前頁から続く)


 系図検討の着目姿勢の問題─系図の把握は「動的」であるべきなのか

 「記紀批判」関係の問題から、話しをまた系図関係に戻して、私にとって理解が不能なのは、私や真年ら先達の系図専門家のような系図把握が「静的」であって、系図は「動的」なものだから、拙見や真年らの研究手法が誤りだという批判の論理である。
 系図類や史書は、時代によって変化するものもあるし、後に内容が転訛したり意図的に変えられるものもかなり多くあるのは確かである。しかし、私や系図学関係の先達たちが鋭意、把握しようとつとめてきたのは、史実・原態かそれに近い古態の系図(人間関係)とそれを探るための系図諸伝(これを記載した系図史料)であって、探り得られたものが、歴史のなかで現実に生じた「実態」(史実。ないしはそれに近い事実)であれば、解釈論的な問題を別にすれば、歴史の「実態」は動的に変化するはずが決してない。そして、原態把握のためには、「系図偽造」の問題は避けて通れない。

 抽象的に言っても、私の説く意味が通じない可能性もあるから、ある批判的な表現を具体的に取り上げて、反論ないし説明をしてみることにしたい。例えば、次の主張・表現である。


a
 古代氏族の系譜や伝承は、「事実」に基づく「静的な」ものではなく、そのときどきの政治的な主張に基づく、「動的」なものであり、時間の経過の中で生成・発展するものである。

b
 だから、その古代氏族の「動的」な系譜と伝承を、「固定」した「静的」なものであると考えることは、ある時点での政治的な主張やその主張に伴う構想や思想を事実であると誤認することになる。

c
 また、古代氏族の様々な系譜や伝承の相互に間にある「矛盾」こそは、古代氏族の政治的な主張や構想、思想がなぜ変化していったのかということを解明し、古代氏族の実態に接近する、重要なポイントである。


(aについての反論) 系図研究の原点・目的は、本稿のはじめに丸山浩一氏の記事を引いて挙げたとおりである。研究により把握された系図原態が史実であれば、それが変化することはありえない。自ら手・足を動かして多くの系図類を具体的に調査・分析したことのある人なら、こんな発想が出てくるはずがない。きわめて抽象的・理念的な観念思考にすぎないと思われる(要は、系図学を知らない人の妄想に過ぎない。そもそも、系図原態がなく、創造の産物ということであれば、いかようにも変化する可能性があるが、そんなものは、そもそも系図研究の対象外である上古の皇統譜でも諸豪族の系譜でも、いい加減に創出が可能だという妄想は、系図学とは無縁である)。

 系図も史書も、ある時期の「政治的な主張」であると思うのなら、それはまったくの思込み・信念にすぎない(総じて、「津田亜流」の思考形態に類似する模様)、ということである。
 系図は「継図」とも言われるように、年を経るなかで代々書き継がれたものが原型にあったし、史書だって、「旧辞」「帝紀」が津田説が言うような六世紀の半ば欽明朝頃などの一つの時期に為政者・権力者(そもそも、これは誰によるものか言わない抽象論にすぎない)により造作されたというものでは決してない(こんな造作を証明した研究者はいまだかつていないし、そもそも証明ができるはずがない)。皇統譜の改変ないし創作は、大きいものが三回ほどあり、その最後とか最初が欽明朝頃だという見方もあるそうだが、これは全くの信仰か信念にすぎないものであり、科学的歴史観や系図学とは無縁のものである。そして、系図そのものの実態にも合わない。先にも述べたが、文字技術を持って、道具としての硯があって、為政者にとって最も大切な系譜が記録されなかった、とどうして思い込むのであろうか。

 弥生後期から重要氏族について系譜が伝えられたとみるのが自然であるが、その一方、適宜の改編もあり得た。すなわち、長い期間を記録した歴史なら、その記録された期間を通じる時々、その都度に為政者・所持者などの都合から様々な手が加わったと考えるのが常態であろう。
 現伝の皇統譜で具体的に考えると、最も原態から離れたとみられるのが景行天皇〜応神天皇という時期の4世代であり、これは、従来の皇統から異系統であった応神(ホムチワケ)が大王権を簒奪したことに主因があるとすれば、その説明がつく。そして、この辺の応神祖系一族関係の皇統譜への組入れという改変は、遙か後の欽明朝という時期ではできるはずがなく(記憶が失われるはずだし、事実定着で改変もし難い)、応神朝かそのすぐ後くらいになされたことしか考えられない(継体天皇や欽明天皇の諸子女などの名前などにも、現伝の記紀記事にかなりの混乱が見られる事情がある)。
 このことは、応神天皇が大王となった後に、その一族近親の息長氏関係者を多数、皇統系譜に入れ込んでいることを見れば、歴然とする。景行天皇には皇子が八十人もいたと『書紀』に言うが、その多数はこうした息長氏一族の関係者であった。「円珍系図」の始祖的な位置にある「武国凝別皇子」とは、後に皇統に竄入された者であって(だからといって、その実在性を否定するわけではないことにご注意)、そのせいか、この者は、『書紀』には景行の皇子のなかの記事に見えても、『古事記』には名が挙げられない。また、神功皇后とその夫の天皇(原態は成務天皇が夫)に関しても、皇統伝承の何度かの改変を経て、現伝のような不可思議な形となった(成務天皇は皇后を失った)。
 現伝は、記紀それぞれの編纂当時の編纂者の認識の結果であって、記・紀で内容が異なるものもあるが、架空の人物ではない限り、史実原態があったはずである(『書紀』や『旧事本紀』に言うような、神功皇后が「開化天皇の曾孫」とするのが、まだ原態に近い)。欽明天皇以降の皇統譜は、あまり原態から離れていないが、その子女たちの名前には混乱があり(同人異名の判別ができず、そのため同人の重複掲載がかなり見られる)、この辺の記憶が失われた時期に記事が編まれた可能性がある。こうした皇統譜の動きを実体的に捉えて「帝紀」の改変時期を考えねばならず、津田博士らが抽象的に欽明朝に帝紀が編まれたと言っても、その時が初めてというのなら、それはまったく裏付けのない想像論にすぎない。このように各種の系譜には、時代に応じて動きのある可能性は認めても、原態は、史実に基づく限り「静的な」ものだということである。

 ここまで何度も書いてきたように、系図も史書も、その時々の社会・政治状況や様々な個人事情・都合に応じたり、あるいは編纂者・筆写者など関係者の誤解や転訛・転記などの諸事情もあって、様々に変わる可能性があり、現在に伝わるものには、原態ではない箇所を当然もっている。
 それを、様々な史資料を基にして、客観的総合的に史実原態のほうを鋭意、探るものなのだから、探索・調査の結果が正しければ、これが「動的」に変わるはずがない(変わってはいけないように調査・検討をし尽くすべきものだが、調査の基となる史資料類がその後に増加、変化をすることがあり、その場合には調査結果も変わることがある)。系図の「動的」検討をするとしても、原態の「静的な」ものは、史実がある限り、必ず存在するはずなのだから、それを探索するのが最も重要だということである(そもそも、史実原型がなければ、完全な偽造系図(創作系図)となり、検討する意味が殆ど無い。その場合にも、氏族のトーテミズム・祭祀などの関係で意味があることもあるが)。
 これは、後ろ向きの発想でも非革新的な発想でもない。ごく基本的な原理なのである。

(bについての反論) 系図など史資料のなかには、系図所持者の家のものも、戦・事件などの相手方・敵方や参加者のほうに伝わるものもあり、通婚先や関係者であっても第三者の立場で記録されたものも当然あるのだから、系図所持者の家の政治的な主張や構想・思想が系図のなかに何らかあるとしても、それだけが系図の記事のなかに現れるはずがない。こうした多様な所伝形態を無視する見方である。
 また、文献の検討は、津田方式のように「狭いタコ壷式」の狭い史資料範囲でなされるべきではないから、明らかに一方的な政治的主張が、探索の結果として出て来たら、それは探索方法や結果の判断が誤りだということになる。系図を所持する「氏族の主張・主観」だけを追いかけるような系図研究は、合理的な立証・論証ができないから、そんな系図研究を志向した研究者はこれまで殆どいなかったと思われるし、史料の制約から言ってこれはそもそも無理な話である。
 もっとも、明かな偽系図でも、真書だと信じて擁護発言をする研究者がいないでもないが、それは、系図所持者に対する遠慮か、あるいはその研究者が系図学・歴史学に関して無知だという事情があるのかも知れない。

(cについての反論)
 古代氏族の系譜や伝承には、様々な差違があることがある。それは、「矛盾」とまでいうべきものではないし、保持者たちの間で差違が生じる原因の諸事情は、先にあげたように、「政治的な主張」だけに因るものではない。事件等の認識の相違もあろうし、勘違いもありうる。
 史書でも系図でも、「政治的な思想」による改変ばかりを言う「津田亜流の思考方法」は、きわめて主観的心情的で、論証ができないものであり、不可能なことを言い立てるだけであって、論理はもはや破綻している。これでは「合理史観」とはいえない。古代氏族の実態に接近する重要なアプローチは様々にあるから、それを、様々な資料を基に総合的具体的に考えて行こうというものである。

(併せて補論的に言うと) 動態分析ができるような系図史料が、いったい世の中にどれだけあると思っているのだろうか、という問題でもある。現在に伝わる古代氏族の系譜や伝承は、きわめて乏しく限定的である。数も少ない(それでも、朝鮮半島に比べると、日本では、記録される歴史も古く、系図関係の史資料も多種多様なのだが)。それらを、どのようにして「動的」に分析せよというのだろうか。
 そもそも、どのような古代氏族や名家だって、長い期間には必ず栄枯盛衰があって、長く続く氏・家は多くないし、嫡系・本宗などが変わることもある。戦乱などに因り、途中で系譜・家伝を失うこともかなりあり、現在まで必ずしも系図を伝えるとも限らない(所蔵していると言われても公開しない多神社社家などの例もある)。
 それを様々な史資料で補って、古代氏族の古代からの長い歴史について、その実態・原態を追いかけているのが、系図研究の現状である。そして、古代でも中世でも、一つの祖系が偽りでも固まってしまうと、原態がそうでないのに皆、これに合わせた名族の系図に仕上げる例が極めて多い。村上源氏を称した赤松氏や同じく名和氏、清和源氏を称した土岐氏など枚挙に遑がない。古代では、武内宿祢を祖先に架上した蘇我氏・巨勢氏や紀臣氏などの例もある。検討対象の氏に、数種の異系系図がある(しかも、併せて筆記者など成立の時期・事情が分かる)のならともかく、結果として殆ど一種の系図しか持たない古代氏族や中世諸氏について、いったいどのように系図の動態分析をしようというのだろうか?私には理解が不能である。

 なお、多くの種類の系図が残る氏族、例えば清和源氏の武家などは、系図の記事内容の変化を追うことで、ある程度は「動態分析」ができるが、その場合でも、各々の系図編成時期の古さの順序をつけるのはかなり難しい。『諸系譜』には、編者の中田憲信が徳島検事正の時に当地関係者に依頼して収集したと思われる阿波の三好氏一族の系図が多くの種類(『阿波徴古雑抄』を上回るほど多数で多種)で所収、掲載されるが、これらについて、どのような形でなぜに異伝異系が生じたのかの問題があるが、その解明・分析がほとんど不可能ではなかろうか。
 ともあれ、系図について動態的な分析が可能なら、それをやったら歴史的に分かってくることもあるだろうし、この手法の利用を否定するつもりはない。ただ、殆どできもしないことをあげて、拙考や先学系図研究者たちを批判することは、論理の根底に無理があるということである。具体的な研究実例を提示・教示いただければと思う次第でもある。


 古代氏族系図の研究実例

 本HPでは、二つの方向で古代氏族にかかわる系図を具体的に検討しているので、系図研究の「偽造問題」についての具体例の参考として、本頁と併せて是非、ご覧いただきたい(当然のことながら、上記の検討姿勢の問題も絡む)。

 A 1つは、全体を後世の偽造系図だとして、拙見で長く批判してきている国宝指定の「海部氏系図」である。この系図に記載される人物は全てが信頼できる史料に記載がなく、それぞれが実在性の裏付けがないが、その場合にどのような否定論議がなされるかの問題でもある。海部氏でも、当社家には中世・現代に及ぶ歴代の系図があるとのことだが、これについては公開がなされたいない。
     →この関係の検討
 関連して、京都郊外の向日神社祠官家の「六人部系図」もある。これまで、「六人部連本系帳」の史料は提示されたが、中世・近世にも及ぶ「六人部家譜」など、その全体は公開されていないが、これまでに紹介された部分から見れば、田中卓博士が当該本系帳を認めても、拙見では、信頼できる系図だとはとても言いがたく、後世の偽作系図としてしか評価できない。→この関連

 B もう1つは、偽造系図だという指摘が一部にあるが、この偽造指摘のほうが誤りだと拙見で逆批判しているものであって、越中の利波臣姓石黒氏の系図「越中石黒系図」の例である。こちらについては、いかなる意味でもなんら立証もされていない仮説(幾つかの史料を基にして、史料の類似性があるから後世に作成・偽造されたという大川原竜一氏の見方)を一方的に正しいとして、拙見やこれまでの検討が間違っているという批判もあるので、それに対する反論にもなる。
     →この関係の検討1  検討2  検討3

 この関係の拙見への批判にあっては、津田亜流学説にままみられる予断・信念の強さ(政治的思想に拠り、史書・系図史料が、後世に簡単に偽造できる、あるいは偽造されたという思込み)があるが、こうした具体的実証性のない予断は、合理的な系図研究からは適切に排除する必要がある。これについては、次の項で更に記述するが、これも実例研究である。


 系図・系譜が後世にどのように偽造されるのか

 私が常々、不思議に思っているのが、「系図・系譜あるいは史書が後世に簡単に作成・造作できると考える見方(思込み)」である。

 系譜には、後人が造作を加えやすい、あるいは加えたい箇所とそうではない箇所があって、その辺の感じは、長い期間、多くの系図を見て研究しきて、異系・異伝を冷静に比較検討すると、自ずと分かってくるものがある。これが、実際に手・足を動かさないで頭だけで抽象的にしか考えない方々には、到底、分からないのではないかとも思われる(それが、信念・信仰なのなら、合理的な歴史・系図の研究とはまったく無縁である)。

 史料の記事、文書でも系譜でも、全てを否定したら形はなくなる(原態が分からなくなる)。史実かそれに近い原態が、史料から見てどうであったのか、について合理的に冷静に探求をする姿勢がなければ、歴史研究の意味がないと私には思われる。否定論考を連続して重ねていった場合に、最後にどのような歴史像が描けるのかを、この辺を具体的に示してもらいたいものである。おそらく、そこには空白しか残らないはずであり、津田博士は、先に述べた上古日本の歴史像を想像でよく描いたものだと感嘆せざるをえない。
 系図の真偽・信頼性などの評価に当たっては、実在性を史資料で確認できるかを初めとして、系図に見える関係者の生存年代や活動時期、実名の変遷、通称、家督相続の当事者・相続順、官位・官職名、そこで起きた事件の内容や地名、居住地の移遷などに歴史的な不自然性がないかどうかの判断が当然に必要となる。この辺が、古代関係でも中世関係でも、後世に偽造された系図だと、おかしな要素が必ず浮上するものである。
 本HPの「系図の検討方法についての試論」をご覧いただければ、系図のどの点をチェックすれば偽造(問題があるか)か否かの判断ができそうだと記したところである。また、本HPには、「偽書・偽系図とはなにか」について記述した箇所も別にある。併せて、ご覧いただければと思われる。

 最近でも、馬部隆弘・大阪大谷大学准教授の研究で、今春(2020年)に新刊書が出て話題になった「椿井文書」の問題例がある。幕末期の文書偽造者、椿井権之助政隆の家の系図が、中田憲信編の『諸系譜』第3冊に「椿井家系継」の名で掲載される。それを見れば、大量の偽造文書の巧妙な偽造者と評価される椿井権之助の祖系とされるものが知られるが、古代の平群氏部分がなんとも稚拙に記載されることに却って驚くものである。当該祖系では、武内宿祢ではなく、平群天岩床尊なる者(神?)を始祖として、推古朝の有名な平群神手臣が「神手小将軍大宿祢」の名で見えるが、この者を含む初期歴代の名がメチャクチャなのである。
 馬部氏によると、椿井権之助は、ほかにも系図偽造をしたとのことであるが、その偽造現物を見ていないので論評はできないが、系図に詳しい者が見れば簡単に見破れるものではないか、と椿井系図の例から考えて私は推測している(系図に記載される範囲が中世・近世だけだと見極めにくいし、偽造の多くはその時代の範囲であろうが)。偽造文書が、戦国・江戸時代に鋳物師職人をおさえた「真継家」関係にも多く、そこでは偽文書が真正なものとして機能したらしいとも言われる。近江の木地師関係にも、同様な事情が言われる。

 江戸時代には、系図偽造者として有名な者も数人、あげられる。例えば、江戸時代初期の沢田源内は、『尊卑分脈』を利用して系図を偽造したと言われるが、その偽造範囲は、自己の出自に絡めて近江の佐々木氏などであって、時期もおそらく中世以降とかなり限定されるのではないかとみられるし、大概はタネ本があったと思われる。このほか、ほぼ同じ頃の多々良玄信など、数多くの系図偽作者がいたといわれるが、上古から近世にまで及ぶ長期間の系図だと、まず間違いなく奇妙な箇所があって、偽造と見破りうるのではないか、と私には思われる(なお、幕末期の田畑喜左衛門吉正〔一に喜右衛門〕を系図偽造者にあげるものもあるが、そして多くの系図編纂に関与し『断家譜』など系図執筆も多いのは確かだが、私がこれまで検討した範囲では著作のなかに系図偽造と認められるものは現在までのところ管見に入っておらず、田畑吉正当人については、疑いは濡れ衣の可能性のほうが大きそうだが、個別の武家の系譜調査については疑念も残る。 → 江戸後期の譜牒学者、田畑吉正 をご参照下さい)。

 戦国時代に信長・秀吉や家康に仕えて成り上がった濃尾や三河などの幕藩大名家の家譜には、姓氏や祖系などに偽造部分をかなり含むものがあると思われるが、これらは個々の家や一族での改変であろう。この辺も、史料の裏付けなどから問題箇所を個別具体的に考えて行くと、殆どの系譜仮冒が分かってくる。
 これに限らず、仕官や所領争い、家督相続などの諸事情で、系図を含む文書偽造もかなりあったが、その辺も具体的な事情が追いかけ得れば、おおよその見当はつきうるものである。そして、「無から有を産み出す」のではなく、信頼できそうな世に通行する系図のどこかに先祖を架けるという系図偽造例が最も多いのではないかとみられる(その場合、数代の架空の人物を間に入れてつなげる例もある)。古代の系譜でも、中世・近世の諸例から考えると、偽造や系譜仮冒の例は殆どがこのようなケースではないかとみられる。
 歴史書でも、系図でも、まったく無いところから創作できると考える見方も、時に目にするが、こういう空想論や思込みは、科学的な歴史・系図の研究にあっては、排除されるべきものである(ただし、上記の「海部氏系図」や「六人部連本系帳」の例があるが、これらは、殆ど他の史料に見えない者たちで系図が構成されている)。


 系図類も歴史書も、総合的で合理的実証的な把握が必要

 「史実かそれに近い原態」の記事を持つ系図の把握にあたっては、歴史の文献分野だけではなく、考古学も祭祀、習俗・トーテミズム、暦法・紀年論、銅・鉄・丹朱などの鉱物や繊維などの工芸技術、地理学、国語学、数学・統計学などありとあらゆる関連諸分野の知識、それも日本列島のみならず、近隣の朝鮮半島を含む東アジア関係の関係学術分野などをも総動員して、総合的で合理的な考察を加えることが必要となる。
 津田博士は、習俗やトーテミズムを無視ないし軽視したと見られているが、上古史における竜蛇、熊猪、鳥などのトーテムの重要性とその理解についての認識がなければ、理解できない古代関係史書の記事もかなり出てくる。高句麗などの天の神の信仰や天からの降臨伝承を無視するから、「日の神」を祖先に仰いだ日本列島の統治者、天皇家の独自性を感じ、それが「欽明朝頃の政治思想」だと博士はみた(考えの根底に具体的な論拠がなく、まったくの想像に過ぎないが)。ところが、世界的に見ても、鳥トーテミズム、太陽神信仰(居地を天とする)、鍛冶技術はほぼ一体で現れるという指摘もある。
 種族のトーテミズムを無視するから、「熊襲=隼人」だと思い込み、熊襲は北九州に居たという記紀・風土記をそのまま読めば受け取れる説を、博士は承知していながら、熊襲は南九州にいたと簡単に片付けた(いちいち主張者をあげないが、「熊襲」とは北九州に居た邪馬台国の残滓であった。だから、ここは他の箇所と同様に、博士は素朴にそのまま受け取るべきであった〔註〕)。
 
〔註〕「熊襲」の意味:九州の「熊襲」を「球磨+囎唹」の合成と考え、南九州の隼人種族の前身とみたのも、津田博士の誤りの一つであった。こんな近代における単語合成の知識・用法が、古代人に実際にあったのだろうか。クマ(肥後国南部)とソオ(大隅国曽於郡)の地では、地域が離れており、種族は同じでも墳墓築造の葬送方式など習俗が異なり、まとまった一つの政治勢力圏を形成しなかったのに、古代当時に、誰がそうした近代的な命名をするのだろうか。造作説や系譜架上説と同様、古代人の能力を過剰評価しすぎるとしか言いようがない。安易でいい加減な想像論は、厳に慎むべきであろう。
 「熊襲」については、古田武彦・辻直樹氏などは、割合素朴な歴史観ながら、『書紀』や『風土記』などの記事解読から北九州の勢力だと正しく判断した(
熊襲は隼人ではないし、狗奴国でもない。神功皇后に討伐された夜須郡の羽白熊鷲もその一党か。倭建命に関わる神社伝承も肥前に多い)。だから、古田氏の「九州王朝説」も疑問が大きいながら、その問題提起を評価する面も、私にはある。「熊襲」は『魏志倭人伝』の「狗奴国」でもなかったということである。

 倭地のいくつかのトーテミズムを理解しないから、いわゆる「日向三代神話」の鰐の形で出産する伝承を不合理だと片づけた。倭地と同様なトーテミズムがいくつか、中国大陸にあることなどから、その方面から日本人の先祖種族がやって来たことまで思い及ばない。この関連で言えば,津田博士は,「日本民族」は一つの民族で、シナ民族とも朝鮮・満州・蒙古方面の諸民族とも人種が違うと予断・信条で思い込んでいた。
 しかし、これは誤りであり、上古の倭地にあっては、これら東アジア各地の民族と同じ要素を持っていたことがトーテミズムから知られる(その後、中国でも朝鮮半島でも、繰り返し侵略してきた北方民族系の血が濃く混じるようになったようであり、どこまで異質になったかは不明だが)。
 そして、上古の倭地には中国・朝鮮半島から何波かで渡来してきたいくつかの種族が混在居住し、これらの末裔たちが、平安前期の遣唐使廃止以降、以前より更に混淆して融合が進み、「日本人」が形成されていった。こうした経緯から見て、日本列島に住む人々は、もとは単一の民族ではなかった(アイヌも異種族ではなく、列島原住の山祇種族〔中国の羌族、苗族につながる面があろうか〕の割合、純粋な末流である。もっとも、「民族」の定義はいろいろあるが)。中国史書の「倭」「倭地」の意味も、時代により変化があったろう。
 津田博士は、満鮮地理歴史調査室研究員として「渤海考」「勿吉考」等東洋史の研究調査を行い、早稲田大学で東洋史・東洋哲学を教えたが、高句麗や扶余の歴史・伝承は無視したのだろうか。東アジア史研究の体験がどのように博士の見方のなかに出ているのかは、私には疑問である。津田博士が歴史史料以外を信用せず、考古学的・民俗学的な知見を無視したことに対して、批判があるが(梅原猛『日本の伝統とは何か』2009年刊など)、この批判は総合的な実証歴史学の観点からは当然のことと思われる。だから、津田説を考える是非の判断の基礎・根底には、「日本人起源論」の問題があることにも留意される。

 研究者ご自身の狭隘な視野・知識での把握のもとで、批判・難癖をつけ、多くの貴重な史料を切り捨てて、歴史がなくなったりぼやけたりする。こんなことで、古代史研究をやって何が楽しいのだろうか。その気持ちや姿勢は、私には到底理解できないし、そんなことが目的なら、私は歴史研究や系譜検討をやっていない。歴史の研究にあたっては、信念・信条や思想でやるべきものではなく、具体的な実証主義を第一とするものだと思われる。そして、前向きの責任ある合理的な批判が、具体的な批判者の名前を明示のうえでなされるべきものと考える
 狭い視野と知識だけで記紀などの記事を把握し捉えて、その理解・把握の場合なら当該記事が否定されるということにすぎない。「史料批判」という語が、津田亜流の臭がきつければ、すべてを否定するという意味を離れて、「史料吟味」という表現のほうが良いのかも知れない。


 併せて、考古学的な年代観の問題に関して

 ここまで殆ど触れないできたが、考古学的な研究も古代史を考えるにあたりたいへん重要である。私は、とくに吉備氏・毛野氏などの地方古代豪族の研究にあって、考古学関係の諸資料から有益な示唆をうけた。いま自然科学的な手法がかなり出てくるなかで、考古学者たちもいろいろ模索していると思われる。
 とくに、なかでも、その古墳の年代観が重要であるが、大著『前方後円墳集成』などがあり、個別古墳の調査報告などもあり、石野博信氏編の『全国古墳編年集成』(1995年刊)が大局的総覧的に古墳の年代を考える基礎となろう。その場合も、出土遺物や埴輪だけを年代算定の資料としないで、上田宏範氏『前方後円墳』1969年刊。その後に増補新版も1996年に出た)などが行った古墳墳形のパターン把握などの様々な体系的な研究が必要となる(→この関係では、本HPの「考古学者の古墳年代観」をご参照。論考の作成時期が少し古いが、その後に顕著な研究は管見に入っていない)。

 古墳の被葬者に比定に関して、考古学者たちは津田史観に基づき記紀に見える仲哀天皇以前の殆どの古代諸天皇・王族を否定するが、その一方で、同史観の歴史像たる邪馬台国・畿内大和の2勢力圏並立論も否定する。これではアンバランスだし、具体的な古墳被葬者比定が的確にできるはずがない〔註1〕
 具体的な各種の物証に基づき種々に考察すべきであるが、その一方で、考古学のもつ限界考古学でどこまで分るか、遺跡・古墳の年代判定に関して、文献なしでどこまで言えるかなどであり、この辺は邪馬台国問題〔註2〕についても言えよう)も十分わきまえる必要があろう。
 文献学における史料の限界は指摘しても、考古学者にあっては、総じて考古学のなしうる限界を認識されない人々が多すぎるように思われる。考古学は万能ではないことをむしろ的確に認識され、そのうえで諸分野の学問・技術を総合的有機的に活用していかねば、歴史原型の探索などができないということである。その意味で、文献主体の研究者も、考古学や数学・統計学等の知識を身につけ、考古学者の言動を監視する必要があろう。いい加減な統計学利用にも厳しい目を向ける必要があり、様々な形で裏付けや験証を要し、的確なチェックを続ける必要がある。
 なお、このほか倭建命伝承や伊勢神宮などの祭祀問題についても、いろいろ言いたいことがあるが、ここまででもかなり長くなったので、とりあえずは上記の程度にとどめておく。
 
〔註1〕 巨大古墳の被葬者比定:津田史観では仲哀以前の実在性のありそうな人物は殆ど皆、消されるため、巨大古墳の被葬者の比定は様々に困難だが、現実にその巨大古墳の被葬者がいた以上、極力探求に励むべきものである。
最近(2020年11月下旬)に墳丘規模が従来の見方より十数Mほど大きく、約280Mだと発表された奈良市、佐紀古墳群東端のウワナベ古墳は、「宇和奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后八田皇女)として宮内庁より陵墓参考地に治定されている。
拙見では、この比定は正しく、女性墳墓として日本最大であり、日本最大の古墳の仁徳天皇陵古墳(大仙陵)に対応するとみている。すなわち、仁徳の皇后は、記紀に言う葛城磐之媛ではなく、仁徳の異母妹の八田皇女(矢田皇女)だとみるわけで、磐之媛は仁徳の最初の妻であってもそのときは皇后ではなく、正式な皇后は仁徳が大王権簒奪後に娶った八田皇女だとみるわけである。その西隣に並んで築造されているコナベ古墳も、小媛(袁那弁郎女)の墳墓であり、矢田皇女の生母たる応神天皇の皇后であった(仁徳の生母・仲媛は、後の改変か)。ウワナベは、前妻の磐之媛に対する意味では「うわなり」(後妻)で、母のオナベにも対応するものでもあろう。
ちなみに、オナベ媛は、成務天皇と神功皇后との嫡出皇女であって、この女性を娶ることで応神天皇の大王権簒奪も正統化された。一つの女系の「祖母─娘─孫娘」が稀有なことに三代も続けて皇后となり、佐紀古墳群のなかに巨大古墳を残したのである(このあたりの考察は、拙著『巨大古墳と古代王統譜』をご参照)。
 この辺は、応神天皇以降も記紀記載の皇統譜は後世の改変を受けており、その原態を的確に探索しなければ、古墳被葬者が比定も的確には行われえないという、当然のことを示す(津田亜流の「記紀批判」ではいったい、被葬者比定で何ができるのだろうか。また、『書紀』や中国史書など様々な文献史料を基に、比定の核となる古墳の被葬者を確定しないと、他の古墳被葬者も押さえられない)。これら巨大古墳に関する詳細な説明は、拙著『巨大古墳と古代王統譜』をご参照のこと


〔註2〕邪馬台国問題に絡むものとして、例えば、大和の纏向遺跡の考古学年代の判定がたいへん重要な意味をもつ。同遺跡を三世紀前・中葉頃の卑弥呼治世とほぼ同時期とする見方が、考古学者に圧倒的に多いようだが(同遺跡近隣の箸墓古墳も、同様に三世紀代の築造とみる見方も多くなっている模様)、考古学的にこの三世紀代という年代を裏付けるものは皆無である。すなわち、考古学的にこうした年代算出はできるはずがないし、放射性炭素など自然科学的な手法で推定値試算をしても、検証(験証)がいっさいなされておらず、しかも当時の日本列島の自然・気象の現状を踏まえた補正(較正)曲線が適正に出されていない(おそらく、その算出は不可能に近い)。同遺跡から出た何を年代測定の試料とするかに拠り、年代推定値も異なる。こうした諸状況を無視して、上記の年代比定を当然の前提とする研究・議論であれば、そこには、予断が大きすぎる結論しか出てこないし、学問の進歩はありえない。
 こうした意味でも各々の学問の限界を踏まえることと、十分な験証、前提となるデータ公開が必要なことが言うまでもない。当事者たる関係研究機関にあっては、よろしく善処をお願いいたしたい。

 考古学や文献学の限界については、本HP内の「 呉座勇一氏の書評『ヤマト王権の古代学』を読んで、文献学・考古学の限界を考える」でも検討しており、これも併せてご参照ください。



  おわりに

 近藤安太郎氏の著『系図研究の基礎知識』全四巻(1990年刊)では、その大著執筆の最後に、「系図を二次史料としてさげすむのではなく、進んで系図の見方を、一種の方法論として確立すべきときがきているのではなかろうか。」「系図研究がいかに幅広い知識を必要とするかを改めて思い知らされることになった。」という感慨を記されている。この数年後に近藤氏はご逝去されたから、一種の絶筆的な言葉のように思われる。
 系図研究でも歴史研究でも、幅広い数多くの知識・史資料を基礎にして、事件当時の地理など現地実情を踏まえた総合的合理的な考察を必要とする。このことを肝に銘じて、更に、足を地につけた実証的な研究に努めていきたいと思われる。
 ※最近までの各種研究を見てみると、例えば古代皇統譜について、『古事記』だけとか、中国文献を併せるくらいの史料をもとにして云々するものも見られるが、問題が大きい。『古事記』は貴重な史書でも、そこには成立や系譜等の記事等に疑問のものがかなり多くあり、中国文献でも記事が全面的に信頼できるかどうか分からない(むしろ、高句麗や百済の王統などに照らして考えると、誤伝・誤記もかなり含む)、という事情を考慮すると、たいへん危ういアプローチだと受けとめられる。学究の肩書きだけでは、系譜研究ができるはずがなく、中世・近世に限らず、古代にあっても、系譜研究を甘く見ないで、きちんと手順を踏んで、具体的総合的に取り組んでいただきたいと願うものです。

 併せて、本稿で結果的にかなり言及せざるを得なくなった津田学説について総括的に触れておく。ある問題提起のおかげで、津田博士の著作や言及の関連諸論考など主なところを改めて読み直してみたが、その感触の一応のまとめである(様々な啓発を受けたことを、併せて深謝する)。
 @津田博士には考古学関係の知識が乏しいか殆ど持たずにおり、しかも大和など畿内の巨大古墳や考古遺跡も無視したから、仲哀天皇以前の諸天皇についての記紀の歴史を簡単に切り捨てて、「物語」だとみた。
 A『魏志倭人伝』も素朴に読み取ったから、邪馬台国を北九州政治圏の盟主国に比定した。
 この結果、上記にあげた津田博士の歴史像の1つ(三世紀代における大和と北九州との政治勢力の並立状態)が出て来たとみられる。もちろん、博士の崇敬すべき天皇家が古来、大和にあってほしいという願望・思想も根底にあったのかもしれないし(この辺は、本居宣長に通じるか)、あるいは、師の白鳥庫吉の文献学派、「邪馬台国北九州説」を踏襲して、実証学派の内藤湖南に対抗したのかも知れないが。

 そして、そこまで記紀等の記事を素朴に受けとめるのであれば、
 B景行朝の「熊襲」も、応神朝の「経典伝来」も、記事をそのまま素朴に受け取ればよいものを、この二箇所だけはなぜか深読みして、「熊襲=南九州の隼人」「経典伝来=文字伝来」だと意味を取り違えているのは、おかしな話である。そこに、博士の予断や思想があると感じる。
 ともあれ、津田博士の上記大和・北九州並立説の歴史像については、総じて結果的には正しいと思われるが、その研究方法と思考方式を見る限り、彼は、偉大な「思想史家」だと評価しても、歴史家としては、大きな予断・信条で記紀を把握したものと解される。すなわち、「科学的な歴史研究者」だとは到底言える話しではない。
 それでも、戦前のいわゆる「皇国史観」への問題提起者としての役割を、否定するものではない(1946年発表の論考「建国の事情と万世一系の思想」は、津田博士の思考体系や歴史像のエッセンスとして、もっと重視されるべき論考だと考えられる。井上光貞氏も、仲哀以前の記紀否定論のみが強調されて、それらの時期の「物語」にも、有力な諸氏族の政治観国家観が現れているから、「無上な価値を有する一大宝典」だと記した津田見解がこれまで無視されてきたと指摘する。ただ、古代史研究者としては、そうした思想的なものではなく、歴史原態を探求するのが研究の本筋であろう。「物語」という児戯めいた曖昧な言い方では、そのなかに史実のカケラがあっても、無視されてしまうおそれがある)。ただし、いい加減な非難の言葉として、「皇国史観」という語を安易に使うべきでもない。

 歴史家として津田博士を総括的に現代の視点で見た時は、「タコ壷式の狭い視野での合理主義歴史観」をもつ研究者にすぎないと思われる。
 現在まで進歩が著しいといわれる考古学を含め総合的に実証的な古代史研究をめざすのなら、もう、主観や予断・信仰が多い「津田亜流」的見解の呪縛からすっぱり離れる時期であって、編纂当時の政治思想に基づくという見方とか安易な「造作論」(創作論)の決めつけは、十分慎重になされるべきであろう。『書紀』における異伝併置の記事の意味をもっと重視してもよいということでもある。「記紀批判」を古代史研究の原点とされるのなら、それは誠に結構なことであり、徹底的な論理をきちんと尽くした批判論を展開されるべきである(自分の思考や信念に近いから、粗雑な否定論理で良いということには、決してならない)。
 それが、現代的な「記紀批判」や歴史研究の原点なのであろう。主観を排して、冷静で合理的科学的に考察を加えていくということであるが、一方で、日本では検証(験証)のまるでなされない自然科学的なアプローチによる推計値(年輪年代法など。基礎データすら公開されていない)を盲信してはならない、という注意も十分必要となる。各種史資料や多数派・主流派の学説とか算出推計値、仮説への盲信は、科学的なアプローチの基礎にはならないのは当然であり、本居宣長が「師の説に馴染むな」と警告したとおりである(これまでに、佐伯有清博士や田中卓博士など、書信・著作を送られ様々なご教示・示唆を与えられた先学たちには深謝する一方、そうした業績をもつ方々に対しても同様に、その学説については、厳しく吟味をし、適宜の批判を加えたり、発展させたりしようと是々非々の姿勢を具体的にとってきたつもりではあるが)。

 孤独に一人で全ての研究に苦闘された津田博士のご努力を思いつつも、その当時と異なり、半世紀超を過ぎた今では、幸いなことに、多くの先人研究者の研究蓄積があり、内外の考古遺跡発掘や暦法研究などもかなり進み、書籍・ネットなどからも様々な玉石混淆の諸情報が多く入手できる。
 もちろん、それらの利用・評価にあたっては、関連する知識を備えるとともに、適宜適切な評価・判断能力をしっかり備えていくべきである。いまは、周囲の関係者の協力が種々得られることもあるのだから、これら大勢の叡智を集めて、総合的実証的に研究していくことができよう。そこで、何を探求するかの目的(基本は歴史原態の探求のはず)がしっかりしていれば、良い結果に結びつくこともあろう。
 これが、歴史や系図の研究の楽しみではないかと私は思っている。

                                      (2020.12月中旬に記)

   (2020.12.12掲上し、その後も21.02などに適宜の追補あり)


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