実在性の裏付けがなく(皆が架空の人物という疑惑があるということであって)、後世(と言っても、平安前期か中期頃であろうが)に造られた偽系図である。このような指定を現在まで続けていることは、国宝に推薦した研究者も、この問題を審査した研究者も、学究の肩書きは持っていても、系図学を知らなかったからである(詳細は、拙著『越と出雲の夜明け』に具体的に記述されるが、概略は本HPの「国宝「海部氏系図」への疑問」をご参照)。本系図を、他の系図研究の資料に使う学究もいるが、系図学や系図研究に関して無知なことに驚かざるをえない。

 系図に限らず、史書関係だって、偽書や、その記事の基礎となる偽文書が数多い。例えば、『旧事本紀』の序文が後世の偽作であることは有名であるが、『古事記』もその序文が同様に後世の偽作である。後者は、「太安万侶墓誌銘」が発見されたことで、偽書説が激減したと言われるが、墓誌銘は太安万侶の実在性を確認しただけであって、彼が『古事記』を編纂したとも修史事業に関与したとも、なんら書かれていない。まして、序文に見える「稗田阿禮」なる人物は、その名乗りといい、稗田氏の実体(『姓氏録』不記載の弱小豪族)から見て、実在性がきわめて薄く、現在に残る諸史料から見ても様々な不自然さがあって、今後とも、阿禮なる者の実在性を裏付けるものは、まず出てこないと考えられる。それなのに、現在の歴史学・国文学関係者では、私の知る限り、主な序文偽書説論者は、大和岩雄氏と三浦佑之氏くらいである(『古事記』については、後述する)。
 ただ、だからと言って、『旧事本紀』や『古事記』の本文記事について、これを無闇に退けるべきではないことも、併せて言っておく。勿論、それぞれの書には疑惑のある記事もいくつかあり、それとともに貴重な記事も多く見られるから、そこは個別に十分な吟味・検討がなされるべきものである。『古事記』だけに見える系譜記事には、疑問な偽造系図もかなり織り込まれていること(具体的には神功皇后系譜などであり、その追加の事情・時点は不明)に十分注意したい。
 偽文書が古代に限らず、中世・近世いずれの世にも多いし、中世史分野などでいわゆる「一級史料」とみられるような史料・文書にだって、記事等に誤りはあるのだから、個別具体的な箇所で十分な検討を要するものは数多い

D系図類を含め史料に「神」と表示される者については、合理的で具体的な実在性が認められる者もそうではない者もおり、その辺の問題は次項で考えてみる。
また、Eいわゆる「記紀批判」の問題もあり、後ろのほうで詳しく考えることにしたい。


 記紀の「神」とは何か

 記紀などの史書に「神」として表された者でも、「人」として表されたものでも、基本的な取扱いは同じのはずである。というのは、記紀などの上古史関係の記事(神話・伝承)では、神武天皇朝以前の時期に活動した者について、「○○神、天○○命」という形で表記されるだけだからである。「○○神、天○○命」と記紀や系図などに書かれたからと言って、すぐ「架空・虚構」の存在だと決めつけるほうがどうかしている(記事の表示は記紀の編纂者の認識に拠るのだから、この当時の「神」の認識を、全て受け入れなければならないわけではないということ。この記紀編纂者の認識自体が、現代の研究者から十分な吟味の対象になるべきものである)。
 「神」という名の者は、すべてが後世に創造された政治思想の産物であるという津田学説は、思込みか信念にすぎない。具体的な生物として、5W1Hが備わると考えられる「神」については、実在性の抹殺は合理的な根拠がない。ここに、津田博士などの大きな予断(偏見)がある。「神」でも、単独の抽象神ではなく、その血筋が子孫たちにつながるものについては、実在性を基本に考えたほうがよいということでもある。
 世界の神話のなかで、日本の「神話」は歴史的なストーリーの連続性をもつ特殊・異例のものとしてみられている。記紀の「高天原神話」から、いわゆる「日向三代神話」、そして神武天皇朝以降へと歴史の流れとしては、地理も登場人物もごくスムーズに筋がつながっている。「神代」と言うことで、頭から観念上の時代だと決めつけることはない。
 「生身の動物体」一箇の世代として、各々の関連者との関係を考える時、それが「5W1H」という要素を踏まえ、具体的に把握できる者が多い(従って、地域、時間が、生物的な一人の人間として限定されうる)。「神々」には男女の性差があり(初期段階の抽象神・自然神以外は無性な神はいない)、その通婚や戦・会談、共同作業など様々な活動も見える。
 具体的に「神」が人間として把握できることについては、その例外は殆どないようだが(神武東征の時に高天原の神々が夢に見えるとする程度か)、個別の「神」の実在性の検討は勿論、具体的な地理・時間やその他状況を踏まえて、十分に必要とする。そのなかで、自然神・物品神や抽象神に関する見極めは、重要である。

 そうした個別具体的な事情を抜きにして(判断しないで)、頭から「「神話」=虚構」だと思い込む頭のほうがどうかしている。「神話」という名の呪縛に掛かっていると言えよう。既に、歴史地理に通暁し史料を精査して「神話」の合理的解釈にのぞんだ新井白石が、「神は人なり」(「神」とは歴史上の人物だ)と『古史通』(古代史解釈の書で、享保元年〔1716〕に成立)の巻頭で記した事情もある。もちろん、そのなかには、「高天原」の具体的な位置など白石の誤解も多々あろうが、その辺は個別に「神」を十分吟味すれば良いだけである。
 私がいわゆる「記紀神話」に登場する神々について個別に検討したところでも、各々の神話の初期に登場する明かな抽象神・自然神を除くと、「具体性のある人間として捉えようとしたら、おかしなもの」は極めて少なかった。現実問題として、文字・鉄鍛冶など各種文明技術を携え大陸・韓地から天孫族系の遠祖・五十猛神スサノヲ神に相当)が倭地に渡来してきたのが、西暦一世紀前半頃とみられるが(この時期は、計数的な推測ができる。拙著『「神武東征」の原像』などをご参照)、その頃から以降に活動する者たちは、それが「神」として名が表された者でも、現実の身体を備えた具体人として把握できる。(この辺については 上古史の流れの概観試論 をご参照

  高天原の主神タカミムスビ高皇産霊尊、高魂命)は、抽象神ともとられそうだが、西暦一世紀中葉頃の筑後川中・下流域の「高羅」(「高の国」の意味で、高良山・高良大社の麓一帯)の地で族長的な活動をしたとみられる。決して、後世に創り出された者ではなく、その現実的な父祖もいた(この者を後世に創作された架空の者とみる説の裏付けはまったくない。いわば架空・創造の者だとみるのは、信念か信仰にすぎない)。高皇産霊尊の父祖が韓地からの渡来であっても、高句麗の建国神話に始祖的な存在で見える解慕漱と同人だとか、解慕漱をモデルにして後世に構想された始祖神だとする見方(高寛敏氏)は、まるで根拠のない妄想である(こんな見方を信奉する研究者がいることすら、私には信じ難い)。
 ちなみに「高天原」も、これが天空のなかにあると思い込むのは疑問であり、地上の現実の地であった。東アジアのツングース系種族の伝承を見ると、太陽神や鳥トーテミズムをもつことから、先祖の地を飾って「天」と表現することがままある。「天降り」とは、そうした先祖の居た神聖な故地からの支族の移遷・移住の表現にすぎないのを、生身の人間が天空から降ってくるはずがないと批判し、後世の捏造と断じるのは、勘違いも甚だしい。歴史書の解釈にあっては、古代史は古代史としての知識・認識が必要であり、近・現代史の研究者が近・現代の知識・感覚だけで古代史を解釈してはならないということでもある。
 天照大神を卑弥呼と同人とみる安本美典説に対して、「神話と歴史との混同だ」とする批判・非難があるが、これは批判として正しくない。ただ、天照大神の原態は、天活玉命(生国魂神という名の男神であり(この関係は、天照大神は女性神なのか を参照)、その活動年代も卑弥呼より百年超も昔の者であって、活動年代が大きく異なる(活動の舞台・地域がほぼ重なるとしても、時代の差違が大きい)。日本の古氏族が女神を始祖神とする例も皆無であり、これらの意味で安本説は誤りだということである。天照大神の主活動地域は筑後川中流域あたりで、卑弥呼と活動地域があまり違わなくても、明らかに両者は別人である。天照大神に関して、具体的な実在性が歴史的に考えられれば、いわゆる「皇国史観」とは、まったく別問題である。

 物部氏の祖とされる饒速日命も、その神名や「天降り」伝承などの諸事情で、津田博士は実在性を否定するが、実体をもった個人生物体であり(ただ、神武が畿内に来た時には既に死去して、その子たちの世代となっていたから、饒速日命が神武の侵攻に抗戦するはずがない)、出雲から配下の五部を率いて播磨を経て大和に移遷してきた(その活動がイセツヒコ〔註〕の名で追える)。記紀や『姓氏録』では、饒速日命の父祖は不明だが、畿内に「天降り」して来たときの所持物など諸事情から見ても、天孫族王族の一員であり、一族のもつ鉄鍛冶技術や剣神・武神性から出雲国造同族の出だと判断される(『旧事本紀』「天孫本紀」にはその系譜の虚飾があり、天孫族本宗の「天火明命」とは別人であることに注意ただし、饒速日命の活動・系譜を「火明命」と捉える伝承もあるので、要注意)。物部氏の遠祖が、筑後国御井郡を中心とする地域にあったことを、谷川健一氏は『白鳥伝説』で様々な事情から説明する。ただ、饒速日命自体は、北九州では活動しなかった(出雲で生まれた)とみられる。
 〔註〕 イセツヒコ:饒速日命は、風土記に見えるイセツヒコとも同人である。この神は、『播磨国風土記』揖保郡林田里の伊勢野条に見えて、伊和の大神(=出雲の大穴持神)の子(実態は「女婿」の意味)、「伊勢都比古命」と書かれる。同名別神の伊勢津彦が『伊勢国風土記』逸文(伊勢国号条)に見えて、神武侵攻の当時、伊勢にあったが、神武方の天日別命軍に従わず、大風を起こし日の如く光輝いて、伊勢を退去したと見える。記紀及び「天孫本紀」では、長髄彦の妹・御炊屋姫を娶り、物部氏祖の宇摩志摩治命を生むとあるが、長髄彦は大穴持神の子の建御名方命と同人であり、符合する。
  古代武蔵国造家の系譜「角井家系」(『埼玉叢書』第三所収)にもイセツヒコが見えており、出雲国造の祖・天夷鳥命(鍛冶神天目一箇命と同神)の子に出雲建子命(又名が櫛玉命、伊勢都彦命)をあげて、始め伊勢の度会県に居り、「神武天皇御宇来
于東国」と記し、その子に神狭命(武蔵国造・相武国造の祖)があげられる。年代などから実態を考えれば、伊勢に居たイセツヒコとは、子の神狭命のほうにあたり(親と同じ通称か)、風土記逸文の記事は、鍛冶に際して風を活用し日神信仰を持ったことを窺わせる。饒速日命が「櫛玉命」の名をもったことは「天孫本紀」などから知られる。なお、本居宣長は、伊勢の伊勢津彦と諏訪神・建御名方命とを同神とみたが、ともに神武東征当時の人だが、まったくの別神である(建御名方命は磯城県主や三輪氏の同族で、長髄彦に相当する)。次のHP「伊勢津彦と建御名方命との関係」もご参照。

 注意されるのは、神の名前が総じて抽象的なものだからと言って、実在性が否定されるわけではない(生存中に活動した時の実名が失われ、後裔たちが祖先を崇めて言う名前だというだけのこと。だから、後裔氏族によって同人が異名の神となる差違がでてくるし、地域などから、同人であっても複数の神名も生まれることにもなる)。これらが、ここ三十余年という長い期間の検討経験から知られることであった。 
 その問題のためには、「異名同神、同名異神」の見極めが、きわめて重要な条件なのだが、これを見誤っているに過ぎない場合が多い(スサノヲ神でも、天日矛でも、火明命、大己貴命などでも、同名異神例は多い)。
 この判別の手段が、氏族の持つ祭祀・習俗、技術や他氏との従属・通婚関係などの種々の活動、更には系譜の世代配置なのだが、津田流の史学では、素朴なまま神の名を受け取るから、「異名同神」なんて発想がそもそも出てこないだろうし、検討文献の範囲が極めて狭いから、同神・異神の判別のしようがない。
 平田篤胤は「神代系図」(安政2年 [1855]刊)を書き刊行したから、その把握した神々の系譜は広く知られるが、神代関係の平田説には、有益な指摘とともに、多くの誤りがあることに留意される。誤りのほうは、「異名同神、同名異神」の見極めが彼にはできていないこと、自ら具体的に古代氏族の系図を収集、解明しないままに記紀などの記事によって抽象的な観念作業で神代系譜を編纂しようとしたことに因る。篤胤の後継者鉄胤の門下生のなかに鈴木真年・中田憲信が出たのは、やや皮肉な話しだが、この両人にあっても、「異名同神、同名異神」の見極めができていたとは、とても言い難い(拙考が真年らの見方と異なるのは、このあたりにもある。彼らを活動面から尊敬しても、結論を信仰する気にならないのは、研究者として当然のことである)。

 ともあれ、「神」の実態が上記のようなものであれば、簡単に切り捨ててはならないことになる。そして、「抽象神・自然神」も含めて古代氏族が奉斎する神々は、祖先祭祀・トーテムに関する氏族の活動にもつながるから、氏族の系譜から消してはならない。実体が同じ神であっても、祖先神として名前が異なるということは、その氏族のまとまりの範囲を示すという点で無視できず、名前が異なった古代のある時点からは、それら諸氏の間では、同一氏族としての認識がなくなったということにもなるので、この辺にも注意される。
 津田史学では、いわゆる「天降り」は、人間が天上から降りてくるはずがないから超自然な不合理な現象ととらえるのだろうが、とても「単純素朴な理解・頭脳」だと思わざるをえない。繰り返しにもなるが、上古東アジアの各種族の伝承・神話などにも、「天降り」伝承はかなり見えるが、これは鳥トーテムや太陽神信仰を持つ種族にあっては、「先祖の居た故地」を「天」とか「高天原」に喩えて、一族がその故地から新たな地(新開地)に移遷する実態を「天降り」の語で意味させたにすぎない。いわゆる津田亜流の「不合理」という判断が、いかに単純素朴で視野が狭いものかは、この辺からも分る。
 同様に、勘違いしてならないのは、記紀の神話が、戦前の軍国主義的な活動に様々に利用された事情があったとしても、それ故に、神話が歴史原態ではない(歴史原態とは関係が無い)、当然に後世の偽造・捏造だ、と思い込むべきではない。この辺を冷静に考えて、あくまでも各種の史資料から歴史原態の実証的な探索に努めねばならないということである。記紀に見える神々の実在性と、いわゆる「皇国史観」によるそれら神々の悪用とは、まったく別問題である。そして、「歴史原態の探索」は、主観的な思想研究とも、明確に異なるものである。

 先にも触れたが、わが国上古の「天孫族」が、紀元1世紀前半頃の五十猛神のときに倭地に渡来してきており、その先祖が、先の居住地たる韓地の高霊(高羅の名に通じるか)や、更には遙かな中国・遼西地方の箕子朝鮮につながるとみられる以上(この辺は、拙著『天皇氏族』をご参照友田吉之助氏にも、天孫族の遠い故地が、中国の遼河流域にあったとの指摘があるという)、倭地における「神」という名の者にも、更なる遠い先祖が中国などの現実の海外の地にあって現実に活動したのである。

 だから、史料の不適切な切捨ては、歴史の切捨てにもつながり、それが史実・原型の探索を妨害するという強い問題認識が必要である。
  
   次頁に続く

 
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