岸本直文氏編の『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』を読む

                                   宝賀 寿男  
       


 
 一 はじめに

 このほど、吉川弘文館から「史跡で読む日本の歴史」シリーズの第9回配本として、標記の書が刊行され(二〇一〇年七月十日発行)、同書には「卑弥呼と大王の時代を完全復元!」という帯フレーズがつけられて、書店に並べられた。このところ、この三〜六世紀の時代については、通史大系の歴史シリーズのなかでいくつか書物が刊行されてきているが、そのなかで取り上げられても、最近では、総じて考古学的断片の記事が羅列されることが多く、古代の人々によって動いた歴史全体の流れを感じることがほとんどなかった。この時代を歴史学の対象として検討し記述するという作業を考古学者が行うのは、その殆どの人たちが文献史料を無視し、無機質の考古遺物・遺跡を重視して、狭隘な視野で検討・記述する姿勢を示しているだけに、総じて無理な話ではないか、と思いだしている事情にもある。
 このシリーズも、「史跡で読む」という語が冠されるから、ますます考古学的な比重が高いことが予測されたが、シリーズの刊行のことばでは、「現在では歴史学と考古学の学際的な共同研究が一層進み、文献史料とともに、史跡や遺跡・遺物を一体としてとらえることで、あらたな歴史像を形づくる試みが進められています」という認識のもとに、「遺跡を日本の歴史の中に位置づけること」(国指定史跡を中心に、具体的な姿を紹介し、その性格や歴史的な意味を日本の通史のなかに位置づけること)を、史跡の保存とともに目的としている。これ自体はまことに結構なことであって、この辺は誰にも異存があるとは思われない。
 
 そうした本書刊行の目的のなかで、中堅の考古学者とみられる岸本直文氏がどのような記事を書かれるのかという関心もあって、読み出したものである。本書では、岸本氏は、全体の編者であり、かつ、はじめに置かれる「古墳の時代」の全体的説明(「古墳の時代−東アジアのなかで−」)、及び「第T部 倭王権と古墳」の冒頭をかざる重要な論考二篇(「倭国の形成と前方後円墳の共有」及び「河内政権の時代」)の著述者である。他の著述者も、岸本氏とほぼ同年輩の四十歳代の研究者六人でそれぞれ力作が示されるが、問題の焦点を絞るため、本稿では、岸本氏(及び編者)の記述とみられるものを取り上げて考えてみたい。

 
 二 具体的な主要問題点

 岸本氏の論述と記事について、以下に主な問題点を具体的に取り上げて、それに対する疑問と批判を記してみたい。なお、「(p18)」のように、問題個所を示す頁数は、当該書のなかでの主なものである。

 1 古墳時代の国家体制は「連合体制」であったのか

 本書の表紙をめくると、最初にカラー刷りの写真がまず二葉、掲載される。その第1番目の写真が「吉備の巨大前方後円墳」という題で、「5世紀前葉の造山古墳は、墳丘長360メートル、倭国王墓である上石津ニサンザイ古墳と規模はほとんど変わらない。河内政権は列島各地の諸豪族との連合体制であることを物語る。」という説明が付けられている。
 この最初の説明記事が多くの問題点を含んでおり、本書における岸本氏の記事すべてに関係してくる。
 まず、上石津ニサンザイ古墳の位置づけが問題である。この巨大古墳は、堺市にある百舌鳥古墳群のなかの巨大古墳の一つで、現在、「履中天皇陵」として治定されている古墳のことである(以下では、分かり易い表現の「履中陵」で記す)。この古墳の築造年代判定には難しいものがあり、巨大古墳で知られる応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)や仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)との築造順が問題になる。かつては、「応神陵 → 仁徳陵 → 履中陵」の順に築造されたと多数の学究が認めていたが(私見では、これが現在でも妥当するとみる)、現在の考古学者の多くが、応神陵・仁徳陵の築造年代を従来の見方よりも若干繰り下げるとともに、履中陵のそれを両巨大古墳よりも前に引き上げて考える見方をするようになったようである。この前提のもとに、履中陵と吉備の造山古墳とを同時代の古墳と考えて、上記の記事になったのではないかとみられる。
 しかし、履中陵の築造年代を応神陵・仁徳陵(以下、「両巨大古墳」ともいう)よりも前におく見方自体には、次のとおり、大きな疑問がある。

(1) 疑問の第一は、履中陵の築造を先にみる見方の根拠のなかで陪塚などの取り上げ方である。根拠の一つとしていわれるのは、履中陵の陪塚とされる七観山古墳既に消滅)の築造時期である。七観山は径50Mの円墳であったが、三角板革綴や小札鋲留の衝角付き冑が7個、三角板革綴短甲が6領以上、鉄刀130本、鉄鏃百数十個、木芯鉄板張輪鎧や帯金具などが多量の鉄製武器・武具が出土した。これらの出土品から年代を判断してとのことであるが、これらの出土品で応神陵よりも築造年代が先だと判断されるのは疑問である(履中陵と応神陵との何を比較しての判断なのか)。そのうえに、陪塚の遺物が本体古墳に優先するのかという問題もある。また、七観山の位置はたしかに履中陵に近く、その後円部北側にあったから、履中陵の陪塚的位置にあるが、実際の主墳と陪塚との関係については、纏向でも佐紀でも判断が難しく(黒塚とマエ塚〔後述〕の例)、先に仁徳陵が築造されていれば、その陪塚が七観山であった可能性も考えられる。
『日本古墳大辞典』の記事などを見て考えると、履中陵は五世紀前半の築造とみられており、一方、応神陵・仁徳陵はともに五世紀中葉頃(あるいは、中葉から後半頃)とみる見解があるので、履中陵のほうが両巨大墳よりも先行する位置づけになりそうである。しかし、それぞれに幅のある期間であり、これで厳密に具体的な築造時期を割り出せるはずがない。履中陵の築造時期の見方には反対しないが、それでも前半のうちの後半部(第2四半期)ではないかと思われるし、両巨大墳の時期が多少とも過剰に引き下げられている可能性も十分考えられる。履中の治世期間の短さを考えると、履中陵と仁徳陵とが築造時期で割合近接している可能性もあろう。
 仁徳陵の年代引下げの根拠も薄いと思われる。その根拠としては、@前方部の竪穴式石室と石棺・副葬品があげられ、とくに副葬品は七観山の武器武具と比べて新しいとみられたことがいわれるが、これは追葬施設の可能性があり、Aボストン美術館所蔵の三点の考古遺物が仁徳陵から出土したと伝えられ、その年代が新しいというものもあるが、実は出所不明の遺物であったと指摘される(@Aともに水野正好氏「「天皇陵」検討の方法」『「天皇陵」総覧』所収)。B円筒埴輪の分析・編年による見方もあるが、埴輪の出所が陪塚とされる古墳から出たものであるため、これも本体議論にどこまで結びつくかの疑問がある。

(2) 疑問の第二は、履中陵本体の古墳構造企画に因るものであるが、上田宏範氏は、その型式分析からみて、現応神陵を基礎にして現仁徳陵や現履中陵の設計がなされたと指摘しており(『前方後円墳』)、岸本氏ご自身の研究でも、現履中陵の周濠の水位を下げて考えれば、両者は同企画であるとされる。

(3) また、履中陵の築造年代を応神陵・仁徳陵より前に置いた場合に、被葬者として具体的に誰を比定するのか、疑問が大きくなる事情も生じる。中国史書に見える倭五王のうちの倭讃を履中に比定する見解にも依存するようであるが、これは明らかに『書紀』の治世年数などの文献無視の見解である。『書紀』に治世期間六年と短い(『古事記』の享年でも、履中・反正兄弟はともに仁徳より約二十歳若く崩御)という履中天皇について、応神・仁徳の両天皇の陵墓をはるかに凌ぐような巨大古墳を築造し得たはずがない。当時は「寿陵」として築造されたことは、仁徳紀六七年条の記事からも分かる(根底に、『書紀』の記事や紀年についての不信感が考古学者の多くにあるが、この当時の紀年が中国史料に符合することは、本HPの拙論参照)。

 この三陵墓の築造順位は政治史的にも重要であり、諸点を総合的にみて具体的に納得のいくように検討されるべきであろう。(以上の、三陵墓の築造順位の検討についての詳細は、拙著『巨大古墳と古代王統譜』を参照されたい
 さらに、吉備の造山古墳は、形式は現応神陵あるいは現履中陵と企画が共通だとみられており、これに築造時期の同時代という点を考えるのなら、造山古墳は畿内では応神陵古墳(墳丘長約四二〇M)との対比で規模を考えるのが妥当ということになる。
 
 次ぎに、岸本氏が、造山古墳が履中陵と規模がほぼ同じだとして、そのことが「河内政権は列島各地の諸豪族との連合体制であることを物語る」につながるのが妥当かという問題になる。「河内政権」という語自体がまず問題であるが、いわゆる凡河内地域(摂河泉三州)に巨大古墳を築いた王権勢力(「河内王権」)のことをいうと理解して、「列島各地の諸豪族との連合体制」という表現を考えてみる。
 戦後の津田左右吉博士亜流の古代史学において、従来使われてきた「大和朝廷」という語を嫌って、「ヤマト王権」とか「ヤマト政権」とか語が使われ、その政治体制は「王(大王)とそれに従属する配下」という大きな権力の差異ではなく、ほぼ同列の豪族が連合して国家を形成するかたち(従って、豪族の首長が共立する形で王を考える)で、考える傾向が強く出てきた。本書では、この連合政権という思考のもとで、記事が書かれ、裏表紙にも「畿内の倭王権は首長連合を束ねて「倭国」を形成し、古墳を築いた」と表現され、本文中にも「倭国王を戴く首長層連合」と表現される。そして、「首長連合」という概念で見るから、王権ではなく、政権とするのであろう。しかし、問題の「首長連合」という見方が、五世紀代の日本列島の畿内にあった政治権力構造にあてはまるのだろうか。
 古墳という物的証拠を見ても、明らかにこれは当てはまらない。地方には、吉備や毛野といった巨大古墳を築いた地域もあるが、総じていえば、地方の国造級の築造した古墳は、墳丘長が百M程度までのものである。この規模を超えるのは時代と地域、被葬者により多少存在するが、それでもせいぜいが二百M未満であるのに対し、当時の大王墓(天皇陵墓)とみられるものの多くは二百M超であって、応神陵・仁徳陵は各四二〇M、四八六Mという巨大さである。地方でも、吉備の造山古墳・作山古墳が異例に大きいだけであるが(各三六〇M、二九〇Mで、そこには大王との特殊な縁由が考えられるが)、もとからある丘陵地形の利用などもあって、その築造に要される労力には隔絶したものがあるとされる。
 だから、大王の権力と地方首長の権力とは、同じレベルで比較できないほどの大きな差異があったとみられ、ほぼ同等の地方権力の連合の上にいだかれる共立された王という概念がおかしなものである。岸本氏も、「巨大な王墓は倭国王の権力を物語る」とは認めており(p47)、同書の安村俊史氏の論考「大王権力の卓越」でも、「卓絶した大王墓」という項目が設けられている。
 文献を見ても、「首長連合」という見方を裏付けるものは、まったくない。どうして、文献にも依拠しない思考が突如出てきたのだろうか。不思議に思いながら、岸本氏の記述を追っていくと、その根源には、邪馬台国女王の卑弥呼が畿内にあったという見方、その女王への戴冠には倭国を構成する諸国の王が共立したという『魏志倭人伝』の記事があったことが分かってくる。ここに、三世紀の倭国がそのまま直接に五世紀の大和の王権国家につながり、政治体制も同じであったという見方が出てきている。してみると、邪馬台国所在地論争は、その見方によって、後代の政治体制の見方まで大きな影響を及ぼすことが分かってくる。
 しかし、歴史の流れを考えてみても、三世紀代の倭国の体制がそのまま五世紀代の大和の王権国家につながるはずがない。それぞれの中心地域が北九州と畿内という大きな差異があり(考古学者では邪馬台国畿内説が多いあるが、文献的には根拠が皆無)、二世紀という期間の経過のなかで、王権は強化されず、その政治組織・体制もまったく発展しなかったことになる。現実に、その間の四世紀後葉には日本列島から韓地への大規模な出兵があった。これは『日本書紀』神功皇后紀ばかりではなく、『三国史記』や高句麗・好太王碑にも記事が見えるから、これまで否定するのではないと思うが、すでに絶大な王権のもとで国家体制を整えていた高句麗の大軍に対して、本拠地から遠く離れた韓地で広域にわたり、長期間かつ大規模な戦闘をくり広げた倭地の国家が、「首長連合」を基礎にした弱体な国家であったはずがない。
 「首長連合」という概念が否定されれば、「政権」という現代政治家のもとにあるような概念など、まるで当てはまらず、かえって混乱の要因になることくらいはわかるはずであろう。

 
 2 濃尾平野までの西日本諸地域の広域地域圏形成は、いつだったか

 本書の最初の総論的な記述である「古墳の時代−東アジアのなかで−」でも、冒頭から問題ある記述で始まる。そこでは、最初の項目の倭国の誕生で、「倭における鉄器化は、倭の社会を急速に統合へと導く。一−二世紀、濃尾平野までの西日本諸地域において広域の地域圏が形成される。」という、実に衝撃的な文章から始まる。
 この文章が正しいのだろうか。そもそも、こうした弥生時代の後期において、九州から濃尾平野までの地域において、「広域の地域圏」が形成されたという見方を、これまで確立したものとしては聞いたことがない。広域地域圏形成の要因としてあげられる「鉄器化」にしても、まず疑問が大きい。従来の年代観では、この当時は鉄器はあるものの、まだ青銅器主体の時代であり、大きく見ると、銅鐸圏・銅矛圏の対立とか、畿内と対立する東海地方の三遠式銅鐸圏の存在とかはいわれても、広く西日本諸地域までを包含する政治統合がなされたとは到底言い難い。
 弥生時代後期にあっても、畿内においては、鉄器の量は北九州に比べて見劣りがするとされてきた状況でもあった(奥野正男著『鉄の古代史 弥生時代』など)。寺沢薫氏も、川越哲志氏の『弥生時代鉄器総覧』(2000年刊)などのデータを踏まえて、その著『王権誕生』で、「鉄器が弥生時代を通じて九州で大量に出土する事実は変わらない」「近畿勢力の巻き返しと独自の外交を想定し、その背景となった北部九州以外の鉄器化を過大に評価することは、あまりにも恣意的で短絡的な解釈と言うしかない」と指摘する。
 
 岸本氏のこうした鉄器時代の繰上げは、いま考古学界主流の畿内系学者による繰上げ年代観に強く依拠するものとみられる。年輪年代法による算出値とか、これと密接にリンクする放射性炭素年代測定法による年代値によって、従来からの考古年代観は、最近、一挙に百〜百五十年ほども繰上げ傾向を示すようになったが、この年代繰上げの見方自体が問題が大きい。すなわち、物理学による自然科学的な色彩を帯びていても、南北に狭長で多湿多雨の日本列島に欧米の理論がそのまま妥当するかという基本的問題がまずあり、データベースの公開なしに、ブラックボックスから取り出されたような年代値が一方的にいわれるだけであって、その検証がまったくなされず、根拠がきわめて弱い。不思議なことに、わが国の考古学者は誰もが検証もされていない数値を平気で使って、年代引上げの基礎にしている。放射性炭素年代測定法についても同様であり、それによって算出された日本列島の鉄器の年代値が中国などの鉄普及時期をはるかに遡ったり、わが国の弥生時代がどうして始まったのかという事情を説明することなしに使われている。
 法隆寺の築造年代などいくつかの基礎年代から考えると、七世紀中葉頃以前の具体的な年代値についていえば、年輪年代法の算出値には百年ほどの過剰繰上げという傾向があるとの具体的な指摘(鷲崎弘朋氏)もある。

 
 3 その他個別に見ても、説明抜きの断定的な表現が多い

 岸本氏の記事には、学説が対立している数多くの論点について、まったく説明抜きで一方的に断定した表現が多くある。その背景には「紙数の制約」という条件もあったのだろうとも思うが、そうした問題点は多すぎて、これらを網羅することはできないほどである。ここでは、気づいた範囲で岸本氏の記事の概要をあげ、それに対する疑問・批判の主要概略を併せて記してみる(概要・概略なので、当方の誤解や誤解を招く表現があったら、ご寛恕されたい。そうしたご指摘があったら、再考慮いたしたい。また、記述の関係上、頁数の順番にはなっておらず、順不同)。
 
(1) 邪馬台国畿内説で、その本拠が纏向(p1)。「ヤマトが畿内大和であることは既に決着しており、筑後や肥後など、奴国や伊都国などをしたがえる勢力を九州に求めることは不可能である」(p18)。
 これに対抗する「狗奴国連合」は東海地方(濃尾地域:赤塚次郎説)にあり、前方後方墳はその象徴とみるが(p20の図)、一方で、大和の新山や吉備の備前車塚などが「前方後方墳であることの解釈はなかなか容易ではない」とも記す(p27)。
 <疑問・批判>  邪馬台国盟主の倭国の範囲が肥後まで含んだかどうかは不明。なぜ、奴国や伊都国などをしたがえる勢力を九州に求めることは不可能なのかについても、説明がない。
 琴柱形石製品や石釧・車輪石など石製装飾品などに見るように、同じ古墳文化を持っているのだから、近畿と東海が対立していたとはいい難い。また、古墳の墳形で見ても、東海地方の前方後方墳の規模が小さすぎるし、大和の南西部にも中国地方にもいくつも前方後方墳があり、むしろ最大規模級の前方後方墳は大和にある事情もある。前方後方墳は、出雲など特定地域を除くと、古墳時代前期の限定した時期にのみ多数現れる傾向がある。前方後方墳の分布だけ見ても、岸本氏の記事が矛盾することが分かる。
 
(2) 卑弥呼の倭国では、「公孫氏政権から入手した中国鏡の配布がはじまる」(p1〜2)。その中国鏡として、画文帯神獣鏡や画像鏡・上方作系獣帯鏡の名をあげる(p16)。
 <疑問・批判> 倭国と公孫氏との外交関係は、文献史料には一切書かれていない(従って、普通に考えれば、外交関係がなかった)。だから、遼東の「公孫氏政権」から倭国が鏡を入手したかどうかも、その場合の中国鏡の明細も、まったく不明である。画文帯神獣鏡など神獣鏡は、華北の鏡ではなく、長江流域に多く出るから、南方の呉の鏡とするのが中国の出土状況からみても妥当である。
 中国の考古学者・徐苹芳氏も、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など神獣鏡は魏朝下賜の鏡でないことを強調されており(『三角縁神獣鏡の謎』)、「考古学的には、魏および西晋の時代に中国の北方で流行した銅鏡は、方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、キ鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳文鏡、位至三公鏡、鳥文鏡など」と述べる。これらの鏡は、安本美典氏の言う魏帝下賜鏡候補の「十種の魏晋鏡」に含まれる。
 森岡秀人氏も、画文帯神獣鏡を公孫氏の鏡と断定することは疑ってかかる必要があるとの見解の模様である。
 
(3) 卑弥呼が箸墓古墳に葬られた(p2、p14)。後円部直径は約一六〇Mで、『魏志倭人伝』にある「径百余歩」に見合う。(p14)
 <疑問・批判> 『魏志倭人伝』にある「径百余歩」の卑弥呼冢は、記事から見て、円墳かそれに近いものと受け取るのが自然であり、魏朝の薄葬令や当時の朝鮮半島の王・将の古墓という国際事情からみて、いわゆる箸墓古墳のような巨大古墳であったはずがない(本HPの拙論「卑弥呼の冢」参照)。この辺は纏向古墳群の各初期古墳の築造年代とも関係するが、わが国の光谷氏による年輪年代法の算出値に大きな繰上げ傾向が顕著であり、箸墓古墳は四世紀前葉頃に築造された古墳である。
 
(4) 倭国王墓に主系列と副系列があった(p2〜4)。倭王権は二人の王からなる政祭分権王政で、神聖王(主系列墳)と執政王(副系列墳)の分掌がなされていて、「二系列の一本化は、六世紀前半の継体の段階でようやく実現する」(p4、23)。
 <疑問・批判> 大和王権において、神聖王と執政王という別系列があったはずがない。これは、倉西裕子氏にもほぼ同様の主張があるが、まるで根拠のない空理空論である。巨大古墳をこの二系列の倭国王墓に振り向けられて図表(p3)が示されるが、その区別の基準もまったく不明で、不可解である。
 
(5) 倭国王墓の被葬者の比定(p3の図表)が記紀の即位順を参考にするくらいであって、治世期間・治績などはまったく無視される。これを含め、文献史料を岸本氏はほとんど無視するのに、なぜか崇神と応神については『古事記』の崩年干支を尊重して、これに基づき、各々の崩年を西暦318年、394年とする(p5、49)。
 <疑問・批判> 応神元年を390年とすることは拙見でも同じ見方であるが、他は疑問が大きい。応神の崩年干支を具体的に比定すれば西暦394年にあたるという説もたしかにあり、岸本氏が依拠する倉西裕子氏の紀年観でも同様であるが、『古事記』の崩年干支にはついては、継体天皇以前の古いものには疑問が大きく、崇神を含めて、そのまま依拠することはできない(本HP内の拙論参照)。
 応神天皇の陵墓が巨大であることを認め、かつ、応神が他系統からの大王簒奪者であった事情を考えると、このような僅か四年間という短期の在位期間で巨大古墳を築造できるわけがない。当時は寿陵築造の可能性もあるが、次代の仁徳陵も巨大古墳であり、この両代にあっては安定した割合長い治世期間がないと、こうした築造は困難であろう。
 
(6) 倭の五王における「讃・珍」と「済・興・武」とは異系で二系列(p8)。「文献史から指摘されている王統の交替」(p53)などが言われる。
 <疑問・批判> 倭の五王が異系で二系列あったというのは、ごく一部の研究者が唱えているだけであり、中国文献の記事について解釈の誤解、行き過ぎにすぎない。五世紀代の当時で、二系列の王統など、東アジア地域でどこでも例がない。新羅では、初期に三王家の並立があったと『三国史記』に記されるが(これは、聖骨・真骨などの当時の新羅特有の血統分類(骨品制)にも関係したものであったか)、それでも、四世紀後葉頃の第17代奈勿王以降は、新羅王統は金氏の一系に集約されている。なお、朴氏・昔氏の二王統の実在性を否定する見解も散見するが、これもまた疑問が大きい。
 
(7) 「倭王珍=反正」という比定に異論がない(「倭済=允恭」に異論なし、には同意)。(p8)
 <疑問・批判> 倭の五王の九州王朝説は論外だとしても、倭五王の比定には多くの可能性があり、「倭済=允恭」「倭武=雄略」はまず間違いないにしても、それ以外の三王については確定しているとはいえない。現に、私見では、「倭王珍=履中」という可能性のほうが比較的自然ではないかとも考えている。その場合、倭済の前任倭王は反正であって、それが允恭とは同母兄弟ではない可能性も考えられる。
 
(8) 纏向遺跡は四世紀前半には遺構・遺物が稀薄になる。王権本拠は大和北辺の佐紀に遷るが、それが318年の崇神没後のことであろう。(p5)
  <疑問・批判> 纏向から佐紀に巨大古墳の築造地が変わったが、これは現景行天皇陵に治定の渋谷向山古墳(朝顔形埴輪U式を出土)の築造後であることはほぼ異論がなく、具体的な時期は四世紀の中葉以降となる。なお、「王墓の所在地が推移するのは、倭王権内部の権力主体の交替を示す」(p4)というのも、根拠がない。
 
(9) 古墳副葬品目に伽耶の器物が見られるが、それが筒形銅器(鉄製短甲は問題なしか)(p5)。紫金山古墳の副葬品には、「筒形銅器など半島からの輸入品が含まれ」る(p39)。
 <疑問・批判> 筒形銅器はもともと日本列島で出現した考古遺物と従来みられてきたが、最近、伽耶地方に数量的には日本列島の出土(73本ほど)をむしろ凌ぐような数の大量の出土があったことから、日本で出現という考え方の再検討を要するともされる(白石太一郎氏の記事、『日本考古学事典』)。筒形銅器を伽耶の器物だと断定する見解は、韓国以外では少ないのではなかろうか(筒形銅器を専門的に研究対象とする田中晋作氏の著『筒形銅器と政権交替』では、韓地東南部で製作、もしくは同地経由で日本列島にもたらされた可能性が高いという。しかし、田中氏は倭国の韓地出兵を何時の時期と考えているのか。古式の筒形銅器を出土した紫金山古墳の被葬者の外交役割を想定している模様であるが、四世紀前半の当時の摂津の大豪族が単独で伽耶と通交したはずがない。この被葬者は地域的な事情などからみて、穂積氏の建忍山宿祢〔倭建命の妃の父親〕とみられる)。

 筒形銅器は、日本列島では武蔵から肥後までとほぼ全国的に分布するのに対し、伽耶ではとくに金官伽耶国の領域の中枢部に集中的に出ており、出現年代等からも考えると、やはり日本列島原産とみたほうが自然である。伽耶で筒形銅器とともに大量に出土する巴形銅器・碧玉製石製品ともども、日本原産を示唆する。日本では、摂津の紫金山古墳(三角縁神獣鏡が出土)及び吉備の金蔵山古墳(変形神獣鏡が出土)から古型の筒形銅器が出たこと、讃岐の前期古墳の石清尾猫塚でも内行花文鏡・獣帯鏡・三角縁神獣鏡や碧玉製石釧などとともに筒形銅器三本が出たことに注目される。紫金山・金蔵山は、大和王権が韓地出征する前に築造された事情にある(田中晋作氏も、筒形銅器の出現期を四世紀第2四半期とみるが、これはほぼ妥当であろう。しかし、このことから、この時期に「畿内の倭人渡海が始まっていた可能性がある」、それに続く四世紀中頃には、「倭軍の本格的な派兵に至る」とみる岸本氏の見解〔p39〕は、議論の順番が逆であり、倭軍の本格的派兵の時期も早すぎて、文献記事と合わない)
 だいたい、出土数に拘られるとしたら、三角縁神獣鏡はもっと断定的に圧倒的に国産説になるはずなのに、主流派の近畿系考古学者はあいかわらず魏鏡説に拘り固守しており、岸本氏も、同様の立場で魏鏡説の立場で記事が書かれている。
 
(10) 佐紀において、大陸出兵の軍事的発動を推進したのは佐紀陵山古墳の被葬者(p6)。「陵山古墳に附帯するマエ塚」(p44)。
 <疑問・批判> 倭国の韓地出兵のとき(拙見では、岸本氏より少し遅い時期の四世紀後葉とみている)の大王陵墓が佐紀古墳群にあったことは、拙見でも同様であるが、それは、佐紀陵山ではなく、すぐ西側に位置して佐紀陵山より若干大きめの佐紀石塚山古墳(現成務天皇陵に治定)であったとみられる。これが真の神功皇后陵であり、成務天皇の皇后であった(拙著『巨大古墳と古代王統譜』『神功皇后と天日矛の伝承』参照)。
 佐紀陵山の北側に近接していたマエ塚古墳は、径50Mの円墳(既に消滅)であるが、この古墳から銅鏡9面のほか、大量の鉄製武器(鉄剣119・鉄刀24・鉄斧9・鉄鎌10・鉄鍬9・刀子2・不明鉄製品8といわれる)が出土した事情がある。マエ塚は、佐紀石塚山の北側にもなっていて、近さからは佐紀陵山の陪塚的な位置にあるが、実際にその陪塚であったかはより具体的で詳細な検討を要する。実際には、佐紀石塚山か真の成務天皇陵である五社神古墳(現神功皇后陵)かの陪塚とみられる。近隣の塩塚古墳(全長105Mの前方後円墳)からも、鉄剣や鉄斧が出土している。
 佐紀陵山は、円筒埴輪U式を出土して、佐紀古墳群最古の巨大古墳とみられるものの、その被葬者は垂仁天皇の皇后・狭穂姫の陵墓とみられ、副葬品が内行花文鏡・方格規矩鏡・神獣鏡や勾玉・管玉・石釧・車輪石・鍬形石や琴柱形・刀子形の石製模造品が出て、女性の墳墓らしさがある。一方、真の仲哀陵と見られる古市古墳群の仲津山古墳(現仲津媛陵と治定)は朝顔形埴輪V式を出土しており、埴輪様式でもV式かそれに近い古墳が倭国征韓時の統治者陵墓(神功皇后陵)とされるべきものであろう。
 
(11) 河内政権本拠は古市にあった。(p7、p50)
 <疑問・批判> いわゆる河内王権は応神天皇に始まるものとしてよいが、その宮都は応神は大和の軽島豊明宮(橿原市大軽町)、難波の大隅宮(大阪市の旧東区)とされ、仁徳は難波の高津宮(大阪市の旧東区)とされており、これを疑う根拠もない。成務朝頃から宮都と陵墓との地域分離が見られる。河内の古市に応神陵墓を含む巨大古墳群があるからといって、王権(政権)の本拠が古市であったといえる根拠がない。
 
(12) 年輪年代法や放射性炭素年代測定法(AMS法)により、畿内の庄内式土器の始まりが二世紀に遡る蓋然性が高まる(p17)。
 <疑問・批判> 年輪年代法や放射性炭素年代測定法の年代値遡上が過剰すぎることは、傾向的に示されるから、庄内式土器の始まりが二世紀に遡ることは疑問が大きい。
鷲崎論考を参照のこと)。
 
(13) 前方後円形の墳墓の共有や中国鏡の分配は三世紀前半に始まる。(p18)
 <疑問・批判> 中国鏡の分配で三世紀前半に始まるのは、北九州においてであり、その場合、「分割鏡片」の形でなされたとみられる(賀川光夫氏「所謂北九州外域における後漢鏡片の出土背景」『日本大学史学科五十周年記念歴史学論文集』1978年)。三角縁神獣鏡はすべてが魏鏡ではないから、三世紀代に配布されたはずがない。古墳から出土する同鏡には、土器が共伴する場合には布留式土器が多いことも、これを傍証する。
 
(14) 「三角縁神獣鏡の製作開始は二三九年、二四〇年にもたらされた直後から配布は始まっており、各地の最古の前方後円墳に順次副葬される」(p19)。「三角縁神獣鏡は、魏から西晋にかけての約半世紀の間、倭に対して与えられ続けた」(p19)。
 <疑問・批判> 三角縁神獣鏡魏鏡説に対する疑問は、次の(15)と合わせて述べる。
 各地の最古級の前方後円墳に副葬された鏡は、三角縁神獣鏡ではなく、内行花文鏡などである。岸本氏は、「各地の最古の前方後円墳に副葬」といいながら、「関東では、三角縁神獣鏡を出土した前方後方墳の確実例はなく、すべて前方後円墳ないし円墳である」(p35)とするように、関東では最古級の古墳には前方後方墳が多いとされている。
 西晋が倭に対して鏡を下賜したという文献記事もない。晋の武帝の泰初二年に倭の女王が貢献したと見えるだけである。魏朝からの下賜鏡も明確な記事はないが、華南の長江流域に多い神獣鏡ではありえない(前述)。
 
(15) 桜井茶臼山古墳は、三角縁神獣鏡からみて埋葬時期は二七〇年代とみられ、被葬者は男で、台与の在位時期と完全に重なる。(p24)
 <疑問・批判> 三角縁神獣鏡魏鏡説は、その出土状況などから、もはや成立しない。従って、魏鏡説に基づく古墳年代観には疑問が大きい。三角縁神獣鏡の配布時期は、四世紀中葉頃を中心とする時期とみられ、桜井茶臼山古墳は大王関係者の墳墓であるが、その築造もその頃であって、台与の在位時期と重なるわけがない。被葬者も女性(この地域の大族阿倍氏から出た崇神皇后ミマツ媛か)とみられる。すくなくとも、男性と認定できるような考古遺物はない。
 
(16) 佐紀古墳群のうち東群の巨大古墳(コナベ・市庭・ウワナベ・ヒシアゲの諸古墳)を大王墓ではなく、「多くの后妃を出した和珥氏集団のものと推測されている」。(p52)
 <疑問・批判> これら巨大古墳には、陪塚が取り巻き、中型墳も併せ持っており、「古市・百舌鳥古墳群の構造に近い」と岸本氏自身も認めるのだから、ここは自然にみて大王墓としたほうがよい。岸本氏が臣下の墓と大王墓の区別ができないのは、首長連合体という幻想に囚われているからではないのだろうか。
 佐紀東群の巨大古墳が和珥氏集団のものと推測されているというが、誰がそういう見解をもっているのだろうか。和珥氏からは多くの后妃を出したことは確かであるが、天皇の母となった有力后妃はおらず、勢力を過大評価してはならない。いったい、和珥氏一族の誰の墳墓がそのように巨大だというのか(建振熊命一人くらいなら、巨大古墳の可能性がないともいえないが)。他の古代大氏族の墳墓と比べても、和珥氏族の墳墓がそれだけ大きいわけがない。むしろ、和珥氏族の本拠地にある東大寺山古墳や赤土山古墳を同氏族の墳墓とするのが、地域的にも規模的にも妥当である。
 
  (2010.7.31 掲上)

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