古代氏族シリーズの刊行について 宝賀 寿男 これまでの刊行と研究・著述の姿勢
この5,6年は古代氏族研究もののシリーズ化ということで、@和珥氏、A葛城氏に始まる一連のものを書き続けてきている。これまで上記2冊以降も、B阿倍氏、C大伴氏、D中臣氏、E息長氏、F三輪氏、G物部氏、H吉備氏、まで合計9冊を刊行してきており、これ以降も研究し執筆し続けて、今後はI『紀氏』、J『秦氏・漢氏』及びK『尾張氏』、それらに天皇家の先祖に関するL『天皇氏族』までの刊行、更にその後にM『蘇我氏』、N『百済氏・高麗氏』、O『出雲氏・土師氏』も刊行され、今後はP『毛野氏』及びQ『鴨氏・服部氏』を予定しており(既にOまで刊行済みです)、そこまで行けばシリーズ合計で18冊になる。ここまで刊行すれば、上古代・古代に日本列島で活動した主要氏族の記述ができるかなぁと考えている。 これら諸氏についてすべて整合的に記述ができれば、古代史の流れで通史の大きな流れを縦とすると、そのなかに横糸をいくつか織り込む形で、歴史に厚みと裏付けを加え、体系的実体的な歴史の把握がほぼできるものと思われる(これが無理なくできると、拙見の描く古代史像について、総合的な正しさの裏付けにもなると思われる)。これらの諸結論が形成する歴史総体において、すべてで統合的に矛盾がないような体系になるように、絶えずチェックし続けてきたつもりである。だから、全体的な歴史の見方や記述にあたっても、数かぎりない微修正・追補をこれまで繰り返してきたが、現在までのところ、おおもとの本筋は変わらないできた。
まったく当たり前の話であるが、個別の古代氏族諸氏の上記各冊がそれぞれ独立していて矛盾するものであってはならないのは当然である。全てが、同じ年代観・地理観及び同じ考古学見地で統一的に記されており、もちろん今後の刊行内容も同様になっている。そうした体系的な通史では、拙見の基礎的記述として、これまでに『「神武東征」の原像』『巨大古墳と古代王統譜』及び『神功皇后と天日矛の伝承』『越と出雲の夜明け』は公刊されてきた(これまでの拙著刊行物)。
これらで示される歴史舞台(年代、場所)の設定としては、まず肝腎な年代観と骨組みは、詳細な計数的論拠などを『「神武東征」の原像』で示したように、西暦175年頃の神武東征、四世紀前葉の崇神天皇による日本列島主要部の版図入り、これを受けた372年頃の神功皇后の韓地への外征、390年頃の応神天皇による王位簒奪、465年頃から23年の雄略天皇の統治(雄略朝からは『記・紀』などの「倍数年暦」が消えること)、六世紀前葉の継体天皇の大王位継承・統治とつながる(ネット上でもこうした概要が掲載される)。天皇・后妃などの巨大古墳の被葬者についても、こうした年代観に基づき考古学の成果を踏まえて個別・具体的に行うから、考古学の重要性はしっかり認識するものである。
これら具体的な年代は、多くの主要古代氏族の系譜から帰納的に算出した「標準世代」に則っており、この年代観にも合致しているから、生物学的な人間の行動として無理がないものとなっている。また、古墳築造年代の10期ほど(古墳時代の区分について諸説あるが、現在は10ないし11区分の説が多い模様である)の区分の各1期も、概ね人間の1世代(現代では約30年とされることが多いが、古代ではそれより短く25年のほうに近いか)に符合することは『巨大古墳と古代王統譜』で説明している。『書紀』紀年の倍数年暦による換算や倭五王に関する中国史書による調整も経ているので(『古事記』の崩年干支は、問題があって採用していないことに留意)、内外の歴史の流れとも調和するものと考えている。 古代史に興味のある人々がご関心の強い卑弥呼の邪馬台国については、北九州の筑後川中・下流域の久留米市域、高良山麓あたりにあったと拙見ではみている。高良大社を取り巻く神籠石(朝鮮式山城)や祇園山墳丘墓の重要性も無視しがたい。
三世紀中葉頃では、神武の流れを汲む畿内の大和王権は、いわゆる「闕史八代」の期間であって、まだ奈良盆地南部の小勢力にすぎなかったから、列島内での大勢力並立というまでの見方をとっていない。纏向遺跡を三世紀代中葉頃の遺跡とみる現在の考古学主流派の見方は、年代把握に大きな問題がある(放射性炭素や年輪年代法による年代把握には、年代較正に問題があると認識)。当該遺跡は、『記・紀』にも記されるように、崇神・垂仁・景行三代の天皇の宮都遺跡とするのが自然であり、付近の纏向諸古墳もそれに関連づけるのがよいとみられる。 なお、実質的に日本列島主要部を統合した大王(天皇)初代の崇神天皇が四世紀前葉頃に治世したとみており(ただし、その崩年は、崩年干支直訳の318年とは考えない)、それから六世紀中葉の欽明天皇に至る治世時期、約250年という期間の通史の部分は、まだ公刊のメドが立っていない(原稿は粗稿として手元にできており、いつでも公刊できる準備はできている。なんとか陽の目を見ることができないものかと刊行を願っているところ)。しかし、その内容は、本HPのなかなどで概ね示しているものもあり、考え方の変更があったものはその都度、適宜是正してきた。
上記の主要な古代氏族諸氏にあっては、中世史(戦国時代史も含む)にあっても古代史と全体の流れのなかで相い補うことになるので、中世・近世の系図など各種資料の検討も併せて適宜やっており、それを古代史検討にも遡って参考に資している。例えば、最近1か月ほどは、越中が起源の利波臣と中世・近世の石黒氏の研究を集中的に行ってみて、江戸時代の各藩などの関係史料もかなり保存されていることを改めて認識し(最近ではかなりデータベースでネット利用ができる)、近世史まで踏み込むことの意義を実感している。
なぜ、こんなことをわざわざしたのかと言うと、系図研究についてあまり経験がなさそうな学究などが、論理の飛躍や予断とかもあって明治の系図研究家の鈴木真年・中田憲信の業績を批判・非難し、彼らが系図偽造者だと認定するような結論も一部で見られたからであり、彼ら先学の様々な言動や業績・履歴(弾正台や検事正なども勤務経験)、関係した多くの史料を多くの観点から探索・検討した結果、上記の結論には誤りがあると証明できると考える。 系図研究(まして系図造作)は、一部学究が考えるほど簡単なものではない(それ故、大抵の系図偽造は把握されよう)。だからこそというべきか、日本の古代史学界は、後世の偽造系図たる『海部系図』を国宝に指定している事情にもある。この系図の偽造性は、拙著『越と出雲の夜明け』のなかの記事や本HP内の「国宝「海部氏系図」への疑問」で指摘してきた。
戦後の歴史研究者が安易に使う「系図擬制」という概念も、きわめて曖昧で、根拠不足であることに留意される。津田学説亜流のよく使う論法「造作説」、「反映説」も、論理的な否定証明にはなりえない。 本シリーズへのご批判とその反論
本シリーズへの記述に関し、直接にご批判のご連絡をいただいた記憶がなかったので、これまで気づかずにいたが、最近、Amazonの書評のなかで読者からの批判・叱責があることに気づいたので、これに対する説明ともども反論させていただく。 具体的には、拙著『三輪氏』についての「投稿者 園」さんのご批判である。
その趣旨は、「以前より考古学を軽視する姿勢が気になって」おり、この姿勢が破綻を招いているとのことである。その一例をあげるとして、「「箸墓古墳は卑弥呼の墳墓ではない」としながら、すぐにホケノ山古墳の推定年代にすり替えるなど真摯な姿勢が感じられなくなっている。考古学の趨勢が邪馬台国畿内説に傾き、ますます強まっている中、これで済ませるのは著者の得意なセリフをあえて使わせてもらえば「根拠が薄弱である」」、と記される。
私は、適切妥当な批判はありがたくお受けする姿勢をもっているつもりであるが、この 園さんの指摘は、誤解に基づくものか難癖というほかない。要は、いまの考古学主流派が主張する邪馬台国畿内説やその年代観を採らないことが怪しからんということなのであろうか。考古学主流派の現在の年代観は、従来の年代観より半世紀ないしはそれ以上、繰り上げられており、その基礎となっている放射性炭素や年輪などによる年代測定法には、問題が大きいということである。自然科学的手法だから結論が客観的で公正なわけではなく、その推定値・算定値を出す過程に、多くの人的判断が加わっているし、また十分な検証が必要なのである。その辺についての検討なしに、数値の評価ができないということである。むしろ、人間の活動から考えて行くと、従来の年代観のほうが合理的で妥当であろう。 園さんは、「長いこと読者である自分」という表現をされており、それはありがたいことなのですが、私がこれまで発表してきた出版物、論考や各種インターネット頁では、すべてが邪馬台国北九州説と上記年代観の立場で一貫して記述してきており、もし長いこと読まれてきたのであれば、同様にこうした考えの基礎のうえで、歴史像や氏族、古墳などについて総合的体系的な検討がなされるべきことは、当然にご了解となるはずである。 考古学主流派(関西派?)が主張する邪馬台国畿内説は、文献的にはまったく成り立たないことである(彼らが信奉して仲哀天皇以前の記紀記事を切り捨ててきた津田博士は、北九州説をとった)。戦後の考古学の大きな発展はたいへん重要なものであり、私としてもその受益をおおいに感じ、これまでも最大限に尊重する姿勢をとってきた。この立場で当初頃の著作『巨大古墳と古代王統譜』を著述しているのは、ご承知の通りだと思われる。また、箸墓古墳は崇神天皇の墳墓であって、卑弥呼の墳墓ではないことも、同書にきちんと具体的に論拠を示して、書いてある(かつ、卑弥呼の墳墓については、本HPの「卑弥呼の冢」をご参照)。 しかも、紙数制約のなかで、『三輪氏』という書では、当然ながら三輪氏を主対象として記述をしているのだから、この氏族と直接関係がない「箸墓古墳」について、その著のなかで今更詳しい記述を要するものとは考えない(この墳墓を、卑弥呼や台与の墳墓とみるほうがむしろ予断含みであって、この辺がどうかしている。当然のことだが、文献的な裏付けは勿論、傍証すらない)。だから、私の姿勢が「真摯ではない」との批判はまったく妥当しない。
この古墳は、纏向地域に王都をおいた崇神以下三代の誰かを被葬者とする古墳とみるのが自然である。ホケノ山古墳を取り上げて記述するのは、これが、地域的などの諸事情から三輪氏関係者の墳墓だとみる立場からである。その推定年代を含め必要な所論を展開するのはごく当然のことであって、これを「真摯な姿勢」がないというのは無理こじつけな評価である。 考古学主流派の趨勢や多数がどちらに傾こうとも、考古学だけで邪馬台国所在地など歴史的問題が解決できるはずがない。これは、論理的にはっきりしている(「邪馬台国」は文献的に現れる語であることを忘れてはならない)。しかも、考古学主流派の採られる「考古年代繰り上げの趨勢」にはきわめて無理がある。 この辺も、拙著・拙考でなんども書いてきている(勿論、拙考だけではなく同様な見解も紹介しており、だから、本当に「長い読者」であるのなら、いまさら言うような話ではない。要は、なにも拙著を読んでおらずに、客観的な証拠を示さずに、内容がケシカラン、多数の考古学者がとる学説に迎合せよといっているだけではなかろうか)。趨勢や多数で物事を決めるのは、科学的合理的思考法ではありえない。 いわゆる考古学主流派は、最近までの出土状況から見て、三角縁神獣鏡魏鏡説が成立しなくなると、こんどは「自然科学的な手法」による考古年代繰上げの立場を維持してきた。勘違いしてもらっては困るのは、私が強く批判し、その結果として軽視ないし不採用にしてきたのは(園氏のいう「考古学を軽視する姿勢」というのは)、現在の日本の考古学主流派の見解にすぎないということである。
というのは、年輪年代法や放射性炭素年代測定法には、多くの無理があり、重要なことは、科学的な験証をまったく欠いているということである(だから、少数派かもしれないが、主流の関西派への批判をされる学者・研究者がおられる。本HPでは、考古学者の古墳年代観や鷲崎氏論考、小林滋氏論考など)。年輪年代法では、基礎的なデータの公表すらしておらず、外部からの公表要請を拒否している。こうした状況のもとで、試験的実験的な数値がいくら出されても、それが正しいわけではない。
考古学者の世界では、森浩一氏が亡くなられて以降、文献を無視ないし軽視する傾向が更に強まっているのだろうか。一方で、多くの文献学者は、総じて数学的な素養・能力が乏しいせいか、古代の暦法すら感覚・認識が無く、特定の考古学者の出す年代観にそのまま従うこともまま見られるが、これが学問的な姿勢として正しいことなのかを厳しく問われるものでもある。いま中国では、上古関係の発掘がずいぶん進みつつあり、夏王朝の存在はもちろん、いわゆる「五帝神話」の時代も、「神話」と片付けられないという認識すらある。 「自然科学的な手法」の見せかけのなかで、一定の数値などの結論に至る過程には、個別の判断・評価(主観的なものもあることに注意)を要するものがかなり多いことにも留意される(ご自身で具体的な考古年代的数値を算出される考古学者は、きわめて少ないのではなかろうか)。
要は、「考古学の進展」で古代関係の問題すべてが解決されるわけではなく、考古学がいかに進歩しようと、その成果をいかに評価しようとも、この考古学という学問自体には歴史解明に関し大きな限界があるということである。考古学者はむしろ従来の土器編年などの着実な年代積上げにより適切な考古年代観をもつことが必要とされよう。考古学への信仰や考古学者の特定の見解への盲信は、歴史学そのものという人文科学の進歩をむしろ確実に阻害する。 いま「自然科学的な手法」といわれるものは、主観的な評価・判断をきわめて含んだものであることに留意される。決して客観的な考古学数値ではない、ということである。地形が南北に狭長で自然変化の多い日本列島における炭素の状態や樹木の生長が、当時のものを的確に把握できるか、それがどこまでの範囲で妥当できるかの問題であり、算出されたナマの数値について補正・調整を要するというのは、ごく常識的な話である。かつ、紀元前の鬼界カルデラの大噴火という見過ごせにできない自然現象もある。
そして、現在までになされてきた「補正・調整」が絶対的に正しいわけではない。ブラックボックスから出てきている数値に盲従する姿勢が、果たして科学的な思考法だと言えるのだろうか。 一応の総括
歴史とは、多くの人々が紡ぎ織りなす様々な事件の積み重なりといえよう。具体的な個人が代々、生物学的に血を伝えていくことにもなる。「英雄的な個人」だけでは、歴史的事件はほとんど起こしえないし(主体そのもののほかに、配下や協力者と対立者・対象が常に必要)、大きな流れのある歴史は作りえない。物事に対して単発的な見方であってはならないのである(いわゆる「英雄史観」には反対ということです。だから、関連人物たちを考慮すると、「神武=崇神」という判断になりようがない)。 歴史を作ってきたのが生物としての人間である以上、その活動できる期間は自ずと限界がある。要は、1世代が25〜30年弱という数値で、古くから世代交代を重ねて来たということなのである。 物事には原因と結果があり、事件報道の5W1Hをどの程度的確に把握しうるのかという問題である。戦後の歴史学界におけるこれら諸要素の誤解は、とくに重要なWhen・Whereについて極めて多く見られるが、これは、人間の行動・実績や認識が歴史の基礎にあることを忘れているからである。安易に「造作論」に走るのは極めて問題が大きく、歴史学の研究対象である人間を無視するような学問であってはいけない。考古遺物・遺跡は、勝手に自生するわけではない。すべてが多くの人間たちの手によって産み出されるのである。
だから、多くの人々の活動・言動とその産み出すもの、祭祀・習俗や言語、考古遺物などを、広い視野のもとで総合的に考える必要がある。個別の文献史料なども含めて、日本列島にはまだ多くの様々な埋蔵物が残されているようであり、その意味で日本の歴史は依然として多くの面白さを懐に抱えている。だから、一つ一つ丁寧に、新たに知見が加わったものを取り込んで、冷静に検討し総合的に見直しを続ける姿勢が常に必要だと思われるものである。合理的な学問にあっては、進歩・発展にむけての歩みは限界がありません。
そして、これまでの古代氏族の長い検討のなかでは、いまのところ具体的に破綻するような内容は拙論には出てきていないことも付言しておきたい。 もちろん、有意義なご批判は、いつでも歓迎するものでもあります。 (2017.3.4 掲上。2018.1.5、2020.9.29などに追補)
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